第1話 邂逅 壱
時は明次四十二年、帝都。長らく鎖国状態にあった日ノ本に、西洋文化が馴染んできた頃。
帝大寄宿舎の一室でいつも通り目を覚ました綸は、いつも通り朝食をとり、いつも通り大学に向かおうとしていた。
玄関口の鏡に映った自分を見て、身だしなみの最終確認。短く整えた黒い髪に、銀縁の眼鏡から覗く赤茶色の瞳。着物の下にスタンドカラーシャツを着た洒落た自分の姿に満足し、帽子を深く被る。
「よお、赤銅綸先生! 元気か?」
後ろから、同じ寄宿舎に住む馬場に声を掛けられる。寝癖のついた短い黒髪に、皺だらけの茶色の着物。相変わらず、だらしのないやつだ。
「ふざけた呼び方はよせ。別に普通だ」
ぶっきらぼうに答えると、馬場に肩を組まれる。五尺と八寸五分ぐらいある綸の身長よりもだいぶ小さいくせに、背伸びをしてもたれ掛かって来る。
「あのさ、綸。今日、講義後、暇か?」
何故だかニヤニヤと笑いながら、馬場が口にする。
「……くだらないことなら付き合わないぞ」
「くだらなくないって! 講義後迎えに行くから、何処にも行かないでくれよ!」
話を決め、馬場はさっさと寄宿舎を出て行ってしまう。なんて自分勝手な奴だ。人の意見も聞かないで。
だが、いちいち苛ついていても仕方がない。自分も寄宿舎を出て、帝都大学を目指す。
何を隠そう、綸は天下の帝都大学に通う、超エリートである。帝都で医院を営む父・赤銅長正の三男として生まれ、幼い頃より英才教育を受けてきた。第一高等学校を卒業して、今年の秋から晴れて帝都大学の医学部に入学したのだ。
だが少し、期待しすぎていた。
有名な学者の話は思ったよりも面白くはないし、同じ学生たちも品性が立派だとはいい難い。しかし、せっかく大学に入ったのだ。実家の医院を継ぐことはないにせよ、医師免許を取得しないと親に申し訳が立たなすぎる。
親、といっても、実はそんなに思い入れがない。父も母も兄ばかりに興味があり、三男である綸はほとんど放置だ。第一高等学校に行くことが決まった時だって、赤飯ひとつ炊いてくれなかった。
それ故、幼き頃より、心を許せる相手が綸にはいない。いや、正確に言うと、一人だけいたのだが——今となっては行方も解らない。
綸の親友だったその少年は、いつも悪戯そうな笑顔を浮かべている、綺麗な子どもだった。幼少期は毎日のように遊んでいたのに、ある日突然、引っ越してしまったのだ。
綸に何も言わずに、彼はいなくなった。彼はみんなから愛される子だったから、親友だと思っていたのは自分だけだったのかもしれない。
——いや、いかんな。朝から感傷的になりすぎだ。
首を左右に振り、景色に目を向けてみる。
帝都大学のある桜郷の街は、とても美しい。今の季節は紅葉が楽しめるし、春になると桜が満開になる。歩く度にさくさくと鳴る落ち葉の音は、綸を少しだけ楽しい気持ちにさせてくれる。
のんびりと歩いていると、帝都大学の門が見えてくる。
——俺はここで学び、立派な人間となる。立派、と言うものが何かは解らないが、実直に生きていれば必ず良いことがあるはずだ。俺は運には頼らない。神仏にも祈らない。信じられるのは、己の知識と体力だけだ。
大きく息を吸い込むと、気持ちを新たに帝都大学の敷地内へと足を踏み入れた。
*
講義の時間は、あっという間に終わった。鞄に筆記具を詰め込み、一息ついたその瞬間——。
「綸~! よかった! ちゃんと逃げなかったな!」
後ろから、上機嫌な馬場がやってくる。
「……で? 何なんだ? 講義後に何があるって言うんだ?」
眼鏡をくいと上げながら、馬場を睨みつける。
「ちょっとな。今日はお前を『良い場所』に連れて行ってやる! 俺のおごりだ! 遠慮するな!」
おごり、ということは飯屋だろうか。恐らく、厄介な相談でもされるのだろう。気が乗らないが、今月の仕送り前で金欠だ。タダ飯を食えるなら、付き合ってやってもいいだろう。
