最初で最後に一度だけ
大都庁はニアンの知るどの役所よりも大きかった。
出迎えに現れたヘリングが案内してくれたのは町の長の部屋で、彼が大都長の護衛をしていると彼女はそのとき知った。
扉を開け放つヘリングに促され室内に入ったニアンは、執務机に向かう部屋の主を見た。白髪交じりの頭と同じ色の豊かな髭をたくわえた男だった。
年齢は五十代後半といったところだ。
広い部屋の一面は書棚が壁を埋めて、反対面は大都の旗や絵画、剣などがが飾られている。
部屋にはニアンの父親の姿はなく、彼女が部屋を見回すのと同じようにロカも視線を走らせていた。
大都長まずは話を聞きたいのかもしれない。
思い直してニアンはドレスを持ち上げ大都長に挨拶をした。ロカが礼を取ったことに驚いたが、考えてみれば大都長に掛け合ってくれたヘリングの顔を潰すようなことをするはずがなかった。
「掛けてくれたまえ」
ソファを勧めて大都長も向かいに座る。動きはきびきびとして若々しくあったが、腹回りが中年のそれであった。
大都長の背後にヘリングが控える。
「君がニアンか。パリト伯爵の孫娘でアルセナール家の世継ぎ。で、君がヘリングの弟のロカだな?元傭兵だとか」
「ヘリングとは血は繋がっていない」
ロカがぶっきらぼうに否定したとたん大都長は眉を上げた。
「いっそ清々しいくらいに生意気だ」
そう言って再びニアンへ視線を移してきた。力ある眼差しに、目が合っただけなのに思わず背筋を伸ばしてしまう。
「確認したいのだが、君はアルセナール家を追われ仕方なく行方をくらましたのか、それとも立場を捨てて逃げたのか。どちらだ」
焦げ茶色の瞳は眼力がすさまじく、嘘を簡単に見破ってしまいそうだ。もとより嘘をつく気はないけれど。
「逃げました」
「それは暴徒に殺されると思ったからか?」
「町の人たちが雇った傭兵にこの身を売られたからです。捕まれば死ぬこともできないと思いました。逃げて捕まりかけたところをロカに助けられたのです」
大都長の後ろに立つヘリングがわずかに顔を歪めるのをニアンは見た。初耳だったのかもしれない。
てっきりロカが話していると思っていた。
「そのあとはどうしたね?」
「ロカに護衛を頼んで両親のもとへ向かいました」
「助けを求めるためにか?」
「また昔みたいに一緒に暮らしたかったからです。祖父が亡くなったのだから伯爵の位は継がなくてもいいと思いました。祖父のもとへ行くまで大切に育ててくれていた両親のところへ戻りたかったのです」
「ほう……それで?君はパリト伯爵が殺されるところを見たのか?」
「いいえ」
「だがいま亡くなったと言ったぞ」
「町の人はアルセナール家の人間を狙っていました。女のわたしは売られたけれど、祖父は……」
町人を苦しめた元凶で恨みの対象である相手を生かしていると思えない。
そうはっきり言うのは憚られニアンは言葉を濁した。わずかに目を眇めた大都長は、ふーむと溜息のような相槌を打った。
「両親は君を受け入れてくれたのか?」
「いいえ。まだ祖父が亡くなったと知らなかったせいか屋敷に帰るよう言われました」
「パリト伯爵は亡くなったと伝えればまた共に暮らせたんじゃないのか?どうしてそうしなかったんだね」
「父にとって祖父は恐怖の対象であるみたいでした。わたしが祖父のもとを逃げてきたと思いこんで、話を聞いてもらえませんでした。わたしがいなくなってから妹と弟が生まれていたようで、四人で暮らしたかったのでしょう」
「恐怖の対象、とはどういう意味だ?」
「祖父は利己的な独裁者でした。グレーシャーの町で皆が暴徒と化したのは、祖父が自分のことしか考えない傲慢な人間だったからです」
「だが君にとっては祖父だろうに。彼は両親のように愛してはくれなかったのか?」
大都長の質問にニアンは初めて言葉を詰まらせた。
信じて心の拠り所にしていた両親の愛情は見せかけだった。両親と同じようにということは祖父の愛情も見せかけどいうことだ。
けれどいまここでそんなことを話すのは違うし、なにより同情を引きたがっているみたいで嫌だった。
