この身に染みつくまで
それから二台の馬車に別れモンダ家へ帰るあいだに、やっとニアンはタングルから急にあの場を去った理由を聞かされた。
そして声をかけてきた紳士の目的が、どういったことであったかを理解した。
「今日の夜会は主催者からどうしてもと言われて逃げられなくてね。彼をわたしに紹介した知人も、わたしに会わせてくれとしつこくてかなわないから、一度だけ頼むと頭を下げられたんだ。あの押しの強さはさすが商人といったところだが、わたしが事前に今日の夜会がどのようなものか調べていれば、あなたたちに不快な思いをさせずにすんだ」
それから半刻ほどで戻ったモンダ家には、ニアンたち夜会参加の者だけでなくライとレリアがいた。居間のソファにタングルとカルミナが隣り合い、向かいにニアンとカーナが、そして居間から続く食卓にライとレリア、ヘリングとポロがそれぞれ椅子に座っている。
皆の視線を集めながら話をするタングルは、向かいにあるニアンとカーナだけでなく、ヘリングとポロにも順に目を向けた。
「本当に申し訳なかった」
謝罪する夫に倣ってカルミナも俯くと、カーナが慌てて二人に言った。
「わたしは何も嫌な思いはしなかったし全然気にしてません。っていうかカルミナ、らしくないわよ、顔をあげて」
「俺もこれと言って何もなかった」
「俺も~。うまい飯はもうちょっと食いたかったってくらいか」
三人の返事にタングルとカルミナは顔を見合わせて胸を撫でおろし、ニアンに目を向けてくる。
「ニアンさんは怖い思いをしただろう?」
「そうよね。ロカだってわたしを信用してニアンを預けてくれたのに、あんな目に合わせてしまって……顔向けができないわ」
「大丈夫です。あれくらい全然です」
「いや、今日は仕事でご不在ということだから、後日お詫びに伺わせてもらえるかい?それともこのままお帰りになるのを待たせてもらえれば――確か二人はこちらに仮住まいされているそうだね。……ライさん、よろしいですか?」
タングルが家主であるライを立てて丁寧に尋ねると、ライはいいぞとばかりに手を振った。
「好きにしてくれていい。というか俺に敬語はいらんよ」
「ではライさん、わたしのことはタングルと呼んでくれていい」
「そうさせてもらう。……こりゃルスティが戻ったらどんな顔をするか」
ため息交じりにライがボヤくのをタングルは首を傾げる。
「ルスティ?誰かな?」
カルミナは平静を装っているが、ルスティの名にピクと眉を揺らしたのをニアンは見た。
(もしかしてルスティのことは話してないんじゃ?)
そんな気がしてニアンは、ライが、「俺の息子」と言うのをはらはらとしながら聞いた。
「ご子息はどこに?」
「そこのニアンとロカの新居の修繕をやってる」
「新居?ではニアンさんはもうじき結婚するんだね。それはおめでとう」
タングルがにこやかに祝福する横で、
「え?ロカと結婚!?聞いていないわ」
ルスティの名前が出て固まっていたはずのカルミナが驚きの声を発する。
「違います。わたしたち、つきあったばかりだし結婚とかじゃ……」
「一緒に暮らすんだからいっそしちゃえばいいじゃない。あ、だからロカは傭兵をやめて、護衛の仕事に変わったのね。やだ、ニアンにべた惚れ……だったらすぐにでもニアンと一緒になりたいに決まってるわ」
「カルミナ、こればかりは二人の問題だからね。ほらニアンさんも困っているよ」
タングルにたしなめられてカルミナは黙ったが、納得しかねているようだ。夫の苦笑いにも気づいていない。
カルミナはタングルの前では淑女の皮をかぶっている。だがこの様子から察するに、彼にはどういう人物か見抜かれているのだろう。
祖父であるトムがカルミナは結婚後より我儘になったと言っていたけれど、ニアンはそれとは違った印象を彼女に抱いていた。
