44隅田川
福と大の轟兄弟は、現在浅草から駒形に向かった奥の川沿いにアパートを借りて住んでいた。
隅田川の堤防がすぐで、ボラやスズキも釣れる好物件だ。
風呂は銭湯だが、二人は全く気にしない。
大は、休みの日には屋形船のバイトもすることにした。
「やっぱ、潮の香りが少しでもあるっていいよな」
二人にとっては、とても重要な事だった。
家賃も二人で四万五千円。
しかも内調持ちだ。
住宅手当が出るのだから近くてもマンションぐらいは借りられるのだが、どうもハイカラな生活は性に合わない。
福は夕日も消えた隅田川に釣り針を落とし、手釣りでアジを狙っていた。
味は千葉には及ばないが、ナメロウにしてしまえば気にならない。
大は屋形船で、余ったおかずやご飯をもらって帰るので、それまでに三匹ぐらいの手頃なアジが釣れればよかった。
「あら、福君、また釣りしてるの?」
「あ、大家さんの…」
娘の初音さんだ。
大学生なのだが、福にも優しい。
「こんなところの魚、美味しくないでしょう?」
隅田川は、ずいぶん綺麗になった、とはいえ、食用になるほどの魚は取れない。
江戸前、などと言っても、ずっと千葉や神奈川の方の魚を食べるのが当たり前だ。
「ナメロウにすれば、平気だよ」
アハハと福は笑った。
「体に悪いよ。
そうだ、お芋を煮たから、持っていってあげる」
少子化もあってか、隅田川で手釣りをするような男の子はほとんどいなくなった。
しかも、ハーパンTシャツにビーチサンダルの福は、まるで数十年前の少年のように初音には見えていた。
六畳一間で風呂無し、のアパートに楽しそうに兄弟二人で住んでいる子供だ。
大も、初音と同い年だった。
ボラを釣った、と大騒ぎして、屋根でカラスミを干したりしている野性味溢れる、東京では絶滅したタイプの男子二人なのだ。
屋形船の余りをありがたく兄弟で分けて、暮らしている。
数十年前、大規模な開発が入る前の月島、佃島界隈には、こんな男の子が沢山いた。
だからつい、初音も二人の世話を焼いてしまう。
居なくなった同級生や、その弟を見るような気がするのだ。
あの頃の下町は、もうない。
月島もすっかり観光地であり、タワマン暮らしの拝金主義の人間たちが闊歩していた。
初音には、宇宙人に占領されたかのように、彼らは見えた。
その中にあって、潮の香りのする男子は、初音には心安らいだ。
大は操船も巧みで、あの頑固もののご主人が船は大に任せていた。
魚を捌かせても、漁師料理と言いながら見事な船盛を作ったりする。
娘がいたら、嫁がせたい、とおばさんはしみじみ語っていた。
娘は、昨年の暮れ、突然襲った客船シージジャック事件に巻き込まれ、亡くなっていたのだ。
加代ちゃん。
初音の仲良しだった。
娘を亡くして暗くなっていた二人に、大と福は、眩しい明るさを持ってやってきた。
だから屋形船では、いつも余分にご飯を焚き、おかずを作っている。
暇なときには、福も連れて、沖に釣りに出ていると言う。
屋形船でも台場の辺りまでは普通に出られるし、大が操ればもっと沖でも鮮やかに船は揺れもしない。
初音は、台所に戻り、大鉢に芋とイカを煮付けたものを山盛りにして、堤防に戻った。
「うわぁ、こりぁご馳走だ!」
こんなつまらないのでも、兄弟は大喜びだ。
お母さんが生きていた頃は、煮物やおからをよく作ってくれたそうだ。
朝にはお味噌汁の香りがする…。
そんな兄弟が初音は好きだった。
と、近くの駒形橋が騒がしい。
「おいおい、人が落ちたぞ!」
隅田川は、日が落ちても、周囲の明かりでよく川全体が見渡せる。
「あ、女の人だ!」
福は手釣り用の糸巻きを置き、さっとTシャツを脱ぐと、隅田川に飛び込んだ。
「ふ、福くん、その辺は流れが複雑で危険なのよ!」
ふざけて飛び込んだ人間は大抵溺れる。
道頓堀川とは違い、隅田川はほぼ海と川の交わる汽水域であり、川の水が海に流れ込むのと同時に、満潮干潮で複雑な海水の流れもある。
昔は泳いでお神輿を渡したりしたそうだが、多分充分な対策をとっての事だろう。
だが…。
福は鮮やかに泳ぎ、流される女性に近づいた。
とー。
おいおい、こりゃあ…。
水中の女を見た福は唸った。
下半身が、イルカか何かのような、ヒレになっている。
ふざけてこんな姿で飛び込んだのか?
足を縛って泳ぐに等しい。
まるで自殺ではないか…。
だが、そのヒレが魚のように左右に揺れた。
泳いでやがる!
人間も、両足フィンという器具をつけて泳ぐ事もある。
だが、その場合でもドルフィンキック、つまりバタフライの泳ぎの足であり、上下、縦の動きをする。
左右に動くのは、魚だけだ。
人魚…、いや、これは影繰りだ…。
特に何か悪いことをしたわけではないが、騒ぎになっている。
多分海上保安庁も出動するだろうから、軽犯罪ではある。
福は人魚を追った。
福と大の影能力は、無論陸上でも使えるが、元々、水中行動に適した力だ。
水の中では、元々遠くまでは見えないから、あそこに何かいる、と関知できる福の力が役に立つのだ。
また、影を纏った福は、魚のように泳ぐことが出来た。
逃げる人魚を追っていく。