そういうこと
一気に外套を引っぺがしたロカは、硬直したまま動かないニアンを見下ろして眉を寄せた。
(は?どうして泣いて――?)
まるで動き方を忘れたように固まったニアンは、強く瞼を閉じたまま唇を噛みしめていた。その唇が切れて血が滲んでいる。
「ニアン?」
ロカが手を伸ばして頬に触れた瞬間、目が開いた。
見上げてくる潤んだ瞳に新たな涙が浮かぶ。
「口を開けろ。血が出ているぞ」
離れる手を追うように、起き上がったニアンがロカに抱きついてきた。衝撃に尻をつく。
「……っう」
わああぁぁんと泣き出されてロカは目を丸くした。
離すまいと力の限り抱きついて大泣きする姿は子どものようだ。
「ニアン、これじゃチビと同じだぞ?」
引き離そうとしても駄目だった。
伸ばすロカの手を振り払い、余計にくっついてくる。
(なんなんだ)
思いながらも好きにさせることにした。しばらくあってロカはニアンの体が震えていることに気づいた。
怖かったのだろうか。
「俺が戻らないと思ったか?」
尋ねてみれば、返事のかわりに抱きつく力が強くなる。
なるほどと納得してロカはニアンの髪にくっつく枯葉を払う。
柔らかく波打つ薄茶色の髪が土で汚れていた。土を落とすためポンポンと叩くとニアンの嗚咽が少し収まった気がした。
これは効くようだ。
落ち着かせるように頭を撫でてあやしていると、しばらくしたら嗚咽が消えて、鼻をすするようになった。
「落ち着いたか?」
ロカが声をかけるとニアンがビクと震えた。そして恐る恐るというように体を起こし、視線を泳がせる。
「す、すみません。醜態をさらしました」
「いまさらだ。いい加減見飽きている」
ロカがニヤと笑うと、うぐ、とニアンが言葉を詰まらせた。いつもなら苦し紛れでも反論してくるが、今回はそれもできないようだ。
ニアンの唇が切れて赤くなっていた。
「唇、見せてみろ」
顎を摘まんでロカがのぞき込むとニアンの頬が赤くなった。
「ロカ、平気ですから」
「動くな。なんだってこんなに強く噛んだんだ」
「怖くて歯が鳴ってしまって。でもロカに黙っているように言われたから……近、ロカ、近いです」
「だからって力任せに噛む奴があるか。血は止まっているか」
ロカが手を放すとニアンが跨いだ膝から慌てて飛びのいた。
「さっきはあんたのほうから抱きついてきたくせに」
ちょっとからかいたくなってこういうとニアンはばつが悪そうに言い訳した。
「あっ、れはちょっと我を忘れていて、わたしがわたしじゃなかったというかですね」
「そうだな。俺たちと別れるときのチビみたく、まるっきり子どもだった」
「スゥちゃん!?」
「チビのやつ、離れるのが嫌だと駄々をこねてしがみついて大泣きしてただろうが。いまのあんたもそんな感じだった」
笑いながらロカは立ち上がった。見上げてくるニアンは、しかし次の瞬間、顔色を変えた。
「ロカ、腕に血が!怪我をして――」
「いや、これはあいつらの血だ」
「本当ですか?どこにも怪我をしていませんか?あ、首に傷があります」
「たいしたことはない」
「だめです。傷薬を塗らないと」
腕を引っ張られて地面に逆戻りしたロカは、切られた首の傷に指で触れた。撫でるとピリと痛むが、血は止まっているのか濡れた感触はしない。
銀階級を相手に油断したつもりはない。残った二人の連携がとてもよく取れていたのだ。
最初に二人仕留めていなければもっと大きな怪我をしていただろう。
ニアンが襷掛けにしてあった泥のついた鞄を探って傷薬を取り出した。
足の怪我にと渡してあったものをそのままにしてあったのだ。
「しみるかもしれません」
塗りやすいように首を傾けると、えらく真剣な様子でニアンが近づいた。細い指が薬を塗りこんでいく。
「傷は浅いです」
「死にかけた奴を励ますような台詞だな」
「剣の傷ですか?」
「いや、ナイフだ。剣は斬るというよりたたきつける感じで、まともに食らうと骨までいく。あとは突くとかな。俺のは片方の刃を研いで斬ることもできるが慣れていないと扱いにくい」
誰かに無防備に首をさらすなどおかしな感じだ。そんなことが頭に浮かんで軽口をたたいていた。
「いまあんたがナイフを隠し持っていたら確実に殺されるな」
「そんなことしません」
真面目に言い返してくるニアンは、すぐにあれと眉をあげた。
「それってロカはわたしの前だと油断してるってことですか?」
赤茶色の瞳と目が合って、ロカ自身もん?と考える。
こんなに自然に肌に触れさせる相手なんていままでいただろうか。
「あー、たぶんそうなんだろうな」
そのとたん、ぱぁとニアンの表情が明るくなった。
全幅の信頼を置いて無邪気な笑顔を向けてくるニアンを、ロカは不思議な思いで見つめる。
もともとは簡単な依頼でとっくに縁が切れていたはずなのに。
ご機嫌で傷薬を鞄にしまうニアンの頭にロカは何気なく手を伸ばした。ぽすぽすと撫でてみる。
「なんですか?」
「なんとなく」
「可愛いなぁって?」
「んー?そういう感情なのか?あんたを見ていたらチビを思い出す……いや、犬っころか」
ぷく、とニアンの頬が膨らんだ。一瞬で不機嫌になってしまった。
「どうせそんなことだろうと思ってましたっ」
「たまによくわからないことで怒り出すな」
頭から離れるロカの手を追ってニアンが強く掴んでくる。
「いつか絶対わからせます」
わからせる?
