第九十三話 信じて選べ
村に帰ってカヌヌの帰りを待つという選択肢を、ラッティは取らなかった。
人蛇の森の入り口に野営のための天幕を張って、そこで待つ。
まあ、天幕と言っても、きちんとした布や骨組みを使った立派なものではない。
ただ森に落ちていた枝を集めて作った簡素な木組みに、ポリーの身の丈ほどもある葉っぱを何枚も重ねただけの、即席の雨避けだ。
「大丈夫。カヌヌは生きて戻るよ。必ず」
と、ラッティが不安そうな顔をする仲間に呼びかけるのを、日暮れまでに何度聞いたことだろう。グニドにはそれが仲間を励ます言葉と言うより、ラッティが自身の中に居座る不安を追い出すための、まじないの言葉のように聞こえた。
しかし日が暮れてもカヌヌは戻らない。その晩、ワイレレ島には雨が降った。
幸い雨避けが意味をなさないほどの土砂降りにはならなかったものの、弱い雨が降っては止み、降っては止みを繰り返し、まるでルルとカヌヌの帰りを待つグニドたちの心に揺さぶりをかけているようだった。
だがラナキラ村で飼われる家禽より小さいヨヘンを勘定から除くとしても、獣人隊商のメンバーが全員集まって雨を凌ぐには、天幕はいささか狭い。
ゆえにグニドは天幕の下を他の仲間に譲り、自分は人蛇の森へと続く道の上にどかりと座って夜明けを待った。夜になっても相変わらず、この島の森は騒がしい。
あちこちで鳴く虫も、蛙も、夜鳥も。日が暮れようが雨が降ろうがお構いなしだ。夜の間もあちこちの茂みや木の上で生き物が蠢く気配がした。
ここはまるで、島そのものが呼吸し生きているかのようだ、と思う。
「あ、いた。グニドさん!」
かくして迎えた翌朝。前の晩の寝不足も相俟って、座ったままうつらうつらとしていたグニドは、自らを呼ぶ誰かの声で我に返った。
カヌヌが戻ったのかと思い、とっさに長い首をもたげて伸び上がったが、違う。
グニドが向かい合った道の先には誰もいない。
ならば自分を呼んだのは、と首だけで振り向くと、ラナキラ村へと至る道の向こうから見覚えのある緑色の帽子が歩いてきた。あれは吟遊詩人のジェレミーだ。
「えっ、村にもう鰐人族が……!?」
ラナキラ村では客分という扱いになっているジェレミーが、遥々グニドたちを探して現れたのには理由があった。というのも、今日を約束の期限としていた鰐人族が早くもワイレレ島に上陸し、大挙して村へ押し寄せたと言うのだ。
彼らの言う〝約束〟とは言わずもがな、ラナキラ族に鰐人族と手を取り合う意思があるかどうか、その答えを受け取ること。しかし決断を下すラナキラの長は不在で、次期族長として認められるための試練に出たカヌヌも未だ戻らない。
ゆえにひと足早く村に戻ったクムが、前日に鰐人族と接触したグニドを呼んでくるよう身振り手振りでジェレミーに頼んだそうだった。グニドらの直接の仲間であるヴェンではなくジェレミーに依頼したのは、一応連合国軍を牽制するための人質ということになっているヴェンを自由にさせるわけにはいかなかったためだろう。
「はあ、ったく鰐人族のやつら、いくら何でも気が早すぎだろ……一昨日の話ではラナキラ族が今どういう状況に置かれてるのか、全部分かってる風だったのに」
「で、でもクムさまはどうしてグニドをお呼びなのかしら? いくら力比べでクワトさんに勝ったからって、グニドひとりで鰐人族全員を止めるのは無理ヨ……!」
「うーん……クム様はたぶん、時間稼ぎがしたいんじゃないかな。鰐人は竜人と同じ尚武の種族だから、一族最強の戦士に勝ったグニドさんには手出しできない。だからグニドさんを、カヌヌくんが戻るまでの交渉役に立てようとしてるのかも。とにかくあのままじゃヴォソグ族が攻めてくる前に、ラナキラ族と鰐人族の全面戦争になっちゃうよ」
