第九十二話 神秘へ至る道
大地が大きく口を開け、天に向かって怨嗟を吐いているかのような場所だった。
足もとにぽっかりと開いた大地の口は深い。既に日が傾いているせいもあるのだろうが、覗き込んでもはっきりと底が見えないほどだ。
人蛇の森の奥深く、忽然と現れた大きな竪穴。と言ってもそれが人の手によって掘られたものでないことは、カヌヌにもひと目で理解できた。
〔虎の道ですね〕
と、その穴の縁に膝をついたカヌヌが問いかければ、隣でキヴィティが頷く。
彼女の下半身を彩る緑玉色の美しい鱗が、樹上から零れる夕日に洗われるさまは、何とも形容しがたい艶っぽさがあった。
が、だからと言っていつまでもぼうっと見とれてはいられない。
何せここは〝虎の道〟だ。大陸の言葉では〝鍾乳洞〟とも言う。
〝虎の道〟とは名前のとおり、無名諸島の森に棲息する虎などの大型肉食獣が塒や移動のための道として使う天然の洞窟だった。
こういった洞窟はワイレレ島のみならず、無名諸島の至るところにあって、虎の他にも豹や大猫鼬といった危険な生物が棲み着いていることが多い。
大抵の〝虎の道〟は複数の穴で地上とつながっており、地下通路のような役割を果たしているからだ。だから島の人間はよほどのことがない限り〝虎の道〟には近づかない。カヌヌもそういう洞窟があちこちに存在することは知っているものの、中に入って探検してみようなどと思ったことは一度もなかった。
〔其方らが〝虎の道〟と呼ぶこの場所は、我々人蛇族の巣穴でもあります。しかし我らが暮らすのは海とつながる地下の道のみ。それ以外の洞は獣たちのものであると同時に、採石場です〕
〔採石場……ですか?〕
人蛇族も〝虎の道〟を住処にしているというのは初耳で、カヌヌは思わず目を見張りながら聞き返した。彼らが海と陸とを行き来して暮らす種族だということは島の伝承から察していたものの、まさか地下で暮らしていたなんて。
おまけに〝採石場〟とはどういうことだろう?
少なくともカヌヌが聞いた話では〝虎の道〟を形成する岩は非常に脆く、建材などにはまったく向いていない。そもそもあれらは岩ですらなく、遥かな昔、長い長い時間をかけて海底に降り積もった貝や珊瑚の死骸だと言われているからだ。
無名諸島はそうした死骸の塵が積もってできた九つの島。
すなわち那由多に近い数の命の上に成り立つ島々。
だからこそこれほど小さな陸地に数多の生命が息づき、精霊の力も強い。
が、代わりに大陸のような石器は発達せず、今も木材や動物の骨ばかりを生活に利用している。九つの島の中で唯一火山を持つバト島──今回の騒動の発端であるヴォソグ族が暮らす島──だけは例外だが。
〔カヌヌ。其方は〝霊石〟を知っていますか?〕
〔ヒィラ……? いえ……申し訳ありませんが、存じ上げません〕
〔霊石とは無名諸島のような、霊力の強い土地にのみ生じる特殊な水晶。無垢なる霊素が集まり結晶化したもののことです〕
〔ぱ、パラマーヌ……?〕
〔其方らが〝精霊〟と呼ぶものたちの素となるもの、それが霊素ですよ。其方らの村の霊術師は、精霊の力を借りて無から水や炎を出すことができるでしょう? その水や炎の素となっているのも霊素です。つまりあれらの業は、大気の中に無数に存在する無垢なる霊素を、精霊の力で水や炎の霊素に変換しているだけに過ぎません──たとえばこのように〕
キヴィティはそう言うが早いか、すっと左手を宙に掲げた。かと思えばカヌヌの知らない言語で何かを唱え、赤い爪で飾られた指先に炎をともす。
おかげでカヌヌはますます目を見開いた。今のキヴィティの業はまさに無から炎を生み出すものだ。されどキヴィティは、人の姿をした上半身の至るところに赤い黥を入れているのみで、神刻を刻んでいる気配はない。
とすれば今のは霊術師が使うのと同じ霊術。やはり人蛇族は人間の霊術師とは比べものにならない霊力を持っているというあの話は本当だった。
熟練の霊術師であるクムですら念入りな下準備をせねば使えぬ術を、言霊の力だけで簡単に使いこなしてしまうだなんて。
〔霊素というのは通常、目で見ること能わぬが、霊術を用いて何らかの〝形〟を与えることでこうして視認することができる。されど霊石は霊術によることなく、無垢なる霊素が自然のうちに寄り集まって〝形〟を得たものであり、非常に大きな霊力を帯びています。其方も南の大陸の人間が、霊術を呼び起こすために使っている石を見たことがあるでしょう?〕
