上から目線な物言いをする女の子を介抱したら、「犬」呼ばわりされて、最終的に恋人になった話。
初めて出会ったのは、俺が十歳の時の、夏の日のことだった。日光が容赦なく照りつけ、蝉が煩いほどに鳴いている。
俺は肩から水筒をかけ、横にサッカーボールを抱えて公園へと走っていた。
「ちぇー。大翔も来ればよかったのになぁ…」
その日、俺は幼馴染みの大翔とサッカーをする約束をしていた。しかし、急に親戚たちが泊まりに来ることになったらしく、従兄弟の子供の相手をしなくてはいけないとかで断られたのだ。
「悪い。陸。埋め合わせはするから」と申し訳なさそうに頭を下げられれば、俺だって嫌だと我が儘を言うわけにもいかない。
仕方なく二人で使う予定だったサッカーボールを抱えて、俺は一人寂しく公園へと向かったのだ。
公園でボールをリフティングしたり、適当に壁に蹴ったりと暫く時間を潰していたが、それもやがて飽きてくる。
額ににじんだ汗をぬぐい、少し休憩しようとベンチに腰かけたその時だった。
誰かの泣き声が聞こえてきたのだ。ベンチの後ろ、草むらの辺りからだった。
「誰かいるのか…?」
気になって、恐る恐る近付く。視界を塞いでいた植物を手でどければ、小さな丸まった背中が見えた。
俺と同い年くらいの女の子だった。
(幽霊とかじゃ…ないな。足があるし)
ただの女の子だ。ほっ…として俺は「お前、なんで泣いてんの?」とその背中に話しかけた。その子はビクリと肩を震わせ、驚いた様子でこちらを振り返る。
(うわ…目が真っ赤だ)
長いこと泣いていたのだろう。彼女の目は赤く充血し、目元は痛々しく腫れていた。
「えっと、その、大丈夫か?」
「…」
「おーい…」
声をかけてみるも返事が返ってこない。いよいよ心配になってきた俺は、彼女の服装に目を落とした。
見るからに高そうなワンピースだ。おそらく、どこかの金持ちのお嬢さんなのだろう。
「誘拐とか? 警察の人呼んできてやろうか?」
「…ぃ」
「い?」
「…嫌。帰りたくない…」
漸く話したと思ったら、女の子はそう言ってバタリとその場に倒れてしまった。俺は驚いて「おい?! 大丈夫なのかよ?!」と駆け寄る。
(あっつ?!…熱中症?)
額に手を当てれば、身体に熱がこもっているのが分かる。汗をかいているし、長時間泣いていたなら脱水症状も出ているだろう。
(どうしよう…大人を呼んでくる…いや、でもその間この子を一人にしなきゃいけないし…)
この公園はあまり人が来ない。だからこそスポーツをするにはもってこいの場所なのだけれど、助けを求められる大人が来ないという点では不便だ。
少しの間とはいえ、人気の少ない公園に意識のない女の子を一人にしておくのは躊躇われた。かといって、この子を担いで人通りがあるところまで連れていくのはちょっと無理がある。
暫く悩んだ後、俺はその子を日陰へと運び休ませてあげることにした。
◆◆
「お、気が付いた?」
女の子が意識を取り戻したのは三十分ほど経った頃だった。まだ頭がぼんやりとしているのか、眠たそうな目で俺を見つめてくる。
「冷たい…」
「熱中症は冷やさないといけない、って聞いたからな。タオルを水道の水で濡らしたんだ。俺のタオルで悪いけど、まだ使ってはねぇから」
