第21話 半生 壱
この狭い地下牢の中は、白羽の全てであり、世界だった。
物心がついた頃からずっとここにいて、外に出たことは一度もない。
白羽は桜郷の土地神の呪いを受けて生まれ、然るべき時に捧げられる。そのためだけに生かされている存在であり、それ以上でも、それ以下でもない。
父親は会いに来ない。母親は白羽を生んだ後、自死したと聞いている。
普段は、牢の上に建てられている『花仙楼』という妓楼で働く子たちが、食事などの世話を焼いてくれた。
けれど、彼らと深く関わることはない。
白羽は特に一人でも困らないし、それでいいと思っていた。
寂しいとか、悲しいとか、そんなことを考えたことはなかった。これが白羽の日常であり、比べる対象もなかったから。
そんな白羽に唯一、与えられた自由。それは、本を読むことだった。
本だけは、望んだものがいくらでも与えられたから。無駄にある時間を使って、白羽は色々な本を読んだ。
白羽が好んで読んだのは、物語だ。
物語には、『人』が書かれていた。
人は、美味しいものを食べると嬉しいとか、綺麗なものを見ると感動するとか、そういう単純な感覚は、白羽にも理解することができた。
だが、解らないことがあった。
人は、特定の人に対して、強い愛情や情熱を感じることがあるらしい。
白羽は、誰に対してもそんな感情を抱いたことがなかった。けれど、本にはそういった、人と人とのつながりが重要だと書かれているものが、たくさんあったのだ。
その現象の名を、『恋』とか、『愛』というらしい。
白羽はそれが何なのかどうしても知りたくて、たまたま食事を運んできてくれた禿に、問いかけたことがあった。
その禿は、花仙楼に来たばかりだという男の子。
名は、朝菊。艶やかな黒い髪に、凛とした瞳をした『美しい』子だった。
白羽は朝菊に、恋を知っているか、と聞いた。
すると朝菊は、ここに来る前に、恋をしていた相手がいたよ、と答えた。
だから、恋を教えて欲しい、とお願いした。
朝菊は、恋は教えらえるものではない、と笑った。
代わりにといって、朝菊はあることを教えてくれた。
恋には、凄い力があるんだよ、ということ。
今までできなかったことに挑戦できたり、何でもないことが幸せに感じたりするんだ、と。
白羽は感動した。恋って、そんなに凄いものなのかと。
だって、そんなのはまるで——神様みたいじゃないか。
こんな何もない自分でも、恋をすれば、変わったり、幸せになったりできるのだろうか。
白羽の前にも、現れるだろうか。白羽だけの、恋の『神様』が。
それから白羽は、『神様』に焦がれた。
自分と『神様』が一緒にいる絵を描いてみたり、少女小説を読んでは、自分だけの『神様』を想像した。
普通は、男の人は、女の人に恋をするらしい。
だけれど、白羽の頭の中に浮かぶ『神様』は、男の人だった。それがおかしなことなのかどうかは解らないまま、白羽は胸を高鳴らせた。
白羽の身体は、禍津桜神の贄となるためにある。そのことは受け入れていたし、悲観したこともない。
でも、一つだけ我儘が言えるのなら。
生贄になる、その前に。恋という奇跡を、知りたかった。
*
月日は流れ、白羽は十八歳になった。
身体はすっかり大人になったけれど、考えていることは変わらなかった。
——一度でいいから、『神様』に会いたい。
けれども、白羽は外に出ることができないので、会える人は限られている。こんな地下牢にやってくるのは、花仙楼で働く人々と、たまに結界を確認しにきてくれる陰陽師の至ぐらいだったから。
白羽には、もう、時間がない。
ほぼ、諦めかけていた。そんな、ある日のことだった。
赤銅綸は——突然、現れた。
白羽の地下牢に続く入口は、至の呪術によって普段は隠されている。だから、妓楼に来た客が迷い込んでくることはない。
そのはずなのに。綸はどうしてか、格子の目の前までやって来た。
物珍しそうに辺りを見回す、少し頼りなさそうな、その姿。
濡羽色の髪に濃褐色の瞳が、綺麗だと思った。
目が合うと、綸は言葉を失って、白羽を見つめてきた。
だから、聞いた。君が、『神様』なのか、と。
綸は声を絞り出すように、ここの妓楼の客だ、と言った。白羽に会いにきてくれたわけではなく、迷い込んだだけだと。
ここに辿り着いた時点で普通の人じゃないことはたしかだったけれど、白羽は綸に合わせて会話をした。
そうしたら、別れるときに『またね』って言ってくれた。
またね。また会おう、の約束。つまり、もう一度、白羽に会いに来てくれるということ。
胸が、ドキドキした。
誰かとこんな風に、約束をするのは初めてだったから。
またね、って、いつなんだろう。本当に、またね、なんてあるのだろうか。
いつもあっという間に終わる一日が、永遠のように感じられた。不安で胸が一杯になるのも、初めての経験だった。
だから、綸が本当に来てくれた時は——嬉しくて、どうにかなりそうだった。
綸にとっては、きっと、何てことはなかったのだろう。
気まぐれで見つけた珍しい生き物に、ただ手を伸ばしてみただけだったのだろう。
だけれど、白羽は、その手にしがみついた。思いつく限りの方法で、綸に、ここに通わせるように仕向けた。
そんな目論みで始めた文通だったけれど、白羽はそれに夢中になった。
彼の書く字は几帳面で、論理的な性格なんだろうなということが解った。
内容も、繊細で、優しくて。ちょっと子どもっぽい視点も、可愛い。
綸について知れることが、こんなにも嬉しいことなんだと思った。同時に、綸のいない時間を、寂しく思うようになった。
本当に、びっくりだ。
恋っていうのは、本当に人を変えてしまうんだ。
白羽は、幸せになった。
この幸せな気持ちを、最期の瞬間まで、抱きしめていられる。
自分は、それだけでよかった。
よかった、はずなのに。
「一緒に、逃げよう!」
彼の美しい瞳の中に、薄汚い己の姿が映る。
逃げよう? 何処へ? 白羽が逃げたら、桜郷の人々は、どうなるの?
逃げられるわけないじゃないか。土地神様の『呪い』から。
そう思っているのに、声が出ない。
白羽は心の何処かで、期待してしまっていた。
彼と、生きることを。
だって、目の前に、白羽のために差し出された手がある。
それを振り払うことなんて——。
どうしたって、できなかった。