〔……! そうか、〝希石〟……! あれがあなた方の言う霊石なのですね?〕
〔いかにも。より正しくは、希石として加工される前の原石……それが〝霊石〟です。そして其方らが〝虎の道〟と呼ぶ地下道は、その霊石の宝庫なのですよ〕
キヴィティが微笑みと共に告げた真実の数々に、カヌヌは頬が上気するのを感じた。何故って──すごい。四年の歳月をかけて世界のあちこちを巡り、ありとあらゆるものを見聞きしてなお知り得なかったこの世の神秘が、まさか故郷の大地に眠っていたなんて。やはり世界は広く、まだまだ知らないことだらけだ。
だが今のキヴィティの話を要約するならば、彼女らが〝虎の道〟を〝採石場〟と呼ぶのはつまり、霊石を採取するための場であるためなのだろう。
カヌヌら島の人間は肉食獣を恐れ、〝虎の道〟に入ろうとすることなど決してなかったから、そんなものが島の地下に存在することすら知らなかった。
いや、あるいは知らないままでいた方が幸福なのかもしれない。キヴィティの話が事実なら、霊石は霊術の源としてきっと島にも利益をもたらす。
されどいつの日か、大陸の人間までもがその石の有用性に気づく日が来たら──無名諸島はきっと稀少な霊石の産出地として狙われ、今まで以上に島の外からの侵略に怯える日々を過ごすこととなるだろう。
〔今回我らが其方に与える試練はひとつ。この洞に潜り、日の出までに霊石を手に入れて戻ること。〝虎の道〟は迷路のごとく入り組み、霊石は洞の深部にしか存在しない。道に迷い、二度と地上へ戻れなくなる危険はもとより、ここを住処とする獣に襲われる可能性もあるでしょう。されど其方はたったひとりでそれを成し遂げなければならない。ゆえにもう一度だけ問いましょう。祖父のため、ラナキラ族のため──そして他ならぬ無名諸島のために、命を懸けて試練に挑む覚悟が其方にはありますか?〕
枝葉の狭間から斜めに注ぐ西日の中で、超然と佇む女人蛇がカヌヌをまっすぐ見つめていた。周囲からくすくすと聞こえるのはあちこちの樹にぶら下がり、非力な人間の子を憐れむ人蛇たちの忍び笑い。されどカヌヌは迷わなかった。
蔓を背負い紐代わりにした槍を改めて背に回し、人蛇にはない二本の足でしっかりと大地に立ち上がる。そうしてキヴィティを見つめ返し、頷いた。
島のために命を捨てる覚悟ならば、とっくの昔に決めてきたのだから。
〔……良いでしょう。では餞に、これを其方へ授けます。使いようによっては、洞穴で暮らす獣たちを退ける手段にもなり得るはずです〕
そう言ってキヴィティがちらと視線を送れば、彼女に付き従っていた男人蛇が下半身をくねらせながら近づいてきて、カヌヌに何か差し出した。
それは木の枝の先によく燃える松の木片をいくつも括りつけた、伝統的な姿の松明だ。その先にキヴィティがそっと指先の火を近づけると、細い蔦でひとつに束ねられた木片があっという間に燃え上がった。
受け取った松明の持ち手はちょうどカヌヌの手に馴染む太さで、光源としても申し分のない明るさだ。おまけに神術や霊術によってともされた炎というのは、往々にして自然の火よりも消えにくい。これなら日の光が一切差さない洞窟の中でも、どうにか探索を行うことができるだろう。
〔ありがとうございます、キヴィティ様。火があるだけでもだいぶ心強いです。必ずや日の出までに霊石を手に入れて戻ります〕
〔我ら一同、其方の武運を祈っていますよ。ちなみに其方が今から潜る洞は、出口がひとつしかありません。つまりここから入り、ここから戻る以外に地上へ出る術はないということ。ゆえに我らも夜明けまでこの場で其方を待ちましょう〕
〔分かりました。では僕が戻るまでの間、ルルさんをよろしくお願いします〕
〔ええ。彼女は其方同様、我ら〝はじまりの一族〟の希望。もとより鄭重にもてなすつもりでおりましたから、心配は無用ですよ〕
キヴィティはそう言って変わらず微笑んだが、カヌヌはふと頭上を見上げて「鄭重……?」と内心首を傾げた。何故ならそこでは依然気を失ったままのルルが緑髪の女人蛇に抱えられ、宙ぶらりんになっている。
いつまでもあのままでは頭に血が上ってしまう気がするのだが、人蛇流の歓迎というのは、客人を樹の上から逆さまに吊すことだったりするのだろうか……?