俺は彼女の首にかけてあげたタオルを指差す。その子はぼーっとした顔でタオルを見て、「喉渇いた…」と呟く。だろうな、と思った俺は、水筒の水も分けてやることにした。
「早いとこ、涼しいところに行った方がいいぞ。もう大丈夫だって楽観視? するのが危ないって、母さんも言ってたからな」
「…嫌」
「そうは言ってもさ…。こんな暑いところいれば慣れてない奴は倒れるんだぞ。お前だって死にたくないだろ?」
「…別に。死んだって構わないわ」
ええ…と俺は言葉に困った。なんということだ。俺と同じくらいの年齢だというのに、既に「死んでも構わない」と言うほど彼女は何かに追い詰められているらしい。
俺なんて今日の夕飯は何だろう、明日の朝御飯は何だろう、明日は何して遊ぼう、しか毎日考えたことがないというのに。
「相談にのってやろうか?」
「…貴方みたいな馬鹿そうな人に弱音を吐くほど、私は落ちぶれてないわ」
「え、酷い」
「本当のことでしょう」
確かに、死にたいと思うほど大層な悩みなんて持ったことはないけど。しかしここで「はい、そうですか」と引き下がるのもな…。
「まぁ、そう言うなって。母さんも前に言ってたぜ? 『別にアドバイスが欲しいわけじゃないけど、誰かに話を聞いて欲しいって時がある』って。話してみるとスッキリするかもよ?」
「…」
「オッケー。俺は今、人間じゃない。そうだな。植物か何かだと思って、俺のことは気にせず独り言を呟いてくれたまえ」
「…いいわよ。そこまで言うなら。貴方、今から犬ね。犬になら人間の言葉なんて分からないだろうし話してあげてもいいわ。私、犬好きだし」
「はい?」
「やっぱり話さない」
「分かった! 分かったから! オレ、犬。人間ノ言葉分カラナイ」
「よろしい」
ここまで渋られると聞きたくなるというのが人間というものだ。人の悩みを面白がるなんてよくないんだろうけど。
俺は礼儀正しくベンチに正座し、真剣に彼女の話に耳を傾けた。
「一週間前にね。バイオリンのコンテストがあったの。兄様は私と同じ十歳の時にそのコンテストで優勝した。だから私もそのコンテストで優勝しなきゃいけなかった」
「お、十歳。同い年」
「口を閉じなさい。犬」
「…(はいはい。お口チャックね。すげぇな。十歳が人のこと犬呼ばわりって)」
「…でも、二位だった。一生懸命練習したのに。寝る間も惜しんで頑張ったのに。悔しかった。自分のことが恥ずかしかった。…悲しかった」
「…」
「お母様もお父様も『努力が足りなかったからだ』って言って。頑張ったわ! 私だって…頑張ったのよ…」
「…」
「一回落ち込んだら…駄目ね。何もかも上手くいかなくなっちゃって。勉強も集中できないし、他の習い事も手につかない。それでもっと怒られて…嫌になったの。だから家出してやろうと思ったわ」
「…」
「でも、家出したはいいものの。外は暑いし、喉は渇くし、苦しいし。悪いことばっかり。そしたらまた情けなく思えてきて…本当、自分のことが嫌になるっ…」
そう言って彼女はまた泣き始めてしまった。(なるほどねぇ…)と話を聞いていた俺は唸った。
随分と深刻そうな悩みだ。周りからのプレッシャーやら、ちょっとした失敗も自分の高いプライドが許さないやらで、感情がぐちゃぐちゃになっているらしい。
でも、と俺は思った。
(全っ然…気持ちが分からねぇ…!!)
