そんなこと1
襲撃があった日の夜。
とっくに真夜中を過ぎた時分だがロカはカーナの部屋の扉をくぐった。
そこには枕を背凭れにして、ベッドに半身を起こすニアンの姿があった。茶色のふわりとした柔らかな髪が不揃いなままで、赤紫に変色した頬と相まって痛々しい。
内出血が時間を追うごとにひどくなったようだ。
ロカが部屋に来たことで、ニアンは気まずそうに視線をそらした。
部屋には他にレリアがいて、扉にはニアンが目覚めたことをロカに知らせに来たカーナもいる。
「ニアンと話がしたい。二人ともはずしてくれないか」
ロカの言葉にレリアとカーナは目を見かわした。ニアンが不安そうな顔をしているため出ていきづらいのだろう。
「少しでいい。頼む」
ロカがこう言うと二人は弱り果てた様子でニアンを見た。逡巡したニアンが硬い表情のまま頷く。
レリアとカーナがいなくなるのを待ってロカはベッドに近づいた。側にあった椅子に腰を下ろしてニアンを見つめるも、彼女は下を向いたままだ。
一つしか灯していないランプの明かりでは明るさが足りず表情が読めない。
「傷の具合は?」
話しかけたとたんニアンの体が揺れた。はっきりわかるくらいのビクつき方だった。
「す、少し痛みますが大丈夫です。ロカが助けてくれたと聞きました。ありがとうございます」
「いや、もとはと言えば俺のせいだ。すまん」
「いいえ。わたしこそあんな簡単に捕まってロカにご迷惑を……ごめんなさい。ロカにはもう守るべき人が――カーナがいるってわかっています。だから無茶はしないでください。仕事と家が見つかったら離れます。ロカはカーナを守ってあげてください」
「ちょっと待て。俺とカーナはそんな仲じゃないぞ」
「誤魔化さないでください。ロカの言ってた帰りたい場所。あれはカーナのことですよね。だってロカはカーナにはすごく自然に笑いかけます。冗談も言います。それになにより信頼して頼ります。そういうことをわた……――他の女の子にしたことがないです」
ニアンの手がギュウを布団を握りしめた。
「ニアンの前でも笑うし冗談だって言うだろう」
「親しみ方が違うんです」
散切りになった髪が肩を滑ったのを目で追ったロカは、ニアンの肩が震えていると気が付いた。
ずっとニアンから向けられる気持ちに鈍感であったし、気づいてからも気づかないふりをしてきた。これがそのツケだろうか。
ニアンはすっかり誤解をしてしまって、ロカが何を言っても聞く耳を持たない雰囲気だ。
ひとまずこの話は置いておくか、とロカは話題を変えた。
「ニアン、昼間のことだが高圧的な態度で詰め寄ってすまなかった。ニアンが俺を騙していたのかと思ってしまった」
ロカの謝罪にニアンがそらしたはずの顔をこちらに向けた。
「どういうことですか?あれはロカがわたしを、祖父を見捨てた孫とそう思ったから軽蔑したんですよね?」
「違う。ニアンがしたたかで計算高い女じゃないかと疑ったんだ。弱々しくて危なっかしい女を演じて俺を騙していると思った」
「よくわかりません。「計算高い」とは、町の人たちの計画に乗じ、わたしが伯爵家の責務から逃れようと準備していたのではというお話のことですか?それにわたしがロカの前でか弱いふりをしたとして、そこにどんなメリットがあるのですか?」
尋ねてくるニアンの瞳に嘘はない。
「ああそうだな、ニアンはそういう人間だった。わかっていたはずなのに、人を疑ってかかるのが常だったからニアンを見失った。追い詰めて、言いたくないことを言わせてしまった」
ニアンが返事を探しているように見えた。
さまよう視線と、何度も開いては閉じていた口からやっと声が出た。
「ロカがわたしを追いかけてきたのはそれを言うためですか?」
「あのときはまだちゃんと言葉がまとまっていなかった……が、だいたい似たようなことだ」
「もしかしてロカはわたしに心を許してくれていますか?カーナは別格だとしてもライさんやレリアさん、ルスティに近い位置にわたしはいますか?」
「だからカーナのことは誤解だ。昔この家で暮らしたことがあるから、俺にとっては他人より近い存在なだけだ。俺があんたのことを信用していないなんてことはない」
「でもロカはカーナのことは「おまえ」って……わたしのことは他の人に言うように「あんた」って言います。いまもそうでした。わたしとカーナはロカにとって同じじゃないです」
「そんなことで?」
思ったことが声に出てしまった。
ニアンが口をへの字に曲げたため、ロカはしまったと思う。
「そんなことって……」
いや、だってほんとうに「そんなこと」だろう?