いや、でも、ルルを抱えた女人蛇は、とても大切そうに彼女を抱き締めているようにも見えるし……うん、ここは野暮な口出しはしないでおこう。
そう心に決めると同時に踵を返した。
そうして低いうなりを上げている〝虎の道〟へと向き直る。
(見ていて下さい、ラッティさん、キーリャさん)
裸足の両足を絡め取ろうとする恐怖を引き千切り、カヌヌは一歩踏み出した。
キヴィティが試練の舞台として示した〝虎の道〟は、入り口がほぼ垂直の竪穴になっていて、恐らく底まで一枝(五メートル)以上の高さがある。当然ながら落ちれば骨折は免れない。打ちどころが悪ければ即死する可能性だってあるだろう。
が、唯一の救いと言うべきか、穴の壁には底に向かって伸びる樹木の根が垂れていて、それを伝えば安全に下りて行けそうだった。ゆえにカヌヌはまずキヴィティから受け取った松明を穴の中へ放り投げ、高さと着地点を見定める。
放り込んだ明かりを目印に、樹の根を伝って慎重に降下を開始した。生まれたときから樹上で育ったカヌヌにとって、木登りは投げ槍を的に当てるよりも簡単だ。
ただ樹皮や枝、瘤などの取っかかりがある幹とは違い、根は存外スベスベしていて、油断するとあっという間に滑り落ちてしまう。ゆえに両足でしっかりと根を抱え込み、一歩一歩着実に穴を下った。かくして辿り着いた穴の底は、まったく人の手が入っていないことがひと目で分かる岩の地面だ。
おまけに大きな横穴が口を開けていて、低いうなりはその奥から聞こえる。
風の音だと思いたいが、キヴィティが洞窟の出口はここしかないと言っていたから、もしかすると洞窟の奥で待ち受ける獣のうなり声かもしれない。
そんな想像が脳裏をチラつき、カヌヌは唾を飲み込んだ──いや、大丈夫だ。
自分は虎や豹よりずっと凶暴な魔物と何度も大陸で戦った。
今更地上の生物ごときに怖じ気づきはしない。
そう自身に言い聞かせ、ゆっくりと横穴の入り口をくぐった。
一体どこから吹いているのか、生ぬるい風がカヌヌの黒い肌を撫でる。
ほんの少し生臭い気がするのは潮の香りが混じっているせいだろうか。
はたまた獣が巣穴に持ち込んだ獲物が、洞窟の奥で腐っているのだろうか。
何も分からない。分からない、が、この洞穴自体がまるで巨大な獣の口内のようだった。〝虎の道〟の中には天井から幾本も垂れ下がった鍾乳石があり、カヌヌにはそれが獰猛な大地の牙に見える。場所によっては同じような岩が天井だけでなく地面からも生えているせいで、なおさらひと口で噛み殺されてしまいそうだ。
(何も聞こえない……な。〝虎の道〟には蝙蝠も棲み着いてるはずなのに、見当たらない……まったく人が寄りつかない人蛇の森の〝虎の道〟なら、一族が狩り尽くしたってこともないだろうし……)
無名諸島の民にとって蝙蝠は貴重な食糧だ。島に棲む蝙蝠は動物の血を吸う大陸の蝙蝠とは違って、森に生る木の実を主食としている。だから島蝙蝠の肉はほのかに甘く栄養も満点だ。両端に石を結んだ擬餌紐を宙に放り投げるだけで簡単に寄ってきて捕まるので、どの島でも頻繁に捕獲され、最近は数を減らしている。
けれども、島の人間が決して立ち入ることのない人蛇の森の蝙蝠まで減っているというのは妙な話だ。もしや人蛇たちも蝙蝠を食べて暮らしているのだろうか?