俺は頭を抱えた。聞いてみたはいいものの、彼女の気持ちにさっぱり共感できないのだ。
(え? 二位? すげぇじゃん。もっとやれ? 好きなサッカーなら何時間でもやってられるけど、嫌いな勉強とかを? え? 地獄じゃね? 俺だったら長時間勉強ってなったら、嫌すぎてそのプリントとか教科書を台所のガスコンロで焼くわ。母さんに後からしばかれるだろうけど)
彼女の立場に自分を当てはめれば、「そんなんやってられるか?!」と叫んで暴れ回る光景しか思い浮かばない。
他人の期待など知ったことか。教科書を焼き、プリントを焼き、バイオリンを叩き壊し、親の前で盛大に駄々をこねてやる。
「…安っぽい同情はしないでちょうだい。『君は頑張ってるよ』なんて薄っぺらい言葉はいらないわ」
「いや、お前って我慢強いとかのレベルじゃなくね? としか思わないわ。ストレス感じる脳の部分がバグってるんじゃねぇの?」
「…何ですって?」
「いや、バグってる。俺なら頭のどこか壊れないとそんなスケジュールこなせないわ。病院行けば?」
「何ですって?!」
「だからバグってるって!! 耳も壊れてんの?!」
「聞こえてないって意味じゃないわよ!! 貴方が何を言っているのか理解できないと言っているの!! 馬鹿じゃないの!!」
「馬鹿って言った奴が馬鹿なんですっ!!」
「私が馬鹿ですって?!」
そんな会話から始まって、俺たちの口論はどんどんヒートアップしていった。彼女は自分の苦悩や考えを叫びまくり、俺はそのあり得ない日々に対して「おかしい!」「ヤバい!」「バグってる!」と驚愕して叫びまくる。
端から見れば異常な光景だっただろう。そんなことを一時間続けて、ついに体力の限界が来た俺たちは静かにベンチに座りこんだ。
「何やってるのよ…私たち…」
「マジで…」
ぜぇぜぇと肩で呼吸をする。横に座る彼女は深い溜め息をついて、すくっと立ち上がった。
「…叫んだらスッキリした。礼を言うわ」
「お、おう…。切り替え早いな…。行くのか?」
「ええ。朝早くから出てきたの。今頃探し回っているんじゃないかしら」
「そっか。今度は気を付けろよ。朝とか夜とかさ、人が少ない時は不審者もわくんだからな」
「分かってるわよ。…ありがと」
(なんだ。ちゃんと礼は言えるじゃん)と俺は笑った。彼女はまた息苦しい家に戻るらしい。俺からすれば、そのまま逃げてしまえばいいのに、と思うけどそれは彼女自身のプライドが許さないのだろう。
強い奴だな、と俺は認識を改めた。
先程まで泣いていたのが嘘のようにしっかりとした足取りで帰っていく彼女の背中に、俺は呼び掛ける。
「時々ここに来てるから! 頭がまたバグりそうになった来いよー! 応援してるからな!」
彼女はヒラヒラとこちらに軽く手を振って、そのまま帰っていった。
これが彼女ーー紬との最初の出会いだった。
◆◆
それから何年も、紬とは公園で話をする仲になった。
「テスト、八十七点? それで怒られるの? 俺と交換してくれない?」
「…一応聞くけど、貴方は何点だったの?」
「三十点!!」
「そんな誇らしげな顔で言うことじゃないわよ…」
「ギリギリ赤点回避だからいいんだよ。あ、そうだ。なんなら今、俺のテストとお前のテスト交換しない? 名前を書き換えれば分からないって。まだ母さんに見せてないんだ」
「嫌よ。それにどうせ成績表でバレるでしょう」
「その時はその時。未来の俺に任せる」
「無責任ね…」
悩みから他愛もない世間話まで色んなことを話した。
俺が彼女の愚痴を聞いたり、俺の勉強嫌い見かねた紬が、時々俺に勉強を教えてくれたり。
ジャンクフードを知らない彼女にポテトの美味さを教えてやったり、逆に紬がドヤ顔で「貴方のような人には縁がないような、いい和菓子を持ってきてあげたわ。慎んで受け取りなさい」と菓子を持ってきたり。
