118ためらい
小百合は、男の子を見つめた。
殺すのは容易い。
一本、髪を伸ばすだけだ。
だが……。
本当に彼なのか、今になって小百合は迷っていた。
寝ているだけかもしれないのだ。
彼は、学生連合と言うには、あまりにも幼い。
それに、小百合がプラネタリウムに敵がいると判断した理由も、ただの消去法だった。
他の場所にいないのだから、きっとプラネタリウムだろうと思ったのだ。
だが、眠る子供は、あまりにも安らかだ。
陽だまりに無心に寝る子猫を、微かな疑いだけで殺せるだろうか?
ダンサーチームや美鳥なら躊躇いもなく殺すだろう。
誠もそれなりに場数は踏んで来ていた。
だが小百合は、まだ非情に徹しきれていない自分を自覚した。
影の戦いは騙し合いであり、躊躇えば一瞬で形勢は逆転する。
聞いてはいる。
解ってはいたつもりだ。
だが……。
幼い子供は、想定外だった。
小百合は、一時、男に騙されたことに気がついていなかった頃、赤ちゃんが欲しいと、漠然と感じた事がある。
一人親だからか、親子三人の暮らしというものが、どれほど明るく暖かい陽だまりなのか、と夢想をした……。
小さな子どもを自転車に乗せ、童謡を歌う母子を羨望した。
思い出したくも無いドス黒いトラウマのはずが、今、このとき、小百合の心で、あの夕焼けの河川敷が蘇っていた。
少年が、不意に目を開いた。
まっすぐ小百合を見つめていた。
しまった……!
分かってたのに……!
ここまで潜入したのに……!
次の瞬間、少年は天井に、逆さに立っていた。
片手で小百合の喉首を潰しに来る。
そして……。
片手では、手話を操っていた。
なんと言っているのか、小百合にも分かる。
(馬鹿だなぁ、お姉さんは。
本当に不意をつけたのに!
だけど、もうブラックサタデーは終わりだよ)
小百合の喉が、押し潰される。
小百合の口から、糸のような涎が流れる。
大きなメガネの奥で、幼い顔が、笑っている。
その笑いは……。
ドス黒い、美術教師のような笑顔だった。
八匹のリスが壁を登る。
天井には、人間がぶら下がっている。
頭を、白濁した何かに掴まれている。
普通なら、首吊りのように見えるが、よく見ると白濁した何かは無数の触手を持ち、人間の腕や肩も掴んでいるようだ。
だから、皆生きている。
リスは壁を蹴り、半透明の白いものに飛びかかり、噛みついた。
それは水の塊のように柔らかく、あっけなく天井から剥がれ落ちた。
川上はリスを操り、外周の人質を、次々に剥がしていった。
川上は、心音と臭いを確かめながら人質を床に落とし、下ではうさぎたちが人質を受け止め、部屋の外に運び出す。
だが人質は、麻酔でもされたように気を失ったままだ。
それが敵の能力ならば、敵から引き離したとはいえ、人質の命は変わらず敵が握っている、とも言えるのか?
川上は迷った。
敵を倒せれば意識は戻るのか、それとも……。
頭を掻き毟った川上に、真上から白い物体が襲いかかってきた。
明らかに、人質を天井に貼り付けていたものと同じものだ。
川上は、臭いでそれを察知し、ほぼ無意識で頭上へのハイキックでそれを砕いた。
白濁した白い物は、半分に千切れ、べチャリと濡れ雑巾なような音を立てて、床と壁に張り付いた。
が、別の白いものが、頭上から声を出した。
「止めるんだな、無駄な抵抗は。
奴らには毒を刺して仮死状態にしてある。
俺は、いつでも、毒を強めて人質を殺すことが出来るんだぜ……」
ぬ…、と川上は唸った。
真実か、ハッタリか、どちらだろうか?
人質は助けなければならない。
だが、ハッタリに屈すれば、その時点で川上の負けだ。
後はいいように言いくるめられ、川上は命まで差し出すしかなくなる。
だが……。
空中に浮いている、まるでクラゲのようなものが喋っているのだ。
臭いも心音からも、相手の言葉の真意は読み取れない。
どうする……。
どうすればいい……。
悩む川上の背後に、巨大なクラゲが迫っていた。
小百合は首を締められていた。
あたしは、死ぬ……。
でも、そうしたら、お母さんは一人になってしまう!
小百合の恐怖は、そこにあった。
別に戦って、自分の弱さで負けることには、悔いはない。
学校の時は、戦えさえしなかった。
戦って、負けるのならば、それはそれだけの事だ。
だがお母さんは今もパートで働いていて、毎日小百合の弁当まで作ってくれる。
内調の給料は母に渡しているが、全く使っていなかった。
そんな母が一人になってしまう。
それは……。
思った小百合だが、不意に子供の手が緩んだ。
なんだ……?
思う間に、少年の目が白目を剥き、そのまま目の前から消えた。
天井から、小田切誠が上半身を覗かせていて、ニカリと笑った。
助けられた……。
ちょっと悔しかったが、小百合は同時に思っていた。
こいつ、こんな笑顔も出来るのね……。
いつもイジられて困った顔ばかり見ていたので、コイツの正体を見誤る。
コイツは、なかなかの化け物なのだ。
「遅いわよ、助けるなら、もっと早くしなさい」
ハッタリか……。
殺せるのか……。
川上は悩んでいたが。
プーン、と虫の羽音が耳に飛び込んできた。
ん、これは……。
と、見る間に虫は集団になり、ドサドサと人質が落ちていった。
やはりユリか。
「おい、ユリ。
奴は毒を人質に打ってるんだ!」
川上は慌てて部屋に入るが、部屋の全ての人質は床に倒れていた。
天井には、一人の少年が青い顔をしていた。
「や、やめろよ、人質を殺すぞ」
弱々しく語る少年に、ユリは笑い、
「大丈夫。
もう君に、そんな力は残ってないから」
少年の額に一匹の羽虫が止まると……。
少年は呻き、落下した。
「ユリ、人質が死ぬかもしれねーんだぜ?」
川上は言うが。
「影が消えれば、毒も消えるよ。
どのみち、解毒なんて僕も誠も出来ないんだ」
なるほど……。
単純、明快な話だった。
助からない被害者は、無論助からない。
俺達は敵を殺すだけなんだ……。
川上は、今まで悩んでいた自分を反省した。
影繰りは、決して正義の味方では無いのだ。
ただ、敵の影繰りを殺すのみ、だ。
ユリは、幾度も死戦をくり抜けたプロだった。