表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

じっくりコトコト

作者: 柿畑 紫慧

コトコトコト、と鍋からあぶくの音がする。ぼんやりとキッチンでまどろむこの瞬間が、たまらなく心地よい。膝にかけた薄い毛布がずり落ちそうになったので、軽く上へと引っ張り上げる。窓から差し込む夕日は、文句の付けようがない茜色だった。


ガチャリ。


「おかーさんただいま〜!」

玄関からドタバタと、廊下を靴下で踏み歩く音が聞こえる。程なくしてひょこり、と息子が顔を出した。

「おかえりなさい。」

「今日カレー?やった!」

「はいはい、嬉しいのはわかったから、先に手を洗ってきなさい。」

「はーい。」

息子の手は遠くから見ても泥だらけだった。公園で砂遊びでもしてきたのだろうか。おそらく、爪の間も土でびっしり埋まってるはず。これは、見に行かなきゃいけないだろうな。私は鍋の火を弱火にすると、膝掛けを椅子の上へ置いて立ち上がった。


「いただきます。」

「いただきます。」

二人で向かい合って食卓に座る。外はもうとっぷりと日が落ち、どこか遠くで虫が鳴いていた。

「お父さんは?」

「父さんは、今日も遅くなるって。」

「ふーん。」

あの人は最近めっきり帰りが遅くなった。仕事が忙しいのか、毎日のようにやつれた顔をして帰ってくる。家にいても口数は少なく、休日は泥のように眠っていることがほとんど。元から体力があまりないのだからそこまで無理をしないでも、と側から見ていて思うのだけれども、それにはやはり、彼なりの事情があるのだろう。何か言ってもらえないことには、私もそこまで聞けない、聞いてはいけないといいうような雰囲気があった。

子供というのはそういう『空気』を読むのがとても上手だ。何も説明しなかったとしても敏感に気配を感じ取り、それ以上聞いてくるようなことはしない。あるいは、新しい『日常』に慣れるのが早いだけなのか。おそらくその両方なんだろうな、と思いながらその小さい口で一心にカレーを頬張る彼を見ていた。


カチャカチャ、と玄関の鍵が回る音で意識がふっと引き戻された。開きっぱなしだった文庫本に栞を挟んで時計を見る。時刻はちょうど、日付が変わって少し過ぎたところだった。

「ただいま……。」

「お帰りなさい。晩御飯食べる?」

「……うん、お願いするよ。」

もうすっかり見慣れてしまったその疲れ切った顔で、彼は力なく笑った。


「カレーかい?いいねぇ。」

スーツから部屋着になり、食卓に座った彼が言う。疲れていても食欲はあるようなので、まだ大丈夫なのかな、なんてふと思った。

「……仕事は、まだ当分忙しそう?」

「そうだねぇ、終わりが見えていないわけじゃないんだけど。」

カレーを口に入れながらモゴモゴと喋る姿は息子の玲そっくりで、親子だなぁと少し微笑ましく思った。

「玲は?最近顔見れてないけどどう?」

「元気にやってるみたい、今日も両手を泥だらけにして帰ってきて。もう洗うのが大変。」

「あはは、ずいぶん楽しそうだな。」

彼が口を開けて笑うのを、ずいぶんと久しぶりに見た気がした。

「懐かしいなぁ。」

「何が?」

「精神的に疲れなかった時代のこと。」

彼の言葉はとても寂しげで、そのステージには同じように私も立っているはずなのに、まるでポツンと、置いてけぼりにされてしまったような、そんな響きだった。


「……仕事が落ち着いたらさ。」

「ん?」

スプーンを咥えたまま彼がこちらを見る。

「仕事が落ち着いたらさ、家族でどっか行こう。」

「……そうだね、行きたいねぇ。」

彼はごちそうさま、ときちんと手を合わせると立ち上がった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