確かにトムのいうように驕りともとれる言動があるが、あれは自分がいいと思うものは知ってほしい、一緒に楽しみたい。そんな気持ちが抑えきれないからのように見える。
熱い人であるだけなのだ。強引なところはあっても、悪いと思ったことはきちんと謝ってくれる。
「あら、お湯が沸いたみたい。カーナ、お茶の用意を手伝ってちょうだい」
レリアが竈にかけていた鍋の音の変化に気づいて立ち上がった。いまだドレス姿のカーナが返事をしつつ立ち上がったのに合わせて、ニアンも手伝おうとソファを立てば、ドレスの裾に足を取られたらしいカーナがよろけた。
「ドレスって素敵だけど動きにくい」
「カーナ、わたしがやるから座っていて」
「そお?」
ドレスはスカート部分に膨らみをもたせるためパニエを穿いているが、カーナのドレスはボリュームを重視しているせいか普通より膨らみがあり、扱いにくい意匠だった。
ニアンのドレスは華美でないことから裾回りはわりとすっきりしている。
だからというわけではないが、スカートの布を持ち上げ簡単に竈に歩くニアンは、鍋を下ろしていたレリアの隣に立った。
「ありがとう、ニアン。じゃあそこにカップを並べてくれるかしら?揃いで人数分はないからわたしたちは普段のカップを使いましょ」
「はい」
そう広くはない厨の奥にある食器棚からカップを出していると、タングルの疑問声が聞こえた。
「ニアンさんはなんというか、ドレスを着ていてもとても自然だね」
「え?」
棚を開けていた手を止めて居間に在るタングルへ目を向ける。
「カルミナから東方の町出身だと聞いたけれど、どこかのお嬢様かな?だからドレスを着慣れているのかい?それに言葉使いもきれいだし、所作一つとっても優雅で美しいね」
「あ、それはわたしも思ったわ。カーナと楽しそうに話している姿は普通の女の子なのに、どこか上品で――」
「ちょっと、カルミナ。それってわたしはニアンみたく上品じゃないってこと?」
「怒らないでカーナ。わたしもあなた側よ。結婚を機に変わろうとして、いまは必死で上品ぶっているだけなの。そんなだから簡単にボロが出てしまうわ。マナーは覚えてしまえばいいけれど、日常の仕草や振る舞いはそうはいかないから。ねぇニアン、あなたのそれは何年もそうしてきたから染みついたもののようだわ」
伯爵の孫娘として祖父の下で暮らしはじめて、すぐにマナーの教師がついた。話し方、笑い方、歩き方、座り方、立ち方、姿勢、目線……等々、挙げればきりがない。
それらを毎日厳しく叩き込まれた。できるまで何度も何度も繰り返すのは地獄のようで、あれだけやれば嫌でもできるようになる。そして日常的にできているようにと命じられて過ごせば、この身に染みつく。
けれどもうアルセナールとして生きた自分は捨てたのだ。その名を出さないと大都長と約束もした。
だから今後アルセナールのことを話してはいけないのだ。
(ううん、違う。話さなくてよくなる)
あのとききっとどこかでそう思っていた。
ニアンはカルミナにフルネームを名乗ってしまっていたことを悔いた。
タングルは貴族ではないようだが、裕福な家で生きてきてそれに近い地位にいる。アルセナールの名を知っているかもしれない。
タングルとカルミナの視線を受けて、ニアンは返事ができずにコクンと息を飲みこんだ。ライたち一家やヘリングは、ニアンの事情を知っているだけに一様に無言になっている。
「あのよー、タングルの旦那とカルミナの奥さん。例えニアンがどこかのお嬢様だったとしても、ロカとこの町で生きてくって決めたんだし、だったらそりゃもういらないもんなんじゃないか?」
