認識票
扉の開閉音にベッドの上で髪を拭いていたロカは顔を上げた。見れば風呂から戻ってきたニアンが、入ってきたばかりの扉に張り付いている。
「どうした?」
「服を着てください」
「着ている」
「半分裸です」
上半身が裸であるのが気になるらしい。
「風呂上がりで暑い」
「目のやり場に困ります」
「じゃあ見なければいい」
「部屋、替えてほしい……」
壁づたいに部屋を移動してそっぽを向いたままのニアンが呟く。
「一人部屋を二つ借りるより二人部屋を借りたほうが安い」
「わかってます。でもロカと二人っていうのが気になるんです」
「失礼だな。俺にも選ぶ権利はある」
「失礼はロカです!そんなにはっきり魅力がないみたいなこと言わないでください」
もう一方のベッドに腰かけたニアンが睨んできたため、ロカは髪を拭う手を止めた。
「襲われる心配をしているんじゃなかったのか?」
「そ、そうですけど、全くその気がないっていうのも傷つくというか、女として情けないと思わなくもないこともないというか……」
「どっちだ」
ごにょごにょと漏らすニアンにロカは苦笑を誘われた。
そのとたんニアンが驚いた顔をしたため不思議に思う。
「なんだ?」
「ロカも笑うのですね」
「今のは苦笑いというやつだ」
「はい、でも初めて笑ってくれました」
嬉しそうな笑顔を向けられて、ロカはそんなことかと止めていた手を再び動かした。
「俺だっておかしいときは笑う。いつもしかめっ面をしているわけじゃない」
「それに近いです。だってぜんぜん変化しないです。もっと笑ってください。ほら、にこーって」
笑顔の変わりに呆れ顔を向けてやるとニアンがぷっくりと頬を膨らませた。
「そういえばその顔はたまに見ます」
「俺の顔なんてどうでもいい。それより早く髪を拭け。風邪をひいても面倒をみないからな」
「ロカは見捨てません」
「看病代を払ってくれるならな」
いまのでニアンは完全にへそを曲げてしまったらしい。減らず口、とぶつぶついいながら綿布で髪を拭き始めた。
逆にロカは綿布を首にかけて灰色の髪を触る。まだ湿っているが拭うほどではないようだ。
汗も引いたためロカは綿布を引っ張って、しかし首飾りに引っかかったため顔をしかめた。
トップにプレートがついているもので認識票と言われるものだ。綿布の糸が留め具に絡んでしまったらしい。
首飾りを外して綿布をとっていると、ニアンが気になったように声をかけてきた。
「それはなんですか?」
「認識票だ。名前が彫り込んである」
「認識票?」
「兵士も持っているぞ。もともとはそっちが本家で傭兵がそれを真似たんだ。戦場で死ぬと誰が誰かわからなくなるだろう。仲間が死んだら遺体の代わりに持ち帰ったりもするな」
「見せてもらってもいいですか?」
隣のベッドから手を伸ばされて、ロカは手にあった首飾りを渡す。
「きれいな金色ですね。真鍮ですか?――ロカ・エルカミーノ。ロカのフルネームですか?」
「ああ」
「初めてちゃんとお名前を知れました。わたしはニアン・アルセナールです」
「知ってる」
「いつもあんたとしか言われていません」
ニアンから認識票を受け取る。ランプの明かりにプレートが鈍く反射した。
「どうせすぐに関わりはなくなる」
鎖を首にかけ、ロカはベッドの脇に置いてあった荷袋から薬を出した。
「ほら、薬を足にぬっておけ」
なのにニアンは受け取らない。その顔から先ほどまでの笑みが消えていた。
「薬」
手を持ち上げるとやっとニアンが塗り薬を受け取った。小枝で引っ掛けた体の傷はほとんど治癒して薬を塗るほどではなくなっているため、足裏に薬を塗り始める。
(なんだ?)
明らかに不満げな顔をしていた。
「薬を塗ったら薬草で押さえておくといい。磨り潰して塗っておくほうがいいが、さすがに汁がベッドを汚すからな」
昼間、集めておいた薬草と一緒に綿布も差し出しながら、ロカは明日綿布を購入しておくか、などと考えていた。
しかし――。
「……………っ」
ひっく、と聞こえて顔をあげ、ニアンの様子に眉根を寄せる。
「何を泣いている」
「涙は流れてませんから泣いてません」
「目が赤いし嗚咽も聞こえた」
ぷいとそっぽを向くニアンは綿布で目を押さえた。
これで泣いていないなんてことがあるか。さっきまで笑っていたのに。
「情緒不安定か?」
今までの生活が一変したのだからそうなっても仕方がない。
しかしニアンは返事もせずロカに背を向けるとベッドに潜り込んだ。
「おい、薬草」
「…………」
話しかけても無視をして、拒絶を表すように布団を頭まで被ってしまう。
こんもりとした隣のベッドを見つめるロカから、はぁ、と溜息が出た。
訳が分からない。
薬草と綿布を荷袋にしまって、上衣を着たロカはベッドに入ると、チェストの上のランプを消した。
暗がりのなか天井を見つめていると、隣のベッドからすん、と鼻をすする音が聞こえてきた。
ちらと目だけで隣を見て、またすぐに天井へ目を向ける。
名前を言いあってからいきなり機嫌が悪くなった。
思い当たることがあるとすれば……。
――いつもあんたとしか言われていません。
―― どうせすぐに関わりはなくなる。
(あのやりとりだろうな)
だがあと数日もすれば仕事も終わって、ニアンとは二度と会うことがないのも事実だ。
そうなれば名前も顔もすぐに忘れてしまうだろう。
それともニアンはたった数日の間柄であっても、記憶に留めておきたいと思っているのだろうか。
「ロカにとってわたしはただのお荷物ですか?」
静寂を破るニアンの声は小さかったけれどちゃんと聞こえた。
「荷物なら最初から拾わない」
「じゃあなんですか?」
「雇い主」
「ではわたしが依頼料を払えていなかったとしたら、あの森でロカに見捨てられていたということですね」
そうだと言うだけなのに、ロカは答えるのをやめた。
ニアンはそれ以上話しかけてはこなかった。
ロカは身を捩って壁側を向くと目を閉じた。