恨みつらみを話す場ではない。
「愛されていたかわたしにはわかりません。厳しい人だったのでわたし自身、祖父を前にすると委縮してしまいました」
「では君は?君自身は祖父となるパリト伯爵を愛していたかね?」
ニアンは再び言葉に詰まった。
答えられないのを見て大都長が重ねて尋ねてくる。
「君を受け入れなかった両親のことはどうだ?いまも愛しているか?」
声が出ない。
膝に組んだ指を強く握って俯くニアンは、質問への答えを考えた。その間、誰も言葉を発しないせいで、沈黙がとても長く感じた。
「……わたしが」
声が震えたような気がした。
――俯くな。
ロカの声が耳によみがえった。
――虚勢でもいいから堂々としていろ。気迫で負けるな。
ニアンは深く息を吸い込んだ。
俯いた顔を上げ、まっすぐに大都長の目を見据える。
「わたしがここへ来たのは、祖父と両親への腹いせにアルセナール家の名を貶めに来たのではありません。わがアルセナール家から爵位をお返しするために参りました。祖父の後を継ぐ者とされていたのはわたしです。父がなんと言っているのかは知りませんが、祖父亡きいま、アルセナール家の当主はわたしであって父ではありません。決定はわたしにあります」
大都長はソファの背に凭れかけると考えるように顎髭を撫でた。
「さて、逃げた当主に何の決定権があるのか。君は当主の座を捨てたのだろう。いまさらそれを名乗るのは、君を受け入れなかった父親への恨みを晴らすため、彼が伯爵になるのを邪魔しているようにしか見えんよ」
「その通りです。邪魔をしに来ました」
「なに?」
大都長の目が、少しだけ興味を引かれたように見開かれた。
「でもそれは恨みを晴らすためではありません」
「では何のためだ」
「領民のためです。きっと父も祖父と同じで自分のことしか考えないと思ったのです。領民のことを思う人であったなら父は祖父のもとを逃げてはいけなかった。辛くとも領民のために心を砕くべきだった。そして父と同じく逃げたわたしもその器ではありません。わたしが当主を語る資格がないのは承知しています。ですが最初で最後に一度だけ当主と認めていただけるのなら、領民のためにできることがあるのです。どうかアルセナール家にいただいた爵位を取り消してください。そして立派な志をお持ちの方へパリト伯爵の名をお与えください」
お願いしますとニアンが訴えると大都長は顎髭を撫でる手を止めた。
「それを決めるのはわしではない。――が、王都へはアルセナール家の者は誰一人、爵位を得るに値する人物にあらず、と報告しておこう」
「え?」
「陛下がどんな決定をくだすかわからないが、パリト伯爵であった君の祖父の行いは、暴動があったことでとっくに王都へ伝わっているはずだ。息子と折り合いが悪かったとの噂も、そのために孫娘に跡を継がせようとしていたことやその孫娘が出奔してしまったこともだ。わしならそんな家に爵位を与えてはおかん」
「では……」
「君や君の父親がなにを訴えようが、暴動が起き領主が殺されたという事実が最も重要なことなのだ。国は民を納得させる新たな伯爵を立てねばならん。アルセナール家は最も避けるべき名だろう」
大都長の言葉にニアンは心底安堵した。
「そうですか。ならば父も諦めざるを得ないのですね」
「さぁそれはどうか。大都では埒があかぬと王都へ向かうと言っていた。賢慮な陛下なら正しく判断なさると――なおのこと無理となぜわからんのか」
うんざりといった様子の大都長がヘリングを振り返る。
「彼はたしか明日、出立するのだったか?」
「はい」
大都長へ答えたヘリングがニアンへ話しかけてきた。
「父君に会いたいのであれば案内するが」
ヘリングや大都長だけでなく隣に座るロカからも視線を感じた。ニアンは一呼吸を置いてから首を振り、静かに答えた。
「やめておきます」
もうとっくに親子ではなかったのだから。
浮かぶ思いに胸が痛む。
「……そうか」
余計なことを言ったとばかりにヘリングが黙り込んだ。
ニアンは鷹揚にソファに腰掛ける大都長に向き直った。