テーブルに頬杖をついて話を聞いていたポロが、突然、口を開いた。皆の視線を受けた彼は顔を横へ向けて、ソファに座るタングルとカルミナを見る。
「詮索はここらでやめてやんなよ」
「詮索したつもりはなかったが――返答がないというのがそういうことなのか。悪かったね、ニアンさん」
「そうね、もう聞かないわ」
ニアンは返事ができないままカップを人数分用意した。レリアがポットからほんのり褐色に色づく液体を注いでいく。甘酸っぱい柑橘系の香りが部屋に広がった。
「いい香りだ」
厨に近い食卓につくヘリングがポツリともらすのが聞こえたのか、レリアがニコニコと嬉しそうに笑った。彼女は茶が大好きで、たくさんの茶葉をストックしては、気分によって飲む種類を変えている。
「そうでしょう。これはね、とっておきの――」
「ただいまー!」
裏通りに面した扉のほうから若い男の声がして、レリアの言葉は遮られた。ルスティのものだ。
「寒っ」などと声がして足音が複数近づいて来たと思ったら、居間の扉が大きく開いた。
「そこでロカとばったり会ってさ。見てよ、こいつの服。髪も整えられたとかで気障ったらしぃ――げっ、カルミナ」
ロカの腕を引っ張って部屋に入ってきたルスティが目を見開いて硬直した。
「ルスティ、いま「げっ!」って言った!?」
カルミナがギロとルスティを睨みつけると、彼は回れ右をして部屋を逃げ出した。はずがそれはかなわず、ロカがルスティの腕をつかんでソファに引きずっていく。
「毎回毎回うっとうしい。座ってろ」
言いながらロカはルスティの膝裏を蹴って、カルミナの向かいとなるソファに彼を座らせた。先ほどニアンが座っていたところだ。
とたんにルスティは蛇ににらまれた蛙のごとく固まってしまう。
ロカはそんな親友を気にするでなく、腰にあった剣を外して、人から遠ざけるように壁にそれを立てかけた。剣の側に、持ち帰った荷袋を置く。
振り返ったロカは厨にいるニアンに顔を向け、目が合うと表情を和らげる。
(はぅわぁぁぁーーー)
ニアンは近づいてくるロカに目が釘付けになった。仕事に出たときはいつもの服を着ていたはずが、夜会に参加するブルーと妻を護衛するため、礼服に着替えたらしい。
剣と一緒に床に置いた荷袋の中身は、おそらく普段着だろう。
以前、大都長に会うときに着ていた紳士服も良かったが、今日は剣を携えることも考慮してか、上着の前身ごろがが短く、町を守る警備人の正装にも似た、シャープな印象をうける意匠の礼服だ。
涼しげな目元をしたロカには、凛として見えるこういう服がとても似合う。
「おかえりなさい、ロカ。早かったのですね」
「ああ、思ったより早く解放された――どうした?じっと見て。どこか変か?」
「いいえ、とってもとってもお似合いですっ!恰好いい……」
ニアンはそこで周りの注目を浴びていることに気がついて我に返った。
「……デス」
興奮していたことが恥ずかしくなってしぼんだ声音になってしまう。カルミナがニアンのほうを向いて、なぁんだとばかりに言った。
「ロカだけかと思ったらニアンもベタ惚れ」
ニアンは頬が一気に熱くなるのを感じた。
「はぁ?」
ロカが意味が分からないというような声をあげ、それを合図に周りが吹き出した。
くすくすと笑う皆を見て、ロカ同様に首を傾げていたルスティが、思い当たったようにロカに言った。
「誰から見てもおまえらは相思相愛って言ってんじゃないの?あ、もしかしてニアン、夜会で声でもかけられた?でロカなんかやめてそっちに行けって話をしてたところに、ロカが帰ってきたとか――そしたらニアンがおまえに見惚れて、それ見たカルミナがベタ惚れって……くそぅ!羨ましい、ロカ地味に不幸な目にあえ」
瞬間、カルミナが吐き捨てる。
「親友の不幸を願うなんて小っちゃい男」