「状況は、そんなに悪いの……?」
「うん、まさに一触即発って感じ。鰐人族は堂々と構えてるけど、ラナキラ族の方がかなり殺気立ってて、あれじゃいつ飛びかかってもおかしくないと思うよ」
もともと人間同士の諍いで浮き足立っていたラナキラ族のことだ。恐らくジェレミーの証言は誇張でも何でもなく、村は本当に危機的状態にあるのだろう。
であれば放っておくわけにはいかない。
少なくともカヌヌは鰐人族との和平を望んでいた。
ならば彼が無事に戻るまでの間、誰かが希望をつながねばならない。無名諸島で暮らすあらゆる部族と種族が手を取り合い、平和に生きる時代を築くために。
「……ラッティ」
しばしの黙考ののち、グニドが名を呼んで振り向くと、すぐにラッティと目が合った。その目配せだけで、ラッティはすべてを察したようだ。
「ああ。ルルならアタシらに任せな。必ず無事に連れて帰るよ。だからアンタはラナキラ族を頼む」
「ウム。オレ、ラナキラ族、守ル。ルルノコト、頼ンダ」
全幅の信頼を乗せて告げた言葉は、ちゃんとラッティに届いたようだった。
力強く頷いたラッティが、次の瞬間にはニッと笑って、拳でグニドの胸を叩く。
任せていい、ということだろう。もちろんグニドとてルルのことは心配だ。
できることなら彼女の無事を確かめるまで、この場を離れたくはない。
だがルルとカヌヌが危険を冒して人蛇の森へ入ったのは、他ならぬラナキラ族を守るため。ならばふたりが戻ったときには既に村は滅びたあとだった──などということがあってはならない。絶対に。
「くぅーっ! ルエダ・デラ・ラソ列侯国を出たあとはまっすぐアビエス連合国に帰るだけだと思ってたのに、なかなかどうしておもしろくなってきたじゃねーか! 未開の地で暮らす部族たちの争いに、謎多き獣人との邂逅、そして霊樹プロ・ハリの覚醒……! カヌヌにゃ悪いが、こいつァオイラの冒険家魂が疼かずにはいられないぜ! チュチュチュ!」
かくしてグニドは迎えに現れたジェレミーと、一緒に行くと言って聞かないヨヘンを連れて、急遽ラナキラ村へ引き返すことにした。
しかしヨヘンはいつものように頭に乗せていけばいいにしても、ジェレミーの歩幅に合わせて戻ったのでは遅い。事態は一刻を争うのだ。
ゆえに近くの樹に巻きついていた蔦を剥がし、人間が馬に乗るときに使う手綱の要領で首にかけると、それをジェレミーに掴ませ背中に乗せた。竜人は走ると首と尾がまっすぐに伸び、背骨が水平になるから、ひとりくらいなら人間を乗せて走れないこともない。鞍などはない上に、鱗の上は存外滑るから乗りこなすのは大変だろうが、ジェレミーは意外にも手綱一本で平然とグニドに跨がった。
「あははっ、思ったほど悪くないよ、グニドさん! むしろ下手な裸馬に乗るより安定感があっていいかも!」
と、泥を蹴立てて馳せるグニドの背中で、のんきにそんなことまで言っている。
人間の語り部というのは歌うだけでなく、荒馬を乗りこなしたりもするのだろうか。悲鳴を上げているのはむしろグニドの鬣にしがみついたヨヘンの方で、
「おおおおおおおいグニド、もう少しゆっくり! ゆっくりでいいから! ジェレミーさんよりオイラのが先に振り落とされそうだからァ!」
とか何とか騒いでいるが、とにかく無視して村までの帰路を急ぐことにした。
「ねえ、グニドさん! こんなときに何なんだけど──」
と、同じくヨヘンを無視することにしたのか、彼の悲鳴には構わずジェレミーが口を開く。昨夜の雨でぬかるんだ道は走りづらく、正直背中に意識を割く余裕はなかったが、黙って続きを促した。