「何をだ」
「わたしが犬や子どもじゃなくて女だってことをですっ!それでロカはわたしの前で膝を折って今日までの己の見る目のなさを悔やむんです!!」
女に見える日だと?
「そんな日が来るのか?」
「来ますっ!覚悟しなさい」
鼻息も荒く言い切られた。
「じゃあせいぜいいい女になってくれ」
「もちろんです。そのときはロカに口説かせてあげます」
く、とロカは喉を鳴らした。そのまま声をあげて笑い出す。
「え?嘘、笑……」
ニアンがぽかんとしているその顔にも笑いがこみ上げる。
「ちょっとロカ、笑いすぎです。わたしは真剣なんですよ。聞いていますか?……もー」
ひとしきり笑ってからロカはニアンを見た。
どうやらすっかり落ち着いたのか、泣いて真っ赤だった目はとうに元に戻っている。
「行くか」
二人して立ち上がって落ち葉を叩き落とす。
虚から荷物を取ってきたロカは、ニアンが黒く染まる地を見つめていることに気が付いた。
ここに戻った時に、死体は目の届かない場所へ移動させた。それでもニアンには彼らがどうなったかわかっているのだろう。
「俺といればこんなことがまたあるかもしれない」
こちらを見上げてくるニアンが唇を引き結んだ。
そしてもう一度血に濡れた地面を見て、すぐにロカを見つめてきた。
「だから前に、ロカといるより離れたほうがいいって言ったんですか?」
「そうだ」
「ロカは今日、わたしがいるから死ねないって思いましたか?」
「奴らに見つかったらあんたじゃ太刀打ちできないし、どうにか俺に引き付けてさっさと仕留めようとは思った」
「そういうふうにわたしがロカの生きる希望に繋がってるなら離れません」
「俺の生きる希望?あんたが?」
「守る者や帰りたい場所があると人間は諦めが悪くなります。生きる道を探すんです。だから一緒にいます」
「意味が分からん」
「いいんです。わたしが決めました。足手まといでもお荷物でも、ロカが生きてくれるなら側にいます。ロカは必死にわたしを守ってくださいね」
先に歩き出すニアンの背中をロカはぽかんと見つめる。
本当に意味が分からん。
腰に手を当て、はぁと疲れたようにロカが溜息をついたところで、ニアンが振り返った。
「ただしわたしを守るためにロカが死ぬのはなしです。そのときは切り捨ててください。あとロカに本当に守るべきものができたときは言ってください。――それともロカにはそういう人がいますか?」
一瞬、何の話をしているのかとロカは思った。
けれどニアンの真剣な眼差しを見た瞬間、
(あ――)
急に気がついてしまった。返事を待つニアンが緊張している。
「女だということ」をわからせると言った意味――。
「そういう、ことか……」
俯きながらロカは独りごちる。
傭兵という仕事をしていたせいか、特定の女を作ることはしなかった。それでも体をつなげるだけの馴染みの相手は何度かできた。
仕事で離れるうち他に男を作ったり、いなくなっていたり。そん希薄な関係。
愛情なんてものはなく一夜の温もりをほしがるだけだ。
それが性に合っていた。
そんな自分にニアンが向けてくるのは剥き出しの好意で、だから逆に思い至らなかった。
ニアンは両の手を固く握りしめている。
ああ、こんなにもサインは出されていたのか。
「そうだな。ロスロイに行けば俺の帰りたい場所が手に入る」
この言葉をニアンがどう受け取るかロカには予想がついていた。
態と誤解させるように言ったのだ。
「そ、そうですか。じゃあロスロイまでの期間限定でロカの生きる希望でいることにします」
そしてロカの思惑どおりにニアンは居もしない誰かを思い浮かべた。強張る顔がその証。
これでいい。
目が合ったことで笑顔を取り繕うニアンに向かって歩き、ロカはそのまま脇を通り過ぎる。
「なら遅れずついてこい、希望の犬」
「だから犬じゃありませんったら」
ロカの軽口に合わせてニアンが言い返してくる。
ロスロイでニアンの仕事と暮らす家を見つけたら、距離をとって離れよう。
ロカは隣に感じるニアンの気配を振り払うように前だけを見据えた。