第九十八話 楽園の在処
〝セイイキ〟へと続くぐらぐらの橋の上を、一歩一歩慎重に進んだ。
一昨日の晩、クムと一緒に歩いたときはそうでもなかったのに、何だか今日はとっても橋が長く感じる。歩いても歩いても、全然先に進んでないみたいだ。
ゆえに不安を感じたルルは立ち止まり、ちらと背後を振り向いてみる。
そこには豆粒みたいに遠くなったラッティやポリーの姿があって、ルルが振り向いたことに気がつくと、石とか貝殻とか骨とかがぶら下がった橋の入り口から大きく手を振ってくれた。
ラッティの頭の上にいるはずのヨヘンは、残念ながら小さすぎてもう見えない。
(……ラッティとポリーとヨヘン、だいじょぶかな……?)
けれどもルルの一番の不安は、ラナキラ村に残していく獣人隊商の仲間のもとにあった。何故ならルルを見守るラッティたちの隣には、あの緑の帽子を被った悪霊みたいな人間がにこにこ顔で佇んでいる。
──あいつがラッティたちに何かしたら、どうしよう。
やっぱり引き返そうか、とルルは思った。グニドもヴォルクも魔物退治に行ってしまった今、ラッティたちを守れるのはきっと自分だけだ。
何しろみんなは、人間の形をした悪霊の正体に気づいていない。
ルルは何度もそのことをグニドに伝えようとしたけれど、うまく伝えられなかった上に、いつもあの悪霊に見張られている気がして怖くて口を閉ざしてしまった。
でも、ここでルルが引き返したら、クムが倒れてしまうかもしれない。
魔物に襲われた森も燃えていて、放っておくのはとても危険だ。
ラッティはルルの力で雨を呼んで、森の火を鎮められないかと言っていた。
ルルならたぶん、それができる。
〝セイイキ〟の中に入ってしまえば、霊樹の力も借りれるだろうし。
(グニド……)
退くも進むも不安で不安で仕方がないけれど。
ルルはきゅっと唇を引き結び、ぐらぐらの橋を支える蔓製の縄をしっかり掴んで前へ進むことを選んだ。グニドならたぶんそうすると思ったから。
(でも、グニド……はやくもどってきて)
竦む足で、一歩一歩。気が遠くなるほど長い時間をかけて、ルルはようやく村の広場から対岸へと渡り切った。そこから先は霊樹の幹を取り巻くように、ぐるぐるの階段が上へ上へと続いている。
一昨日の夜には灯火代わりだった花はみな萎れていて、籠の中で朽ちていた。でも今日はまだ昼だから、ところどころ苔に覆われた霊樹の幹がよく見える。これなら階段から足を踏み外し、真っ逆さまに落ちてしまう心配もなさそうだ。
(クムはこの上にいるのかな……?)
と階段の先を覗き込んでから、意を決して足を上げた。朽ちた花の籠がぶら下がる綱を手摺代わりにしっかり掴んで、一歩ずつ上を目指す。そうしながら、
『王さま』
と呼びかけてみるものの、霊樹は何も答えなかった。……何だか変だ。一昨日の晩はあんなにおしゃべりで、ルルの知りたいことには何でも答えてくれたのに。
(なんだろう……このへんがざわざわする)
階段を一段上がるごとに弾んでいく呼吸を整えながら、ルルは白い貫頭衣越しにぎゅうっと自身の胸を押さえた。そこにはルルが生まれたときから刻まれている変な模様があって、確かグニドたちは万霊刻とか呼んでいたっけ。
ルルに精霊の声が聞こえるのは万霊刻のおかげだ、と教えてくれたのも森の王さまだった。でも、万霊刻は今もちゃんとここにあるのに、やっぱり聞こえない。
王さまの声も、噎せ返るほどに森を満たしていた精霊たちの声も。
(ついた)
やがて何度も何度も挫けそうになる心を叱咤して長い階段を上り終えたとき、ルルはもうへとへとだった。島の暑さも手伝って体はぐっしょりと汗に濡れ、肩は大きく上下している。けれども最後の一段を踏み締めて、あの晩、クムと共に王さまの声を聞いた場所へ辿り着いたとき、ルルの呼吸はひゅっと音を立てて止まった。
苦しくて苦しくてちゃんと呼吸したいのに、足もとから全身が凍りついて、どうしてもうまく息が吸えない。
『あ、あ……』
代わりに震える唇から零れたのは、言葉にならない小さな悲鳴。
何故なら立ち尽くすルルの視線の先では、血まみれのクムが倒れていた。
どうして。そう叫ぶよりも早く、恐怖と混乱で涙が込み上げてくる。
しかもクムはただ血を流して倒れているわけじゃない。
その姿は、まるで、そう──何だか生贄みたいに見える。
『クム……!』
ずっしりと重い湿度を孕んだ空気の中に、生臭い血のにおいが満ちていた。
たぶん、クムの周りの丸くて赤黒い変な模様も全部血で描かれているのだろう。
ルルにはそれが何なのか分からない。でもきっとよくないものだ。
本能的にそう感じる。血の円の中に書かれた文字みたいなものや模様の意味は分からないけど、王さまが喋れなくなっているのもきっとあれのせい。
だとしたら、消さなきゃ。消さなきゃ、消さなきゃ、消さなきゃ!