「ラナキラ村でみんなの帰りを待ってる間にさ、リベルタスさんから聞いたんだ。君が暮らしていた死の谷では、竜人も無名諸島みたいに、いくつかの部族に分かれて暮らしているんだってね。中でも君のいたドラウグ族というのは谷で一番権威ある一族だったそうだけど、本当?」
「……ソウダ。オレタチ、ドラウグ族ハ〝祠守リ〟。ダカラ、谷デノチカラ、強カッタ。ラナキラ族ト、少シ似テイルナ」
「そう、〝祠守り〟。それって名前のとおり〝祠を守っている一族〟という意味なのかな? 竜人は天然の洞窟を住処にしていて、自分たちで建物を作ったりはしないって聞いてたんだけど、だとしたら〝祠〟って何のことだろうと気になってね。僕たち人間の間では〝祠〟と言うと、神への信仰の証として建てられた、小さな神殿や聖堂なんかを連想するんだけど……」
「ドラウグ族ガ守ルハ、竜祖ノ祠。最初ノ竜人ガ生マレタ場所、ダ」
「最初の竜人……? つまり君たちの直接の祖先ということ?」
「ウム。ドラウグ族ノ巣穴ノ奥、トテモトテモ古イ祠、アル。遠イ昔ノ竜人ガ造ッタ、石ノ祠ダ。今ハモウ、誰モ造レナイ」
「へえ……太古の時代の失われた技術で造られた祠、か。なかなか浪漫のある話だね。そこには何が眠っているの?」
「分カラナイ。祠ノ奥……祭壇ノ部屋ニ入レルハ、長老ダケ。ダカラ、長老以外、祠ノ奥ニアルモノ、誰モ知ラナイ」
「ふうん……そっか。だけどそういうことならやっぱり可能性は大いにあるよな、うん。その祠は、君がいたドラウグ族の巣穴の奥にあるんだね?」
「……? ソウダ。ダガ、ニンゲンハ、入レナイゾ?」
「あははっ、もちろん分かっているよ。竜人の縄張りに人間が飛び込んでいくなんて〝どうぞ私を食べて下さい〟と言うようなものだからね。だけど、まったく方法がないわけでもない」
「ジャ?」
「これだけ情報が揃えば充分だ。教えてくれてありがとう、グニドナトス」
何故だろう。
刹那、グニドは背骨がビリビリと痺れるような感覚を覚えた。
朝日を浴びて収縮していたはずの瞳孔が開き、鬣が逆立っていく。
ひと言で言い表すなら、それは砂漠で竜人の天敵──たとえば砂漠の大蛇などの──と遭遇したときの体の反応に似ていた。
生まれながらの狩人である竜人の視野は広い。
鼻先は前を向いていても、視界は頭部の斜め後ろまで広がっている。が、そんな竜人の唯一の死角が真後ろだ。そこだけはどうしても視野が欠けていて、振り向かなければ背中に乗るジェレミーが今、どんな顔をしているのかも分からない──
「グルォオォオオォォオオオッ!!」
けれどもグニドが本能の警告に従い、足を止めるよりも早く。
突然鼓膜を破らんばかりの咆吼が森に轟き、ヨヘンの悲鳴が響き渡った。
×
カヌヌが松明を手放した理由は、三つある。
ひとつは闇の向こうに身を潜めた魔物との距離を測るため。
もうひとつは、松明を握ったままでは槍を構えられないため。
そしてもうひとつは、自分の姿を暗闇の中に隠すため。
この塗り潰したような暗がりの中で、明かりを失うことがどれほど危険なことかは分かっていた。こうなってしまってはカヌヌが無事に地上へ戻れる確率は低い。
けれども明々と闇を照らす松明は、同時に自分の居場所を教えてしまう目印でもあったから、やはり投げ捨てざるを得なかったのだ。
宙空を舞った松明の火は、ギラつく赤い眼と三列の牙、ぬらぬらとした黒い皮膚に真っ赤な背鰭を立てた化け物の姿を照らし、ほどなく消えた。
洞窟を完全に塞いでしまうほどの巨体に落下し、跳ねて地に落ちたところで、体側から生える鰐のような脚に踏み消されたのだ。
〔鱓のくせになんで脚が……!〕
