第九十六話 たとえ道は分かれても
カヌヌが人蛇の森から戻るのを待つ間、ラッティが言っていた。
カヌヌはキーリャのことが〝スキ〟だったのだと。この場合の〝スキ〟というのは、グニドが数ある肉の中で人間の肉が一番好きだった、あの〝スキ〟とは違う。
要するにカヌヌは、キーリャとつがいになりたかった。
そしてつがいになるということは、すなわち〝家族〟になるということだ。
竜人は本来〝家族〟という概念を持たない。
あるのは〝血族〟とか〝部族〟とか、ひとつの群全体を指す言葉だけだ。
何しろ竜人は生涯特定のつがいを持たないし、生まれた子は誰の卵から孵ったかにかかわらず群の皆で世話をする。だから谷を出たばかりの頃のグニドなら、きっとラッティの言う〝スキ〟を理解することは難しかっただろう。
(だが、今なら何となく〝スキ〟が分かる)
とグニドは静寂に満ちた森の広場で、右腕に抱えたルルを一瞥し、そう思った。
人間が人間を大切に思うときの〝スキ〟はたぶん、自分がルルを想う気持ちと似ているんじゃないか、という気がする。グニドも砂漠を出て、人間たちの暮らしや文化を知り、やがてルルと〝家族〟になりたいと願うようになった。ならば人間のオスとメスがつがいになりたいと思う気持ちもまた同じなのではないか、と。
「……嘘をついてごめん、カヌヌ。だけどやっぱり、アンタには本当のことを伝えなきゃと思った。アンタを悲しませるくらいなら、何も言わない方がいいのかもしれない……とも思ったんだけど。でも、この先もずっとアンタを騙して、キーリャも元気でやってるよ、大丈夫って笑っていられる自信がアタシにはなかった。だから……ごめん。話すのが遅くなったのも……こんな結果になっちまったのも」
日はまだ高いはずなのに、グニドにはうつむいたカヌヌの表情がよく見えなかった。ちょうど頭上に伸びる枝葉が影を作って、彼の顔を覆っているのだ。
ラッティがすべてを打ち明け終えたあと。森の主たちが作り出す苔生した村の広場では、思い思いの枝に腰かけた獣人隊商の仲間たちが揃って暗い顔をしていた。
ヴォルクはこうなることを覚悟していたのか、あまり表情は変わらない。しかし隣ではポリーが啜り泣いているし、ラッティもそれ以上何も言わなかった。
グニドの頭の上にいるヨヘンはどうだろう。
彼はキーリャのことを直接は知らないと言っていた。けれど普段はどんな場面だろうと構わず騒ぎ出すヨヘンも、今回ばかりは無駄口を叩かない。
頭に乗られているせいでグニドには様子が分からないが、さすがのヨヘンもかつての隊商の仲間が人間に殺されていたという真実はこたえたのかもしれなかった。
「……そうデスカ。キーリャサンは……最期まで、ユーリサンの大切なモノ、守ろうとしたデスネ」
ところが長い長い沈黙のあと、悲しみに暮れる仲間たちの中から真っ先に口を開いたのは、意外にもカヌヌだった。
「ソレってすごく、キーリャサンらしいデス。キーリャサンはユーリサンと、結婚の契約、交わしたから……だからきっと最期まで守ろうとしたデスネ。ユーリサンとの約束を……豹人の誇りに懸けて」
カヌヌがうつむいたままそう呟くのを聞いたとき、声を殺して啜り泣いていたポリーが、ついにこらえかねて顔を覆った。そうして嗚咽を漏らす彼女を見るや、ルルが突然グニドの腕の中から飛び出していく。泣きじゃくるポリーに駆け寄ったルルは、何も言わずに彼女の毛むくじゃらの体を思いきり抱き締めた。
果たしてルルは今の話をどこまで理解できたのか、グニドには分からない。けれどもたとえ分からなくとも、分かち合わなければならないと思ったのだろう。