電話番号も知らず、通っている学校名さえ知らない。
普通ならばあっさりと途切れてしまうようなはずの、そんな交流は意外と長く続いていた。
「スランプなの?」
「マジで、決めなきゃいかない時に限ってゴールから外すんだよ…。この前も俺の失敗のせいで負けてさ…。かなりメンタルにきてる…」
「貴方が落ち込むなんて珍しいこともあるものね。いつも能天気に笑ってるくせに」
「はは…。明日は大雨かもなぁ…。はぁ…笑えねぇ」
「…そう」
サッカーで不調が続いていた頃のことだ。他のことは大して気にしない質の俺だが、この時ばかりは流石に落ち込んでいた。サッカーだけは自分の全てを捧げてやってきたものだったのだ。
空回りして、練習をやればやるほど自分が下手になっていく気がする。
人が聞けば「そんなことか」と鼻で笑われるような話だけど、俺にとっては人生最大の悩みと言えるほど、大きな問題だった。
紬は暫く黙っていた。何か言いたいことがあるのか、口を開けたり、少し迷って閉めたりを繰り返したりしている。
「好きなこと言っていいぞ…笑えよ…いっそ笑ってくれ…」と俺が力なく言えば、「…じゃあ、言わせてもらうけれど」と彼女は口を開いた。
「スランプってね、誰にでもあるものなんですって」
「マジ…?」
「誰もが人生に一度くらいは陥るそうよ」
「それなら、お前は年中スランプまみれじゃん。立ち直りも早いけど」
「黙りなさい。犬」
「その呼び方好きだよなぁ。一応こっちは人間なんだけど…」
「ストイックで完璧主義な人ほど陥りやすいとは言うわ。だから…そうね。私が言えたことではないのだけれど。私と貴方のそれは、ただの誰にでも起こる状態よ。大層なものじゃない」
「…」
「ましてやスポーツなら、プロの選手だって伸び悩むことがあるでしょうし、特に自分がどうにかして抜け出せるようなものでもないはずよ」
「…まぁ、確かに…?」
「貴方はいつものように、どんと構えていなさい。いつか抜け出せる。それが今じゃないだけだって。失敗したからチームが負けた? なら、今まで自分のお陰で点が入った試合を考えてみなさい。その合計分くらいチームメイトに損をさせたかしら」
「…多分、違う…?」
「私は素人だけど、貴方がサッカーだけは上手いのは見てれば分かるわ。それなりにチームに貢献してきたはずよ。だから、チームメイトはその分の借りを返す義務がある。スランプの今の貴方をカバーすることが義務を果たしていることになるわよね」
「お、おう…」
「借りを返してもらっているだけ、だから申し訳なく思う必要も、焦る必要もない。貴方は自分がやりやすい状態に戻るまで、自分のことだけを考えていればいいの。あぁ、勿論。調子が戻ったらその分活躍しなくて駄目だけど」
私の意見は以上よ、と紬は締めくくった。言ってやったわ、と誇らしげな顔をしている。
俺がぽかん…と呆けていると、紬は今更ながら不安になってきたのか「…ごめんなさい。私ばかり喋りすぎたわ。こういう時って貴方の話を聞くべきよね」とこちらの様子を伺うように、チラチラと視線を向けてきた。
先程まで勇ましく説教をしていたというのに、これでは説得力がない。俺は耐えきれずに吹き出した。
「ふっ…っ…! ははっ…マジでっ…?」
「わ、笑わないでよ。これでも私なりに励ましたつもりなんだから…」
「笑って…ない…っ…」
「笑っているでしょう!」
「…っ…いや、お前とは結構長い付き合いだけど、その上から目線な言い方、一向に直らないなぁ…って」
「…これでも直そうとはしてるのよ。自分だとあまり自覚がないのだけれど」
