第17話 翻弄 壱
時は、巳の刻始まり。
寺の掃除を終えた綸は、所持している中で最も良い服を着て、緊張しながら外へと踏み出した。
いつもよりも早歩きで、すっかり通い慣れた道を進んでいく。
見えてきたのは、音津遊郭の立派な門。その下に、店に出ているときよりも大人しめの柄の着物を纏った、町娘のような姿の美少年が二人いる。
臙脂色と浅黄色の、お揃いの髪飾りを頭に付けた、黒音と澪だ。
「お、来た来た~。やっほー、りんりん」
黒音は相変わらず変なあだ名で綸を呼び、手を高く上げ、招くように動かしている。
「すまない。待たせてしまったか?」
綸は足早に、二人の傍へと寄った。
「遅い。おれを待たせるとか、どういう神経してるの? 今日、あんたは俺たちの下僕なんだからね? そこんとこ解ってるの?」
不機嫌に頬を膨らませながら、澪が口にする。
「ああ……その、『下僕』というのが、何をしたらいいのか解らないんだが。君たちは、俺に何をやらせたいんだ?」
「ふふふ……おれたちはね、今日この日の為に、おやっさんから外出許可をもらったんだよ」
「外出許可? 行きたいところがあるのか?」
「そ、だからねえ、りんりん……」
黒音と澪は顔を見合わせ、口元を隠しながら笑う。そしてギラリと綸を睨み、大袈裟な口調で告げる。
「今から言うところに——おれたちと、一緒に来なさい」
*
「で? ここに……何の用があるんだ?」
黒音と澪に言われるがままについていくと、たどり着いたのは緑豊かな公園だった。
公園の名は、城野公園。城野の山とも呼ばれる、十二万坪にも及ぶ場所だ。
近くにあることは知っていたが、実際にこうして来てみるのは初めてだった。
「ふふん。りんりん、城野公園に来るのは初めてだね? じゃあ、ここも初めてだよね……?」
にやりと笑い、黒音が指し示す先。
洒落た門の柱には、『動物園』の文字が見て取れる。
城野公園内にある、城野動物園。幸せな家族連れや、恋人たちの集まる場所だろう。現に、門の周りは、そういった感じの人々がたくさんいる。
どちらにも恵まれていない綸にとっては無縁の場所であり、行こうと思ったこともなかったのだが。
「何、ぼーっとしてるの? はやく行くよ?」
澪に右腕を掴まれ、門の傍にある入場券売り場へと促される。
「おれね、ゾウが見たいんだ~。はやく、はやく」
綸の左腕に自分の腕を絡め、黒音が嬉しそうに声を上げる。
ふと、周りの人たちが、綸のことを物珍しそうに見ていることに気が付く。
急に、心配になった。
自分は、もしかしなくても——二人の美少女を誑かす、悪い大人に見えてはいないだろうか?
「待ってくれ、澪、黒音。もう少し離れて歩いてくれ!」
「だめ。そうやって逃げるつもりでしょう?」
「りんりん、逃げちゃ駄目だよ。おとな、三枚で~す」
慌ただしく門をくぐり、綸たちは動物園へと足を踏み入れる。中は広々とした通路があり、大勢の人で賑わっている。真正面には猛禽舎があり、その隣に園内の地図があった。
地図に書かれていたのは、トラに、ゾウに、キリン——といった動物の絵。
どれも、実際に見たことがない動物だ。年甲斐もなく、少しワクワクしてしまっている自分がいる。
「ほら、ちゃんと前見て歩いてよね、人にぶつかるよ?」
「さあ、ゾウを見に行くぞう! あ、今の笑うところね」
つっけんどんな態度の澪と、上機嫌な黒音。
「こら、澪、黒音。違う方法に引っ張らないでくれ。順番に、順番にな!」
何だろう。モテる男というのは、こんな気分なんだろうか。いや、どちらかというと、二人娘に振り回される父親だろうか。
そんなくだらないことを考えつつ。
綸にできることは、ただ、二人に付いて行くことだけだった。
*
初めての動物園。綸は黒音と澪に振り回され——すっかり疲弊していた。
「見て見て~りんりん。ここが最後の場所だよ。わ~い、トラだ~」
「ようやく、最後か……」
重たい頭を上げ、トラの檻を見やる。あまりにも疲れていて、一人、別の世界にいる気分だった。
——ああ。トラって、本当に大きいんだな。猫よりも、ずっと大きい。あんなのが野生で生息しているだなんて、異国とは何て恐ろしい場所なんだ。
猫好きの白羽が見たら——何て言うだろうか。
すごいね、大きいね、と言って、目を輝かせるだろうか。
「ねえ、黒音。あのトラは、何をしてるの? オスがメスに乗っかろうとしてるよ?」
「さあ、交尾でもしようとしてるんじゃない?」
「こっ……」
歯に衣着せぬ黒音の言い方に、思わず反応してしまう。
「……ねえ、思ってたんだけどさ、綸って、童貞なの?」
澪が直球を投げてきた。
「こっ、子どもが童貞とか言うな!」
「え~、そうなの? 朝菊ねえさんとはヤッてないんだろうなって思ってたけど、他でも経験ないの~?」
黒音が、大袈裟に驚いてみせる。
「悪いか! 俺は……そういうのは! ちゃんと責任が持てる立場になるまでしないと決めているんだ!」
「噓! 童貞が許されるのって、高等小学生までじゃないの?」
「え~、りんりんってば、可哀想!」
「ええい、煩い!」
綸が怒れば怒るほど、二人はキャッキャと楽しそうにする。
駄目だ、完全に遊ばれている。
年頃の娘(彼らは男だが)の世話は、こんなにも疲れるのだな、と、女学校の教師たちに尊敬の念を感じずにはいられない。帰りたい。白羽の声が聞きたい。白羽に、綸はすごいね、って言ってもらわないと、今日の心の傷は癒えそうにない。
「あ~、楽しかったなあ。動物園。歓魚室も面白かったし。また連れてきてね、りんりん!」
動物園を後にし、猫のように伸びをしながら黒音が言う。
「で? 動物園に来た意味は、何だったんだ?」
「え? ただ来たかっただけだけど?」
「そ、そうなのか……」
何か意味があるのかと思ったが、何もないらしい。綸に頼み事があるから、さくらに会わせることを条件に、今日という日を二人のために使えと言ってきたのだと思ったのだが。
ただ、我儘を言って振り回すためだけに、呼ばれたのだろうか。
項垂れる綸を見ながら、二人は何やらこそこそと話す。
「じゃあ、そろそろ本題に行こうか、みーちゃん」
「そうだねえ。ちょっと頼りないし、童貞だけど。まあ、いいや」
二人は綸の左右の手をそれぞれ取り、静かに誘導する。
「さあ、りんりん。次行く場所は、こんな華やかな場所じゃないから……ね」
「そうだねえ。綸なんて、食べられちゃうかもねえ」
まるで小鬼のように、くすくすと笑う二人。
綸は二人に、引きつった笑顔を向ける。胸は不安で一杯だったが——二人に抗う術は、どこにもなかった。