仲間の胸を裂く悲しみを。
「ラッティサン。ホントのコト、話してくれてアリガトデス。話すの、とてもツラかったデスヨネ。でも、ボクのタメにゼンブ、ゼンブ話してくれた。アリガトウ」
「いや、アタシは……」
「だけど、ヴォルクサンのキモチも嬉しかったヨ。ボクがツラくないように、やさしいウソ、ついてくれた。キーリャサンがいつも言ってたけど……獣人隊商はみんな、ホントに〝オヒトヨシ〟ネ。ボクはもうナカマじゃないのに……」
「何言ってんだ。アンタは今もアタシらの大事な仲間だよ。たとえ道は別れても、アタシたちはずっとおんなじ夢を見てる、仲間だ」
刹那、ラッティが強い口調でそう言い放つのを聞いたカヌヌが顔を上げた。彼は何か言いたげに口を開きかけたものの、唇を震わせただけで何も言わない。否、恐らく胸が詰まって言葉が出てこなかったのだろう。けれどやがて潤んだ瞳をまぶしそうに細めると、カヌヌはへにゃっと笑みを浮かべて、うん、と声もなく頷いた。
「……でもネ、ラッティサン。ボク、何となく気づいてマシタ」
「え?」
「キーリャサンが、もうドコにもいないコト。何となく……分かってたデス」
「えっ……じ、じゃあひょっとして、最初からヴォルクの嘘に気づいて……!?」
「アッ、いえ、違いマス! ヴォルクサンからキーリャサンはゲンキと聞いたときは、言われたコト、信じてマシタ。でも……人蛇の森へ試練に行ったとき、ボク、感じたデス。キーリャサンが《世界の深淵》にいるコト……」
「サティヤ?」
「ハイ。人蛇族の長、言ってマシタ。《世界の深淵》は精霊が生まれるトコロ……そして、死者のタマシイが行き着くトコロだと」
何でもカヌヌの話によれば人蛇に課された試練のさなか、彼は霊石を通じて《世界の深淵》とつながり、キーリャらしき声を聞いたのだという。
そしてその声に導かれ、一滴の光も差し込まない暗闇の中を、出口まで迷わず歩くことができた。あの声の導きがなかったら、自分は倒れるまで闇の中を彷徨い歩き、最後には魔物に喰われて一生を終えていたはずだとカヌヌは言った。
「だからボク、キヴィティサマの話を聞いて、もしかしたらと思ってマシタ。サイショはきっと気のせいだって思おうとしたけど……でも、じゃあ、やっぱりあれはキーリャサンだったデスネ。キーリャサンが、ボクを助けてくれたデスネ……」
そう言って笑ったカヌヌの瞳から、直後、ぽろりと涙が零れ落ちた。
肌はあんなに黒いのに、カヌヌが初めて見せた涙はグニドがこれまで出会った人間と同じ、星屑のような雫だった。
それを見たラッティの瞳からも涙が溢れ出す。キーリャ。彼女は死してなお仲間を守ろうとした。生きる道は別れても──どんなに悲惨な最期を迎えても。
彼女の心もまた、獣人隊商と共にあったのだ。
その事実を知ったポリーが、ますます声を放って泣いた。
ラッティもくしゃくしゃにした顔を腕で覆って、唇を固く結んでいる。そんなふたりにつられたように、頭の上のヨヘンが洟を啜る音がした。が、気づいたグニドがほんの少し鼻先をもたげると、すかさずいつものヨヘン節が降ってくる。
「ぐすっ……おい……おい、おい、なんだよそれ! カヌヌ! おまえさんばっか運よく人智を超えた体験をしまくりやがって、羨ましいにもほどがあるぞ! やっぱりオイラも人蛇族に会わせろォ! あと霊界と交信する方法も教えろォ!」
「……じゃあヨヘンも命を懸ければいいんじゃない? そもそも霊界とつながって誰と交信したいわけ?」
