10痣
滝田と大川は陸上部に復活した。
タイムは、一分以上早くなっている。
常識的には、高校生がほんの数日で一分タイムを縮めるというのは、素人から、とかならともかく、元々陸上選手だったものが、というのは奇跡以上の話だ。
つまり違法な行為、だったが、彼らは一応のドーピング検査もパスした。
某国が女子スケート選手に行ったような、医療行為と錯誤されるような複雑なドーピングならともかく、日本の一般庶民の、しかも特に誰も期待していないような人間が、そんな煩雑で高度な科学知識を必要とするようなドーピングができるとも思えなかった。
無論、体育でも誠のタイムは僅差で抜かれたが、元々誠はタイムなど気にしていないので気がつきもしなかった。
気がつくのは、陸上部や、他の、早く走る事に意味があるスポーツの選手たちだった。
「ああ。
個人コーチのところに行ったんだよ。
このままじゃ、芽が出ないからな」
サバサバと滝田は語った。
とはいえ、一分は奇跡的な数字だ。
だが、数週間のうちに、同じような運動能力の突然の向上を遂げた人間が、何人も出てきた。
また、芸術的な才能を発揮した生徒も現れた。
「大江が、漫画賞に入選したらしいぜ」
そんな話が飛び交ったが、概ね自分の世界に引きこもっている誠は、頭にもとどめずに相づちを打つという特技を発揮していた。
頭では、貯金はある程度貯まっていたので、地下鉄や地下構造物のある所へ旅行できないだろうか、と考えていたのだ。
もう高校生だし、親は一人旅を許可してくれないだろうか?
宿などビジネスホテルで充分だし、一人なら気兼ね無く地下を散策できる。
家族旅行なら栃木、ここに大谷石の洞窟があり、観光できる。
栃木なら温泉もあるし、親も納得しやすいのだが、可能なら一人旅をしたかった。
誠が、ごく当たり前のように集団の中で引きこもっている頃、他の教室では、
「あれ、白井?
お前、手に痣が無かったか?」
普通は避けて通る話題だろうが、男だと時折、こういう無神経な質問をする奴もいた。
白井は、華奢な痩せ型の中性的な風貌の生徒だったが、薄く笑い、
「ああ。
今は手術で簡単に取れるんだよ」
と話した。
誠は、額のデバイスで美鳥からの通話を受けた。
「誠、また顔の無い死体が上がったわ。
今度は東京湾よ」
誠は学生服のまま、美鳥のバイクの後ろに乗り、三崎港も近い海岸に向かった。
「今度は海ですか?
芦ノ湖は諦めたんですね」
「まあ、死体が特定されると顔を盗む意味がないわけだからね」
田辺は、お葬式も終わっていたが、魂は一向に誠から出ていかなかった。
ブルーシートに乗っていたのは右手と、顔の無い頭部、それに胴体だった。
かなり魚に食い荒らされていたが、顔がないのと、男なこと、それに右手に大きな痣があるのが判った。
「なんだい、内調からの問い合わせなんて、無視していればいいじゃないか!」
ムッとした声を上げるのは、学生服の少年、小田切誠とは新宿の穴の中で邂逅していた。
茶室とも思える、形式の日本間のようだが、少年は皮のソファーにだらしなく寝ていた。
ヤギョウ、またヤの文字、等と呼ばれる古くからの影繰りの集団だ。
彼らは世界規模で極秘の交易を今も行っており、資産は国家でも把握できない。
無数の犯罪者と結託していたが、同時に、彼らの意に反した犯罪者は国家に差し出すため、世界国家を標榜する幾つかの国でも、彼らには手が出せなかった。
「いや、うちの犯罪でもないものは、ハッキリ違うと言わないとね。
いつまでも国と敵対してもいられない」
少年をなだめるのは、かなり大柄な女性だった。
プロレスラーのような体だが、素晴らしい巨乳の持ち主で、艶やかな京友禅をしとやかに着こなしていた。
髪は和風に結ってあり、紫のかんざしが艶やかに光っている。
床の間を背負っているところを見ると、少年より上の立場のようだ。
「あれか?
華僑系の肉だんごが煩いからか?」
「に、かかわらず、Aとかもこっちのシマに手を出してるしね。
しかも、内調は良い影繰りが揃ってきている。
あんたも、小田切誠には会ったんだろ?」
少年は、ふふんと笑い。
「今から育てれば良いヤギョウになるけどね。
頭が固くてめんどくさい」
「人形使いは気に入ってたよ」
そう聞いたとたん、少年はゲッソリした顔で、
「あの電波女か…。
あれと関わるとろくなことがない」
と、ソファーを立った。
「どこへ行く?」
女の問いに、
「折をみて、誠には肉だんごの事ぐらい、教えておこうと思った。
今、コソコソなんかやってんだろ?」
「なんだ、あんたが内調に接触するのかい?」
「しないね。
誠を観察するだけだ。
あれは、育たないといけない、って電波女も言うんだろ?」
日本髪の大女は笑って、
「彼だけじゃ無いけどね」
と、蜘蛛の足で跳び去る少年の背中に語った。