などと嘆いている場合ではなかった。次の瞬間、カヌヌは鱓の姿を借りた化け物が六本の脚を動かし、どたどたと突進してくる気配を察して自らも走り出す。
〔わあああああああッ……!〕
と、完全な暗闇の中にあってなお赤く光るいくつもの魔眼に、雄叫びを上げて突撃した。が、耐え難いまでの臭気が眼前に迫るのを感じた刹那、素早く身を伏せて硬い岩の地面を滑る。もはや視界はゼロに等しいため、火が消える寸前の目測と自分の歩幅だけが頼りだった。
カヌヌがそうして頭から滑り込んだのは、向かって右の岩壁に見えた脇道だ。
脇道と言っても道が枝分かれしているわけではなく、岩壁の下にわずか開いた隙間、と言った方がいいかもしれない。洞窟内には身を屈めなければとても入れなさそうな横穴がいくつもあって、カヌヌはそこに望みを賭けたのだ。
何しろ相手は地底鱓。見た目は超大型の鱓だが、六本の脚を持つせいで爬虫類にも見えるこの化け物は、体長一枝(五メートル)にもなる巨体の持ち主だった。
ゆえに人間が身を伏せてようやく潜れるような横穴には、決して入れようはずがない。そう思ってイチかバチかで突っ込めば、岩壁にぶち当たることなく体はするりと横穴に入った。はっとして頭を上げるとすぐに硬い衝撃があり、無事に横穴へ滑り込めたのだと理解する。と同時に死に物狂いで地面を這った。大地にうつ伏せたまま、懸命に左右の腕を動かし、体を引きずるように奥へと進む。
「グリュヴエェエェェエッ!!」
すんでのところで獲物に逃げられた地底鱓が、怒りの咆吼を上げているのが聞こえた。かと思えば洞窟全体にズシンと重い衝撃が走り、カヌヌの頭のすぐ上から、パラパラと砂埃が降ってくる。足の先の方で地底鱓が暴れている気配がした。巨体を左右に振って勢いをつけ、カヌヌが潜った岩壁に体当たりをしているようだ。
(た……たまたま横穴があってよかった……だけど魔物は執念深い。一度見つけた獲物はどこまでも追いかけて襲おうとする……この横穴の先がもし行き止まりで、どこにも通じていなかったら──)
あとはただひたすらに、カヌヌと魔物の根比べだ。地底鱓は岩の隙間に入り込んだカヌヌが這い出してくるのを待って、入り口に張り込み続けるだろう。
だからカヌヌも魔物が諦めて去ってくれることを祈るしかない。
けれどもこれまでの経験上、魔物が目の前の獲物を諦めて立ち去るなんてことはありえないと分かっていた。別の獲物がのこのこ喰われにやってきたなら話は別だが、そうでもなければ常に腹ペコの化け物がここを離れる理由がない。
何しろカヌヌも永遠に身を隠しているわけにはいかないからだ。
人蛇族との約束は日の出まで。否、そもそも試練の成否を抜きにしたところで、水も食糧もないまま籠城し続けるなんて不可能だろう。
ならば今は横穴の先が別の道に通じていることを信じて進むしかない。カヌヌは塵ひとつ見えない真っ暗闇の中を這った。魔物の雄叫びはまだ聞こえている。
(ひょっとして人蛇族は……ここに魔物がいることを知っていて僕を送り込んだのだろうか? だとしたら彼らには初めから手を貸すつもりなんかなくて……目的はあくまでルルさんを手に入れることだった? だから用済みになった僕は、体よく魔物の巣へ放り込まれたのかも……)
ずるり、ずるりと。自身の肌が地面を擦る音と、弾む呼吸しか聞こえない暗闇の中でカヌヌはそんな疑念に駆られた。〝虎の道〟で霊石を採取しながら暮らす人蛇族が、地下に現れた魔物の存在に気づいていなかったとは考え難い。そもそも人蛇族は精霊の力を借り、占いによって未来を見通すと言われている一族だ。
ならば試練の結果はカヌヌが森を訪ねる前から分かりきっていたのではないか?
