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さんざんなバレンタインデー~消えた本命チョコ~

作者: た~にゃん

バレンタインの恋物語企画参加作品です。

 斎藤彩花(さいとうあやか)は焦っていた。約束の時間はとっくに過ぎているのに、彼に渡す本命チョコがどこにも見当たらない。


「どうしよう……」




♡♡♡




 今日は二月十四日。バレンタインデーだ。


 彩花の職場では、女子社員一人あたり数百円ずつ集めて、できるだけお安い義理チョコを買い、男性社員に配る風習がある。年度末の決算が近づく殺伐とした季節に少しでも楽しみを、なんてお孫さんのいるお年の部長が言っていた。


(総務部が十六、情報システム部が十五、企画営業部が……よし、あるわね)


 大きな紙袋三つに分けて入れた四角い小箱の数を数えて、彩花はホッとひと息ついた。今日はバレンタインデー。今年の義理チョコ当番に任命された彩花は両手に紙袋をヨイショと抱えた。


(うえぇ……重い)


 一つ一つは小さな箱でも、三部署分もあると相当な重量がある。


(まあ、仕方ないか)


 本来なら彩花が担当するのは企画営業部の分のみだったのだが。


「ごめんなさーい。コロナになっちゃいましたぁ」


 一昨日、総務部のチョコ当番だった後輩ちゃんが、なんとコロナで出勤停止に。総務部は女子社員がいない情報システム部のチョコも用意していたので、大きな紙袋三つを彩花が持っていくことになったのだ。


(そういうことも、あるある……)


 やっとのことで駅の階段を上り、電車の中でホッとひと息。電車を降りたら、駅の狭い階段を身を縮めて降りて……道で何度も立ち止まっては疲れた腕を休め、ようやく到着した会社。ロッカールームに紙袋を置いてふぅー、とつい大きなため息を吐いてしまった。


「あら、斎藤さん三つも持ってきたの?」


 すれ違った先輩が目を丸くする。


「総務部の当番の子がコロナで」


「あらぁ……それは大変だったわね。配るのは総務部の人に頼んだらいいわ。そうね……英里(えり)主任なら安心かも」


 先輩はそんなアドバイスをくれて「じゃあね」とロッカールームを出ていった。ちなみに、件の英里(えり)主任は苗字を面近(おもちか)というが、夫婦で総務部に勤めているので、区別するために下の名前で呼ばれている。豆知識である。


(あ、付箋貼っとこ)


 部署ごとに微妙に数が違うし、面倒なことに飲兵衛でアルコール入りのチョコをご所望な係長がいたり、逆にアルコール入りがダメな社員もいるのだ。飲兵衛係長は総務部、アルコール入りがダメなのは情報システム部と企画営業部。貰う側なんだから文句を言わないでと言いたくなるが、これも慣例なので仕方ない。




♡♡♡




 二月の半ばというのは、年度末が近づき業務量が増えるのと、決算を間近に控えたピリピリした緊張感が漂う。加えて、消化しなければならない有給の申請や健康診断もこの時期だ。


奏多(かなた)ともぜんぜん会えてないな……)

      

 最後にデートしたのも、クリスマス……去年のことだ。年明け早々、彼の所属する情報システム部では社内ソフトの大幅アップデートがあり、連日残業をして疲れているであろう奏多に「会いたい」と強請るのは気が咎めた。


 だけど、明日は土曜日で会社は休みだ。バレンタインにかこつけて、久しぶりに休日を一緒に過ごす約束をしている。チョコレートだって……


(ちょっとは意識してくれるといいんだけど……)


 奏多へのチョコレートは、気合いを入れてデコレーションをした彩花渾身の作。仕事終わりに持って行くつもりだ。メッセージカードと一緒に大量の義理チョコとは別の小さな紙袋に、可愛らしくラッピングして入れてある。


 彩花から告白してつきあい始めた同期の奏多は、恋人になってもあまり態度に変化がなく、ときどき「私たちって本当に恋人?」と疑ってしまうときがある。本人も淡白だと言っていたし、デートに誘えば応じてくれる。優しいし、くっついても怒らない。プレゼントも貰ったことはある。でも、あと一歩距離を縮められたら――。


(奏多をドキドキさせてやるんだから)


