Aster
街灯やお店の光など、人の生活している光が一切ないその場所では、月の光だけが視界を照らし、場の全てに色を与えていた。
フェンスにより、入ることを禁止されている崖の近くの草原。
そこは星を眺めるには最適な場所であり、〝立ち入り禁止〟と書かれている以上誰の邪魔も入らない場所だ。
そんなところへ、少し重たい望遠鏡を提げた少女がやって来たかと思えば、躊躇いもなくフェンスをよじ登り中へと入ってしまった。
人がしばらく立ち入っていないその場所は、草花が元気に風と踊っている。
名前の分からない多くの花や草が彼女の脛をくすぐるがあまり気にしていないらしい。
道を作りながら崖の近くまで行き望遠鏡を下ろすと、流石にのびのびと育っている草花が鬱陶しかったのか、自分のいるところから大体半径二メートルくらいの小さな円を作るようにして草を踏み潰した。
目障りになる草があらかた平らになった辺りで整地作業をやめ、望遠鏡を組み立てる。
その望遠鏡は、数年前に彼女の父親が買ったものだが、新品のように綺麗にしてある。
いや、新品も同然なのだ。なぜなら今日初めて表に出たのだから。
ずっと物置に仕舞われていたそれを持ち出そうと思ったのは一週間前に訪れた突然の別れが理由である。
彼女の父親は星が好きだった。
昔はよく星空の下で家族一緒にご飯を食べたり、星の話をよく聞かせていたりしたのだが、彼女が十歳のとき病気を患ってしまい、望遠鏡を使うことなくこの世を去ってしまった。
息を引き取る直前まで、月光が差し込む夜の病室で星を眺めながら「父さんは星になるんだ、何も悲しくなんかないさ」と言って笑っていた。
月の明かりは冷たく、海に向かって真っ直ぐ降り注いでいる。
父の遺品整理が終わり、心に多少の余裕ができた今日、ふと外を見ると月が丸く輝いていた。
それを見て、何か明確な目的が浮かんだわけではないが、なんとなく、星を見に行こうと思ったのだ。
優しい風を受けながら、潰した草の上に座って望遠鏡を覗き込む。
そこに広がる風景は地球とはかけ離れた別世界で、一瞬にして全ての意識をすくい上げて行く。
真っ暗な宇宙に浮かぶ無数の星は形を作り、川を作り、神話を作る。
そこに意味があるのか、ないのか、そういったことはどうでもいい。
目に入る広大な景色は、無意識の中に潜り込んできては体中を染め上げ、まるで自分もその一部であるかのような感覚に陥れる。
夏の心地よさが残る星空は、夏の大三角がはっきりと見えていたが、ベガとアルタイルの間にある星の数は減り、夏のような立派な天の川ではなくなっている。
秋に入ればアンドロメダ座やカシオペア座が見えるはずなのだが、まだ夏が名残惜しく空を占領しているらしい。
望遠鏡を通して見える世界は膨大で、広大で、無限だ。
常に終わりと隣り合わせの世界にいる人間とは違う。
人が死ぬのは本当に突然で、細い糸がぷつりと切れてしまうように簡単だ。
終わりの見えない有限をただひたすらに歩いて行く人生。
そこに何の意味があるのだろうかと漠然とした不安に包まれることがあるが、こうして広い世界を見ているとそんな悩みなど無駄でちっぽけなものに思えてくる。
自分の存在など、小さなものなのだと。所詮、意味など無いのだ。
意味を持たせる必要もない。終わりが来るのなら、それを甘んじて受け入れよう。
父の死を見て、彼女はそう思った。
一度目を離して水筒を取り出す。
もう夜の十一時になるが、しばらく帰るつもりはないらしい。
彼女のカバンからは軽食や、毛布など、いろいろなものが出てくる。
水筒を仕舞ってもう一度望遠鏡を覗き込むと、そこには先程と変わらない世界が広がっていた。
が、突然、蓋をされたかのように視界が遮られた。
驚いて目を離すと、望遠鏡の前で天体観測を妨害するように一人の少年が立ち尽くしていた。
何を見ているのかは分からないが、何も言わずにただ立っている。
「ここ、立ち入り禁止ですよ」
人に言える立場ではないのだが、彼女は少年の目を見てなるべく笑顔でそう言った。
少年は旅の途中のような、変な格好をしている。
しかし、それにしては荷物が少ない。
髪の色は白に近い灰色で心なしか光っているように見える。
草が生い茂っているため、人が入れば音が聞こえて来るはずなのだが、彼女は全く彼の存在に気付かなかった。きっと集中しすぎていたのだろう。
そんなことを考えながら返答を待っていると、少年はやっと彼女の目を見て困惑の表情を浮かべた。
「ねえ、ここってなんて惑星?」
出会い頭に惑星の名前を聞かれるということは普通に生きていて数少ない経験だろう。
一瞬返答に困りながらもふざけ半分に「地球だよ」と教えてあげるとなおさら困ったような顔を浮かべる。
「地球なんてもう覚えてないよ……」
ポツリと呟くとその場で考え込んでしまった。
折角の天体観測に邪魔が入ってしまったことはさして気にしていないのだが、せめてその場所から移動してほしいと思った彼女は座ったまま「そこをどいてもらえる?」と優しく伝えた。
すると、彼は移動して彼女の隣に座った。
退けるようにとは言ったが、まさか自分の隣に座られるとは思っていなかった彼女は言葉を失う。
そんなことなど気にせず無言のまま考え込む彼の目は宇宙のような藍色をしていて、僅かに輝いている。
その目からは彼の考えを伺うことが出来ない。しばらくすると、彼の方から声を発した。
