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第23話 蜜月 壱

 海から程近く。波の音が絶え間なく聞こえる場所に、大叔父の住んでいた長屋は佇んでいた。


 年月を経た色あせた板壁には、ところどころに苔が生えている。塩風にさらされた窓枠や扉は錆びつき、開けるのに苦労を要した。


「さあ、白羽しらは。しばらくの間、ここに住むぞ!」


 りんは意気揚々と口にしたものの——内部は酷く荒れていた。


 天井には雨漏りの跡があるし、古びた家具には蜘蛛の巣がかっている。床は埃だらけだし、所々に穴が空いていた。


 今更になって、少しだけ怖くなる。白羽を連れて、こんなところまで来てしまったことを。


 自分は、いつからこんな、合理的じゃないことをする男になったんだろう。何事もそつなくこなし、現実的で、堅実に生きていければいい。そう思っていたのに。


 白羽を失いたくない。そう思ったら、己の心に火がついてしまった。気が付いたら、乱暴に連れ出していた。


 だが、これでいい。後悔するのは——何よりも嫌だった。


「ここに……住むのかい?」


 白羽が、不安そうな顔で口にする。


「う……ううん。いや! 大丈夫だ! 住めば都っていうしな!」


 とりあえず中に入り、一番マシだった部屋に座り込む。四隅には古そうな資料が大量に積まれており、研究熱心だったらしい大叔父の生活ぶりが解るようだった。


「とにかく、掃除をしなくてはいけないな。白羽は、この部屋で休んでいるといい」


 立ち上がり、辺りを見回す。


 とりあえず、台所を綺麗にしなくてはいけないだろう。井戸のある場所を把握して、食料の調達にも行かなくては。


 そんなことを考えていると、綸の着物の袖を、白羽がくいくい、と引っ張る。


「綸、僕もお掃除やお買い物、一緒にする」


「え? そうか? 無理しなくていいんだぞ?」


「ううん、無理してないよ。でも、その前にお願いがあるんだ」


「お願い?」


 白羽はくるりと後ろを向き、腰まで伸びた蜂蜜色の髪を振り払った。


「僕の髪を……切ってほしいんだ」



「いいのか? 白羽。こんなに綺麗な髪なのに……」


「うん。掃除するのに邪魔だしね。それに、前々から切ってみたかったんだ」


 縁側に座る白羽の後ろ姿を、洋バサミを持って見つめる綸。


「なんというか、もったいない。本当に切ってしまうのか?」


「もう、綸がもたもたしてるなら、自分で切っちゃうよ?」


「そ、それは駄目だ、危ない。解った……俺が切ろう」


 意を決して、白羽の髪に刃を入れる。すると、細い髪は簡単に切れた。


「どのくらいまで短くしますか、お客様?」


 理容師になった気分で、白羽に聞いてみる。


「肩よりちょっと上ぐらいがいいかな」


「そ、そんなに短くするのですか、お客様!」


「僕の言う通りにしなさいな」


「うう……解った」


 綸は慎重に、白羽の髪を切っていく。


 人の髪を切るなんて、初めての経験だ。しかも、こんなに綺麗な子の髪を切るだなんて。


 その辺の野郎の髪を切るのとは訳が違う。万が一にも失敗できない。


 ——頑張るんだ、俺。己の職人魂に火をつけろ。


 はらりと髪が落ち、白いうなじが露わになる。


 何だが、手が湿ってきた。どうしてこんなに緊張しているのだろうか。だんだんと顔も熱くなってきた。


 集中しろ、赤銅綸。これから、しばらく白羽と二人きりなんだ。


 こんなことでドキドキしていては心臓が持たないではないか!



「……このぐらいだろうか?」


 古い手鏡を白羽に渡し、様子を伺う。


「わあ、いいね。上手だ、綸。理容師になれるんじゃないかな」


「本当か? それもいいかもしれんな」


「ふふん、どう? 可愛いかな?」


 様変わりした白羽が、小首を傾げてこちらを見る。


「何だか……長かった頃より、幼くなった気がするな」


「えー! そんな!」


「いや、よく似合っているさ」


 少し剥れながら鏡を見る白羽が可愛くて、思わず頬が緩んでしまう。


「さあ、髪も切ったことだし、掃除に取り掛かるか」


「うん。僕も、頑張る!」


「じゃあ、玄関にあった箒を持ってきてくれ」


「ほうき、って、何?」


「白羽、掃除、したことあるか?」


「ないけど、やれる気がする」


「……色々、教えるところから始めないとな」


 こうして開始した——綸と白羽の、二人暮らし。


 先行きは不安だが、彼だけは守り抜く。


 綸は強く、心に誓ったのだった。


 空が、深い藍色に染まり始めた。部屋の中は綺麗、とまでは言えないが、住める程度には片付いた。


 資料の整理は白羽に任せ、綸は台所で夕餉ゆうげの支度をしていた。


「ふふんふ~ん、綸の作るご飯、ご飯~♪」


 調子はずれの、白羽の歌が聞こえてくる。


「白羽、あまり期待するなよ。俺の料理など、花仙楼のものと比べたら大したことないからな?」


「綸が作ってくれるってだけで、嬉しいの」


「それならいいが……ほら、できたぞ。運んでくれ」


 作ったのは、鮭のあら汁と、里芋の煮物だ。近くに市場があったので、食料は手に入りやすかった。問題は、金がいつまで続くか、だ。


「では、いただきます」


 丁寧に手を合わせた後、白羽があら汁を飲む。


「……どうだ?」


「美味しい! 綸、料理人になれるんじゃないかな!」


「理容師の次は料理人か……俺には、色んな可能性があるんだな」


「そうだよ。綸はすごいんだから」


 不思議なものだ。白羽に、すごい、と言われると、本当に何でもできる気がしてくる。


 このまま、大学も辞めて、陰陽師も辞めて。料理人でも何でもいいから職について、白羽と二人でずっと、一緒に暮らしていたい。


 そんな、淡い夢を、見そうになる。


 それほどまでに、綸は白羽のことを——愛しく思うようになっていた。

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