 そう意気込んで、ジャケットの下には普段はあまり着ない深Vネックのニットを着た。恋人と過ごすためにあれこれ気合いを入れて、今日こそは早めに上がろう、と決めていたのに。


「斎藤さん、ちょっと来なさい」


 鬼束部長に呼ばれて突きつけられたのは、彩花が作成した企画書を印刷したもの。あれもダメこれもダメと鬼束部長はガミガミと企画のダメ出しをした。


「全部やり直し。ちゃんと売れるモノを作ってちょうだい」


「……はい。すみませんでした」


 肩を落として席に戻ると、隣の席の先輩がボツになった企画書を覗き込んだ。


「あー。この色はないな。年寄りの色だ」


「あとここをこうしてコストを……」


 先輩の助言を頼りに企画書を作り直していたら時間はあっという間で、気づいたら時計は夕方五時半を回っている。とてもじゃないが、あと三十分では終わりそうにない。


「あ! チョコ!」


 そこでハッと思い出した。大量の義理チョコを夕方六時(定時)までに総務部と情報システム部に持って行かないと!


「ちょっと斎藤さん、どこへ行くの?」


 慌ててロッカールームにチョコを取りに行こうとしたら、鬼束部長にギロリと睨まれた。おそるおそる、義理チョコを配りに総務部と情報システムに行かなければならないのだと話すと、部長はため息をついて席を立った。


「いいわ。私がいく。ロッカールームにあるのね?」


「あ、はい! 部署ごとに付箋貼ってありますので」


「中身は全部同じなんでしょ」


 面倒くさそうに言って、鬼束部長はロッカールームから「ヨイショ」と大きな紙袋三つを持ち出して、一つはドアの前にドンと置いた。


「男性社員は帰りに一個ずつ持って帰ってね」


 まさかのセルフサービスである。慣例では、新入社員の女の子がモジモジしながら一人一人手渡しして、男性社員が鼻の下を伸ばすのだが、残念ながら新入社員の女の子は先月退職して、現在企画営業部にはチョコの手渡し係がいない。


「ハァ~ア。色気がないねぇ」


 若い子からどうぞ(はあと)ってされたかったなぁ、と入社十年目の迫田先輩がボヤき、


「んじゃ、部長に頼んで手渡ししてもらうか?」


「あ、それコワイからセルフサービスでいいッス。セルフサービス万歳!」


 同じく十年目の江川先輩にからかわれて、どっと笑いが起きる。ちなみに鬼束部長は入社三十年越え。


 そんな一幕もありつつ、企画書に頭を悩ませ、時計の針が夜の七時を回った頃、


「ま、いいんじゃない」


 ようやく部長から合格点を貰えた。肩をコキコキ回しながら、鬼束部長が帰り支度を始めると、室内に漂っていた緊張が一気に解れた気がする。


「一服してくる」


「腹減った~。コンビニ行ってくるわ」 


「ボス戦~」


 部長がいなくなるや、いそいそと席を立って数人が消えた。憚りもせずスマホゲームをやる不届き者もいる。


(私も奏多にLINEしとこ)


 スマホを取り出すと、奏多から何度か着信が入っていた。急いで折り返したものの、


 ~♪ ~♪


 移動中なのか、コール音のあとに保留音――『雨だれのプレリュード』が流れるばかりだ。移動中なのかもしれない。とりあえず、もう少し遅くなりそうだと手早く文字を打ったところで。


「一緒にご飯いこうよ。まだプレゼン資料作るんでしょ」


 同期に誘われて席を立った。

 



♡♡♡




 同期の加奈子とやってきたのは、最近会社の近くにできたスペイン料理の店だ。スペインらしい陽気で情熱的なBGMが流れる中、彩花はアルボンディガスという煮込み料理を、加奈子はパエリアを頼んだ。


「あーあ。ワイン飲みたぁーい」


「金曜の夜だもんね……」


 おしゃれな店でタパスを楽しみながらワインを味わいたいものだが、残念ながらまだ仕事が残っている。パラリとめくったメニューには、バレンタイン限定のチョコレートデザートが載っている。この時期はどこもかしこもチョコレート尽くしだ。


