第九十七話 混沌が笑う日
その魔物には頭が三つあった。
黒くて長い首の先には、血のように赤い眼を見開いた蛇の頭部が乗っている。
腕のない胴には一対の飛膜。遠目に見てもグニドの二倍はあるあの巨体はいかにして宙に浮いているのだろう。いや、魔物の生態など真面目に考えるだけ無駄か。
やつらは地上の常識など通用しない、遥か地の底の住人なのだから。
「ヌングシュ・ウガ・アナ・イング・レナハ。アナ・イング・シシハ・キワ!」
長い時間をかけて踏み倒された草の道を駆けながら、ときに先頭をゆくクワトが背後に向かって声を上げた。彼の後ろには共にワイレレ島に留まった数名の鰐人がいる。いずれも頑丈に加工された樹皮の鎧を身につけた鰐人族の戦士たちだった。
さらに彼の傍らには、原始的な槍を携えたカヌヌの姿もある。鰐人たちはワイレレ島の地理に暗いため、ラナキラ族の長たるカヌヌが先導に立っているのだ。
「……! マモノが来マス!」
刹那、立ち止まったカヌヌがうず高く生い茂った叢に槍を向け、叫んだ。と同時に激しい葉擦れの音を立て、視界を覆う緑の中から黒い塊が飛び出してくる。
それは一見、獣の姿のヴォルクに似ていた。狼のような頭に二又に別れた尻尾。
ところが体のどこにも毛は生えておらず、灰色の皮膚が全身を覆っている。
しかし何よりも強烈に目を引くのが、頭部や四肢、胴体の至るところでぎょろめく無数の眼、だ。
「多眼獣……!」
その魔物の姿を捉えたヴォルクが、剣を抜き放ちながら眉間を歪めた。
多眼獣。どうやらあれはそういう名前の魔物らしい。
体のあちこちで別々の意思を持って蠢く魔眼は、黒い結膜に真っ赤な虹彩という禍々しい色合いをしていることもあり、とにかく不気味だ。
しかも敵は一体ではない。恐らくは群で行動する魔物なのだろう、叢からは人間のにおいを嗅ぎつけた多眼獣が次々と飛び出し、瘴気混じりの唾液を撒き散らしてやかましく吠え立てた。姿こそ見えないものの、茂みの奥にはさらに大きな群がいる気配があり、あちこちから獣の吠え声が聞こえてくる。
「かなりの数だ。こいつらを何とかしないと、消火作業どころじゃない……!」
「ダガ、空ノ魔物ガ──」
と、グニドは鬣が焦燥でひりつくのを感じながら、濃い枝葉に覆われた空を仰ぎ見た。すると葉の隙間から、上空を悠々と移動する巨大な魔物の姿が見える。
三つの頭を備えた空飛ぶ大蛇は地上の喧騒になど目もくれず、ラナキラ村の方角へゆっくりと移動していた。村にはラナキラ族の戦士の半分を残してきたが──彼らのもとにはルルがいる。ルルを託してきた獣人隊商の仲間たちもだ。
「くっ……とにかく今は、ムラのみんな、耐えてくれると信じて戦うしかありマセン! 地上のマモノ、放っておいたら、隠した女子供も襲われてしまいマス!」
「ラナキラ族の女性や子供はどこに隠れてるの?」
「イスグの滝の近く、デス。でも、森の主の上と違って、地上のマモノ、入れてしまう……だから、ココで止めないと……!」
「だけど、絶海の孤島にこんな数の魔物が突然現れるなんて……明らかに何かおかしい。慎重に戦わないと──」
とヴォルクが言い終えるのを待たず、茂みの向こうから現れた新手の多眼獣が彼へと襲いかかった。ヴォルクはそれを即座に斬り捨て、ピンと立てた黒い耳で懸命に状況を探っている。
だがヴォルクの言うとおり、確かに何かがおかしかった。昨日まで魔物の気配などまるでなかったワイレレ島に、これほど大規模な魔群が出現するなんて──