「……マイ・ヘレ・マイ……」
けれどもルルが本能に突き動かされ、クムが倒れている板の上に上ろうとしたときだった。うつぶせに倒れたクムの瞼が微かに開き、乾いた唇から声が漏れる。
ひどく掠れて弱々しい声だった。でも、確かにクムの声だった。
クムは生きてる。助けられる。今なら、まだ……!
『クム! ルル、助けにきたよ! ルルが助けるから、だいじょぶだよ……!』
言葉は通じないと分かっていたけれど、それでもクムを安心させたい一心でそう声を励ました。そうして一目散に駆け寄り、傍らに膝をつく。
クムのおなかに開いた穴から流れ出る血は、ほとんどが床板の隙間から滴り落ちて、血溜まりにはなっていなかった。
おかげで既にどれくらいの血が失われてしまったあとなのか分からない。
だけど傷が小さくても、血がたくさんたくさん流れてしまうと危険だということはルルにも分かっていた。ルエダ・デラ・ラソ列侯国で目にした戦争では、怪我ではなく血を流しすぎたことが原因で死んでしまった人もいっぱいいたから。
(このヘンな模様もはやく消したいけど、今はクムをたすけなきゃ……!)
ルルはクムを真ん中に閉じ込めるように描かれた円を一瞥したのち、すぐにクムの背中に手を翳した。そこにある傷を癒やすため、ぎゅっと目を閉じて心の中で助けを求める。──水精。水精、水精、水精、おねがい。クムをたすけて……!
『……あれ……?』
ところが何か変だった。
どれだけ強く念じても、水精が全然応えてくれないのだ。どうして?
ルルは戸惑い、思わず自身の両手へ目をやった。おかしい。精霊たちがルルの呼びかけを無視したことなんて、今まで一度もなかったのに……。
「へえ。封神術は人工刻にも有効なんだ。さすがに大神刻まで封じるのは無理だと聞いてたけど、まざりものはやっぱり質が劣るんだな。これは本国に要報告だ。モアナ=フェヌアの魔女や獅子王を仕留めるのにも役立つかも」
ところが刹那、頭上から人の声が降ってきてルルの心臓が飛び跳ねた。あまりに驚きすぎて破れてしまいそうな胸を押さえ、とっさに声のした方を仰ぎ見る。
途端にぞっと背筋が凍った。
『あ……』
と、また言葉にならない悲鳴が漏れて、ルルはその場に尻餅をつく。
立ち上がらなければと思うのに、ガクガクと足が震えて動けなかった。
何故なら見上げた先で枝に腰かけ、ルルを見下ろしているのは──悪霊。
ラッティたちと共に村に置いてきたはずの、人の姿をしたあの悪霊だ。
『な……なんで……』
と思わず竜語で呟き、しかしルルは自分が竜語を喋っていることに気づかなかった。それくらい気が動転してしまって、思考がうまく働かない。何かを考えようとしても心臓の音がバクバクと鳴り響いて、頭の中の言葉を掻き消してしまう。
「やあ、ルルちゃん。君のことが心配で、やっぱりついてきちゃったよ。あ、もちろんラッティさんたちには内緒でね。だって止められたり一緒についてこられたりしたら面倒だからさ」
緑の外套をまとった悪霊は、自分の膝に頬杖をついたまま白々しくそう言うと、次いでちらと倒れているクムを見やった。
その眼差しのあまりの冷たさに、ルルはますます手足が凍りつく。
「ああ、でも……何だか思ったより大変なことになっているみたいだね? クムさんはもう助からないみたいだ。残念だなあ」
「……うそつき」
「え?」
「あなたは、だれ? どうしてこんなひどいことするの……!」
声帯さえも凍りついてしまいそうなほどの恐怖を喉の奥に押し込めて、ルルはどうにか声を絞り出した。それはあの悪霊が、クムのことを少しも残念なんて思っていないことが手に取るように分かったからだ。
そして、この事態を引き起こしたのはたぶんあいつだということも。
「あれ? おかしいなあ、名前なら名乗ったと思うけど。僕はジェレミー。吟遊詩人のジェレミー・ノリスだよ」
「ちがう。あなたは〝ジェレミー〟じゃない」
「……どういう意味かな?」
「ルル、わかる……あなたのなまえ、どこにもない。だから〝ジェレミー〟もちがう。あなたは、だれ? とてもわるいものといっしょにいる……」
