第26話 行方 壱
海鳥の鳴く声がして、重たい瞼を開ける。
目に映るのは、雨漏りの跡のある、古びた天井。
——ここは、何処だろう。俺の家じゃない。寄宿舎でもない。青蓮寺でもない。
瞬きを繰り返す度に、はっきりしてくる意識。
——そうだ、俺は、白羽と一緒に大叔父の家に来たんだった。
毎日、白羽と一緒に暮らして。掃除をしたり、買い物に行ったり、食事をしたり。
そして昨日の夜——綸は白羽に求婚したのだ。
思い出すと、急に恥ずかしくなってきた。この後、白羽にどんな顔をして、おはよう、と言えばいいのだろうか。
だが、考えていても仕方ない。
綸は上体を起こす。久々に身体が軽い。頭もすっきりしている。壁掛け時計に目をやると、時計の針は正午を指していた。
「いけない! 俺は、こんな時間まで寝ていたのか!」
隣の、白羽の布団は既に畳まれている。綸に気を遣って起こさないでいてくれたのだろう。
「白羽、すまない。今すぐ、昼飯を作ってやるから……!」
声を掛け、居間へと移動する。
だが、白羽の姿は——そこになかった。
「白羽? 何処だ? 白羽?」
台所にも、縁側にも、白羽はいない。
一人で、外に出掛けているのだろうか。この一か月。白羽が一人で外に出掛けたことはなかったのだが。
とりあえず、近くを探してみようか。綸は家を出て、市場の方へと歩いてみる。
昼の市場はそれなりに賑わっていたが、やはり白羽の姿はどこにもない。
「あら、駆け落ちのお兄さん、こんにちは」
いつもオマケをくれる、魚屋の女将が声を掛けてくる。
ここの市場の人たちは、急に帝都からやってきた綸と白羽のことを、『駆け落ち夫婦』だと認識しているのだ。
「ああ、こんにちは。あの、白羽を見ませんでしたか?」
「金髪の子かい? それなら朝はやくに、駅の方へ歩いていったのを見たよ」
「駅……ですか?」
瞬間——背筋が寒くなる。
もしかして白羽は、一人で桜郷に戻ったのだろうか?
「あ、ありがとうございます!」
綸は駆け出し、家へと戻った。
「白羽! どこだ、白羽!」
叫びながら、白羽を探す。
辺りをくまなく見て、部屋中の扉を開けて、何か手掛かりになるものはないかと探す。
すると、玄関近くの棚の上。
いつもの、手紙のやりとりで使っていた、白い封筒が置かれているのが目に入った。
「白羽の……手紙?」
綸は震える手で、封筒の中身を取り出した。
そこに書かれていたのは、白羽から綸への——。
愛の告白、だった。
*
綸 様
久しぶりのお手紙です。
これを君が読んでいるってことは、僕はもう、君の前から姿を消しているんだろうね。
まずは、お礼を言わせてください。
君に連れられて、ここで過ごした一カ月間。
それは僕にとって、かけがえのない、宝物みたいな時間だった。
僕の人生はね、何もなかったんだ。
僕には、役割があった。でも、その役割も、僕にとってはどうでもよかった。
ただ時間が過ぎていくのを、毎日、無感情で見送っていた。
辛いなんて、感じなかった。
いや、嘘はやめようか。
本当は、すごく、すごく辛かった。
毎日、夜になると、涙が止まらなかった。
どうして、僕だけが、こんな風に生まれたんだろう。
僕も、他の皆みたいに、外に出て、美味しいものを食べたりしたかった。
綺麗なものを見て、好きな人と笑い合って、幸せだねって、言いたかった。
それは、僕には、叶わないことだと思っていたんだ。
けれど、綸が叶えてくれた。
海の水が冷たいことを教えてくれた。お味噌汁の作り方を教えてくれた。人の体温がこんなにも心地いいものなんだって教えてくれた。
絶対に守るって言ってくれて、ありがとう。
結婚しよう、って言ってくれて、ありがとう。
何もない僕に、君が好き、という気持ちを与えてくれた。
綸は、僕を苦しみから救ってくれた、神様でした。
本当は、ずっとこのまま、君と一緒に暮らしていたい。
でも、僕は、皆を死なせたくない。
何より、綸。君のことを、守りたい。
だから、僕は、然るべき務めを果たしに行きます。
こんな我儘な僕を、どうか許してください。
最後に——。
大好きです。
白羽
*
「……許さない」
ぽつりと、声に出す。
「許すわけないじゃないか! こんな、勝手に!」
手紙を握り締め、大声で叫んだ。
鞄に貴重品と手紙を乱暴に詰め、家から飛び出す。今から列車に乗って、桜郷に着くのは何時だろうか。
祭りは、もう始まっている。
儀式は、いつ、行われるのだろうか。
「白羽! 白羽……!」
なりふり構わず、駅まで駆ける。
大急ぎで切符を買って、車両に飛び乗った。
周りの乗客が、不審な目でこちらを見ている気がしたが、そんなことはどうでもよい。
動き出すまでの時間が、永遠に感じられた。
動き出してからも、あまりの速度の遅さに絶望した。
——手紙を読んで、確信した。
白羽は、本当は、生きたいんだ。
けれど、白羽は、俺のことが好きだから。
俺の命と、自分の命を天秤にかけ、自分を捨てることを決めたんだ。
白羽は、俺のことを、優しい、と言っていた。
だけど、それは間違っている。
俺は、君を奪われたら、きっと世界を呪ってしまう。
そんな、弱いやつなんだ。
それでも、俺のことが好きだというのなら。
一緒に生きて、笑ってくれよ——。
どうか、どうか、間に合いますように。
神には祈らないはずの綸が、この時ばかりは、神に祈るしかなかった。