「あ、この曲『スペインの踊り』だ。懐かしいなぁ」


 軽快なBGMに加奈子がパエリアをつつく手を止めて言った。


「加奈子、バレエやってたんだっけ」


「うん。この踊りはねぇ、チョコレートがテーマなの」


「スペインなのに?」


 肉団子を頬張りながら尋ねると、加奈子は頷いた。


「チョコレートはスペイン発祥だからって」


「へぇ」


 他愛もないお喋りをしながらも、二人は手早く夕食を胃袋におさめていった。




◆◆◆




 その頃――。


「あのぉ……すみませーん」


 企画営業部を困った様子の女子社員が訪れていた。


「総務部の糸取(しとり)です。あの……部内で配る義理チョコの数が合いませんで、斎藤さんはおられますか?」


「一個足りないんだ。ウチの旦那の分だけだから、週明けでもいいんだけどさ」


 可愛らしい彼女の後ろから顔を出したのは、同じく総務部の女子社員で面近(おもちか)主任。ちなみに彼女の旦那もまた、コロナで出勤停止中である。


「あー。タイミング悪かったね。飯に行っちゃってるわ」


 ゲームをしていた男性社員はなんとかしてやろう、と思ったのだろう。ロッカールームを見にいった。が、予備の義理チョコは見あたらなかった。


「斎藤さんの席はここだけど……。ん? ああ、これじゃないかな?」


 デスクの上にいかにも「予備はここ」といいたげに置かれていた小さな紙袋。不幸なことに、チョコの箱の大きさも包装紙も部内で配った義理チョコと雰囲気がよく似ていた。


「ありがとうございます~」


「ごめんね、残業中に。ありがとー」


 総務部の女性二人は笑顔でチョコを持っていってしまった。




 それからまたしばらく経って。


「すいませーん。斎藤さんいます?」


 情報システム部の社員が義理チョコの箱を片手に企画営業部を訪れた。


「なんか一個余ったんスよ。なんでこれ、お返し」


 かくして、空になった紙袋に返ってきた義理チョコの小箱が入れられた。





♡♡♡




 そんなことがあったとはつゆ知らず。


(よし。あと少し)


 加奈子と黙々とプレゼン資料を作って印刷して冊子にして……仕事が終わったのは夜八時半。


「お疲れ様でした!」


 急いでコートを羽織り、LINEのトーク画面を開くと、奏多から「マンションで待ってる」と短い返信が来ていた。彼の呟いた時刻は七時四十三分。


(ヤバい! もう一時間近く待たせてる!)


 駆け足で駅に向かい、電車飛び乗りたどり着いたマンションのロビーにて。


(あ、あれ? 奏多に渡すチョコがない!)


 冒頭に戻るわけである。




♡♡♡




 紙袋の中に入っていたのは、なぜか義理チョコの箱。本命チョコは影も形もない。


「どういうこと?!」


 鬼束部長が帰ってから、加奈子と夕食に行くために一度ロッカールームにコートを取りにいき、その時うっかり忘れないようにチョコの入った小さな紙袋も自分のデスクに置いておいた。その時には確かに本命チョコはあったのに。


(とにかく会社に戻ってみよう)


 義理チョコが戻ってくることはよくある。休みの人がいたときとか。でも、入っていた本命チョコが消えるなんて……。


(落としたのかなぁ)


 浅い紙袋だし、走っている時に零れ落ちた可能性もある。幸い、まだ電車はある。奏多のマンションから会社までは電車で三駅だ。そこまで遠くない。走れば……


(奏多、ごめんね。待っていて!)


 もうちょっとかかりそう、とメッセージを送り、彩花は夜道を駆け出した。


「やだ、私ったらどこに落としたの?」


 イルミネーション彩る並木道にそれらしきものを落としていないかと目を凝らす。通りかかった駅前の大きなホテルからは、バレンタインだからだろうか。『愛の夢』のしっとりとした旋律が漏れ聞こえてくる。


 戻ってきたオフィスには誰もいない。ロッカールームを見て、デスク周りを見ても、本命チョコの箱はどこにも見あたらない。


(どうしよう……)


 いくら穏やかで優しい奏多でも、待ちくたびれて怒っているに違いない。もう夜の九時を過ぎた。


(もう、待つのをやめて寝ちゃったかもしれない)