(まるで飛空船が襲われたときと同じ……誰かが魔物を呼び寄せたみたいだ)
カヌヌが族長の試練から無事に戻り、ラナキラ族と鰐人族の同盟も成って皆が安堵したのも束の間。この瞬間を待ち侘びていたかのような魔物の襲撃に、グニドも何らかの作為を疑わずにはいられなかった。周囲では既に魔物との戦闘が始まり、ラナキラ族や鰐人族の戦士たちが勇ましく魔群へ吶喊している。
グニドも飛びかかってくる魔物を斬り伏せながら、必死に思考を巡らせた。
一行は現在、炎に包まれた東の森へ向かう道にいる。
まずは現場までの安全を確保し、一刻も早く火の手を消し止めるためだ。ところが予想外に魔物が多い。昨夜の雨で湿った森にどうして突然火がついたのかも分からないし、空飛ぶ大蛇は今もルルたちのいるラナキラ村を目指して移動中だ。
一体何がどうなっているのか。魔群を食い止めなければならない焦りと状況が飲み込めない混乱で、グニドは目の前の戦いに集中できなかった。
クワトと数名の戦士を置いて先にブワヤ島へ戻ったヌァギクは、この状況を予見できなかったのだろうか? ヴォソグ族の密偵がこそこそと島を嗅ぎ回り、ラナキラ族の女や子供の居場所を探っていたことを見抜いた彼女なら、突然の魔群の襲来を事前に察知していたとしてもおかしくはないのだが……。
(もちろんヌァギクもすべての未来を見通せるほど万能ではないだろうが……ヴォソグ族の侵入なんかより魔物の方がよっぽど大事だ。なのにヌァギクが予見できなかったということは、やはりこいつらはただの魔物じゃない、のか……?)
少なくとも魔群の襲来を予期していたのなら、ヌァギクはせっかく率いてきた鰐人族の戦士たちをさっさとブワヤ島へ帰したりはしなかったはずだ。仮にそうしなければならない理由があったのだとしても、帰路に着く前にカヌヌやクムへ警告しただろうし、ワイレレ島に残るクワトにもよくよく言い含めておいたことだろう。
だがヌァギクがいずれの行動も取らなかったとなると、考えられる可能性はひとつ。アビエス連合国を目指して旅していたグニドたちが、無名諸島に不時着することになったそもそもの原因──すなわち〝魔物の召喚〟を突発的に実行した者がいるのではないだろうか?
(マドレーンは魔人や魔女と呼ばれる人間でなくとも、魔物を喚び寄せることは可能だと言っていた。仮にこいつらが、飛空船を襲った魔物と同じように喚び出されたんだとしたら……船を沈めた犯人がもう一度魔物を喚んだ? もしそうなら、そいつの狙いはラナキラ族じゃない。きっと──)
「グニド!」
ひとつの恐ろしい仮説が脳裏をよぎり、グニドがぞっと足を止めたときだった。
鋭い声に名を呼ばれ、はっと顧みた先で、眼前に迫りつつあった多眼獣が吹き飛んでいく。危うく瘴気まみれの牙にかぶりつかれるところだったグニドを救ったのはクワトだ。彼はラナキラ族のものよりいくらか短い槍を握っているものの、得物をむやみに振り回すことはなく、今も拳で豪快に魔物を殴り飛ばしてみせた。
「ク、クワト……スマン、助カッタ」
「アティ・アティ。ナケド・ンフェファ・ヤ・ニィ」
と、クワトは鰐人族の言葉で答え、自分とグニドの胸もとを交互に指さしてみせた。初めは何を伝えようとしているのかと首を拈ったが、どうやらクワトはグニドが鎧を身につけていないことを気にしているらしい。それもそのはず、グニドは島でも魔物と戦うことになるとは思っていなかったから、暑くて重い鉄の鎧は船に置いてきてしまった。おかげで今はいつもの袖なし服を一枚羽織っているだけだ。