「優しい言葉を言おうとしても、口にしようとすると勝手に口調が変換されるんだ?」
「…」
「図星か」
耐えきれなくなって、腹を抱えて爆笑する。紬は羞恥に顔を赤くさせて頬を膨らませるが、俺はお構いなしに笑い続けた。
「いやー、笑った笑った。面白かったわ」
「人のことを笑い種にするなんて人格を疑うわ」
「そう言うなって。…ん。ちょっとスッキリした。お前の言葉で、なんか活が入ったわ。もうちょっと頑張る」
俺が明るくそう言えば、彼女は「そう。…なら、よかった」と安心したように微笑む。
「貴方が萎れていると調子が狂うのよ。暗い顔より、そうやっていつものように笑っていた方がいくらか見れるわ」
「ありがとな」
「…どういたしまして」
紬との交流は、小学校、中学校、そして高校になっても続いた。
◆◆
「いや、青春じゃん」
「何が?」
高校へ登校している途中、大翔と「俺たちの腐れ縁ってどれくらい続くんだろうなー。小中高と一緒じゃん」と話をしていた。
長い付き合いと言えばと紬のことを思い出し、大翔に彼女のことを話せばそう言われた。
「あれ? 大翔に紬のこと言ってなかったけ?」
「いや初耳なんだけど。え、幼馴染みが俺が知らない内に青春を謳歌していた件。酷。失望した。絶縁する」
「おいおいおい!! ちょっと落ち着けって!!」
「黙れ。リア充め。リアルが充実していない俺のことを心の中では嘲笑っていたんだろ。そうかよ。愉快だったかよ。優越感に浸って楽しかったかよ。地獄に堕ちろ」
「めっちゃ辛辣」
目のハイライトを消して呪詛を吐き続ける大翔をなだめ、「お前が思ってるようなもんじゃないから。誤解だよ」と必死に誤解を解こうとする。
「誤解って何? は? お前、誤解って言葉を辞書でひけよ。お前の脳の中の辞書には、誤解イコール自明のことって書いてあんのか?」
「いや、紬とは友だちだし」
「陸。俺ね、小説の鈍感系主人公が嫌いなんだわ。嫌悪してんの。美少女に囲まれて『いえいえ~、僕なんて~』とか言ってる奴、馬鹿じゃねぇの。羨ましい。その立場変わってくれよ。百万までなら払うから。そう、これくらい憎んでんの。親の仇くらい」
「お前の親、元気に生きてるじゃん。情緒大丈夫か?」
大翔は普段穏やかな奴だ。人のことを滅多に悪く言わないし、歳が離れた従兄弟の世話をしていたためか面倒見もいい。
そんな頼れる幼馴染みなのだが、何故か今は様子がおかしい。
俺の肩をつかんで、ガタガタと容赦なく揺する。
「は? おい。鈍感系主人公、せめて鈍感は止めてくれ。お前はいい奴だ。俺は幼馴染みを殺したくない」
「俺、殺されんの?」
「その紬ちゃんのことをどう思う?」
「え? メンタルは浮き沈みが激しくてジェットコースターみたいだけど、努力家だし、普通に人として尊敬できる奴だなと」
「そんなこと聞いてねぇんだよ。阿保か」
「えぇ…」
「女の子として好きかどうかを聞いてるんだよ。おい、これで『え? 普通に好きだけど』って軽く答えて、恋愛ではなく親愛の意味でだけど、っていうありがちなオチは止めてくれよ。そのパターン以外なら、俺は自分の殺人衝動を止められる」
「ヤバいな。放課後スクールカウンセラー行く? 付き合うよ?」
「心拍数が上がるならイエス、地獄に堕ちろ。上がらないならノー、それなら美しい友情だ。俺は拍手喝采を送ろう」
さぁどっちなんだ、と詰め寄られる。えぇ…と困惑しつつ、(紬に対してどう思って、って…そりゃあ…)と自問自答する。
ただの友人だ、とすぐに答えることができなかった。
(あれ? え、だって友だちだろ。十歳の時からよく話してさ。色々話していると、アイツの考え方とかすごいなとか思って…俺ならしないような深い考えとか持ってて、すげぇなぁ…って。器用で何でも一通りできるのに、口下手は一向に直らないし、それが…)
