邪な欲
ロスロイから大都までは馬で一日と半分。しかし馬に乗れない者を連れていた場合、その時間では辿り着けない。
そしてニアンは馬に乗れなかった。伯爵家のお嬢様として生きてきたのだから当然といえば当然で、そのためロカは二日がかりは仕方ないと覚悟して、馬に二人乗りして大都へ出立しようとしたのだが。
「乗り慣れていないと馬に何時間も乗ってるのは辛いぞ。ニアンのためにも荷馬車のがいいって」
とルスティに言われ、店の商品を仕入れに行くときに使う荷車を使うことになった。馬はヘリングに借りた馬だ。駿馬が台無しだ。
気難しい馬のはずなのに荷車を嫌がらずに引いてくれた。案外、力が有り余っていて人を乗せるだけでは物足りなかったのかもしれない。
そうロカは思ったが、ニアン相手ではてんでいうことを聞かなかったので、やはり癖のある馬らしかった。
「わたし、馬から見ても頼りないんでしょうか?」
御者台でニアンがしょんぼりと呟く。休憩後、ロカの代わりに手綱を握っても、馬がうんともすんとも動いてくれなかったのを気にしているようだ。
外気は秋からすっかり冬のそれへ変わっていた。今日はニアンの防寒対策は万全だ。外套や手袋、襟巻、膝掛けまである。
レリアとカーナがお古でよければと、いろいろなものをくれるのだそうだ。お古というわりに真新しい物も多く、ほとんど使わないままに譲ってくれているのではとニアンは気にしている。
ロカからすればくれるというならもらっておけばいいと思うのだが。
荷車にはクッションと毛布があって、そちらはルスティがニアンのために用意していた。疲れたときには休めるようにということだ。
皆ニアンに甘いとロカが言えば、薄着で凍えさせながら旅を続けさせるどこぞの男とよりまし、と耳の痛いことを言われた。
「馬は人を見る。舐められたら駄目だろうな」
「舐められたんですか……」
さらにニアンがしょげてしまったので、まずいとロカはフォローの言葉を紡ぐ。
「いや、こいつは気難しいと聞いている。他の人好きな馬なら大丈夫じゃないか?」
「ロカのいうことはきくのですから、この子はロカが従うべき人だって思ったってことでしょう?逆にわたしは雑魚なんです。やっぱり舐められてる」
「雑魚……」
プ、とロカは吹き出してしまった。
そのせいでニアンが拗ねてしまった。
「そこで笑っては台無しです。慰めるなら最後まで続けてください」
「今度馬の乗り方を教えるか?」
「それ、慰めているんですか?」
「馬で走ると気持ちいい。――がニアンは馬車で移動のほうがいいのかもな。落馬しないか気に病まなくていい」
ロカがからかうとニアンがさらに臍を曲げてしまう。
「どうせ運動は不得意です」
言いながら膝からずれた膝掛けを引っ張り上げた。
それを見たロカは手綱から片手を離してニアンの頬に触れた。
「っ!なんですか?」
ニアンが驚いたような声を上げる。
「寒いのかと」
しかし手袋をしていたためよくわからなかった。それを外してもう一度手を伸ばすとニアンの頬はひやりと冷えていた。
「冷たいな。荷台で毛布にくるまっておくか?」
「ロカの手が温かいんです。寒くないですよ」
「本当か?」
伯爵家では寒いのが当たり前であったらしいニアンは、寒さに鈍感になっているように思う。
ロカが尋ねるとニアンは思い切った様子でくっつくように身を寄せてきた。
大胆な行動に驚いて視線を向けると、はにかみつつも笑顔を向けられた。
「一人より二人で寄り添うほうが温かいです」
そう言いながら体を凭せ掛けてくる。左側に感じるニアンの重みは不思議に心地いい。
「ロカはあったかいです」
「湯たんぽがわりか?」
「前に酔っ払いロカはわたしを湯たんぽにしたじゃないですか」
ニアンは右手の手袋を外すとロカの左手を握ってきた。柔らかな手のひらは温かかった。
「冷たくないでしょう?」
「そうだな」
ニアンがするりと指を組むように手を握りなおしてきた。
グーパーと数回繰り返してうふふと笑う。
「恋人つなぎができました」
「恋人つなぎ?」
「こうやってお互いの手を組むようにつなぐのが、恋人同士の手のつなぎ方なんだそうです。カーナが教えてくれました。で、こんなふうに二人でくっつくのがイチャイチャだって。二人きりのときイチャイチャすればロカが喜ぶって聞いて実践してみたんですけど、でもこれ、わたしが嬉しいです」
すり、と頬を寄せてこられてロカの全神経が左半身へ集中した。
おそらくニアンは軽い気持ちなのだろうが。
(そういや今晩、宿で二人きりなんじゃ)
意識していなかったときならともかく、ニアンを可愛いと思ういまは簡単に理性が飛ぶ気がする。
というかこの状況もまずい。
甘えてくるニアンの体の柔らかさや香り、声、すべてに邪な欲が頭をもたげてくる。
キスをしたい。
荷車には毛布もクッションもある。思ってロカはすぐに否定する。
しかし一度芽生えた邪心は簡単には振り払えなかった。
組み敷いて、裸に剥いて、悶えさせて、泣くほど喘がせて……。
(やばい、勃つ)
やたらリアルな妄想が脳裏に浮かんで、ロカはとっさにニアンに握られた手を解いていた。
「すまん、日暮れまでに町につかないといけないから少し急ぐ。日の入りが早くなっていることを忘れていた。この先の森は冬になると狼が出ることもある。まだ大丈夫だと思うが明るいうちに抜けたい」
「狼ですか。急ぎましょう」
顔つきを改めるニアンは猛獣の話にビクついて、きょろきょろとあたりを見回している。しかしこの辺りはまだ平坦な道と広い平野で安全だ。
左手に手袋をはめたロカはニアンの側頭部を軽く小突いた。
「森はもう少し先だし狼もまだ森の奥深くにいる。餌が少なくなると街道近くまで来て、人を襲ったりもするって話だ」
「そうなんですか。あ、でも狼が出てもロカがいれば大丈夫ですね」
「狼は群れで行動するし、次々に襲ってこられたら無事ではいられないぞ」
「ロカでも駄目ですか?」
「俺は普通の人間だ」
「普通の人より充分強いです」
「ニアンと比べれは少しはな」
「もう、さっきからわたしを馬鹿にするのはやめてください。運動は苦手ですが体は柔らかいんですよ。きっとロカだって驚きます」
どのくらい体が柔らかいか話し出すニアンは、さっきのロカの態度を変に思っている様子はなかった。ロカはうまく話がそらせたと安堵する。
町での宿は出費がかさむがニアンと部屋は別々にしよう。
手綱を握りなおし馬の尻を打ってスピードを上げる。
二人の進む先に森が見え始めた。