初めて呼ぶ
別れのときチビには大泣きされた。つられてニアンが涙ぐみ、チビとその両親との別れを惜しんでいた。
ロカは礼を言うだけのつもりだったが、チビと母親に抱きつかれ、身動きが取れないところを助けてくれた父親とは握手をかわした。
こちらが世話になったというのに、若夫婦は焼きたてのパンとヤギの乳で作ったチーズを持たせくれた。
グレーシャーで荷袋に入るだけ買った干し肉は、当たり前だが一冬分には程遠かったためとっくにない。そのためロカとしては肉を手に入れたかったが、冬越しのために食料の備蓄は必須となる小さな町で無理を言うわけにはいかなかった。
ニアンは最後に両親の家を見納めに行くかと思った。しかし町を出るときに一度振り返って、見えるはずもない家の方向を向いただけだった。
「ロカ、目指す町はロスロイだと聞いていますけど、今日はどこまでですか?」
若夫婦宅で、もう着ないからともらった秋冬の服と靴で歩くニアンが、どこかそわそわとして尋ねてくる。薄手で悪いねと断りを入れながら、女物の外套までくれたのだからありがたい。
昼間だというのに冷たい秋風が吹いてきたため、ロカは外套を合わせなおした。
右隣を見下ろす。ニアンはまだ剣は怖いらしい。それともずっと右側を歩いていいたので癖になっているのか。
「できればプスタまで」
ジュビリーからプスタまでは北西に進む必要がある。ロスロイはプスタより別の町を通って西へ進んだほうが早いのだが。
「あそこのギルドの支部に用がある」
遠回りに首を傾げていたニアンがああという顔をした。
「ギルドって同じお仕事をなさる方たちで組織されているという――」
「ああ、それだ」
「傭兵のギルドもあるのですね」
「争いが減って支部の数は減少しているがな。仕事の依頼はギルドに入るんだが、最近じゃ傭兵同士で取り合いになったりする」
「ロカもお仕事探しですか?」
「いや、傭兵はやめるから名前の抹消を――」
「やめる!?」
素っ頓狂な声をあげたニアンにロカはあっさりと頷いた。
「もともと金を貯めたら辞めるつもりだったんだ」
「辞めてどうするんですか?」
「定住地でふつうに働く?」
ふつうの職業が思いつかないため疑問形で返事をしたロカだ。
「そ、それっ、どこ――どこですか!?」
なぜ興奮気味なんだ。
「知人がロスロイにいるんだ」
「ロカっ、わたしもそこ!そこっ、そこ!!」
「落ち着け。あんたの言いたいことはわかっている」
「え?本当ですか」
興奮のためだろう。頬を染めたたニアンが期待を込めた眼差しを向けてくる。
「ここまで面倒をみたんだ。知らない場所に一人、あんたを放り出すのも気がかりだし、あんたのことも頼んでみよう。働きたい職種があれば教えてくれ」
ロカが話すうち、みるみるニアンが萎れていった。
「働かないと食べていけないだろう?」
「それはわかっています。働きたくないんじゃありません。わたしはロカと……」
「俺?」
口ごもるニアンの頬が先ほどより赤く染まっていく。
「い、い……一緒にいたいと思っています」
「それは無理だ」
ロカは即答していた。あまりにきっぱり言い切ったためか、ニアンがショックを受けたように固まった。
「さすがに俺とあんたじゃできることが違うだろう。俺は事務方じゃないし……そういえばあんたの得意なものはなんだ?」
がくりとニアンが項垂れた。
「そういう意味じゃ……」
「いま仕事の話をしていただろう?」
「そうなんですけどっ!……あれ?ロカはわたしと同じところで働くのは嫌じゃないんですか?」
「だから職種が合わないと――」
「それでも一緒に働けるところがあったらわたしもいいんですか?」
「あー、俺といるより離れたほうがいいんだが、あんた、人に騙されそうだからな」