「そりゃもちろんエマニュエルで最も偉大な冒険家、アベオ・トラディティオとかさ! 他にも幻の大陸に君臨してたと言われるハノーク大帝国の歴代皇帝とか、晩年の姿について謎の多いパルヴァネフ豊王国の建国者イフサーンとか、とにかく世界中の偉人と交信しまくってエマニュエルの七不思議を解き明かすんだよ! そうすりゃオイラは世期の大発見を連発した大・大・大冒険家として、後世まで語り継がれること間違いなしだ! こんな偉業を為せるのは、未開の無名諸島をも恐れず旅したこのヨヘン様だけだぜ! チューッチュッチュッチュッ!」
「いや、でも……〝霊界と交信して世界の謎を解き明かしました!〟なんて言っても……ね」
「ええ。証拠も何もないのにそんなこと言ったって、信じてもらえないどころか笑われて終わりよネ……」
「まあ、いいんじゃない? それはそれで後世までの語り草になるだろうし」
「よくなァいッ! 当然ながらオイラの発見を裏づける証拠の数々は、おまえさんたちにも一緒に探してもらうからな、獣人隊商! 縁神の導きで縁の糸が結ばれた以上、オイラたちは一蓮托生! すなわちさっきラッティが言ってたとおり、何があってもズッ友だからなッ!」
「いや、残念だけど、ヨヘンだけはアタシらと違う夢を見てるみたいだから……同じ道を歩いてても目指す場所が違うなら、最後は袂を分かつしかないかなって」
「おいィ! そうやっていつもオイラだけ除け者にしようとするのやめろよ! オイラだってこう見えて実は結構傷ついてるんだからな!?」
「だったらもうちょっと日頃の言動を見直せばいいのに……」
「アハハッ、ソレ、同感デス!」
とぼそり呟いたヴォルクにカヌヌが笑って続くのを見るや、ヨヘンは「なに笑ってんだァ!」とさらに地団駄を踏んだ。そんなヨヘンの反応を見て皆は愉快そうに笑っているが、グニドとしてはとりあえず『人の頭の上で暴れるな』と言ってやりたい。けれども同時に分かっていた。グニドも、そして恐らくラッティたちも、今のはひねくれたヨヘンなりの親愛の表し方なのだろうということは。
「ラッティサン」
やがて皆に宥められたヨヘンの憤慨が治まった頃、カヌヌが場を仕切り直すようにラッティへ向き直り、ニッと白い歯を見せて笑った。
「やっぱりボク、獣人隊商が大好きヨ。みんなのコトも、とても大事。だから自分を責めないでほしいデス。たとえ短い間だったとしても……ユーリサンとイッショになれて、キーリャサンもシアワセだったハズだから」
「カヌヌ」
「でも、同時にボクは思うデス。やっぱり、キーリャサンみたいな悲しい思いするヒトが、ヒトリでもいなくなるとイイって……だから、ボクは戦いマス。新しいラナキラの長として、ちょっとでも夢に近づくタメに」
「……ああ、アタシらも同じ気持ちだよ。一緒に旅してた頃みたいに、何かあったらすぐに駆けつけるってワケにはいかないけど……アタシたちで力になれることなら何だってやってやる。だから遠慮なんかしないで、いつでも頼れよな」
「ハイ! 困ったときはラッティサンたちが力になってくれると思えば、オニにアタボー、デス! とってもとっても勇気出マス!」
「ああ、うん……でもそれを言うなら〝アタボー〟じゃなくて〝金棒〟ね」
とラッティがすかさず訂正すれば、カヌヌも「アレ?」と首を傾げた。そんなふたりのやりとりを聞いていた仲間たちが、またも声を上げて笑い出す。オニ・ニ・アタボー……いや、カナボー?という言葉の意味は分からないが、しかしさっきまでの沈鬱な空気が嘘のように笑い合う皆を見て、グニドも胸を撫で下ろした。