 思えばデートに誘うのは彩花ばかりで、奏多からは一度も誘われたことがない。夜のデートだって一度もない。LINEも夜遅くなるとパタリと既読がつかなくなるし。


「……本命チョコを無くすなんて。私のバカ」


 甘党な奏多のために、ちょっと奮発してクーベルチュールチョコレートを使ったのに。仕事のことといい、自分の間抜けさが嫌になる。


 ヴー ヴー


 と、その時。鞄に入れたままのスマホが震えた。取り出したスマホには恋人の番号が表示されている。驚きつつ、【通話】をタップした彩花。


「えっ? どうして?」




♡♡♡




 ぶっきらぼうな口調で「早く来て」と言われるままに、彩花は奏多のマンションへ向かった。


「ハァッ、ハァッ……」


 会社とマンションとの道を三度も走り、肩で息をしながら彩花はマンションのチャイムを押した。


「まったく……。入って」

 

 すぐにドアが開いて、スウェット姿の奏多が顔を出した。その手には、無くしたと思っていた本命チョコの箱。いったいどうして?


「あの、どうして……?」


「英里主任が届けてくれた」


「英里主任??」


 なぜそこで英里主任が出てくるのか。しかし奏多は彩花の疑問には答えず、無言でスプーンを差し出した。指さしたのはテーブルの……カップアイス?


「とりあえずこれ」


「? ありがとう」


 よくわからないが、一緒に食べようということらしい。混乱しつつも、スプーンでバニラアイスを掬う。


(美味しい……)


 さんざん走ったからだろうか。アイスの冷たさと甘さが身にしみる。程よく溶けたアイスは柔らかく、気がついたら紙のカップは空っぽになっていた。


「ねぇ」


 不意に声をかけられて、彩花は向かいに座る奏多を見た。

 

「毒入りだと、思わなかったわけ」


「……へ?」


 恋人の口から飛び出した物騒すぎるワード。思わず目をぱちくりさせた彩花の手を、身を乗り出した奏多がガシッと掴んだ。


「え、ちょ?!」


 そのまま体重をかけて彩花を押し倒し、奏多は不機嫌そうな表情でこう言った。


「好きな子からのバレンタインチョコが他の男の手にあった時の俺の気持ちわかる? 『仮面舞踏会』のアルベーニンになった気分だったよ」


「……え?」


 「好きな子」と言われて一瞬舞い上がった彩花だが、続くセリフは意味がわからない。目を瞬く彩花に、奏多はついとそっぽを向いて。


「やたら待たせるし、電話も出てくれないし……本当は俺のこと嫌いなんじゃないの」


 予想外すぎるセリフを放った。


「ええっ?!」


 普段は穏やかで、優しいけどどこか淡白な奏多のセリフにしてはやたらストレートな問いかけ。


(なんか奏多……雰囲気変わってない?)

 

 やっぱり怒っているのだろうか。


「本当にごめんね。チョコを無くして焦ってて……あ」


 その時ふと、反転した視界に『あるもの』――ゴミ箱からはみ出した見覚えのある包装紙を見つけて、彩花はとある可能性に行きついた。


「奏多……もしかして、酔ってる?」


 ゴミ箱から見える包装紙は、義理チョコの包装紙。よく見ればゴミ箱の後ろに中身の箱が立てかけてある。箱に踊る文字は『ウィーンのボンボン』。飲兵衛な係長のいる総務部用に買ったアルコール入りチョコレートだ。


(鬼束部長、渡す袋を間違えたんだ……)


 中身は全部同じなんでしょ、と面倒くさそうに言っていたのを思い出す。で、そのアルコール入りチョコレートを奏多が食べてしまった、と。そういえば手首を掴む奏多の掌が熱い気がする。


「ハァ……彩花、俺のこと好き?」


 こちらを見下ろす奏多の目はアルコールのせいかトロンとして、普段の穏やかで淡白な彼にはない熱と危うげな色気が漂っていて、胸がドキドキした。


(これ、先に進むチャンスかも……)


 つきあって一年以上経つが、まだキスから先には進めていない。お酒の力を借りるのはちょっぴりズルい気もするけれど、こんなシチュエーションでもないと奏多との距離は縮まらない気がする。


(それに「好きな子」だって)


 酔っているからこそ、偽らざる本音が聞けたと思うと、罪悪感よりも嬉しさが勝ってしまう。


「うん。大好きだよ、奏多」


 心からの気持ちを告げたら、奏多はふにゃりと笑って。ゆっくりとまるで壊れ物に触れるように、彼の腕が彩花の背にまわって、ギュッと抱きしめられた。

 