歴代の族長はたとえ獣を狩り尽くしても、時間が経てば人蛇の森に守られ繁殖した獣が再び森を満たし、また豊かさを取り戻すようにできているから大丈夫だと説いていたが……。
(昔から人蛇の森へ入ることが禁じられているのは、もちろん人蛇信仰が一番の理由だけれど、森の生態系を守るための先人の智恵でもある。その掟を頑なに守り続けてきたから、今も島の豊かさは守られているんだ。なら歴史的に考えて、人蛇族がひとつの巣穴から群が消え去るほど蝙蝠を乱獲しているとは考えがたい……かと言って虎や豹が蝙蝠を狩ることはまずないし……)
ならばこの異様な静けさは何だろう。暗闇の中、足音を殺して進むカヌヌの耳に聞こえるものと言えば、松明の先で時折爆ぜる薪の音だけ。
おかげで自分の息遣いばかりが静寂の中に浮かび上がり、まるで別の生き物が耳もとで呼吸しているかのように錯覚してしまう。入り口からまだ半刻(三十分)も歩いていないというのに、これほど息が上がるのは緊張と恐怖のせいか。
あちこちに転がる岩石や石筍のせいで、洞窟内はかなり見通しが悪かった。
おかげでいつ暗闇の向こうから肉食獣が飛び出してきてもおかしくないと、怯えた心臓が暴れている。全身は既に汗だくで、カヌヌは深く呼吸しながら額に滲む汗を拭った。分かれ道に差しかかったときには、自分がもと来た道が分かるよう、岩壁に松明を近づけて煤跡をつける。せめてもの目印代わりだ。
だが闇雲に奥へ進めばいいというわけでもない。
カヌヌは洞窟へ下りる前、キヴィティから教えられた霊石なるものの特徴を何度も脳内で反芻しながら、慎重に足もとを照らして歩いた。曰く、霊石とは水晶によく似た透明の結晶で、その多くは地面から生えるように生まれてくるとか。
もともと地中に埋まっている他の鉱石とは違い、霊石は有限ではない。稀少なものであることは確かだが、精霊の力がある限り半永久的に生成され続ける。
仮に島中の霊石を採り尽くしたとしても、またどこかで新たな霊石が生まれ、いずれ再び採取することが可能となるわけだ。
もっとも霊素の結晶化には、途方もなく長い歳月を要するという話だったが。
(水晶、水晶……それらしきものはまだ見当たらないな……)
と、入念に岩の陰を照らしながらカヌヌは進む。
洞窟に下りてからどれほどの時が流れたのかは、もはや分からない。
暗闇というのは往々にして時間の感覚を狂わせるからだ。
おまけにここは深い深い地の底で、空を見上げることもできない。
人が抜け出せるほどの大穴でなくても構わないから、せめて地上の様子が窺える程度の亀裂がどこかにあればいいのだが──
「グルルルルルル……」
ところが刹那、カヌヌははっと息を飲んで立ち止まった。
猛獣が喉を鳴らすような低いうなり声。確かに聞こえた。幻聴ではないはずだ。
やはりここにも洞穴の主がいたのか。
カヌヌは数歩あとずさり、とっさに背中の槍へ手をかけた。
うなり声の主の姿を確かめようと、可能な限り腕を伸ばして松明を翳す。
されど、見えない。うなり声は確かに前方から聞こえたのに、主は闇の向こうに身を潜めている。侵入者を警戒し、出方を窺っているのだろうか?
だがこの異様な生臭さは何だ?
洞窟を進めば進むほど入り口で感じた異臭が強くなっているのは感じていたものの、それがここに来ていよいよはっきりと鼻を衝く。磯の香りというよりも生き物の死骸が腐ったときの臭いに近いが、何か別の臭いも混じっているようだ。
そう、たとえば、魔物がまとう瘴気の悪臭のような……。
(まさか)
全身からどっと汗が噴き出すのを感じた。
ずるり、ずるりと、暗闇の向こうから何かが這い寄ってくる音がする。
同時に鼻腔を満たす悪臭が強烈さを増した。音が近づけば近づくほど臭いは強くなる。足の裏から震えがきた。どれほど戦い慣れたと思っていても、いざ遭遇すれば地上の生物としての本能が激しく騒ぎ出す、この世ならざるもの──
〔ああ……〕
と、気づけば口から吐息混じりの震えた声が漏れていた。
どうりでこの〝虎の道〟には生き物の気配がなかったはずだ。けれど今更気づいたところで後戻りなどできはしない。ゆえにカヌヌは唇を噛み締め、腰を落として身構えながら、ここまで握り締めてきた松明を前方へ、放り投げた。
「グリュヴュエェエェエエェェエエエッ!!」
闇の向こうから、獲物を見つけた主の咆吼が轟き渡る。瞬間、放物線を描いて飛んだ松明の明かりが、赤光りするいくつもの眼を照らし出した。だがそれは複数の敵の存在を示唆するものではない。ある程度の規則性を持って三列に並んだ不気味な眼はむしろ、相手が一匹の巨大な生き物であることを示している。
〔地底鱓……!〕
大陸でそう呼ばれていた鱓の化け物。遥か地の底にあるという腐海の住人が、獰猛な牙に飾られた真っ赤な口を開き、直後、カヌヌへと襲いかかった。