94地下鉄
ユリは足を止め、風景に見入るふりをしながら、虫の目で背後を見張った。
花たちがゆらゆらと動いている。
極めて緩慢な動きであり、空調の微かな風の影響かもしれない。
敵が、この花影に潜んでいるのなら、微かにも動きが判るか、とユリは考えたのだが、動きは一様であり、どこに敵がいるとも判らない。
だが、敵に付けたユリの虫の位置は判るので、おおよそ、自分の背中に当たる部分の後20メートルに敵が潜んでいるのは判っていた。
その辺りは、一番花が多い所だ。
大輪の百合の花が白い花弁を下向きにして咲いており、奥にはビロードのような赤のバラの花がたわわに咲き誇っている。
その前に、おそらく菊だと思う黄色の草花が床から直に生えており、天井から垂れ下がった、紫色の、ウツボカズラに似た花も彩りを添えていた。
ユリは、動かない。
敵の攻撃を見るまで、迂闊には動けなかった。
小百合は本部から車を出してもらい、スカイツリーに向かっていた。
隅田川を渡り、直線道路の先に、今はスカイツリーが午後の日差しに眩しく輝いている。
前は都内各所で同時多発的に起こった敵のテロ? 意味不明の虐殺事件? だったが、おそらく今回はスカイツリーに絞られるのではないか、と小百合は直感していた。
同じにすれば、同じ結果になるはずだから、だ。
内調は、前回があるから全ての影繰りをスカイツリーには集められない。
だから一箇所に兵力を集める、と小百合は読んでいた。
最大兵力で、少数と戦う。
戦略の基本の一つだ。
しかし上は、小百合の考えは理解しても、一か八かのギャンブルをする気はないだろう。
国家機関は、それが当然だ。
だがユリの坊やに初心者の川上、小百合も影繰りとの戦いを多く経験している訳では無かった。
小田切…。
頼りないが、奴に賭けるしかなかった。
「嬢ちゃん、なんかスカイツリーが変じゃないかい?」
運転手の白髪の優しげな男性が、声をかけた。
え、と小百合が改めて前方のフロントガラスに視線を向けると、さっきまでメタリックに輝いていたツリーが、何か緑の煙をまとったようにくすんでいた。
「火事?」
小百合のつぶやきに、運転手は、
「いやぁ、あんな緑の煙なんて花火じゃあるまいし。
蔦でも覆ったみたいだね…」
いや、しかし634メートルの建築物が、蔦に覆われるだろうか?
しかも、覆ったとすれば、ほんの何分間かの出来事のはずだ…。
小百合は、永田に電話をかけていた。
ベンチに座った女の横で、川上は迷っていた。
この女性は被害者なのか加害者なのか…。
どのみち、川上に彼女を救う術は無いが、しかし、既に命は無いにしても、被害者の体を粉砕するのは気が引ける。
しかし、既に一人のサラリーマン、いやサラリーウーマンが餌食になっている…。
川上が先に進むためにも、彼女は破壊するしか無かった。
接近するのは余りにも危険だったが、幸い川上には、八匹のウサギという、中距離攻撃の出来るしもべがいた。
外見はウサギだが、破壊力はなかなかのものだ。
川上は、首から下げた角笛を吹き、ウサギを出現させた。
そして動かない女に、集中攻撃をかけた。
だが…。
女のロングヘアーが伸びてウサギを絡め取る。
首、手足から黒緑の蔓が銃弾のような速さで飛び出てきて、8匹のウサギは、全て女の内部に消えた。
のみならず…。
今まで動かなかった女が、クルンと、人形のような不自然で、体は動かさずに首だけを回し、川上をみとめた。
あの速さはヤバイ!
川上は、慌てて飛び退くが、しかしここは駅のホームだ。
やがて後続車両もやって来るだろう。
川上は、それまでに、この怪物を倒さなければ、何十人が被害に会うか、想像もできない!
しかし、一瞬でウサギ8匹を飲み込んだ、この怪物に、接近戦など通用するだろうか?
それ以前に、あの蔓に巻き付かれたら、接近戦も何も無いではないか…?
ホームにアナウンスが響いた。
間もなく地下鉄が到着するらしい…。
川上を睨むように見つめた蔓の女は、ゆっくりと髪の毛を逆立て始めた。
襲ってくる!
これは殴ったり蹴ったりして倒せる類の相手ではない…。
川上は唐突に理解した。
燃やすとか、薬剤で枯らすとか、そういう方法でなければ到底、倒せない…!
火は!
周りを見回すが、地下駅である。
火気は厳禁だった。
消火設備は、逆にあるはずだ!
背後の壁に、それらしい赤い箱があった。
川上は一跳びで箱に飛んで、金属のロッカーを開いた。
泡、消化器?
普段見かけるような、ピンを抜いてレバーを握れば消化できるものでは無いらしい…。
逆さにして、揺すれ、と書いてあった…。
再びアナウンスが、列車の到着を告げる。
トンネルの奥から、ゴゥ、と巨大な物体が接近する音が聞こえ、同時にひんやりした風がホームに流れた。
やるしか無い!
川上は消化器を取り出して、逆さにし、慌ただしく揺すった。
何も起こらないぞ!
川上は慌てるが、消化器の側面にホースがあり、先端がボタンになっていた。
列車が間近に近づいたのが、音で分かる。
川上は、女に向けて、ホースを伸ばした!