「……解った。行こう」
「よっしゃ! いざ、行かん!」
意気揚々と綸の手を取り、馬場が前を歩く。綸はただ導かれるままに、馬場の後を付いていく。
大学を出て、空を見上げる。太陽が西の空に沈み、黄金色に輝いている。空の上部は徐々に紺色に変わり、星が瞬き始めている。
「ふふ~ん、ふんふん♪」
異様に上機嫌な馬場が、軽やかに進んでいく。あまり普段行かないような道に入っていくものだから、綸は少しだけ不安になってくる。
実のところ、まだこちらに来て一カ月しか経っていないし、普段は寄宿舎に引きこもっているものだから、大学と寄宿舎を行く道以外の場所については全く詳しくない。ここで馬場に置いて行かれたら、年甲斐もなく迷子になってしまうかもしれない。
「ほら、着いたぞ、綸」
綸の心配をよそに、目の前に何だか仰々しい門が現れる。
「……ここに入るのか?」
門の先は、飲み屋街だろうか。奥を覗き見ると、ずらりと建物が並んでいる。それぞれに赤い提灯がぶら下げられていて、何とも華やかな雰囲気である。
「さあ、行くぞ!」
何故だか馬場は気合を入れ、門をくぐる。
「何なんだ……ここは?」
夜だというのに物凄い人だ。学生、僧侶、金持ちそうな身なりの紳士。店と思われる建物の前の人だかりの先には——格子の中に座る、色とりどりの着物を着た女達の姿。
「は? お前、桜郷って言ったら、真っ先にここに来るだろ? 来たことないの? 音津遊郭だよ! ここは!」
「音津……遊郭?」
遊郭、と言うのはあれだろうか。遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のことだろうか。つまり、公認された——売春地区。
「お、おおお……お前! 何てところに連れてくるんだ!」
大声を出すと、周りにいた男たちの視線がこちらに集まる。
「え? 何? 綸、知らないで黙ってついてきてたの?」
「こんな場所があるなんて聞いてないぞ! 俺は普通に飯屋に行くものだと……!」
「大丈夫。ちゃんと座敷に入ったら、酒も台の物も頼むぞ」
「そういう問題ではない! 天下の帝大生がこんな場所で女遊びにふけるなど、あってはならない!」
「女? あー、違う違う。そうじゃない。大丈夫だ」
何が大丈夫なのか全く解らないが、馬場は平然と首を振る。そしてギラリと目を光らせ、意気揚々と告げる。
「ここにいる公娼は全員、女装した男なんだ。この辺りには大学もあるし、寺も多い。ここ、音津遊郭は、女色を厳禁とする男たちのために用意された、男たちによる、男たちの為の楽園って訳さ!」
したり顔をする馬場の顔面を、思いっきり殴る。
「あ、痛!? ひでえ、何でだよ!」
「女色が駄目なら男色でって……そんなの納得できるか! 陰間茶屋は随分昔に禁止されたはずだろう!」
「だから陰間茶屋じゃなくて、表向きは普通の遊郭ってことになってるんだってば。いいじゃないか、男なら。ほら、見て見ろよ。皆、女みたいに綺麗だろ? でも男だからな。引け目を感じなくていいんだ!」
確かに、目に入る男娼たちはみな美しく、言われないと男だと解らない。だが、こんなふしだらな場所にいていいはずがない。何だが魂が少し汚れた気分だ。
「帰る」
「待ってくれ! 頼む! 綸! 今日だけでいいから! 頼む!」
馬場は帰ろうとする綸を静止するように立ち塞がり、仏に祈る様に手を合わせる。
「俺は今日に賭けてるんだ! 一生懸命金を貯めて……初めて、前から好きだった花魁を買うんだ! なあ、頼むよ。俺一人じゃ座敷で何を話していいのか解んねえんだ! 頼む! この通り!」
馬場は地面に手を付き、土下座のような体制で懇願してくる。周りの目が痛い。一刻も早くこの場から立ち去りたい。
「……今回だけだぞ」
溜息を吐き、馬場を立ち上がらせる。遊郭に長居するのは嫌だったが、何より腹が減った。ここで帰ってはタダ飯にありつけない。
