26逃走
昭和通りを黒のハイエースが疾走する。
渡辺龍は上野方面に車を走らせ、タイヤを鳴らして信号無視して言問通りに飛び込んだ。
「野郎、ピッタリ着けてきやがるな…」
アイチが唸る。
この辺は谷根千と呼ばれる、昔ながらの下町で、路地も多く逃げ込める可能性もあるのだが、いかんせん観光地化が激しく、もし車が止められたら戦うしかなくなる。
それよりは上野から本郷方面に抜け、水道橋の方に逃げた方がまけると渡辺は考えた。
ハイエースを追って来るのはピカピカのレクサスで、信号無視をすれば傷を着けるのが嫌で止まるかと思ったが、アジア系マフィアにそういう感情は無いらしかった。
「待て、俺が変わる」
アイチが運転席に飛び込むと、上野の山に突っ込んだ。
「おいおい、人混みで動けないぜ?」
渡辺は言うが、
「それは向こうもおなじでさ」
歌うようにアイチは語った。
「ベコベコのハイエースとレクサス、どっちが通行人の敵だと思う?」
まあ、明らかに作業車のハイエースが通るのと、高級車が歩行者天国にわりこんでくるのでは、意味が違う。
ハイエースの窓を開け、アイチは、
「すんません、この辺、判んなくて…」
泣きそうな顔で頭を下げると、
「あっちの不忍通りまで行けば近いよ」
人の良い老人が教えてくれた。
一方、レクサスはクラクションを鳴らして、曳き殺す勢いだったが、怒った群衆に囲まれてしまう。
レクサスのクラクションが悲鳴のように響く中、泣きの演技でアイチは人混みを通り抜け、不忍通りに降りていった。
数時間後、スッキリした顔のツカサは、店の屋上から煙のように消えた。
そのまま、散らかった男子学生の私室に現れる。
男子学生は必死の勉強中のようだ。
一部、進学校ではテストの順位で座る席まで変わる。
良い席に座りたければ、テストで勝つしかなかった。
ツカサの顔が、ツルリと目鼻立ちを無くしていき、やがてロン毛の面長な顔になる。
確か、かなりモテていたバンドマンだったはずだが、ツカサもよく覚えてはいない。
盗む顔の、前の持ち主など誰でも関心はない。
男でも、女でも関心はなかった。
個人的な趣味でも、ツカサはかなり特殊だったので、どんな人間であろうと感情移入したことはなかった。
「よう」
男らしいバンドマンは、喧嘩も強い筋骨の滾った体に、はち切れそうな、元々ツカサはダボダボ気味だったTシャツで背後から学生の肩を抱くと、
「ほれ、この薬が欲しかったんだろ?」
今時、銀縁の四角いメガネをかけた少年は、驚きもせずに、
「ああ。
待ってたんです!
明日のテストが悪いと、僕、本当に!」
涙をにじませる少年に逞しい元バンドマンは、ラップに挟んだ錠剤を二つ、手渡した。
「さあ、判ってるな。
今1錠飲んで暗記をしたら、すぐ寝ちまえ。
そして、明日、テスト前に1錠だ。
OK?」
涙を流して頷く少年の肩を、力強く叩き、バンドマンは霧のように消えた。
「うんうん、あの子はもう七回やったから、おそらく完全に薬は回るはずだよ。
仕事は万事、順調さ」
夜の公園でツカサはスマホを切り、公衆トイレにのんびり入ると、そのまま霧と消えた。
その公園を見下ろすアパートに、長安が胡座をかき、望遠カメラを覗いていた。
そこがツカサが一人で暮らしているマンションだ。
たまにヘルパーが掃除に来るが、男か女かも判らない老人だった。
「嘘みたいにクリーンなアイドルか…。
モテるだろうに、中高大と一人の彼女もいない。
男友達はいるが、酒も飲まない、と…」
手帳に書いたものだが、長安は既に暗記していた。
その時、渡辺からメールが届いた。
ツカサが北千住の店に入るところの写真と、低い男の声で、とびきりアブノーマルな店へのオーダーの録音が届いた。
「なるほど。
これじゃ迂闊に恋人なんて出来ないな。
酒もうっかり飲めやしない」
ゴミは漁っているので、自宅から高級テキーラの瓶は出てきていた。
飲めないどころか、かなり強い。
だが、これだけでは記事にはならない。
店に警察がガサ入れでもして、ちょっとでも怪しいところがあれば良いのだが、どういう仕組みか、今まで店は単なる飲み屋の姿以外、見せないのだ。
渡辺は相変わらず良い仕事をしてくれるが、声も、地声なのかまるっきりの他人としか思えないし、写真もフードに隠れていて、一瞬覗く顔は確かにそれらしいのだが、似ている、という以上のものでは無かった。
王子様の金箔を剥がすにはもう一つ、何かが必要だ。
そう思ってアパートを借り、もう一週間も泊まり込んでいたが、まるで機械のように時間に出て、時間に帰ってくる以外、ツカサはどこにも動かない。
コンビニすら行かず、配達も無いようだ。
まるで公務員のように、ツカサは仕事場にだけ通っていた。
年配のマネージャーが子供の頃からツカサの側で、かいがいしいほどに世話を焼いているらしい。
それも中華系の人間関係かね?
長安は首をひねるが、その夜も時間通りにツカサは帰り、わざとかカーテンを開いて、半裸のブリーフパンツ姿で、バラエティーを見て大笑いしていた。
こんなの盗撮してるこっちの身にもなれよ…。
せめて美人女優ならそれも役得だったが、子供のような体の男では、寝落ちしないように煙草を連続で吸うしかなかった。
その長安の安アパートの天井裏に、猫がうずくまっていた。
「ねぇ、リィーホ?
この男、殺らなくていいの?」
猫は人語をスマホに語った。
リィーホと語られたツカサは、
「僕の身の回りで殺人なんて起こすなよ。
彼は諦めるまで張らせておくんだ」
「じゃあ、僕は遊びに行って良い?」
「ダメだよ、チューグ。
何か捕まれないとは限らないからね」
と指示を出し、今夜の甘美な体験を思い出していた。
ブリーフでいるには限界が来たので、ツカサはバスルームに入った。
記者には、全てを見せてやるつもりだったので、扉も閉めずにブリーフを脱いだ。
長安は嫌なものを見てしまい、カメラから目を離した。