けれど鎧がないと言えばラナキラ族の戦士も同じ。
カヌヌを始め、島の人間たちにはそもそも鎧を着込むという発想がないらしく、全員が着の身着のまま──というか腰蓑一枚の裸状態──で槍を振るっていた。
そんな無防備な状態だから、当然ながら既にあちこちで死傷者が出ている。
樹皮の胸当てと硬い鱗、ふたつの鎧に守られた鰐人族は一切被害を出していないのに対し、ラナキラ族の被害は深刻だった。
カヌヌも懸命に仲間を守ろうとしているものの、槍捌きが精彩を欠いている。
何しろ彼は昨日の試練開始以来まったく休んでいないのだ。一族のため不眠不休で島を走り回ったあとのカヌヌは、もはや体力の限界だった。
「カヌヌ。オマエ、コレ以上戦ウハ危険。下ガッテイロ。魔物、オレタチ、倒ス」
「いえ、大丈夫、デス……族長が、ココで、戦わないと……同胞に、信じてもらえマセン……! せっかく長になれたのに、みんなの信頼、失くしたら……ボクは、ラナキラを守れマセン……!」
「ムウ……」
カヌヌは肩で息をして、今にも倒れてしまいそうだったが、それでも両足を地に踏ん張り、何とか槍を構えて立っていた。確かにここで族長が撤退したらラナキラ族の戦士たちは浮き足立ち、統率が取れなくなってしまうだろう。
ただでさえ一族内でのカヌヌの心証は悪い。
もともと戦嫌いの臆病者と軽蔑されていた上に、長になるや否や独断で鰐人族と結ぶことを決めてしまった彼を、快く思っていない仲間も多いはずだ。
だからここで踏ん張らなければならないというカヌヌの言い分も分かるのだが、放ってはおけない。彼は既に全身汗だくで、黒い肌がてらてらと光を弾いていた。
あれがただの汗ではなく、冷や汗や脂汗であることは一目瞭然だ。
ゆえにグニドはヴォルクと目配せし合い、すぐに頷いて互いにカヌヌの左右についた。するとその様子を見たクワトもグニドたちの意図を察したようで、短槍を構え、背中合わせでぴたりとカヌヌの背後に立つ。
「ナラバ、オレタチ、オマエ、守ル。ダカラ、オマエハ、前ダケ見テイロ」
「グニドサン──」
「とにかくこいつらを片づけて、早く村に戻らないと。ラッティたちが心配だ」
「エ・フイ・フー・ワウ、ルナカヒコ・オ・ラナキラ。エ・フェレ・アク・カーコウ・イー・カ・モクフニ」
ヴォルクに続いて口を開いたクワトは、鰐人語ではなくクプタ語でカヌヌに何か伝えたようだった。途端に唇を引き結び、瞳を潤ませたカヌヌの全身に闘志がみなぎったのが分かる。
「ハイ……! 絶対に、みんなも島も、守ってみせマス!」
そう答えるが早いか、カヌヌは槍を低く構えた。それを合図にヴォルクも剣を、グニドも大竜刀を、クワトも短槍をそれぞれ構える。体のあちこちで見開かれた魔眼をぎょろつかせ、グニドらを囲んだ多眼獣が一斉に飛びかかってきた。
魔物の吠え声とグニドたちの咆吼が、森の中で交差する。
×
どんどん勢いを増す火の手を遠くに認めて、ラッティは不安と焦燥に駆られていた。消火に向かった仲間たちは無事だろうか。本当はラッティも彼らと共に行きたかったのだが、森に魔物の気配が満ちているのを見て、ヴォルクやカヌヌに止められた。皆が命懸けで戦っているときに、自分はまた留守番だ。
──何か。なんでもいい。アタシらにもできることはないか?
