女はリアルに対して二重にログインしている
1 結論=女はリアルに対して二重にログインしている。
女性向けと呼ばれる作品がなぜ生じるのか、そして男にとってはなぜ、それらの作品がしばしばつまらないとされるのかというのは、わたしの中では答えがでている。
それは表題にあげたとおり
女はリアルに対して二重にログインしているからだ。
男は女が二重にログインしていることを知らないので、女性向けとされる作品を、まだるっこしく感じてしまうのである。
2 理由
理由を述べていこう。
まず、人は生れ落ちてから言葉を獲得するまでの間に、精神分析における「去勢」という儀式を経てきている。
生れ落ちてから言葉を獲得するまでの間、人にとってはセカイとモノとわたしはすべてごちゃまぜになっていて区別がつかない。
この混沌のセカイを切り開くのが言葉である。
はじめに言葉があった。
言葉は神であったというのは聖書の言葉だが、人という生物も同じような過程を辿る。
とりわけ、生物学的な男性にとっては、「わたし」という存在が、セカイの中で開闢するときに、光のように一瞬にして切り分けられるだろう。
「光あれ」
なぜ、生物学的男性のほうが、光のように一瞬でセカイを切り開くことになるのか?
男性の赤ん坊にとって、「わたし」にはペニスがあり、「母親」にはないからである。
この「ある」「なし」の二項対立が、「わたし」と「セカイ」に変換される。
これは「快」「不快」原則の萌芽でもある。
男性の場合は、したがって「快」「不快」に敏感であるといえるだろう。
では、生物学的女性の場合はどうだろうか。
生物学的女性も言葉を獲得し自我を得る。
したがって、去勢は経ている。
しかし、男性が「ある」「なし」というレベルで一息に自我をセカイから引き剥がしたのに対して、女性の場合は母親と肉体的構造は変わらないため、去勢が儀式とはならない。
なぁなぁの関係で超自我が生成される。
変換する。女性は超自我が弱い。
変換する。女性はファルスによる自我の統制が弱い。
変換する。女性は男性にように現実界へ遡行しようとするベクトルが弱い。
ラカンは、このセカイを「現実界」「想像界」「象徴界」という3つのセカイに分けたが、男性は象徴界という言葉の世界に囚われている度合いが大きいということだ。
したがって、男は言葉の力を使って、失われた世界を取り戻そうとする。
失われた世界とは、母親とわたしが一体であったセカイ。
すなわち、わたしがすべてにおいて万能であった理想郷である。
しかし、その理想郷には、底の見えない大きな穴があいてしまった。
男性にとっての去勢は、存在に対して決定的に穿たれた穴である。
男性は、去勢を経て、翼をもがれ堕天する。したがって、いつか天界へ帰りたいと願う。
つまり、幸福や理想や愛といったシンボルに殉ずることになるだろう。
言葉とはシンボリックなものである。
たとえば「お金」というものについて考える。
お金を持つことは幸福である。だから、わたしは彼よりもお金を持ってなければならない。
たとえば「芸術」というものについて考える。
芸術を追求しなければならない。究極の芸術を。だから、これも拝金主義となんら変わらない。
結局のところ「現実界」における万能の「わたし」の代理表象物として、「お金」や「芸術」そのほかのさまざまなシンボルを欲する。
だが、その欲望が満たされることは決してない。
お金について思いいたせば実感できるだろう。お金の最たる価値とは交換価値、つまりほしいものを買えるということだが、この欲望には際限がないのである。
少し脱線したようなので、話を元に戻す。
女性の場合、去勢が緩やかにおこなわれる。
女性の赤ん坊もまた、男性の赤ん坊と同じくペニスの「ある」「なし」に気づく。
男性の場合は、母親と同化しセカイそのものであった、つまり神様であった頃に戻りたくもあり、しかしながらそれは、ペニスの「ない」存在へ同化しなければならないという恐怖でもあった。
そのため、男性の場合の去勢というのは、「わたし」は「母親」とは違うと主張することであり、言葉というナイフを使って、自らの身を殺いで、母親から自分という存在を分離するのである。
単純に言えば、男性は去勢不安というトラウマを乗り越えて自我を獲得したのであるから、男性の場合は「男」「女」という区分けそのものが自明のものになるのである。
逆に、女の場合は、「ある」「なし」でいえば、母親は「なし」、自分も「なし」なのであるから、母親と同化してセカイを取り戻すということに対する不安はない。
言葉はナイフではなく、物事を象徴化させるための道具に過ぎない。
だから――
女は「わたし」「セカイ」という二項対立と同等のレベルで「男」「女」という二項対立も承認されなければならない。
このことを、わたしは
――女はリアルに対して二重にログインしている
と表現したのである。
3 二重にログインしていると男にとってつまらない作品になる?