震えた声でそう告げたルルの目には、見えていた。ずっと見えていたのだ。
自らを〝ジェレミー〟と呼ぶ名無しの人間の周りに渦巻く、ひどく邪悪でおぞましい気配が。アレを〝悪霊〟以外に何と形容すればいいのか、ルルは知らない。
ただジェレミーはその悪霊をまったく恐れていないどころか、まるで自分の一部であるかのように振る舞っていた。だからルルは彼もまた悪霊だと思ったのだ。人間でありながら狂暴な悪霊たちを従えて、味方にしてしまっているあの男を……。
「あっははは、僕が〝悪いもの〟と一緒にいるって? ルルちゃんは面白いことを言うなあ。でも大丈夫だよ。それは君の勘違いだから」
「かんちがい……?」
「うん、そう。だって僕は神様の使いだもの。神様っていうのはね、この世で一番神聖で正しい存在なんだ。だから僕が〝悪いもの〟と一緒にいるなんて、そんなのは間違いだよ。まあ、もっとも無名諸島の住人や竜人みたいな、文明から遠い暮らしをしてるイキモノは、今も神を畏れ敬うということを知らずに生きているみたいだけどね」
笑っているのに笑っていない、寒気がするほど冷たい口調でそう言って、次の瞬間、ジェレミーはひょいと枝の上から飛び降りた。
そうしてクムの巣に降り立った悪霊はしかし、びっくりするほど音を立てない。
あんなに高いところから着地したなら、普通はもっと重い音がするはずなのに。
「さて、ルルちゃん。それじゃあ君に質問だ。君は神様を信じるかな?」
「かみ、さま……?」
「そう、神様。僕たち人類を生み出し、やがて楽園へ導いてくれる存在。エマニュエルの創造主にして、絶対的な支配者でもある神様を」
そう言いながら一歩、また一歩と近づいてこようとするジェレミーから、ルルは尻餅をついたままあとずさった。そして懸命に考える──神様?
死の谷を出たばかりの頃、ルルはポリーから〝神様〟というのは精霊の別の名前だと聞いた。たとえばルルが風精と呼んでいる精霊は、人間には風神と呼ばれる。
また水精は水神と、火精は火神と、地精は地神と。
でも、人間が神様と呼ぶものの中にはルルが知らないものもたくさんいる。
たとえばカルロスの中にいたという正義神とか、これからルルたちが行こうとしているアビエス連合国を創った博愛神とか。
(そんなの、精霊の中にはいない……)
ポリーが夜毎眠るときに聞かせてくれた〝神話〟と呼ばれる物語では、確かに世界を創ったのは神様だと言われていた。最初は何もなかったエマニュエルという無の中に神様が生まれ、神様の青い血が流れて海となり、肉や骨が大地となった。そして神様の流した涙が星となり、星が流れて地に落ちると人間が生まれた、と。
(だけど、ちがう)
とルルは思う。確かに人間を創ったのは神様かもしれない。
でも、少なくとも神様は、ルルたちを楽園なんかに連れていってはくれない。
だって、もし人間の言う〝神様〟がルルのよく知る精霊のことなら、彼らはそんなことはしない。精霊というのはただそこに在り、声はあれども意思はなく、ルルたちが呼びかけたときにだけ応えてくれるものだから。
(精霊はルルたちになにもしない。たすけて、っておねがいすればたすけてくれるし、あそぼう、って言えばあそんでくれる。でも、ルルたちをどこかにつれていったり、ああしろ、こうしろ、なんて言ったりしない。ただずっと傍にいるだけ。ルルたちを見守ってくれてるだけ……)
だから、神様がルルたちを楽園へ連れていってくれるなんて話は真っ赤な嘘だ。
もしどうしても行きたいのなら、ルルたちは神様に連れていってもらうのではなく、自分の足で探して辿り着かなければならない。
途中で道に迷ったり、危険が迫ったときには神様が助けてくれるだろうけど。
でも頼れるのはそこまでだ。神様はルルたちをいじめたり滅ぼしたりしない代わりに、導きもしないし、救いもしない。
「……かみさまは、いるよ」
「……へえ?」
「ルルを、いつもたすけてくれるのが〝かみさま〟なら……かみさまは、いる。でも、たぶん、ルルの知ってるかみさまと、あなたの〝かみさま〟はちがう」
「……違う?」