村に残った戦士たちが集まり、どよめく樹上の桟橋で、ラッティもぎりと切歯する。森の異常を察知するや否や飛び出していったというクムは不在で、族長のカヌヌも戦いに出てしまった今、村に残った者たちは誰もが不安をあらわにしていた。
それもそのはずだ。何しろ火消しに向かったカヌヌたちの安否は、ここからは何も分からない。そうこうする間にも島の人間たちが最も恐れる炎が森を呑み込み、じわじわと村へ近づきつつある。
だが一番の問題は、森から火の手が上がった直後、島の上空に躍り出た巨大な魔物だ。三つ首の蛇が竜の翼を生やしたような化け物は、しばらく火災現場の上空を旋回していたかと思えば、やがて何かに呼ばれるように赤い眼をこちらへ向けた。
そして今、悠然と翼をはためかせ、村へ近づいてこようとしている。
「ら、ラッティ、やっぱりあの魔物、こっちに向かってきてるわヨ!? か、か、隠れた方が……!」
「けど隠れるったってどこに? アタシらだけで森に迷い込んだら遭難するよ! おまけに今は魔物もうろついてるし……!」
「あああああッ、くそっ! こんなときにリベルタス提督はどこ行っちまったんだよ!? ぶっちゃけあの人だけが頼りだったのに、気づいたらどっか行ってるし!」
と、小さな頭を両手で抱え込んだヨヘンが、ラッティの肩で飛び跳ねながら騒いでいた。が、今回ばかりはヨヘンの言い分にも一理ある。
アビエス連合国第一空艇団提督、ヴェン・リベルタス。
本国からの救援部隊を待つ間、連合国軍による無名諸島への干渉を防ぐべく人質となっていたはずの彼は、この騒ぎが起こってから間もなく姿を消し、所在が分からなくなっていた。確かグニドたちが集落を下りて森へ向かったときまでは傍にいたはずなのだが、詳しい状況が何も分からず、ラッティたちが右往左往しているうちにどこかへ行ってしまったのだ。
ヴェンは確かに大酒飲みのろくでなしで、騒ぎが起こる直前も酔っ払っていたものの、一応は一軍を指揮する経験と肩書きを持った人物。
ならばここは彼に音頭を取ってもらい、カヌヌやクム不在のラナキラ村をどう守るか作戦を立ててほしかったのに、肝心なときに行方を晦まされるとは思わなかった。そうなると頼みの綱はカヌヌが残していった戦士たちだが、ラッティは彼らと意思の疎通ができない。通訳のカヌヌがいないと何を言っているのかサッパリ分からず、どうするつもりなのかもどうすればいいのかも尋ねられない状況だ。
(せめて海の上にいる艦隊が、島の異変に気づいてくれてりゃいいんだけど──)
無名諸島の近海上空で待機しているアビエス連合国軍の空艇団は、現在艦に残ったマドレーンやエクターが指揮している。
彼らが島から上がる火の手に気づき、戦艦を率いてきてくれると大変心強いのだが、正直望み薄だろう。何故なら彼らは無名諸島への上陸を禁じられていて、提督であるヴェンが人質に取られている以上身動きが取れない。
空艇団には島の現在の状況が何ひとつ伝わっていないはずだから、迂闊に動けば現地民の怒りを買ってしまうと、アビエス人たちも戸惑っているはずだ。
ならばどうする?