「…………」


「…………?」


 奏多の部屋で抱き合って、しばし――彩花は彼の身体の下で目を瞬いた。ずいぶん……静かだ。


「……奏多?」


 声をかけるも、彩花に覆い被さった奏多はピクリとも反応しない。耳をすませば、スゥスゥと規則正しい寝息が聞こえる。


(……寝てる)


 時計は夜の十時になろうとしている。まだ終電には間に合うな、とどこか冷めた自分が呟く。


(でも、このままだと奏多が風邪をひくよね)


 せめて何か掛けた方がいいだろう。寝室に行けば毛布があるはず。奏多を起こさないように、身体の下から這い出そうとしたのだけれど。


(ぬ、抜けない~、重い~)


 抱き枕よろしく、腕ごと抱きしめられているせいか、うまく身体に力が入らない。というか、腕を振りほどいても抱きつき直されるので一向に拘束が解けない。いたちごっこ。しばらくひっくり返った芋虫のようにもがいていた彩花だが、諦めて力を抜いた。疲れた。

 ひとまず、何とか引き抜いた片手で自分が着てきたコートを引き寄せて、奏多の上に広げた。部屋は暖房がかかっているし、凍えることはあるまい。


(し、しばらくしたら起きるよね? ね?)


 朝は大量の義理チョコを運搬し、仕事で叱られて残業し、本命チョコを無くして走り回り……疲れと抱きつかれた温もりで、もうどうしようもなく眠いのだ。


(ちょっとだけ……)


 ちょっとだけで済むはずがないのに。けれど眠気には勝てなかった。




♡♡♡




 目が覚めたら、知らない天井が目に映った。


(……あれ?)


 目を擦ってベッドから身体を起こす。どうやらここは寝室のようだ。すっきりと飾り気のない部屋にはベッドと、本棚、それからパソコンとゲーム機をのせた机と椅子。窓からは朝日が柔らかく部屋の中に差しこみ、ぼんやりと室内を照らしている。


(えっと確か、奏多に抱きつかれて私も寝ちゃって……)


 そのあとの記憶がない。ベッドに寝ているということは、奏多が運んでくれたのだろうか。服は昨夜のままだし、床には奏多が敷いたのか毛布が二枚重ねてある。あのあとも何もなかったことだけはよくわかった。ちょっぴり残念な気持ちに蓋をして、ぼさぼさだろう髪を手櫛で整えると、ベッドから降りた。


(……ん?)


 足下に何か落ちている。拾い上げるとそれは楽譜だった。何のタイトルも書かれておらず、五線譜下のページ番号は二、裏側に三と数字が振ってある。奏多の物だろうが、当人の姿が見えない。時計を見ると朝の七時を少し過ぎたところ。

 寝室から廊下に出ると、かすかにピアノの音色が聞こえた。音楽でも聞いているのだろうか。


「奏多……?」


 音が聞こえるのは、リビングを通り過ぎたところにあるドア。いつも扉が閉まっていて、奏多は「物置だから」と言っていたけれど。


(綺麗……)


 光がキラキラと弾けるような高音のパッセージの中に、ゆるやかな和音の主旋律が音を重ねながら、力強く鳴り響く。クラシックだろうか。知らない曲だが、まるで劇のフィナーレを飾るような華やかさがある。曲が終わっても余韻に浸りたくなるような――。


「あ」


 ガチャリとドアが開いて、びっくりした顔の奏多と目が合った。


「あー……おはよう」


 気まずげに目を泳がせた奏多はすばやくドアを閉めたが。


「奏多、ピアノ弾けるの?」


 ドアの隙間から部屋を占領するくらい大きなそれ――グランドピアノはしっかりと見えた。


「これ、落ちてたんだけど」


 寝室で拾った楽譜を手渡すと、奏多は「あ!」と声を上げてドアの中へ。彩花もちゃっかり中に足を踏み入れた。どうやらあの紙切れは楽譜の一部だったらしい。表紙には『献呈』の漢字二文字とアルファベットの羅列。しかし奏多は、冊子を置くと早々にピアノの部屋から彩花を追い出してリビングに連れて行った。あまり見られたくなかったらしい。