「可愛いなぁ、って思う」
無意識の内にそんな言葉が口から漏れていた。大翔の前だったことを思い出して、俺は顔を赤くさせ手で口を覆う。
「あ、いや、その…。大翔、これは…」
どうにか誤魔化そうと口を開きかけたが、世界の終わりを悟ったかのような大翔の顔を見て、口を閉ざした。
「くそがよぉぉ!! 俺は鈍感系主人公に恋心を自覚させるモブ役かよぉぉ!! 俺が! 何をしたって! 言うんだぁぁ!!」
大翔は大声で絶叫しながら、俺を置いて走っていった。
俺の幼馴染みは、頭のネジが何本か外れているのかもしれない。
◆◆
「恋…恋かぁ…」
その夜。恋心を自覚した俺は、どうにもソワソワして眠れず、ちょっとコンビニまで散歩して頭を冷やそうと外に出ていた。
昼は大変だった。学校へ登校すると、大翔が教室の席で人目をはばからずに号泣していたのだ。
俺の一日の学校生活は、幼児退行した様子の幼馴染みを落ち着かせることから始めなくてはならなかった。
どうにか大翔を落ち着かせて、「お前は恋を自覚した。だから少なくとも鈍感系主人公ではなくなった。"吐き気がするほど憎い親の仇"から"隣にいても拒絶反応をギリギリ起こさない程度の憎い奴"になった。だから、俺はお前を殺さない。幼馴染みでいられる」と言われた。
彼の言語はよく分からなかったが、どうにか許されたらしい。
まぁ兎に角、色々あったものの、俺は晴れて恋心を自覚したわけだ。
「っていってもなぁ…恋愛ってどうしたらいいんだ?」
恥ずかしい限りだけど、今までマトモに恋愛した覚えがない。時間があればサッカーに費やしてきたのだ。
「告白…? あー、でも振られたら気まずいし…公園に来てくれなくなったら、もう完全に連絡する手段がない…」
そもそも紬が俺のことを異性として意識しているのかどうかさえ分からない。
俺でさえ詰め寄られるまで、紬のことは話しやすい友人だと思っていたのだ。彼女もまた同じように思っている可能性が高い。
ならば、電話番号とか連絡先を交換して徐々に距離を詰めていく方が効果的だろうか。
だが、今まで連絡先のことを話題にさえ出したことがない。何故急に、と不審に思われないだろうか。
「分からねぇ…」
俺は月を見上げて、途方に暮れた。
◆◆
コンビニで温かいレモンティーと、お茶、つまむための菓子を買って夜道を歩く。
紬のことについて考えていたからなのか、無意識の内に足は彼女と会う公園に向かっていた。こんな真夜中に人がいるわけがない。
(流石に浮かれすぎだろ)と苦笑しつつ、あそこで少し時間を潰せば気分も晴れるかも、と足を進めた。
目的地が見えてきたところで、俺は違和感を感じた。公園から何やら揉めているような声がする。痴話喧嘩だろうか。
帰ろうかと一瞬迷うも、妙に気になって俺は走り出した。
二人分の人影が見えた。背格好から一人は男性、もう一人は女性であることが分かる。カップルが揉めているのだろうか。…それにしては、様子が変だ。
「離れなさいよ!! 気持ちが悪い!!」
聞き覚えのある声が聞こえて、俺は考える暇もなく二人の間に飛び出していた。
男の腹を殴って、無理矢理二人の距離を離れさせる。暴力を振るってはいけないってのは常識だが、今は正当防衛のようなものということで見逃して欲しい。
「警察を呼んだ。捕まりたくないんだったら、さっさと逃げろよ」
嘘だ。警察など呼んでいる暇も、余裕もなかった。
しかしハッタリだと気付かれないように、強い声色で叫び顔を隠すような服装の男を睨み付ける。
男は迷うように視線をさ迷わせて、舌打ちしてから逃げていった。
「はぁ…」