年上のライなどは「おまえ」とは何となく言いづらいため、「あんた」と言っているはずだ。ニアンも聞いているはずで、しかしそこは数に含めないらしい。
「じゃあこれからはニアンのことも「おまえ」と呼べばいいか?」
その瞬間、ニアンがカッとしたように噛みついてきた。
「そうじゃないです。そういうことを言ってるんじゃないんですっ」
いきなりキレられた。
(はぁ?呼び方じゃないのか?)
ロカにはニアンが臍を曲げている理由がまったくわからない。
「じゃあ俺にどうしろと?言いたいことがあるならはっきり言え」
溜息交じりに言ったロカの声には隠し切れない苛立ちが滲んでいた。
表情も声と同じような感情が浮かんでいるだろう。
「何もありません。ロカの用が済んだなら出て行ってください」
ふい、と顔を背けるニアンの態度は昼間のそれと同じだった。
どうしてこうなるんだ。
――普段から命令口調だろ。
ルスティの言葉が脳裏に蘇る。
(誰も命令なんて……)
いや、たったいま言いたいことははっきり言えとニアンに言ってしまった。
(俺、普段からこんな調子で?)
さっきニアンの体を気遣えば彼女のほうも迷惑をかけたと気にして謝ってきたし、昼間のことを謝罪すればきちんと話を聞いていた。
でもいまは、ニアンの態度に苛ついてロカはそれを隠さなかった。
つまり、こちらが不快な態度を見せたから、ニアンも心を閉ざしてしまったのだ。
はー、と長く息を吐きながらロカは頭を掻いた。
ぐだぐだと長話をされると要点を言えと思ってしまう。
けれどニアンにはそれが通用しない。いや、通用させようとしてはいけない。
「ニアン、俺へ言いたいことは全部聞く。まとまりがなくてもいい。わからなければ俺から質問して理解できるよう努める。それでいいな――いいだろ……いや、違うな……いい、ですか?」
命令口調にならないようにと思ううち、どう話せばいいか分からなくなってしまった。
それで敬語にしたのだが、ニアンが目をぱちくりとさせたまま固まった。
「どうした?」
「ロカこそどうしたんですか?どうしてそんな下手に……ていうか敬語?使えたんですか!?」
「俺も敬語ぐらい知っている。下手に出ているんじゃない。ニアンとまた昼間のようになるのが嫌だから――」
嫌だとこぼれ出た言葉にロカ自身が驚いていた。
ニアンに目を向ける。数秒、数十秒と時間が流れていく。
「ロカ、なんですか?……あの、どうして黙ってるんです?何か言ってください」
ただ見つめているだけで、ニアンの頬が赤く染まっていった。
「こんなに見られると緊張してしまいます。何か付いていますか?それとも変ですか?あ、寝起きで髪を梳かしてません――え?あれ?髪が……なんでこんな」
頭を撫でて長さを確認したニアンが、不揃いな長さに狼狽えている。どうやらニアンは髪を切られてしまったことに気が付いていなかったようだ。
「俺がナイフで切った。敵がニアンの髪をつかんで離さなかったんだ」
「え?じゃあいまわたし、髪がめちゃくちゃ」
ニアンがロカの目を避けるように両手で頭を覆った。