「それより、昨日はごめん。押しつぶしちゃってその……」


 口ごもる奏多に、彩花はブンブンと首を横に振った。


「う、ううん! 振り回したのは私だもん。私こそごめんね」


 謝罪合戦をして、おあいこだねと笑ったあと。改めて奏多に聞いたところ、昨夜やはり鬼束部長がチョコの袋を間違えていて。彩花のデスクに置かれていた本命チョコを、総務部の英里主任が予備の義理チョコと勘違いして持って帰り。包装紙を開けたところで滑り落ちたメッセージカードを見て、わざわざ奏多に届けてくれたそうだ。


「英里主任もこのマンションに住んでるんだ。彩花の電話番号知らないから早く連絡してやってくれって」


「そういうことだったんだ……」


 では返ってきた義理チョコは英里主任の旦那さん用のか。後で奏多と渡しにいくことにした。


「あとね、奏多ったら急に毒だとか『仮面舞踏会』って言ってたけど、あれは?」


 あの唐突な「毒入りだと思わなかったの?」発言を問いただすと、奏多は「……忘れてくれ」と頭を抱えてしまったから、それ以上突っ込むのはやめておいた。代わりに、


「それにしても綺麗な曲だったね。なんていう曲?」


 奏多が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、やっぱり気になって聞いてみると。


「さっきの? チャイコフスキーの組曲『眠れる森の美女』の『アダージョ』。俺、あんまり上手くないから恥ずかしいな」


 と、奏多は少し困った顔をして教えてくれた。ピアノは子供の頃からの趣味だそうだ。社会人になってからも夜にレッスンを続けているらしい。練習も夜。どおりでLINEに既読がつかないわけだ。


「……幻滅した? 俺、酒も飲めないし、LINEの返信遅かったのは趣味優先してたのかよ! って。つきあい悪いなって思わなかった?」


 ちょっぴりシュンとした奏多は、昨夜と違ってまるで迷子の子犬みたいだ。しおらしく垂れた尻尾の幻影が見えるよう。


「ううん。また聞きたいな」


 少し甘えて肩にくっついて恋人を見上げると、彼はふにゃりと嬉しそうな笑みを浮かべた。


 バレンタインデーはさんざんな一日だったけど、淡白に見えて恥ずかしがり屋な恋人との距離が縮まったのは確かだ。

(作品中に出てきた曲について※こじつけ含むw)

①『雨だれのプレリュード』(ショパン)恋人の帰りを待つ雨の日に作曲された

②バレエ『くるみ割り人形』より『スペインの踊り』(チャイコフスキー)スペインはチョコレート発祥の地から『チョコレート』の別名がある小曲

③『愛の夢 第三番』(リスト)ピアノ曲が有名だが、原曲はリスト作曲の歌曲『おお、愛しうる限り愛せ』。歌詞は愛の喜びというより後悔とか皮肉みたいな内容

④『仮面舞踏会』(ハチャトゥリアン)同名の戯曲につけられた全十四曲のうち、五曲が組曲として有名。毒入りアイスのシーンを彩るのが、五曲中もっとも有名な『ワルツ』。

⑤『ウィーンのボンボン』(ヨハン・シュトラウス二世)メッテルニヒ侯爵夫人に献呈されたワルツ

⑥バレエ『眠れる夜の美女』より『アダージョ』(チャイコフスキー※プレトニョフ編曲)第三幕のグラン・パ・ド・ドゥ(オーロラ姫とデジレ王子の踊り)につけられた曲

⑦『献呈』(シューマン※リスト編曲)シューマンの歌曲集『ミルテの花』の第一曲『献呈』をリストがピアノ曲に編曲したもの。ちなみにミルテの花は、花嫁のブーケに使われる花で、『献呈』の歌詞は結婚の喜びを歌ったもの( ´艸`)

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「好きな子からのバレンタインチョコが他の男の手にあった時の俺の気持ちわかる? 『仮面舞踏会』のアルベーニンになった気分だったよ」 ∀・)奏多さんのこの言葉がにくい。なんとなくオシャレな男子なんだろう…
うわぁ。とっても素敵なお話でした。 私は学生なので会社の事はよく分かりませんが、年度末は忙しいのですね。 バレンタインデーが会社の行事のようになっているのも興味深いですね。 まぁ、あくせく働くばかりと…
企画から拝読しました。いえいえ、結果オーライで、さんざんどころが素敵なバレンタインデーだったと思います (^ ^) こういう日のほうがあとあとまで記憶に残って、いい思い出になるんですよー。彼と一緒に「…
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