刃物を持ち出されなかったことに安堵して、全身の力を抜く。
運動部で筋肉はついているとはいっても、武道に関しては素人だ。刃物を取り出されたら殺されていたかもしれない。
「大丈夫か? 紬」
男が完全に逃げ去ったのを確認して、俺は後ろを振り返った。信じられない、といった表情をした紬がこちらを凝視していた。
「陸?」
「あ、地味に初めて名前を呼ばれた。貴方と犬以外の呼び方初めて」
「黙りなさい。犬」
「そのままでよかったのに。…怪我は?」
「ないわ。お陰様で」
「ならよかった。なんでこんな夜中にいんの?」
「…」
「紬」
「…貴方には関係のないことよ」
(関係ないって…)と彼女の言葉に苛立ちを覚える。
確かに彼女がいつ、どこで何をしようと彼女の自由だ。だけど、そんな他人行儀な言い方をしなくたっていいじゃないか。
「馬鹿なのか?! ここら辺は人の通りが少なくて、朝と夜は危ないって俺はいつも言ってたよな?! 自覚がないようだけど! 見るからにお前は世間知らずって顔をしてるし、ああいう人間が目をつけやすいんだよ!! 後悔してからじゃ遅いんだぞ?!」
カッとなって、つい大声で怒鳴ってしまった。はっとして「あ…悪い…」とすぐに謝る。
違う。別に怒りたかったわけじゃないのに。
ただ、心配してるんだって伝えたかっただけなのに。
後悔しながら紬の顔を覗き込めば、彼女の目に涙がたまっているのが見えた。え、と固まる。
(やっちまった…)
最悪だ。怖い思いをした奴に、怒鳴るなんて。更に怖がらせているようなものじゃないか。
「え…ごめん。ほんとにごめん。怖がらせるつもりじゃなくてさ…」
「…」
「えっと、こういうのってすごい怖いもんなんだよな。俺、男だからあんまりよく分からないんだけど。うん。怖かったよな。ほんと、怒鳴ってごめん」
「…」
「マジで…すみません…」
もういっそのこと土下座とかした方がいいだろうか。…よし、そうしよう。
そう思って、地面に膝をつこうとすれば紬に服の袖を引っ張られた。「…いいから。…謝らなくて、いいわ」と小声で呟かれる。
「……だから、震えが収まるまで、側にいて」
「…りょーかい」
犯人が戻ってくる可能性もあるだろうから、本当は今すぐここから立ち去った方がいいんだろうけど…。
俺は青ざめている紬を見て、(これは移動できる状態じゃないな)と判断する。犯人が戻ってくるかも、なんて刺激しない方がいいかもしれない
「悪い。ちょっとだけ友だちに電話をかけていい? 人を呼んでもらうから」
努めて落ち着いた声でそう言えば、小さく頷かれた。
「大翔?」
「どうした? リア充。恋愛相談は受け付けてないぞ」
「真剣な話。俺たちがいつも遊んでた公園に、今すぐ警察を呼んで。ここ入りくんでるから、詳しく行き方説明できる奴じゃないと」
「…オッケー。茶化すのはなしな。事情を手短に説明して。伝えるから」
「公園に不審者。紬が襲われかけた。俺が来て逃げたけど、念のため早く向かわせて」
「了解。警察に連絡が終わったら、俺も親父と一緒にそっちへ行くわ。車にのってくから。車内の方が安心だろ。白い車。覚えてる?」
「覚えてる。悪いな」
「全然。気にすんな。お前はそこにいて安心させてやれよ」
言葉少なく用件を言えば、すぐに意図を察して動いてくれた。こういう時、大翔は本当に頼りになる。
(こういうところ格好いいと思うんだけどな…なんでモテないんだろ…?)と疑問を覚えたが、今はそんなことを考えている時じゃないと気持ちを切り替えた。
「友だちが来てくれるから。安心していいぞ。あ、飲み物何か飲むか?」
「…何がある?」
「お茶とレモンティー」
「…レモン」
「ん。どうぞ」
「…」
「…」
「…来たのはね」