「だ、騙されます。もうわたし、人を信じまくりです!人間大好きっ」
鼻息も荒く身を乗り出してくるニアンにロカはつい笑ってしまった。
牢獄のような屋敷に閉じ込められていたお嬢様。
祖父に縛られ、町人に恨まれ、両親に疎まれて絶望を見たに違いない。
(俺が唯一の救いに見えても仕方がないか)
一人の時間が増えると、人との深い関わりなんて面倒だと思うようになっていたのに、 ここまでわかりやすく懐かれると無下にもできなくなる。
「そんなに俺と離れたくないのか?」
「はいっ」
ロカはニアンの頭に手を伸ばした。ぽすんと掌を乗せると、びっくりした様子で彼女の足が止まった。
頭を撫でて、歩みのままに手が離れる。
「ロカ、いま笑ってました」
襷掛けの鞄の揺れを抑えて、ニアンが小走りに追いかけてきた。
「はいはい、そうだな」
「それに頭……頭を撫でて!」
またニアンが興奮している。
そんな彼女が何かに似ているとロカは思った。
「ロカは前にもこうやって――」
うーんと考え事に集中するロカだ。そして犬が頭に閃いた。
別段動物好きでもないが、戯れにかまうと勝手に興奮をして飛びついてくるような、人好きな犬がいる。
(似てる)
笑いがこみ上げてロカは思わず拳で唇を押さえた。
「ロカ、聞いていますか?……口がどうかしましたか?」
「いや。それよりなんだ?」
「だからスゥちゃんに聞いたんですけど、ダンさんとデリラさんのお家に泊まってたとき、ロカは眠ってるわたしの頭をずっと撫でてくれてたって――本当ですか?」
「ああ、あれはチビが俺に――」
「本当なんですねっ!」
ぱっとニアンの顔が明るくなった。なぜかすこぶる喜ばれている。
ロカは居心地が悪くなりながら正直に言った。なんとなく目を合わせるのを避けて、視線を前方へ向けた。
枯れた色が目立つ牧草地がそろそろ終わる。とっくに牛も羊も見なくなっていた。
「ずっとじゃなく一度だけだ」
「でも心配してくれてたんですよね。スゥちゃんがロカもダンさんもデリラさんも、わたしが落ち込んでいるのをすごく心配してるって言ってたんです。それでみんないるから大丈夫だよって、あんなに小さな男の子が一生懸命励ましてくれて。わたし、もう誰もいないって思ってました。誰もわたしのことなんていらないんだって自暴自棄になっていました。あの日、わたしがベッドで縮こまっていたら、スゥちゃんが頭を撫でて「いい子、いい子」ってしてくれて、それが本当に胸にしみて……みんながわたしのことを心配してくれているって感じました。それが嬉しくて、本当に嬉しくて……元気にならなきゃって思ったんです」
ロカには意味不明だったチビの話が、やっとニアンの話から理解ができた。
夢中で話すニアンの目が潤んでいるように見える。
あの日、チビと二人きりになった数十分で、ニアンに何があったのかと思っていたが。
裏のない純粋な子どもの言葉だからこそ心に届いたのだろう。
そしてそれを受け止めるニアンもきっと、同じように裏がないのだ。
「いまさっきロカに頭を撫でられたとき覚えがあるような気がしました。わたし、夢の中で誰かが頭を撫でてくれているって感じてたのを思い出しました。あれはロカだったんですね」
どうしてそこまで喜ぶのか。
ロカにはニアンが尻尾を振ってまとわりついてくる犬に見える。
「とりあえずロスロイに着くまでに、自分に向いていそうな仕事を考えていてくれ」
言葉を終えかけたロカは、こちらを見上げてくる様子に自然とこぼれ出た。
「ニアン」
名前を初めて呼んだ。ずっと「あんた」と言っていた。
慣れあうことを避けたくて名前を呼ばなかったせいだ。
瞬きのあと、ニアンに大きな声で返事をされた。
「は……はいっ!ロカ、はいっ!!」
「元気だな」
ぷ、とロカは吹き出していた。
それを見たニアンに明るい笑顔がはじけた。