やはりここはいい群だ。
この仲間たちと一緒なら、どんな苦難もきっと乗り越えていける。そう思った。
が、グニドがそう安堵に尾を揺らした、刹那。
突然、ズドンと視界が揺れた。
大地が割れるかのような轟音と震動。
ほんの一瞬、森の主の枝に腰かけた体が浮き上がるほどの衝撃が村を襲った。
と同時に心臓を掴まれたように息が詰まり、グニドは全身を硬直させる。
「なっ……何だ!?」
あまりにも唐突な出来事に、皆が動揺を隠せなかった。言葉が通じないクワトもこれにはすぐさま立ち上がり、あたりに警戒の眼差しを巡らせている。
「──おい、なんかやばいぞ!」
ところがほどなく、状況を確かめようと皆で広場を出たあたりで、カヌヌの巣の方から駆けてくるヴェンと行き合った。というか、先程の轟音に驚いた村の者たちもあちこちから飛び出してきて、樹上は大変な騒ぎになっている。
中には族長の姿を見つけ、何事か喚きながら詰め寄ってくる者もいた。しかしカヌヌもまったく状況が分かっていないので、困惑の表情を浮かべるしかない。その様子を見たラッティが、すっかり酔いも醒めた様子のヴェンへと走り寄った。
「ヴェンさん、さっきの音と揺れは何!?」
「いや、俺も詳しいことは分からねえが、どうも東の森から火が出てるらしい。火の手に気づいた霊術師のジイさんが、血相変えて飛び出してったぞ!」
「えっ……も、森から火が……!?」
ヴェンからもたらされた予想外の答えに、皆が束の間絶句した。
ワイレレ島は外縁部の浜辺の他は、行けども行けども森が広がる森林地帯だ。
そんなところに火がつけば、当然延焼は免れない。
下手をすれば島全体が丸焼けになるかもしれない緊急事態──けれども、だからこそ島の人間たちは火を恐れ、扱いには常に最新の注意を払っていると聞いた。
そもそも日が沈むにはまだ早いこの時間帯、村では火を焚いている場所などどこにもない。だというのにどうして突然、森で火の手が上がったのか?
まさかラナキラ族と鰐人族の同盟を知ったヴォソグ族が襲撃を?
いや、しかしカヌヌがヴォソグ族の捕虜を解放し、島へ帰したのはほんの数刻前のこと。とすれば、やつらが行動を起こすには早すぎる──
「くそっ……原因はともかく、森に火が広がったら村が危ない。アタシらも様子を見に行ってみよう!」
「ウム。オレモ、火ヲ消ス、手伝ウ。ポリー。ルルヲ、頼メルカ?」
「も、もちろんヨ! だけどみんな、くれぐれも気をつけて……!」
不安に震えるポリーの忠告に、グニドたちは揃って頷いた。
そうしながらルルを一旦ポリーに預け、煙が見えるという方角へ走り出す。
ヴェンに案内されて辿り着いたのは、村の東のはずれだった。
他の木々よりも遥かに高い森の主の上からは、麓の森の様子がよく見える。
グニドはそこから首を伸ばし、思わず息を飲んだ。
視線の先では確かに森が燃えている。ラナキラ村からの距離は遠い。けれども白い煙が上がっているのは、もしかしなくとも人蛇の森の方角ではなかろうか。
たなびく白煙の麓では、既に大きく育った赤い炎が踊り狂っているのが見えた。昨夜の雨で湿ったはずの森の木々に、こんなに早く火が回るなんて只事ではない。
ところが異変はそれだけではなかった。四幹(二キロ)ほど先で燃える炎に釘づけになったグニドらの視線の先で、突如森から飛び上がった影がある。
そいつは黒々とした翼を広げ、天に向かって怨嗟のごとく咆吼した。
アレが一体何ものであるのか、見間違えるはずもない。
──魔物。
唖然とするグニドたちの眼前で、翼を生やした異形の眼が、こちらを向いた。