ラッティたちが頭を抱えている間にも、三つ首の魔物は刻一刻と近づいてくる。
もう時間がない。
村に今ある戦力だけで、一体どうやってあの巨大な化け物に抗えばいいのか──
「──ヒャッホォウ!! 戦争だぜェ!!」
ところがラッティが、怯えるポリーとルルに「逃げよう」と告げるか否かの決断を迫られていた、刹那。
突然場違いなほどご機嫌な哄笑とはしゃぎ声が聞こえて、ラッティは思わず、
「……は?」
と呟き顔を上げた。するとそんなラッティたちの眼前を、一艘の小舟が轟音を奏でて通りすぎてゆく。風圧でラッティたちの髪や服がバタバタと騒いだ。
もちろんその風を生んだ小舟というのは、海に浮かぶ普通の舟じゃない。
飛空船──いや、高速艇だ。
「り……リベルタス提督!?」
一行は我が目を疑った。しかしやはりどれだけ目を凝らしても、最新鋭の高速艇を乗り回し、森の上をビュンビュン飛び回っているのはヴェン・リベルタスだ。
──ああ、そうだった。忘れてた。
そういやあの人、大酒飲みでろくでなしの戦闘狂だったっけ。
どうりで姿が見えないと思った。ヴェンが現在高笑いしながら乗りこなしている艇は、ラッティたちが最初に上陸したブワヤ島からワイレレ島へ移動する際に乗ってきたものだ。アレは島での逗留を終えて艦に戻るときに必要だからと、カヌヌたちの許可を得てラナキラ族の浜辺に係留させてもらっていた。
そしてヴェンはたったひとりで、誰にも告げず艇を取りに向かっていたわけだ。
恐らくは魔物を見た瞬間、戦闘狂の血が騒いでいてもたってもいられなくなったのだろう。数日前、空艇団が空で魔物に襲われたときもそうだったし。
「よう、デカブツ! ようこそ未開のジャングルへ! ここで会ったのも何かの縁だ、歓迎するぜェ! というわけで、死ね!」
片手で器用に操舵輪を操り、命綱すらつけずに飛ぶヴェンは、笑いながら物騒な言葉を吐いて右手を三つ首の魔物へ向けた。その手にあるのは言わずもがな、アビエス連合国ではごく一般的な武器である希術銃だ。ヴェンが勢いよく引き金を引けば、たちまち筒状の銃身から炎弾が飛び出す。全長一枝(五メートル)はあろうかという魔物の前では、それはあまりに小さな一撃に見えたが、しかし炎弾は命中するや否やボンッと音を立てて炸裂し、魔物に悲鳴を上げさせた。
「おおっ! 効いてる!」
と、空中で魔物の巨体が揺らぐのを見たヨヘンが、肩の上で興奮気味に飛び跳ねる。彼がそうして歓声を上げている間にもヴェンは二発、三発と、魔物に向かって惜しみなく炎弾を撃ち込み続けた。
とは言えあれほど巨大な魔物が一方的にやられるだけのわけがない。魔物は己の周囲を小蠅のごとく飛び回るヴェンを煩わしげに睨めつけると、三つの首で威嚇するように咆吼し──直後、巨体に似合わぬ俊敏さで胴から伸びた尾を振り抜いた。
「あっ……!?」
と、それを見ていたポリーとルルが青ざめて口もとを覆う。
ヴェンを乗せた高速艇は、鞭のごとくしなる魔物の尾があわや直撃するかに見えたところで急旋回し、ギリギリのところで攻撃を躱した。
しかしヴェンもヴェンで、まるで人間離れした反射神経だ。飛空船をほとんど自分の体の一部のように操り、常に魔物の一手先を読んで船体を飛ばしている。
あれが果たして戦とは無縁な連合国の軍人の芸当か?
(やっぱり、アビエス大戦を生き延びた英雄は格が違う……!)
あんな飲んだくれを素直に褒めるのは何だか癪なのに、ラッティは自然と口角が上がるのを堪え切れなかった。アビエス連合国の建国者にして現宗主の神子もそうだが、彼と共に南西大陸の歴史を塗り替えたヴェンやマドレーンはやはり生ける伝説だ。数日前の空戦のように魔物がうじゃうじゃいるならいざ知らず、一対一の勝負ならヴェンにも充分勝算がある。というか、彼ならきっと何とかしてくれるという根拠のない信頼が沸き上がってくる。
「いけぇーっ! 提督、やっちまえー!」
そしてどうやらそれはヨヘンも同じだったようで、彼はしきりに拳を突き上げ、力の限りヴェンに声援を送っていた。そんなヨヘンの様子を見たラナキラ族の戦士たちまで気づけば口々に応援らしき言葉を叫び、雄叫びを上げて、腕や槍を振り回している。なんというか、もはや一種の見世物みたいな熱狂だ。
「ら、ラッティ……!」
「うん。魔物はたぶんヴェンさんが何とかしてくれるよ。問題は火消しに向かったカヌヌたちの方だけど……」
「こ、ここからじゃなんにも分からない……でも、あの火の燃え広がり方を見る限り、消火活動はまだ始まってないんじゃ──」
「──ああ、いたいた。ラッティさん!」
ところが刹那、ヨヘンたちの大騒ぎを後目にポリーと状況を整理していたら、突然後ろから名前を呼ばれた。誰かと思って振り向けば、そこにいたのは緑の帽子に緑の外套という、森に溶け込むような格好の──吟遊詩人だ。
「ジェレミーさん!? アンタもどこ行ってたの? さっきから姿が見えないなとは思ってたけど……!」
「あれ、心配してくれてた? ごめんごめん。実はクム様のことが心配で、どこに行ったのか探し回ってたんだけど……ときにラッティさん、ちょっとだけルルちゃんを借りてもいいかな?」
「え?」
ヴェンと同じく突然消えて突然現れたと思ったら、ジェレミーはまったくわけの分からないことを言い出した。ルルを借りる? この非常時に? 一体何故?