「おう」
「お父様に『医者じゃなくて、獣医になりたいんだ』って言ったらすごく反対されたからなの。私、動物が好き。お父様みたいに人を助ける職業も素晴らしいことだって分かってるんだけど、苦しんでる動物を助けたかった」
「いい夢じゃん」
「ありがとう。でも、すごく罵倒されてね。自分の夢を否定されて、腹が立ったから第二の家出を決行したの」
「真夜中に?」
「真夜中に」
「時間帯と場所の判断だけは、ちょっと間違ったんじゃないかなぁ…」
「…そうね。頭を冷やすにしても、お昼にすればよかったわ」
「それが賢明だ」
そう答えれば、紬はちょっと笑った。
「助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。流石に肝が冷えたわ。なんか揉めてるなって思ったら知り合いとか心臓に悪い…」
「…そうよね。ごめんなさい」
「素直だ。珍しい」
「失礼な人ね。私だって素直になる時くらいあるわ」
「あんの?」
「あります。…それに、ここに来たのは貴方がいるかと思って」
「愚痴なら聞くけど。俺はここで野宿してないから、いつもはいないかな…」
「分かってるわ。でも、なんとなく足が向かったのよ。本当に来るとは思ってなかったから驚いたけど」
「夜中にコンビニ行こうと決めた、ちょっと前の自分を褒め称えたい」
「夜更かしは駄目よ」
「夜中に家出も駄目だな」
確かに、と二人で笑い合う。その後も他愛もない話をしている内に、ライトをつけた白い車が見えた。
大翔が窓から顔を出して、こちらに来い、と手招きをしている。俺は「行こう」と紬が立ちやすいように手を差し出す。
彼女は驚いたように目を丸くした後、少し口角を上げて俺の手を掴んだ。
「ありがと。貴方が来てくれたって分かった時、本当に安心したのよ。陸でよかった」
手を引っ張る時に、ぼそっと耳元でそう呟かれた。「え?」と聞き返す前に、「さぁ、行きましょう。身体が冷えちゃったわ」とぐいぐいと引っ張られる。
その言葉に込められた本当の意味が分かったのは、それから三ヶ月後、俺が紬に告白してからだった。
◆◆
「陸。遅かったわね」
「ごめん。帰りのホームルームが長引いて。メール届いた?」
「届いたわ。遅れますって。だからといって、可愛い彼女を三十分も待たせていいのかしら?」
「ごめんなさい。反省してます。次からはダッシュで走ってきます」
「よろしい」
犯人は、あの後ちゃんと捕まったらしい。念のためということで、紬にはもうあの公園に行かないと約束してもらった。
と、なれば、俺たちの縁は切れたのかと思うだろうがそうでもない。
あの事件の後、俺はとても頑張った。グズグズしている暇があるならやれることをやろうと吹っ切れたのだ。
頑張ってアピールし(死ぬほど恥ずかしかったけど)、連絡先を交換し、そしてつい先日告白したのだ。
結果はあっさりとオーケーをもらった。簡単にいい返事がもらえたので、こちらが驚いたくらいだ。
「前から答えは決めてたんだけどね。陸から言わないなら、私から告白しようかと思ってたんだけど」と後から言われ、腰を抜かすほどに驚いた。
つまりは今までのアピールもすべてバレバレだったということだ。羞恥心で死ぬかと思った。
紬は両親と大喧嘩をしたらしい。あまりにも頑固な父親の襟を紬が掴み、今までの鬱憤を思う存分ぶつけた、なんてこともあったのだとか。
その話を聞いた時、俺は絶対に彼女を怒らせないようにしようと心に誓った。
「さ、行きましょう。お父様を脅して、お小遣いをいただいたの。駅前で美味しいと評判のクレープが食べたいわ」
「りょーかい。紬様のお望みのままに」
俺たちは恋人繋ぎをして、桜並木の下を歩き始めた。