「だって、ルルは〝らくえん〟なんて知らない。そんなの、エマニュエルのどこにもない。でも、だからルルたちは、みんななかよく、たのしく暮らせるように、がんばるの。かみさまは、それをときどき、たすけてくれるだけだよ」
ルルが震えたままそう告げれば、途端にジェレミーが動きを止めた。
そうしてじっとルルを見つめているみたいだけれど、帽子の出っぱりが作る影のせいで、どんな顔をしているのかよく見えない。
「ふ……そっか。神様は時々助けてくれるだけ、か。ふふふ……ははははっ!」
ところがしばしの沈黙のあと、ジェレミーが突然声を上げて笑い出したものだからルルは驚き、またしてもびくりと跳ねた。一体何が可笑しいのか、ジェレミーは緑の帽子を押さえると、なおもくつくつと笑いを噛み殺している。
「まあ、確かに君の言うことにも一理あるかもしれないね。実際、神に祈っても助からないやつは助からないし、そのせいで〝千年も眠ったままの神様なんてあてにならない〟なんて不信心なことを言い出す輩もいるわけだから」
「……?」
「でもね、ルルちゃん。僕は思うんだ。それって要するに、神様から助ける価値がないと判断された人間の言い分なんじゃないかってね」
「たすける……かち?」
「そう。つまり神に祈っても助けてもらえないような人間は、いてもいなくても同じってことさ。いや、より突き詰めた言い方をすれば、生きていたところで《新世界》へは行けない人間、かな? 神々が復活したのちに開かれる楽園への扉を潜れるのは、常に正しく、信心深く、最後まで神を疑わなかった者だけと言われているからね。そこから漏れた人間は、どれほど神に祈っても助かるわけがないんだよ。だって彼らは間違っていて、冒涜的で、心の底では神を信じてはいないんだから」
刹那、顔を上げたジェレミーの瞳の中に、ルルは明確な狂気を見た。
見開かれた碧眼の奥で爛々と輝いているのは、狂信と恍惚と優越感。
そのときルルは初めてジェレミーが本当に笑う姿を見た。笑顔と言うにはあまりにも恐ろしくて、見る者に本能的な恐怖を与えるものだったけれど。
「だけど、ルルちゃん。君はまだ間に合う。間に合うんだ。何たって君は、生まれながらに神に選ばれた人間だからね。僕と一緒に来れば、君は必ず《新世界》へ辿り着ける。神々が築く飢えも寒さも争いもない世界で、死に怯えることなく生きられるんだよ。こんな醜くて不条理な世界には別れを告げて、ね」
「……っ」
「ほら、何を怖がる必要があるんだい? 夢のような話じゃないか。《新世界》へ渡ればもう二度と怖い思いも、苦しい思いもしなくていい。これは君や僕のような人間にだけ与えられた特権なんだ。なら選ばない理由なんてないよね? 大丈夫、約束するよ。エシュア様は必ず僕らを《新世界》へ連れていってくれるから──」
「──行かない」
「え?」
「ルルは、行かない。行かなくていい」
と、ルルが半ば叫ぶように答えたら、またもジェレミーの動きが止まった。
ルルを誘うように両手を広げ、狂気で歪んだ笑みを貼りつけたまま。
その隙にルルは立ち上がった。両足はまだぶるぶると震えているけれど、ちゃんと立って、立ち向かわなければならない、と思ったから。
「やっぱりあなたの〝かみさま〟と、ルルのかみさまはちがう。だって、ルルのかみさまはえらばない。どんな人だって、みんな生きてていいよって言ってくれる」
「ルルちゃん、」
「だったらルルはそっちのかみさまがいい。あなたの〝かみさま〟は、きらい!」
だから共には行かないと、ルルはきっぱりそう告げた。
これだけは絶対に告げなければならないと、心の底からそう思った。
だって今のジェレミーの話が本当なら、たぶん彼の信じる〝神様〟はルルのことは許しても、グニドのことは許してくれない。何故ならグニドは神様を信じていないし、ルルと出会うまでたくさん人を食べていたから。
グニドはそのことを間違いだったと思っている。ルルと出会って、ラッティやカルロスやカヌヌと出会って、人間はただの食べものではないと知ったから。
だからグニドは列侯国で、一度はルルを手放そうとした。過去に悪いことをした自分なんかと一緒にいたら、ルルまで悪者にされてしまうかもしれないから、と。
