18リップスティック
「彼にふられちゃったのよ…」
中村は、たどたどしく話し出した。
「あたし、泣いたわ。
彼は終電とか言って十時に帰っちゃたから、ナカメの裏の路地を歩いて祐天寺の方に行ったのよ。
細い路地にバーがあったから、そこに入って、ワインを頼んだの…」
相当にお酒の強い女性らしかった。
誠はあまり知らないが、田辺は、
「なかなか、路地の初見のバーには女性一人では入らないよ」
と誠に教えた。
中目黒辺りは、まだ健全らしいが、祐天寺方面はかなりディープゾーンなのだという。
田辺も大人とは言え、学生だったが…。
「ワインじゃあ軽いと思って、次はテキーラを頼んだわ…」
田辺は一杯でひっくり返るそうだ。
中村は、寂しくカウンターで強いテキーラを飲んでいたが…。
「男性が声をかけてきたの。
凄いイケメンだったわ!
ホストとか、そういう浮わついた感じじゃなくって、ちゃんとオフィスで仕事してる、って感じの、少し小柄な人。
ほら、アイドルのツカサみたいな…」
小柄でチャーミングな俳優でアイドルのツカサは、映画、テレビで休むことなく活動している、有名人だった。
確かに、ホスト的なイケメンと言うよりは、少年役からホワイトカラーの男性役、大ヒットした映画では男同士の恋愛も演じた、多彩な人だ。
歌も、高音が特徴で、昨年の紅白にも出ていたのを誠も家で見ていた。
颯太は、誠の部屋でゲームをしていたが…。
「楽しい話をして、あたし、笑ったわ。
そうして、別のお店に行こう、と外に出ると…」
森の中だった、という。
全裸で、顔は既に奪われていた。
そして目の前の木には、既にロープが下がっていて、足元に椅子まで用意されていたのだ、という。
「やっぱり、自由に森を歩けるようだね」
誠は唸った。
「あたし、部屋に帰りたいわ」
中村は言う。
おそらく、顔泥棒は、いつもの手で、中村が生きていることにしているはずだ。
そして、誠なら、鍵がなくても部屋に入れる。
誠は、中村の教えるまま、練馬のワンルームマンションへと飛んだ。
部屋には、荒らされた形跡は無かった。
ただ、顔泥棒は確実に部屋に入っている、という。
「あたし、洗濯物を干したまま、デートに出たのよ。
それがきれいに取り込まれている」
確かにバルコニーには、中村の育てていた花も枯れずに水をもらっていた。
部屋の中も、きれいに整頓されていた。
「見て!」
透視で、部屋の外から誠たちは部屋を見ている。
「あの引き出しにブラは入れないのよ」
と、中村は言うが、いくつものブラジャーが畳まれているようだ。
「違うの。
ほら、お洒落用のブラは上の棚なのよ」
「なるほど、上の棚には色とりどり、レースのや、少しきわどいものなど、誠にはどう着るのかも判らないような下着が、丁寧に並べてあった」
「あの人、多分、女に興味ないわ」
中村らしい、鋭い推察がいきなり出てきた。
「普通、そんなの見れば判るじゃない?」
誠には自信無かったが、真子は、
「確かにそうです。
化粧箱のリップの並びも変ですよね?」
色順が素人らしい。
「でも、それだけで女に興味ない、って言えるか?」
誠は予想していたので言わなかった事を、颯太は言った。
「童貞の子には判らないわね。
大人の男は、リップの使い道が違うことぐらい判るのよ」
誠のイメージでは、口紅は棒のままベタっと口に塗る、自分の母のイメージしかないが、中村は筆で塗り分けるものだ、と語った。
紫に近い濃い色は、立体感を出すために少し塗るリップなので、真ん中にあるのはおかしいのだそうだ。
颯太は、
「どうせ童貞のまま死んだんだよ、俺は。
責任とれよ、誠!」
とむくれたが、誠も今のところは、責任を取るつもりもなかった。
部屋を調べると、ピアスの置場所がおかしかったし、使いかけの鍋や皿はきれいに洗ってあったが、しまう場所が違っていた。
「ちょっと待って!」
誠は靴箱を見て、ハイヒールに泥が付いているのを発見した。
「中村さんを連れて、あの山まで行ったのかな?」
そこは中村も、何も覚えてはいなかったが、ヒールに泥がつくとしたら、あそこしかない、との事だった。
中村は二六のキャリアウーマンで、二級建築士の勉強をしていた。
誠は、ブラインドタッチが出来るようになり、マンションの構造にも詳しくなった。
透視でマンションの構造を解説するのを中村は好み、
「ほら、誠くんのマンションは一階に焼肉屋さんが入っているから、防火ダンパーがついてるでしょ」
マンションが一つの建物だと思ったが、いくつかの部分に別れており、繋ぎ目が鉄板で仕切られていた。
エキスパンションジョイントと言うのだそうだ。
良い鉄骨を使っている、と誠は、自分のマンションを誉められた。
近くの悪いマンションは、コンクリートに廃材が混ぜられていた。
中村もまた、誠の中を結構楽しんでいるようだった。