「綸! ああ、心の友よ!」
「お前の心の友になった覚えはない」
甚だ遺憾だが、仕方なく馬場の後を付いていくことにする。道を真っ直ぐに進んでいくうちに、白い壁に黒い瓦屋根の、そこそこ立派な建物の前で足を止める。
「ここだ。中見世の、花仙楼っていうんだ。庭が広くて、内観も綺麗なんだぜ!」
得意げな顔をして、馬場が説明する。お前が造った訳では無いだろう、と悪態を吐き、しぶしぶ建物の中へと入っていく。
遣手に二階の引付座敷に案内され、馬場と二人で静かに座布団の上に座る。直ぐ後に入ってきた芸者の三味線と唄は見事なものだが、正直、頭に全く入ってこない。
「……どうしよう、すげえ緊張してきた」
馬場が冷や汗をかきながら、口にする。
「言っておくが、俺は何もできないからな。相槌ぐらいしか打たんぞ」
「ああ、それで十分だ。俺が男になるところを見ていてくれ、綸」
「意味が解らん」
馬場と馬鹿げた言い合いをしていると、部屋の障子戸が開かれる。
「ぎゃあああああ! あ、朝菊さんが来ただああああ!」
化け物と出くわしたような声を発しながら、馬場は綸の後ろに隠れる。
「おいでませ、あたくしは朝菊。本日はよくお越しくださいましたね」
凛とした、涼やかな声。
姿を現したのは、目を見張るほどに美しい青年だった。
黒い艶やかな髪を丁寧に結い、紫色を基調とした華やかな衣装を身に纏っている。そして、意志の強そうな顔をこちらに向けたかと思うと——その顔に疑問を浮かべ、口を開く。
「……綸くん?」
「え……名前? 俺、名乗ってない……よな?」
馬場に向かって放った言葉だったが、当人は未だに綸に隠れて震えている。
状況がよく解らない。何故、花魁が自分の名前を知っているのだろうか。
混乱する綸を余所に、朝菊というらしい青年は瞳を輝かせ、あろうことか綸に抱きついてくる。
「綸くん! 綸くん! 会いたかった!」
やっと顔を上げた馬場が、その光景に目を白黒させる。
「ちょ……おま、綸! どういうことだ! 何で朝菊さんと知り合いなんだ! 説明しろ!」
「俺の台詞だ! 俺だって、何が何だが……!」
抱きついている朝菊をやんわりとひき剥がし、噛みついてくる馬場を宥める。
「あれ? 綸くん。おれが解らない? 無理もないか。あれから随分経っているし、あの頃はもっと髪だって短かったからなあ?」
朝菊は己の髪を撫でながら、悪戯そうに笑っている。その姿を見て、記憶の中のとある人物の顔が頭に浮かんでくる。
「もしかして——アサちゃん……なのか?」
アサちゃん、というのは、綸のかつての親友、朝人のこと。引っ越しで行方が解らなくなってしまった、たった一人の綸の理解者だ。
髪は耳よりも短かったし、綸よりも身長が高かった。今、目の前にいる朝菊は、綸よりも少し小さく、何よりも女の人のように見えた。
それでも、悪戯そうに笑いながら綸を見るその瞳は——昔と変わらない。
「ねえさん、ねえさん!」
朝菊の後ろに付いていた、新造と思われる少年が口を挟む。ふわふわとした灰色の髪をした、猫のように愛らしい少年だ。
「ああ、悪い悪い。仕事しなくちゃ。今のなかったことにして!」
そう言うと朝菊は一度障子戸の外に出て——もう一度、丁寧にそれを開く。
「おいでませ、あたくしは朝菊。本日はよくお越しくださいましたね」
しれっとした顔で、本日二回目の挨拶をする朝菊。馬場はぽかんと口を開けたまま、固まってしまっている。
——何故、こんな所にアサちゃんがいるのか。俺と別れた後、ずっとここにいたのだろうか。引っ越したというのは嘘で、本当は売られたのだろうか。彼は果たして、俺のことを親友だと思ってくれていたのだろうか……?
次々と疑問は出てくるものの、聞ける雰囲気ではない。
無駄に明るい三味線の音色を聞きながら、盛大に溜息を吐くことしかできなかった。