何の脈絡もない要求にラッティが困惑していると、ジェレミーは「実はね……」ともったいつけるように言葉を続けた。
こんなときだというのににこにこと、緊張感のかけらもなく。
「どうもクム様は精霊の力を借りるために〝聖域〟へ行ったみたいなんです。雨乞いでもして火を鎮めるつもりなのかもしれないけど、クム様はカヌヌくんを試練へ送り出すための儀式で力を使い果たしてる。あれからまだ一日しか経ってないし、今のクム様じゃあの火を鎮めるなんてとても無理だと思うんだ。下手したら無理が祟って、今度はクム様が倒れちゃうかも……」
「あ……だ、だからルルの力を借りたいって? この子ならクムさんに代わって、島に雨を呼ぶこともできると……?」
「うん。だってルルちゃんは、カヌヌくんたちが言うところの〝精霊の愛し子〟なんでしょ? 一昨日の晩もクム様と一緒に〝聖域〟に入って、何かすごいことをしでかしたみたいだし……僕もラナキラ村のみんなにはすごくお世話になったから。何とかして彼らを助けたいんだ」
広い帽子の鍔が落とす影の下で、ジェレミーはそう微笑んだ。
なるほど。確かにルルの力があれば、もう一度奇跡が起こせるかもしれない。
森の〝聖域〟を目覚めさせ、カヌヌに神託をもたらしたあの晩のような……。
(だけどグニドは、ルルにあまり力を使わせたくないと……クムさんと〝聖域〟に行ったときのアレもたぶん、万霊刻の力、なんだよな……? 島のみんなは精霊の力だと思ってくれてるからいいけど、もしルルがあんな強力な神刻の持ち主だってことが露見したら……)
人の口に戸は立てられない。特にジェレミーは世界中を旅し、物語を鬻ぐ吟遊詩人だ。彼を信用しないわけではないが、この島で知り得た様々な知識を、外の世界であまり大っぴらに語られては困る。だが今はこうしている間にも森に火の手が広がっているのだ。放っておけば島全体が大変なことになるかもしれない。
鎮火に向かったグニドたちも魔物の妨害に遭っているようだし……となれば現状をどうにかするためには、やはりルルの力を借りるしか……。
「……ルルちゃん?」
ところがそのときラッティは、ポリーがルルを呼ぶ声で我に返った。見ればルルはジェレミーの視線から身を隠すようにポリーに抱きつき──震えている。
(……なんだ? ひょっとして、ジェレミーさんに怯えてる……?)
