じっくりコトコト
コトコトコト、と鍋からあぶくの音がする。ぼんやりとキッチンでまどろむこの瞬間が、たまらなく心地よい。膝にかけた薄い毛布がずり落ちそうになったので、軽く上へと引っ張り上げる。窓から差し込む夕日は、文句の付けようがない茜色だった。
ガチャリ。
「おかーさんただいま〜!」
玄関からドタバタと、廊下を靴下で踏み歩く音が聞こえる。程なくしてひょこり、と息子が顔を出した。
「おかえりなさい。」
「今日カレー?やった!」
「はいはい、嬉しいのはわかったから、先に手を洗ってきなさい。」
「はーい。」
息子の手は遠くから見ても泥だらけだった。公園で砂遊びでもしてきたのだろうか。おそらく、爪の間も土でびっしり埋まってるはず。これは、見に行かなきゃいけないだろうな。私は鍋の火を弱火にすると、膝掛けを椅子の上へ置いて立ち上がった。
「いただきます。」
「いただきます。」
二人で向かい合って食卓に座る。外はもうとっぷりと日が落ち、どこか遠くで虫が鳴いていた。
「お父さんは?」
「父さんは、今日も遅くなるって。」
「ふーん。」
あの人は最近めっきり帰りが遅くなった。仕事が忙しいのか、毎日のようにやつれた顔をして帰ってくる。家にいても口数は少なく、休日は泥のように眠っていることがほとんど。元から体力があまりないのだからそこまで無理をしないでも、と側から見ていて思うのだけれども、それにはやはり、彼なりの事情があるのだろう。何か言ってもらえないことには、私もそこまで聞けない、聞いてはいけないといいうような雰囲気があった。
子供というのはそういう『空気』を読むのがとても上手だ。何も説明しなかったとしても敏感に気配を感じ取り、それ以上聞いてくるようなことはしない。あるいは、新しい『日常』に慣れるのが早いだけなのか。おそらくその両方なんだろうな、と思いながらその小さい口で一心にカレーを頬張る彼を見ていた。
カチャカチャ、と玄関の鍵が回る音で意識がふっと引き戻された。開きっぱなしだった文庫本に栞を挟んで時計を見る。時刻はちょうど、日付が変わって少し過ぎたところだった。
「ただいま……。」
「お帰りなさい。晩御飯食べる?」
「……うん、お願いするよ。」
もうすっかり見慣れてしまったその疲れ切った顔で、彼は力なく笑った。
「カレーかい?いいねぇ。」
スーツから部屋着になり、食卓に座った彼が言う。疲れていても食欲はあるようなので、まだ大丈夫なのかな、なんてふと思った。
「……仕事は、まだ当分忙しそう?」
「そうだねぇ、終わりが見えていないわけじゃないんだけど。」
カレーを口に入れながらモゴモゴと喋る姿は息子の玲そっくりで、親子だなぁと少し微笑ましく思った。
「玲は?最近顔見れてないけどどう?」
「元気にやってるみたい、今日も両手を泥だらけにして帰ってきて。もう洗うのが大変。」
「あはは、ずいぶん楽しそうだな。」
彼が口を開けて笑うのを、ずいぶんと久しぶりに見た気がした。
「懐かしいなぁ。」
「何が?」
「精神的に疲れなかった時代のこと。」
彼の言葉はとても寂しげで、そのステージには同じように私も立っているはずなのに、まるでポツンと、置いてけぼりにされてしまったような、そんな響きだった。
「……仕事が落ち着いたらさ。」
「ん?」
スプーンを咥えたまま彼がこちらを見る。
「仕事が落ち着いたらさ、家族でどっか行こう。」
「……そうだね、行きたいねぇ。」
彼はごちそうさま、ときちんと手を合わせると立ち上がった。