──だけど、ルルはグニドが好き。大好き。
楽園なんかに行けなくたって、グニドとずっと一緒にいられればそれでいい。
どんなに怖くても苦しくても、グニドがいてくれれば平気だし、幸せだ。
だから、嫌い。グニドを許してくれないだろう神様なんて大嫌い。
誰が一緒に行くもんか。同じくらいグニドのことが大好きだったスエンやエヴィがここにいたら、きっとこう言う。〝クソでも喰ってろ、穴蜥蜴野郎〟と。
「は……はは……はははははは……!」
ところがルルの怒りとは裏腹に、ジェレミーはまた帽子を押さえて笑い出した。
今度も可笑しなことは何も言っていないはずなのに、まったく失礼な悪霊だ。
ルルはそう憤慨しかけたが、しかしすぐにさっきとは様子が違うと察知した。
次に顔を上げたとき、ジェレミーはもう笑っていない。
口もとは確かに笑っているけれど、心はまったく。
「そうか。それが君の答えなんだね、ルルアムス。残念だよ。せっかく僕がエシュア様をとりなしてあげようと思ったのに……今の君の答えを聞いたら、あの方は君を生かしてはおかないだろうね」
「……っ!」
「でもしょうがない。僕らとしては君の胸の神刻さえ手に入れば、ひとまずは満足だからさ。器はまた新しいのを用意すれば済むことだし……そういうことだから、悪いけど一緒に来てもらうよ? 君は嫌みたいだけど、大丈夫。だったら怖い思いをしなくて済むように、眠らせてあげるから……」
笑みの形に歪んだ口から悪霊をまとった言葉を吐いて、ジェレミーが手を伸ばしてきた。途端にルルの本能が警鐘を鳴らす。逃げなければ!
ここでは何故か万霊刻の力が使えない。つまりルルに戦う術はない。
だとしたら、精霊に声が届くところまで逃げなくちゃ!
必死でそう急かすのに、悪霊に絡め取られた両足が凍りついて動かない──
「バチン!」
ところがジェレミーの指先がいよいよルルに触れようとしたときだった。突然ルルの首もとからすさまじい光と力が弾けて、ジェレミーの手を弾き飛ばす。
これにはさすがのジェレミーも驚いたようで「うわっ……!?」と声を上げあとずさった。ルルには何が起きたのか分からない。
けれども刹那、喉のあたりで、何かがチリリと揺れるのを感じた。
「ああ……どうやらカヌヌ君の話は本当だったみたいだな。人蛇族が生み出した魔石、か……まったく忌々しい邪教の一族め。こそこそ隠れて生き延びようとするくらいなら、さっさと滅んだ方がお互いのためなのに……」
弾かれた手に一瞥をくれたあと、ジェレミーは無感情な口振りで言いながら、不意に自身の腰の後ろへ腕を回した。
かと思えば長い外套で隠れていた背中から、変な筒状の道具を取り出す。
その筒は片方の先端がぐにゃりと曲がって持ち手のようになっていた。細かい装飾や筒の長さは違うけど、ヴェンが持っていた火を噴く筒によく似ている。
ジェレミーはそれを迷わずルルに向けた。
そうして筒の下から飛び出した小さな突起に、迷わず人差し指をかける。
もし。
もし、あれがヴェンが使っていたものと同じ火を噴く筒ならば。
ルルには一瞬先の未来が分かって凍りついた。そう、ジェレミーがあの突起にかけた指を軽く引けば、ルル目がけて真っ赤に燃える火の玉が飛んでくるはず──
「──プロ・ハリ、エ・コクア・マイ・イア・マーコウ……!」
瞬間、恐怖と混乱でぐしゃぐしゃになったルルの視界を黄金の光が塗り潰した。
あまりにも突然の出来事に、ルルは「わっ……!?」と悲鳴を上げて腕を翳す。
だけど、今度は何が起きたのかすぐに分かった。
この光は霊樹の光だ。ワイレレ島の森の王。その金色の王冠の真ん中に、杖をついて立ち上がり、ルルを守るように背を向けた影がある。
「クム──」
ルルが彼の背にそう呼びかけたとき、光の中でクムが少しだけ振り向いた。
あの老人は、笑ったのだろうか。
まぶしすぎてよく見えなかったけれど、そんな気がする。
「いきなされ、精霊の愛し子よ」
真っ赤に濡れた唇が紡いだ声は、ルルがこれまで聞いたどんな声よりも温かくてやさしかった。
小さくてしわしわで真っ黒なクムの背中が、黄金の光の中に、消える──