126澱
「仮にゴキブリを食べたから何だべ?
それが人に襲いかかってくるの?」
小百合は腹立たしく言ったが、さすがに貯水槽の下に影とはいえ自分の髪を伸ばそうとは思わなかった。
誠には、なんだか嫌な予感がする、としかいえなかった。
「ちょっとウサギを入れてみるッス」
川上は言い、柴犬程はありそうな大ウサギを貯水槽の中に入れた。
ウサギは、慎重に臭いを嗅ぎながら、ゆっくりと貯水槽の下に入って行く。
「生き物のような臭いッス……。
獣臭に近い感じの……。
今、臭いが……!」
瞬間、ゴミとも澱とも解らないものがウサギを一瞬で飲み込んだ。
「な……、見えなかったわ!
何か見えた?」
小百合は素直に誠に問いかけた。
誠は、ニニ体の幽霊の目で見ているので。
「骨は無いような感じでした。
真っ直ぐに触手を撃つように伸ばし、丸呑みにした……」
「ねぇ……」
ユリが言う。
「どの水槽の下にも、それがあるよ……」
え、と見てみると、確かに。
全ての水槽の下には、大小の差はあれ、同じような澱が、じっ、と蹲っていた。
「迂闊に通り抜けるのは危険そうだね……」
誠は唸る。
奥の排水設備の鉄網の橋を渡って先に進むには貯水槽の横を通過するしかないが、まず澱を倒さないと、それは難しい。
しかし澱は、今のところ貯水槽の下に蹲り、中に入ったものだけを胃の腑に収めている。
だが、貯水槽と貯水槽の間は、およそ一メートル。
安全に通り抜けられるとは言いがたかった。
「でも、どうするべ!
中から出てこないのよ!
貯水槽をぶっ壊すの!」
警備員は悲鳴を上げた。
「止めて下さいよぅ!
上の駐車場も壊してるし、穴も空いてんですよぅ!」
それを言ったら、誠も展望デッキの窓も壊しているし、焼いているし、既に天文学的な補修費用がかかっていたが……。
「いや、本当に出てこないなら、上を飛んでいけば良いんですが、そうなると背後に敵を抱えることになるんですよね。
排水タンクや、先の部屋にも敵がいた場合、最悪三人と戦うことになる……」
「そう考えると、このゴミ野郎をやっつけときたいよな。
それに、貯水槽の数も十もあるんじゃ、もしかしてここだけでも十人の敵がいる訳か」
川上は唸った。
上空を超えるのは近道に見えるが、その後は逃げ場のほとんどない場所での熾烈な闘いになってしまう。
「だけど巣穴から出てこない敵を、どう倒すべ!
餌でも釣るの?」
餌か……。
誠は思い、
「ちょっと影の体で貯水槽の横を通ってみます。
もし、敵が出てきたら攻撃してみてください」
誠は言うと、影の体を作り、貯水槽の間を歩かせた。
全員が固唾を飲んで見守る中、影の体がゆっくりと進むと……。
貯水槽のほぼ中央部で、貯水槽の左右から象の鼻のように触手が伸びて、影の体を左右から挟んだ。
川上のウサギと小百合の髪が触手を攻撃するが、なんと触手は途中から分岐し、ウサギと髪をも襲った。
仕方がない……。
誠は、影の体の中に、ムカデを飛ばした。
ムカデは左右の触手に飛びこんで内部を食い破る。
触手内には、強力な消化液が満ち溢れていた。
ムカデは溶かされながら、毒液を吐き出した。
触手が引っ込んだ。
「やったのか?」
川上は叫ぶが、ユリは、
「いや、まだ貯水槽の下にはいるよ」
ムカデの毒も、この怪物を倒す決定打にはならなさそうだった。
「虫も食べられちゃいそうだけど、攻撃してみようか?」
ユリは言うが、誠は。
「上の水を奴の真上に落としてみるよ。
もしかしたら引き摺り出せるかも……」
言って、澱の真上からバケツの穴程度の範囲で水を落した。
水圧で、澱がツルリと誠たちの前に滑り出てきた。
それは、水の中で不定形に蠢く、アメーバか何かのようだった。
水に浮く性質らしく、四方八方に触手を伸ばし、貯水槽の下に戻ろうとしている。
「ちょっと浮かしてみよう……」
誠は、引力と反発力を使って、澱を空中に浮かばせた。
「誠っち、他の貯水槽からも出てきてるぜ!」
同じ性質のものらしく、十の澱が、ジタバタと水の上でもがいていた。
同じように浮かべて、並べてみる。
すると……。
ツルリ、と2つだった澱が合わさった。
それが、あちこちで起こって、澱は三つの牛ほどの不定形物に変貌した。
「おいおい、怪物になっちまったんじゃないべか!」
小百合は慌てる。
「いや……。
むしろこれなら……、勝てる!」
誠は、三つの巨大な澱を一つにした。
誠たちを影で包むほどの巨大な澱が誕生した。
「透過!」
誠は、一つにまとまった巨大澱を一つの貯水槽に透過した。
それは誠が水を抜いた貯水槽だったが、その分は巨大澱が埋めていた。
澱は完全に水没し、しばらくは暴れたが、強化プラスチックで大きな水圧にも耐える外壁は壊せなかった。
大ムカデの毒にも耐えた澱が、完全に水没すると、急速に力を失っていった。
しばらくは、外から見ていても揺れていた貯水槽が、不意に動きを止めた。
澱は、もはや形を維持できないほどに、カビのような固体の大集団に分裂し、生命活動を止めていた。
「死にました……」
誠は、自分がもはや、何人の命を奪ったのか、覚えていない。
目の前の敵を倒す以外、影繰りには仕事はない。
それはもう、誠の骨身に染みて判っていた。
怪物は二種類しかいないのだ。
勝って生きる怪物か、死んで、哀れな人とは逸脱した遺体をさらす怪物か。
それだけしか怪物の生きる道はなく、また、生きる以上は人間だと偽って、擬態して生きるより他に道は存在しないのだ。
誠たちは貯水槽を通り抜けた。