生物学的女性すべてがそういうわけではないので、一種の傾向分析であるというのは断っておく。
まず、男の場合は単純だ。
男にとって「わたしは男です」とわざわざ主張する必要はない。
去勢不安を乗り越えた男にとっては、もはやそんなことは当たり前であるからだ。言葉のナイフで身を殺いだその痛みが、自明の論理として、深く存在に刻みこまれているのである。
男にとって創作物に対する態度もまた単純だ。
男性主人公が「女性」をハーレム化し、「お金」や「権力」、ありとあらゆる交換価値をてにいれられるであろう「チート」を持つのは、失われたシニフィアンの代替物に他ならない。
万能の神様であった頃の自分を取り戻したいという欲望の原因である。
男性向け作品を創作する場合は、この欲望の原理さえ抑えておけばまずはずすことはないだろう。
まあぶっちゃけた言い方をしてしまえば、男の場合、『成長する』とは、象徴界に参入するということは上で述べた欲望の原因に対して、現実原則の前に敗退し、妥協することである。中二病になって、オレは無敵だという価値観が、大人たちにぼこぼこにされて、少し大人になるみたいな?
で、なろう小説の場合は、この現実原則の前に敗退しないので、『成長しない』となるわけだ。
このあたりは前に書いたので、今はいいかな。
対して、女性向け作品というのは複雑でややこしい。
なにしろ、女は現実に対して二重にログインしている。
つまり、現実界と象徴界が陸続きになっていて、象徴界における特権的なシニフィアンがあまり機能していない。
「愛」があるじゃん。
と思うかもしれないが、違う。
男にとっての愛は理想であり真理であり、失われたシニフィアンであるが、
女にとっての愛は、どこまでも現実的なものだ。
しかし、とりあえずのところ――みたいな感覚で、ひとまず「ある」「なし」に対置させるのが「男」「女」である。
「ある」「なし」については、「生」と「死」にも同値されるものである。
女性向けとされる作品では、主人公(女)の中では、「わたしは○○のために生きる」という根本規範がありつつ、「女であること」が認められなければならない。
たとえば男の場合は、単純に仕事ができるオレはカッコいいというような価値観で生きればよかったのだが、女の場合は、仕事ができるわたしはカッコいい+わたしは女であるの世界を生きなければならない。
時には、『仕事ができるわたしはカッコいい』と『わたしは女である』が対立することもあるだろう。
懊悩することもあるだろう。
男の場合は、権力構造が単純化されるので、例えば、好きな女性が姫様であれば出世すればよいという考えになるが、女の場合は『権力』も『男女関係』も同一地平線上になるので、単純化しない。悲恋になったりすることもあって、それはそれでよいというふうになるわけだ。
リアルに対して二重ログインしているため、矛盾が矛盾にならないわけだ。
けれど、男にとっては、なにそれ意味不明ということになる。男からしてみれば、『権力』か『男女関係』かどちらが彼の中のルールになるかはわからないが、いずれにしろルールはひとつである。したがって、ベクトルを重ね合わせる方向でしか解決できない。
――権力を得て姫を娶る
というベクトルになる。
男にとってみれば、女性向けとされる作品がまだるっこしいと感じる理由が、ここにある。
価値観のベクトルが多方向に向いているせいで、男にとっては女は謎なのだ。
謎の存在によって書かれた謎作品がおもしろいわけがない。これが女性向けがウけない原因である。
女性向け作品、少女マンガとかで男にもウケてる作品あるけど?
それは、『わたしは女である』という二番目のログインを感じさせない作品ということになるだろう。
4 二重ログインを知ることによって
このエッセイだけ見ると、女が男の忌避を回避する方法はわかるが、
しかし、男が女性向けを書けるようにはならないだろうな。
もし書くとすれば、基本的には性愛要素ははずせないと思う。これは「ある」「なし」の前に自分(女)の性別を象徴界に登録しなければ、他の価値観にアクセスできないから。
ここから、どういう作品が「快」であるかが問題になるんだけど、先に書いたように、一番目のログインと二番目のログインが矛盾することはしばしば起こりうるわけで、ここは女性向け作品では書いてもいいらしい。
いずれにしろ、自分のログイン状態を否定することは不快ではあるはずなのだろうけれども、おそらくはどちらかの価値観が一瞬優位したり劣位したりを繰り返しながら、作品を構成しているのだろうと思う。
女は男に比べて複雑で、謎が多い。
だから、女性向け作品も謎に満ちている。
それは男にとってもそうだし、女にとってもそうなんだ。
ぶっちゃけ、「とびうお君」様という天才が、ここ小説家になろうにはいらっしゃるんですよね。
で、「ファンタジーと女性向け」という作品があってですね。
https://ncode.syosetu.com/n1890et/
着想はそこ。
あとは自前の知識を引っ張り出してきただけです。
ちなみにご本人様に許可とかとってないんで、まあ、山彦みたいなもんだと思ってもらえればと思います。女性向け作品というのは、結局、謎は謎のままでした。
メルヘンはたぶん想像界のことだと思うんだけど、じゃあメルヘンを面白く書くにはどうしたらいいのって、まず理論や言葉では表せないよねと思うというか。
男性向けファンタジー=SFは、象徴界よりの作品として捉えればわかりやすいと思う。端的にいえば、センスオブワンダーなわけね。これはある「真理」を裏側から短ページで捉えるのに向いている。男はそれが余計なことしないでも無意識にできるんだけど、女は取り除かないといけないんだ。あるいは同じ方向を向かせないといけない。
これがけっこう苦労するんだろうね。