97蓋
全ての人間を、完全にコントロールしている?
小百合は愕然とした。
ソラマチ全体でいえば、何千人という一般人だ。
しかも行動不能にする、とかではなく、一見したら何事もない日常のように全ての人間がのんびり笑って歩いているのだ。
ただし、それがこの影繰りの限界なのか、言葉はない。
だとしても恐ろしい能力だ。
だが、どこかで敵は、全てを見渡しているはずだ!
それでなければ、これだけの人間を自在には操れまい。
小百合は、さらに数本の髪の毛を伸ばした。
下から、楽しげな声とともに家族連れがエスカレーターを登ってきた。
まずい、襲われてしまう!
敵が果たしてどのような手段で人間を操っているのかは判らないが、何らかの直接、または間接的な接触を行い、精神を乗っ取り、コンピュータ操作のように決まり切った行動だけを行うロボットにしてしまう。
それが何を意味するのか、今、それと気がついた小百合には判らないが、単純に考えても、人質、とは言えるかもしれない。
敵の思惑次第では、例えば首を突き出したままでエスカレーターに乗らせる、とか、見事な吹き抜けのあるソラマチから転落させる、なども不可能ではないかもしれないのだ。
慌てて家族連れに近づく小百合だが、敵がどんな方法で精神を乗っ取っているのかが分からないと、防ぎようは無い。
ここは、彼らを救うことは出来ないが、土産を見るふりをして、敵が接触するのを観察するしか無かった。
楽しげな家族連れは二階に降りた。
近くにカップルが無言のまま、しかし楽しげに歩いている。
彼女は笑顔で男の顔を覗き込んだり、男は笑って(無音のまま)彼女の肩を抱きしめたり、一見はラブラブな様子だ。
家族連れとカップルが接触する瞬間、彼女はごく自然にスマホを取り出して、家族連れに見せた。
急に差し出されたスマホの画面を、家族連れは凝視した。
一瞬、二組の動きが止まり…。
カップルが再び歩き出したとき、家族連れは声を失い、しかし子供は無音のまま、楽しげに両親を振り返り、おどけた。
寒いものを、小百合は感じた。
どうもスマホの映像が、この大規模なコントロールの肝であるようだが、操る人数の桁が違いすぎる。
全ての人の全ての行動を一人の影繰りが操っているのだとしたら、人と人がぶつかる、などのニアミスも起こさずに支配するのは不可能に思える。
竜吉のようにコンピューターを使えば可能なのかもしれないが、それなら何処かに隠れ、夢中で操作している事だろう。
小百合も人並にゲームをしたことはあるが、NPCノンプレイヤーキャラクターというものに似ている、とも思った。
プログラムにより一定の行動を行うキャラクターだ。
そーゆうものなら、何処かにコンピューターがあれば、ある程度勝手に人を動かせるかもしれない。
だが、理由は?
何のために、そこまでの事をしている?
スカイツリーにパニックを起こさせないためか…?
ユリは確か、タワーと水族館に敵が向かった、と言ったはずだ。
どちらも、出入り口は、ほぼソラマチであり、ここに栓をしておけば、敵は上で好き放題に暴れられる訳だ。
ここはなんとしても敵を見つけ出し、この栓を抜かないと、甚大な被害が出る。
小百合はまた数本の髪を伸ばし、敵を探した。
川上は、エレベーターで水族館まで上がった。
楽しげに吸い込まれていく観光客に混じり、水族館に入った。
話には聞いていたが、とても凝った作りで、隣に彼女でも居れば、川上もずいぶん楽しめただろう。
だが、川上の目的はこの中に一人いる敵を発見し、倒すことだ。
生まれて、初めての一人仕事だった。
隣に誠がいれば、常に冷静な判断で、川上は指示を遂行しさえすれば勝利は確約されていたが、川上は地下鉄ホームの蔓女と向き合い、自分の実力に気がつかされていた。
接近戦で上まわれるような相手なら、ウサギと川上は、なかなかの戦いができるかもしれなかったが、接近すれば負ける、というような相手や、遠距離攻撃の相手には、川上は途方に暮れるしか無かった。
消火器が無かったら、川上は駅のホームで終わっていただろう。
少し練習で誠を泣かしたから、と、心の中で自惚れたが、実戦なら誠は秒で川上ごときは殺せるのだ。
誠は、その上で、素手の殴り合いで勝負しようとしただけだった。
全く、あの細い腕で殴り合いも無いのによ…。
筋肉は年輪のように体に刻まれるものだ。
だから誠には手に入らない。
大体が、背が低く、声も高く、男の娘どころか本物の女子にまでなれるのが、誠の特性だった。
多分、そのせいで男性ホルモンは川上より明らかに少ない。
体毛が薄い、チンコも小さい、その割には、誠はなかなか素手の戦いも強い、とは言えた。
本当にツルツルなのかは判らないが、同じように薬を使ってたとしても、毫毛の川上とは仕上がりが全く違うのだろう。
だが、筋肉だけで俺はどこまで戦えるのか?
川上は、薄暗い水族館の闇を利用し、少しだけ髪の毛から耳を出した。
川上の感知能力は、一番には、この音による周りの把握だ。
同時に、鼻や目も、格段に機能は高まる。
水族館全体のおおよその構造や、人の流れも、それらの力で知覚できる。
なんか、右奥の部屋が、変な感じだな…?
川上は人を巧みに避けながら、奥の部屋に進んでいった。