93微かな…
ユリは用心しながら歩いていく。
窓際は白昼の光が、全く遮るものなく注いでいるため、眩しいくらいに明るい。
ユリの薄い金色の髪の毛は、真昼の光でメタリックに輝いた。
日本についてから床屋に行ってないから、肩に髪がかかるようになっている。
お金は、なるべく貯金している。
もし戦争になれば、どんな贅沢な衣装も、豪華な調度品も、一瞬で瓦礫になる。
ユリの精神の根底には、あの戦争とその後のストリートチルドレンの時代が、鮮やかに残っていた。
日本は幸せな国だ。
亮二やバタフライは、物価が高い、などと怒っていたが、何でも売っているだけで、充分に幸せな事なのだ。
いつでも温かい飲み物も食べ物も手に入る。
近所の駿河屋では、安く美味しい食べ物が常に食べられた。
ユリは、ずっと欲しかったコンバースの靴を履き、清潔な衣服を着て、毎日銭湯に通っていた。
テレビでは面白い番組が平和な笑いを提供し、スマホで好きな音楽も楽しめる。
だから、この平和は守らないといけない。
守れないとどうなるのか、ユリは知っているのだから…。
進んでいくと売店が目に入ったが、店員すらいなかった。
やっぱりおかしい…。
多分、敵は既に人間の皮を剥ぎ捨てているのだろう。
僕は何匹の虫を操れるだろう…?
ユリは自問した。
たぶん敵は、既に多くの人間を殺しているはずだ。
おそらく秒で人を殺せるような能力の持ち主だ。
ユリは既に二匹の虫を使っていて、きっちりと虫をコントロール出来る数は、多分あと三匹だ。
勝てるだろうか…?
戦う前から不利と思っていたら勝負にならない。
それはベテラン影繰りである良治やバタフライに教えられていたが、二人は今はいない。
ユリは緊張しながら前に進んでいた。
敵との距離は近づいている。
それは明確に判った。
敵の背中にはユリの虫がすでに乗っているからだ。
あと、二十メートル…。
おおよそ、その距離で敵とは遭遇するはずだが、前方には無人の展望台が広がっているだけだった。
隠れているのか…?
ふとユリは気が付いた。
花の香りを、だ。
見れば、まるで床から生えたような豪華な黄色の花が、見事に咲き誇っていた。
演出だろうか?
改めてみると、あちらにも、むこうにも紫、赤、ピンク色と様々な花が咲き、近代的な展望台をのどかに彩っている。
ユリより背の高いような灌木もあり、足元で咲き誇る愛らしい草もあった。
凝った演出なのかもしれないが、それなら、もっと大々的に喧伝してもいい気がする。
景色も花も、同時に見られるなんて最高じゃないか。
ユリや良治は、意外にも朝のニュースなどはきっちり見ていたが、スカイツリーに花があるなどとは聞いていなかった。
ここは地上350メートル。
東京タワーよりも高い展望台なのだ。
ただ…。
少し盛り過ぎな気もする。
花が邪魔で、窓際を離れると、よく景色が見えない。
これでは本末転倒な気もする…?
だが…。
敵は、もう20メートル。
当然、目視できるところに、いるはずだ。
プールの対岸よりも近い位置だ。
知り合いならば、顔も判る距離だ。
だが、様々な花があり、売店もあるため、先が見通せない。
まさか、これは敵の策略なのか…?
思うと、確かに、この花の陰に潜み、敵は獲物を待ち構えているのかもしれない。
奴は影繰りに気が付くだろうか?
いや、おそらく…。
影繰りでも、そうでなくとも、敵は攻撃し、殺しているに違いない。
前のカッパがそうだったし、他の場所も同じだったらしい。
それなら、全く人気が無い理由も判る。
敵の背中に付いた虫の力を発揮させれば、おそらく敵の動きを止められるが、それは最後の手段にしたい。
まずは、どんな敵で、どう攻撃するのか、理解したうえで力を使わないと、相手しだいでは思う効果が得られない事もあるからだ。
ユリの力は、おおよそどんな相手にも通用するはずだが、例えば無限にパワーがあるユリコのような相手だと虫を付けても動けてしまう場合もある。
影は、相性で強くも弱くもなるのだ。
誠の、地面に落とす力も、元々地下を移動する能力者にはあまり意味がなかったという。
だから相手の能力を見定めることが重要なのだ。
おおよその位置は判る。
前方、やや壁側の辺りである。
ただ、その辺には幾重にも花があり、迂闊に近づくのは襲われそうだ。
距離を取ったまま、敵を判別するには…。
窓を眺めるふりをして、相手に襲わせるか…?
だが敵が遠距離攻撃を主にする相手であった場合、20メートルは、むしろ近すぎる距離だった。
良治のナイフなら、一撃で即死する。
ユリは、自分の左右の肩に虫を出し、背後を見張らせながら、自分は風景に見入るふりを始めた。
偶然にも、錦糸町方面が眼下に広がっていた。
隅田川も荒川も見える。
とても美しい。
ユリは大好きな街に感嘆したが、同時に、背後にも目を凝らしていた。
植物が、微かに動いていた…。
何かが変化しているのだが、それはゆっくり色の変わるクイズのようで、ハッキリと何処とは感知できない。
ただ、植物は、みな微かに動いていた…。