「あぁ?冗談にきまってんだろ。本気と嘘の区別もつかないとこは相変わらずだな」
ルスティが負けじと言い返したところで、
「ルスティ」
と、いきなりカルミナの夫であるタングルが割って入った。名前を呼んだだけにしては大きな声だった。
「――とお呼びしても?」
タングルは斜め向かいに座るルスティに、やたらと愛想のいい笑顔を向ける。
「え、……ああ」
「わたしのことはタングルと。で?妻とはどういったご関係で?」
ニアンにはタングルが笑っているようにはぜんぜん見えなかった。笑顔が恐ろしい。
ルスティと口喧嘩していたはずのカルミナは蒼白になって、隣に座る夫を見れないようだ。
「どう、って……幼馴染み?ロカとカーナも含めて4人で遊んだりとか」
「へぇ?それはそれは……子どものころから妻とは仲良くしてもらったようで」
「いや別に」
「でもいつまでも同じ感覚でいられても、ね。まさか当時の頃のように、なんて思ってないだろうね?」
タングルに見据えられたルスティはすぐに首を振った。
「それはない。というかあり得ない。カルミナと結婚したタングルを尊敬するくらいだ、俺は」
「ちょ……どういう意味!?」
カルミナがカっとした様子を見せた隣でタングルは怖い笑顔を消すと、見慣れた柔和な表情に戻った。そして腰を浮かしてルスティに手を差し出す。
「彼女の良さはわたしだけが分かっていればいい。改めてよろしく、ルスティ」
「はは。こちらこそ」
苦笑いを浮かべてルスティも中腰になるとタングルの手を強く握り返す。
「タングル、それってどういう意味なの!?」
「君の素晴らしさはわたしが一番知っているということだよ」
タングルはカルミナの手を取って甲にキスする仕草をすると、彼女に向って優しく微笑んだ。
怒っていたはずのカルミナはみるみる赤くなると、「今日は誤魔化されてあげる」と小さく言った。
(ふわぁ~、タングルさんって王子様みたい)
二人を見ていたニアンはほぅっと彼らを羨んで、厨近くに立つロカを見た。
タングルとカルミナのラブラブっぷりを無表情で眺めているだけで、全く感情が読めない。
(ロカに同じことを望んでも無理よね)
甘い言葉もお姫様扱いも、「意味が分からない」と真顔で言いそうだ。
そこへレリアがニアンの耳にこそっと囁いた。
「ニアンから甘えればロカだって極甘になるわよ」
「……っ」
驚いて耳を押さえてレリアを見つめれば、彼女はふふと笑って頷いた。
本当だろうか?
半信半疑でニアンはロカへ視線を向ける。と、今度は彼に気づかれた。
そういえば今日はロカは一段と恰好が良かった。王子というより騎士のような凛々しい佇まいは、見るたびに胸が高鳴りドキドキする。
見つめられるだけで熱くなる顔を隠すように、ニアンはロカから顔をそむけた。
「ニア――」
「ロカさん、失礼、ご挨拶が遅れました。わたしはタングル・ウッド。タングルと呼んでいただければ結構です」
「俺のことはロカでいい。敬語もいらない」
ライが育ての父親の一人だからか反応が同じだ。タングルがライにチラと目を走らせる。
カルミナからロカの生い立ちは聞いているようだと、その様子からニアンは思った。
「そうですか。では……今日のことで少し話が――いいだろうか?」
タングルがロカに声をかけたことで、何か言いかけていたロカの気がニアンからそれた。
「今日お連れした夜会でニアンさんを不快な目に合わせてしまった。わたしがもっと注意して情報を集めていれば……本当に申し訳ない」
タングルの謝罪にロカは眉を寄せ、しかしすぐにハッとした様子を見せた。
そしてニアンに顔を向ける。
「何をされた!?」
その様子にニアンは理解した。
副ロスロイ長夫妻の護衛として夜会に参加したロカもまた、あそこで何が行われているか知ったのだと。