148箱
悲鳴は浅草じゅうに響き渡ったが、浅草寺界隈からは北西の端だったので、観光客はほとんど気が付かなかった。
花屋敷の近くでは遊園地のお客さんだと笑われた。
が、美鳥たちはすぐに動いた。
高屋を道に残し連絡役とし、美鳥と中居が声の場所に向かう。
蝶が、すぐに現場を見つけた。
巨大な男が、か細い女性を素手でへし折っている最中だった。
「やめなさい!」
美鳥は叫んだが、その間にも男は女性の背骨を、ポキリと腰から折っていた。
到底人間の力で出来る事ではない。
小動物でも、筋肉に包まれた生きた骨を折るのは、容易くは無い。
プロレスなどで腕を折った、足を折った、というのは関節技であり、それも本当に医療処置が必要なほどのダメージを負わせるのは至難の業だ。
技が決まった、という時点で終わっているのだ。
美鳥は蝶を男の体に巻きつけるが、かなり人知を超えた存在である影繰りを動けなくする美鳥の蝶が張り付いても、男は平気で女性の足を折りにかかっていた。
中居が、前に出る。
「おい変態。
その子を離せ!」
左腕が赤く光り出している。
既に数百度の高熱に、長居の拳は燃えていた。
走り込んだ勢いのまま、中居は左手を男の肩口に撃ち込んだ。
男は薄く笑ったまま、中居の拳をグローブのような手で受け止めようとした。
赤い拳が男の手に食い込むと、皮膚が焼け骨が炭化する。
蝶では通用しないと分かった美鳥はカミキリ虫を放った。
男に大量の影の昆虫が襲いかかる。
生き残った鈴香と玲子は、悲鳴を上げて逃げ去っていた。
雷門通りとつくばエクスプレス方面を固めていた誠たちの前でも、怪しい事件が起こり始めていた。
1台の食品配達の自転車に、工事トラックが幅寄せをした。
自転車は路石に乗り上げ、吹き飛んだ。
「おい、あいつ逃げてくぞ!」
川上は怒ったが、誠は、
「警察の仕事だよ。僕らはここを守らないと」
と静観を決め込んだ。
歩道には大勢の観光客がおり、また雷門前には交番もある。
警官が走り寄って来ていた。
通りには相変わらずカマキリが多いが、まだ一般人を装っている。
「しかし酷ー奴もいるもんだよな。
配達の人は大丈夫かな?」
誠たちからは遠くなるので、様子は分からない。
人垣が見えるだけだ。
だが、大勢の悲鳴と共に人垣が崩れた。
「なんだ!」
誠は颯太に見てきてもらった。
颯太の見たものは、誠も頭の中で再現できる。
なんと、血だらけの自転車運転手が立ち上がり、何かを叫びながら数人の観光客に襲いかかっているようだ。
警官が慌てて押さえつけようとしているが、血だらけの男の手には、なぜか刃物があり、迂闊に近づけない。
誠が言うと、ユリが、
「虫を飛ばそうか?」
「うーん、怪我人だからなぁ。
下手に攻撃して悪化しても困るしなぁ」
誠が言うと、小百合も、
「警官の応援が来てるべ」
確かに三人の警官が、棒や盾のようなものを持って走って来ていた。
細かいことは分からないが任せばよさそうだった。
警官たちは棒で牽制しながら二人が大きな盾を男に押し当てて制圧を試みる。
男は何か叫んでいたが……。
唐突に膨れ上がった。
まるでフグのように。
腕が太くなり、肩が盛り上がり、細身だった体格が肥大し、身長まで数十センチ、大きくなった。
まるで筋肉質な関取のように、数分の内に変貌を遂げていた。
警察官も大概は柔道や剣道の有段者なのだろうが、2人がかりで盾で押し込んでいたのが、一瞬で吹き飛んだ。
棒の警官は、棒で男の胸を突くが、男がビルドアップした右手で棒を横から押すと、ポキリと折れた。
「おいおい、どうする誠っち!」
お相撲さんは予想外だった。
影の体で制圧できるかもしれないが、あんなパワー型の敵と戦ったことがないので、どうなるか予測がつかない。
「僕、虫を飛ばすよ……」
ユリが言った。
確かに、ユリの虫なら相手がどんなにパワフルでも、あまり変わりなく倒せそうだ。
ユリの手から二十の虫が舞い上がった。
勇気と福は浅草の商店街を走っていた。
あちこちに老舗や観光客に人気のスポットが多く、全速力は出せない。
「おやおや、こんなところを走っちゃだめだろ」
二人の前に立ちふさったのは誰あろう白井邦一だったが、福や勇気は分からなかった。
「急いでるんだ!」
勇気が言うが、白井は面白そうに、
「聞き分けのない子だな」
言いながら、勇気にローキックを撃ち込んだ。
勇気の前に、福が立った。
「子供にいきなり、何するべ!」
キックも、前で受ければダメージは少ない。
「勇気。
変身して仲間の所に急げ!」
囁いた。
白井は、心の中でほくそ笑む。
二人いられると、顔を盗むのもやりづらいが、一人になってくれるなら好都合だ。
しかも内調の影繰りとはな……。
まさに千載一遇のチャンスだった。
「分かった!」
勇気は即座にヒーロースーツを身に着け、走り出す。
その姿は、あまりに異色だったので、白井は瞬間、唖然とした。
と、福は白井の袖口を掴み、猫に教わった背負投げを決める。
「あんた、影繰りだな」
勇気の変身が見えた事で気がついた。
白井はしたたか背を打ったが、受け身ぐらいは身につけていたので、すぐに立ち上がった。
背は低いがガッチリ型の体型で、柔道を使うとはね。
打撃が戦いの中心になってから、柔道を主力に戦う者は少なくなっていた。
まず上位互換でグレーシー柔術という実戦的な戦闘術があり、総合格闘というものも広く世間に認知されるようになってきた。
袖や襟を掴むタイプの投げは、あまり見かけなくなった。
とはいえ、だから手強い、とも言えた。
裸なら総合が有利でも、衣服を着ていれば柔道は何十もの投技を持っている。
まー、懐に入れなきゃ良いだけだけどな……。
白井は、体を横にして、右手を前に出した。
ジャブとキックで距離を取れば、相手はタックルするしかなくなる。
投げ技も絞め技も、単純な、いかに距離を潰すか、という局面に変わるのだ。
本来は蹴り技も打撃も持っていた柔道の、国際化していく中での退化だった。
元々は古い形の柔道を前田光世がグレイシーに伝えたのがグレイシー柔術の原点であり、柔道はスポーツ化したために退化した形だった。
まず手を触れる位置で向き合うため、懐に入るテクニックが無い。
白井は軽くジャブを打ちながら、右膝を浮かせるフェイントを繰り返す。
これで柔道少年はお手上げだろう。
白井は薄く笑って、どう顔を取るか、夢想した。
福は、距離が詰められずに困っている。
と……。
ずい、と福が前に出た。
馬鹿め。
前蹴りをみぞおちに入れてやる!
思った白井だが……。
急に、ふらりとよろけた。
福は白井の周りに、一酸化炭素を吐き続けていたのだ。
体内の酸素が欠乏した白井は、うつ伏せに倒れた。
福は、そのまま勇気を追いかける。
福はまだ、高校生とやり合うほどの格闘術は習っていなかった。
タイトルが箱なのに、箱までいかなかったという……。