『──カヌヌ。あんたってほんとお人好しね』
刹那、脳裏に響いたのはいつか聞いた仲間の呆れ声。
ああ、そうだ。そう言えば大陸を旅していた頃はよくキーリャに叱られていたっけ。「あんたは簡単に人を信じすぎる」と。他者をみだりに疑わないことは確かに美徳かもしれないが、誰彼構わず信じていたのではいつか必ず痛い目を見る。
だから少しは他人に警戒心を持て、とも彼女は言っていた。
それは獣人隊商と出会うまでたくさんの人間に傷つけられ、裏切られてきたキーリャの本心から出た警告だったのだろうと思う。
(だけど、キーリャさん。あなたは──)
──あなたも最後には、僕たちを信じてくれたじゃないですか。
ずっと一線を引いているふりをしながら。
あなたを信じ、仲間に迎えた僕たちを信じてくれた。
(だから、僕は……信じたいんです)
人も、夢も、想いも、信じ続ければ必ず届くと。
疑って、怯えて、諦めるくらいなら。
どんなに傷だらけになったって、手放したくないと願うなら──
〔……あ〕
けれどもカヌヌが心の底から強く、強くそう念じた刹那。
突然視界に光がともった。あの禍々しき魔眼の赤ではない。
淡く、弱く、今にも消えてしまいそうな光ではあるけれど。
穴の先で何かが白く光っている。カヌヌはその光を目指し、這った。這った。
そうして近づいた光の中には、
〔も……もしかして、これが──〕
──見つけた。たぶん、これが霊石だ。
そうとしか思えない透明な結晶が、地面から顔を出して輝いている。
大きさは掌に収まるくらいの小さなものだが、間違いない。
本当に存在したのだ。精霊の力の素となる未知なる水晶。
カヌヌは緊張と歓喜で震える手を伸ばし、霊石に触れた。仄白く輝く水晶の表面は、氷のごとき見た目に反して温かかった。まるで人肌の温かさだ。
〔だけど、どうして突然……〕
目隠しをされたように何も見えなかった暗闇で。
この水晶は何故、唐突に輝き始めたのか?
まるで自分を見つけてくれとでも言うように。カヌヌの導となるかのように──
《カヌヌ》
瞬間、霊石に触れた指先から腕の中を駆け上がり、脳へと届く声があった。
《あんたはそのままでいい。大丈夫》
ああ、この、素っ気ないのにどこか温かな声の響きは、
《それが、あんたの誇りなんでしょ?》
あの寒い冬の日、わずかな星明かりの下で見た微笑がそこにあった。
姿こそ見えないけれど、確かに、鮮明に。
〔キーリャ、さ……〕
途端に瞳から涙が溢れ出すのを、カヌヌは止められなかった。
唇を噛み締め、嗚咽を殺し、なつかしい体温を帯びた霊石に縋りつく。こんな姿を見せてしまったら、また〝男がメソメソするな〟と叱られてしまうだろうか。
けれど揺るぎなく理解したのだ。彼女は今そこにいると。
闇に呑まれ、出口も分からず惑う自分を導いてくれたのだと。
〔キーリャさん……僕は──〕
大切に大切に包み込んだ手の中で、霊石が淡く瞬いた。
だからカヌヌも微笑み返す。
さあ、行こう。どんな暗闇も、もはや恐れる必要はない。
カヌヌは槍の穂先を霊石の根もとにあてがい、そして、打ち砕いた。
×
エマニュエルの大地には、霊脈と呼ばれる河が流れている。その河は決して人の目には見えず、されど深い深い地の底を輝きながら流れている。
そこはすべての生命の行き着くところ。そして再び生まれ出るところ。
〝はじまりの一族〟は今もそれを覚えている。
忘れてしまったのは人間と、人間につくられたものたちだけ。
「……彼が〝世界の深淵〟に触れた」
夜空に向かって口を開けた大地を見下ろし、キヴィティは微笑んだ。
「皆の者、儀式の準備を。今宵、この島に新たな王が生まれるだろう」
木々という木々の上で、細く甲高い人蛇たちの笑声がさんざめいた。巻きついた枝を大きく揺らし、歓喜の歌をうたった彼らはすぐさま母なる森へと消える。
残ったのは長たるキヴィティと護衛の戦士たち、そしてひとりの女人蛇に抱えられた人間の少女だけだった。
神に呪われ、精霊に祝福された少女は未だ世界の真実も知らずに眠っている。
けれどそんなものは、永遠に知らずにいた方が幸せなのかもしれない。
「……選ぶのは其方です、ルルアムス」
ゆえにキヴィティは託すしかなかった。
青みがかった少女の黒髪をそっと撫でやり、目を伏せる。
「そして……グニドナトス。古の守り人よ。其方らの道行きに、精霊の加護があらんことを──」