「どうせ興味ないだろうけど、僕の話を聞いてもらえるかな。僕は不幸のあまりこの辺境の地で朽ち果てようとしている。だから、要するに、愚痴だよ。僕はこの行き場のない悲しみを吐き出したいんだ」
突然そんなこと言われて友達のように承諾する人はまずいないだろう。
だが、彼女は彼の提案を承諾した。
ここまでの会話から、いや、会話という会話はしていないのだが、彼が普通ではないということが分かった。つまり、今の直線的な人生に大きな変化をもたらしてくれる、そう思ったのだ。
「聞いてあげるよ、何か期待に添えるような反応とか、そういうのは出来ないけれど、聞くだけならできるから」
「聞くだけでいいよ、どうせ分かりはしないんだろうからね」
藍色の目は宇宙のように広く輝いているが、どこを見ているのかは分からず、見ていると吸い込まれそうになる。悲しい表情を浮かべながら、彼は淡々と話し出した。
「僕は、流れ星なんだ、広大な宇宙を旅してる。過ぎも戻りもしない時間の中を漂いながら多くのものを見てきた。星の誕生、消滅、本当にたくさんのものをね。旅をしていると時々、願い事が聞こえてくることもあった。誰のものとも知らない、小さな願いが。僕たちにはそれを叶える力があった。君らみたいな惑星にいる人たちには無いんだろうね、そういった力は。まあ、それはどうでもいいんだ。時々聞こえて来る願いを叶えながら旅をしていたら、いつの間にか僕は太陽から遠ざかっていた。僕たちは陽の光がなければ光ることが出来ない。急いで太陽の方へと戻ろうと思ったけれど、僕は途中で力尽きてこの地球に墜落してしまった。なんとも悲しい結末だよ」
微かに光を放つ彼が落ちてきた星なのだと聞いて、不思議と驚きはなかった。
そんな疑問を浮かべるよりも、彼女は彼の話が聞きたくてたまらなくなったのだ。
「流れ星が消えてしまう前に三回お願い事をすると願いが叶うって言うけど、本当だったんだ。ねえ、僕たちって言ってたけど、他にもお友達がいたの?」
「いたさ、皆落ちてしまったけど。旅をするのって結構大変なんだ。僕らは光がなくては生きていけないからね。その点、僕は最高に嫌なとこに落ちたものだよ」
「どういう意味?」
「だって、この星には光が届いてないじゃないか、真っ暗だ! せめて太陽の光が届く惑星ならまた僕は宇宙へと戻れたのに」
彼は、今が夜だということを知らないのだ。なんだか面白くなって、彼女はクスクスと笑った。
「朝になれば、また太陽が昇って来るよ」
「朝って、一体いつ来るんだい」
時計に目をやると、時刻は零時近くを指していた。
この時期の日の出の時刻は五時から六時くらいだ。
だが、時間の概念がない彼には数字を述べたところで伝わりはしない。
だから、彼女は「そのうち来るよ」と曖昧な返事を返した。
いつ来るかも分からない朝を待つことを不安に思った彼は悲しそうに空を見つめる。
捉えどころのない瞳から不安を感じ取った彼女はこう提案した。
「一緒に待ってあげようか、朝が来るのを」
「いいのかい?」
「うん、その代わり、一緒に星を見よう」
他にするべきことがない彼はもちろんその提案を受け入れる。
時間の経過は人によって感じ方が変わるものだが、彼らにとって時間はあっという間だった。
星座や、遠い星、地球のことなど、話題は尽きない。
午前三時を回った頃、彼女が一度立ち上がり背伸びをした時、彼は何かを見つけた。
それは、潰れてしまった紫苑の花。
淡い紫色をした花は押し花にされたように潰れてしまっているが、それでも一つ一つの花弁をしっかりと開いている。
「それは紫苑っていう花なんだよ。その花の花言葉は、追憶、遠方にある人を思う、だった気がする」
お父さんはね、と彼女は続ける。
「星になったんだよ。きっと今も空から見てるんだ。だから遠くにいたって寂しくない。もし、貴方が宇宙に戻れたら、その時はお父さんをよろしくね」
人は死んでも星になったりはしない。彼はちゃんとそれを知っていた。
彼女が本気で言っていないこともちゃんと分かっていた。
「もし僕が宇宙に戻れたら、その時は君の願いを叶えてあげるよ、願い事はあるのかい?」
「願い事かあ……なら、この瞬間を、忘れないようにしてほしいな」
潰してしまった紫苑の花を見ながら、冗談混じりに呟いた。
「なんだ、そのくらいなら今だって叶えられるよ」
彼はそう言って自分の髪の毛を一本抜くと、手の上に乗せた。
髪は光りながら形を変えて行き、最後にはネックレスへと変貌する。
「僕のカケラ、つまり、星のカケラ。これをあげるよ。星にはね、歴史を記録する力があるんだ。だから、それを持っていればこの瞬間を忘れることはない」
ネックレスを受け取って首から下げてみると、彼と出会った瞬間からの景色が走馬灯のように駆け巡った。
他愛もない会話も全て。
ふと、ネックレスがキラリと輝く。
視線をあげると、空と海の境界線が紫のようなオレンジ色に染まり始めていた。
「見て、朝になるよ」
ゆっくりと世界を染めながら太陽が昇るにつれて、徐々に彼の光が戻り出す。
灰色だった髪は白に、暗い深淵のような藍色の目は明るいスカイブルーに。
太陽が完璧に顔を出すと、彼も完全に元の光を取り戻した。
「これでまた旅に戻れるよ」
「元気でね」
「本当にありがとう」
人の形が崩れ小さな光の姿に戻ると、瞬く間に消えてしまった。
まだ微かに星の残る空を見上げる彼女の足下で、ただ一本残された小さな紫苑が優しく風に揺られていた。