そう言えばルルは初めてジェレミーと顔を合わせたときも、珍しく人見知りするような素振りを見せた。
確かあのときもグニドにひしと抱きついて、離れようとしなかったはずだ。
カヌヌやクムにはすぐになついたのに、ジェレミーにだけはいつまでも怯えた様子を見せるのは何故だろう。こう言っては失礼かもしれないが、ジェレミーはいかにも吟遊詩人という肩書きがお似合いの優男で、大陸の人間とは見た目も言葉もずいぶん違うカヌヌたちよりよっぽど馴染みやすいはずなのに。
「……ルル。ジェレミーさんはこう言ってるけど、アンタはどう? クムさんを助けに行ける?」
「……」
「怖いなら無理しなくていいんだ。奥にクムさんがいるとは言え〝聖域〟にはアンタひとりで入らなくちゃならないし……」
「……ルル、ひとり?」
「ああ。何せあの吊り橋の向こうには、村の霊術師と特別に許された人間しか入れないって掟があるから……今は非常事態だし、多少の掟破りも許されるかもしれないけど、部外者が勝手に立ち入ったりしたら、精霊がそっぽを向いちまうんじゃないかと思うと、ね」
「……。ルル……ひとりなら、行ってもいい」
「えっ?」
「ルルも、クム、たすけたい。だから……ひとりなら、セイイキ、行く」
(いや、あれだけ年長のクムさんを呼び捨てって……)
ルルにもそろそろ敬称というものを教えておかないとな、と思わず苦笑しそうになって、しかし問題はそこではないとラッティは思い直した。
何故って、ルルは今、とても奇妙なことを言っているのだ。あんなに怯えた様子でいるくせに〝聖域〟に入るのが自分ひとりなら行ってもいい、って……?
「ほ、本当にひとりで大丈夫なの、ルルちゃん? それならせめて、誰かにグニドだけでも呼んできてもらって……」
「ああ、確かにグニドさんならルルちゃんの保護者だし、特別に〝聖域〟に入ることを許してもらえるかもね。なら僕が行って呼んでこようか?」
「──ダメ! グニドに近よらないで!」
ところが直後、響き渡ったルルの答えは、またしてもラッティを驚かせた。
グニドに近寄らないで? どういう意味だ?
まさかルルはジェレミーがグニドに何らかの危害を加えると思っている? 同じ迫害に苦しんだ身だからと、半獣の自分たちをも受け入れてくれたジェレミーが?
グニドは人喰い獣人と呼ばれる竜人だから……?
「あはは、そっか。ルルちゃんはグニドさんを誰にも取られたくないんだね。だけどそうなると、本当にルルちゃんひとりで〝聖域〟へ行くことになるけど……」
「……ルル、ひとり、平気。セイイキ、森の王さま、いるから。だから、ついてこないで。ルルは、ひとりがいい」
「大丈夫だよ。僕もラッティさんたちと同じで〝聖域〟には立ち入れないから。でも、ルルちゃんが駆けつけてくれれば、クム様もきっと心強いと思う。いいですよね、ラッティさん?」
何故だろう。そう言ったジェレミーに笑いかけられたとき、ラッティはぞっと背筋が寒くなった。ついでに尻尾がビリビリして、先っぽの毛までぶわりと逆立つ。
──なんだ、この感覚?
本当にルルを行かせてもいいのか?
自分の中に眠る獣の第六感がそう言っている気がする。
胸騒ぎがするのだ。ひょっとすると自分はまた、キーリャのときと同じ間違いを繰り返そうとしているのでは──
「じゃ、僕らでルルちゃんを〝聖域〟の入り口まで送り届けましょう。今のところ村の中は安全そうだけど、一緒に行けるギリギリのところまでは、念のためについていった方がいいと思う」
「あ、ああ……そう、だな……じゃあ、行こうか、ルル」
「……うん」
頷いたルルの表情は明らかに暗かったが、彼女はラッティには逆らわず、黙ってポリーの陰から進み出てきた。
かと思えば今度はラッティの傍らに立ち、ぎゅっと手を握ってくる。
(……やっぱり、震えてる)
止めるべきか否か。ラッティは正答が見つからないまま、震える両足で小さな体を懸命に支えているルルを見下ろした。けれどもラッティの脳が最適解を弾き出すよりも早く、ジェレミーが「行こう」と促してくる。
(グニド……ごめん。だけど今は、島の命運が懸かってるから……!)
今は自分にもグニドにも、そう言い聞かせるしかなかった。
不安に揺れるラッティの視線の先で、ルルの首輪から垂れる七色の宝石が、チリチリと意味ありげに揺れている。