117水族館
川上のウサギが変形したリスが、壁をよじ登り偵察する。
ウサギ、リスと言っても影の動物なので、漆黒であり、また水族館も水槽の照明以外は、足元を照らす間接照明がわずかに灯っているだけなので、薄暗い。
加えて、壁も黒い壁紙だったから、ほぼ見えない。
天井には、何かクラゲのような生物に頭を掴まれた人間たち。
川上の鋭敏な聴覚、嗅覚が、全員の生存を伝えている。
およそ三十数名。
その中に、おそらく一人、敵がいる。
心臓の鼓動が、一人だけ違う。
安定した、何の恐怖も感じていない鼓動だ。
これだけの人質を取り、人質の壁の中で薄笑いを浮かべ、川上を待っているのだ。
そこは何かの特別展示の水槽だったらしいが、今、水槽には何の生物もいない。
それがどういうことなのか、川上には判らない。
まー、ともかく、敵をどう特定するかだな……。
無論、見つけたとして、どう引きずり下ろして接近戦に持ち込むか、など考えることは多いが、いずれにせよ、どれが敵かを見定めないと話にならない。
音にも臭いにも鋭い感知を持つ川上だが、こう密集されていては誰の心音が違うのか、までは判断できない。
どうするか……。
部屋に飛び込み、卑怯者などと相手をなじるか……。
いや、駄目だ。
そんなの笑われるだけだ。
まあ、爆笑でもしてくれれば、川上の聴力なら特定は難しくないが、それほどアホな敵が、人質の中に身を潜めたりしないだろう。
どうすりゃいいんだ……?
川上は部屋の外で頭を抱えた。
誠っちもユリも、新米の福たちだって、戦いは何度も経験している。
だが、俺ときたら、今までは誠っちやカブトに頼りっぱなしだった。
音を聞いて、教えたぐらいしか実績が無いくせして、十分戦えるつもりになってここまで来てしまった!
だけど敵は人質に隠れていて、川上は手を出すことも出来ないでいる。
こんなとき、どーすりゃいいのか、まるで判らない。
どうすりゃ敵を倒せるんだ!
考えたが、人質の壁に囲まれた敵を倒す方法など、いくら考えても判らなかった。
くそ……、人質さえいなけりゃ、殴って蹴ってぶちのめしてやれるのに!
壁にうずくまり、自分の足の中に頭を埋まらせた川上だが…。
誠っちなら、どうするだろう……。
ふと、考えた。
すると、何故か川上の中の誠が、あの高い声で叫んでいるのが聞こえた気がした。
(川上君!
人質の命が一番、大切だよ!)
そう…。
誠っちは、敵を倒すよりも、きっと人質を救おうとするだろう。
そういう奴だ……。
ん…!
川上は思った。
人質をみんな助けちまえば、後に残ったのはクソ汚い犯人だけだよな……。
川上は顔を上げ、耳を立てた。
心音を探し、絶対の人質、丸い集団の外側の、まず一人をウサギで助けるんだ!
誠っちなら、絶対こうする!
ウサギたちは素早く室内に突入した。
小百合はプラネタリウムの前までやってきた。
当然ながら、チケット売り場があり、まだ時間が早いのか、待っている客はいなかったが、係員が立ち、入口は閉じられている。
チケット売り場はガラスで仕切られており中は見えないが、二つある窓口の一つはカーテンが閉まっていて、たぶん中は売り子のおばさんが一人なのだろう。
この二人を、うまく、ソラマチ全ての人間を操る影繰りに気づかれずに倒し、劇場に潜入できればいいのだが、敵が予測通りにプラネタリウムに籠もっているとしたら、この二人は最終関門の守り手、という事だ。
何かあれば、気が付かない訳はない。
ならば逆に、この二人に気が付かれずに中に入れれば敵の不意をつけるはず。
影を纏って脇をすり抜けるか、それとも……。
小百合は、薄く笑った。
この手の潜入は得意技なのよ。
小百合の髪が逆立ち、天井に伸びると、そのまま小百合の体をクレーンのように持ち上げた。
天井に張り付くと、ゆっくりと前進を開始する。
ガラスの奥の売り子はもちろん、入口を見張るスーツの男も、影を纏って天井を進む小百合には気が付かない。
数メートルを進み、髪で扉を絡めると、まるで写真部の遮光カーテンのように真っ黒な髪が扉を包み、小百合は難なく星空の舞台に滑り込んだ。
天井を進み、プラネタリウムスクリーンの脇まで這っていく。
観客を、一人一人見ていく。
もしソラマチを操る影繰りがいたら、たぶん軽妙な演者の星空トークとズレた動きをするはずだ。
そして、皆が同じような顔で星を見上げるプラネタリウムでなら、それは如実に浮かび上がるはずだった。
小百合はゆっくりと進んていく。
演者はギリシャ神話の星座話や、特徴的な星の知識などを、流れるような話術で語る。
ときに笑いが起こり、ときに悲劇にどよめきが起こる。
星の不思議やギリシャ神話の放埒な神々の、やや不謹慎な恋や嫉妬。
観客の顔は面白いほど一様で、演者の解説に入り込んでいる。
一人を除いては……。
それは、大きなメガネをかけた、少年というより、男の子、に近い小さな半ズボンの子供だった。
あの子が……?
しかし、彼以外にはそれらしき人物はいない。
彼は一人、まるで無表情に天井を見上げており、その大きなメガネの中の目は、閉じられていた。