第八十八話 希望をつくるもの
……私の故郷はさ。
あんたはまだ行ったことないだろうけど、南東大陸の中西部……バクル砂漠の西にあるんだ。いや、そこにあったと言った方が正しいね。今はもうないから。
〝砂漠〟ってのがどんな場所かは分かるでしょ。
そう。あの竜人どもがうようよしてるラムルバハル砂漠によく似たところ。
まあ、私らが暮らしてたのはその中でもやたらと岩だらけの一帯で、ラムルバハル砂漠みたいな砂地しかない砂漠とはまた趣が違ったけどね。
私ら豹人族は古い古い時代から、そういう岩場に穴を掘って、ちょっとした洞窟みたいな場所を住処にしてた。洞窟って言ってもそんなに立派なもんじゃないわ。
なるべく目立たない岩場の高いところに穴を掘って、扉をつけて。
中には寝床とちょっとした調理場と……それだけ。
豹人は普通、同族同士でつるまないから、周りには誰もいない。
ご近所付き合いとかもなかったね。
みんながみんな、お互いに干渉しすぎないように暮らしてたから。
私たちの間では、生きるために他者の手を借りるというのは恥だったの。
いずれはひとりで生きていくわけだから、何でもひとりでできなきゃいけない。
だからって別に、他の豹人と不仲だったってわけじゃないわ。
会えば世間話くらいはしたし、同族意識だってちゃんとあった。
ただ誰もが自分の縄張りを持って暮らしてたから、他人の縄張りには勝手に踏み込まないのが暗黙のルールだったってだけね。同族と付き合うときはお互いの誇りと領分をしっかり尊重するのが豹人の礼儀だったわけ。
豹人の間には〝義理〟はあっても〝恩〟って概念は存在しない。
だから無償で他者に施しをしちゃいけないし、万一何か借りを作るようなことがあれば必ず返す必要がある。一方的に助けられるなんて言語道断よ。
そんな弱くて甘ったれたやつは、豹人として生きていく資格がない。
……分かった? つまり〝余計なお世話〟ってのはそういうこと。
あんたのお節介は豹人にとって侮辱以外の何ものでもないの。
〝お前はひとりじゃ目の前の問題を解決できないだろうから手を貸してやる〟って言われてるのと同じ。正直言って屈辱だわ。
……失礼ね。私に言わせりゃあんたたちの方がよっぽど〝変〟よ。
どうしてそこまで他人に構いたがるのか分からない。
そういうの、ハノーク語でなんて言うか知ってる?
〝カルチャーショック〟っていうのよ。
育った環境や文化が違えば、価値観も違って当然でしょ。
ま、私の場合はもう慣れたし、諦めもついたけど。
……で、話を戻すと、私はそんな〝渇きの谷〟で生まれて育った。
もちろん豹人族がいくら孤立主義だからって、生まれてすぐに放り出されたりはしない。必要以上の馴れ合いや干渉を避けるとは言っても、子育ては別だから。
豹人の親は、将来我が子が独り立ちしたら、何があっても自力で生きていけるように厳しく育てる。そのために自分が持てるありったけの知識と技術を授けるのが豹人流の子育てだった。あんたたちみたいに軟弱な価値観の下で育った連中の目には、もしかしたら親が子を突き放しているように見えたかもね。
だけど少なくとも、両親は優しかった……と思う。だって私は今もこうして生き延びて、あんたたちと出会う前だって、ひとりで何とかできてたんだから。
それは全部、父さんと母さんが遺してくれた知識と技術のおかげ。
ところが今から十年前……あるひとりの豹人が、どこかの誰かから請け負った仕事で、当時アッバース首長連邦の中心にいたとある首長を暗殺した。
言ってなかったかも知れないけど、私ら豹人族は昔から暗殺や盗みを生業にしててね。依頼を受ければ依頼主のお望みどおりに、誰でも殺したし何でも盗んだ。
請け負った仕事を黙々と、完璧にこなすのが豹人の誇りだったから。
けど、問題の豹人はちょっと……いや、あまりにも腕がよすぎたんだ。
アッバース首長連邦ってのは、バクル砂漠の北西に暮らしてる人間の部族の集まりでね。あんたの故郷の無名諸島みたいに、それぞれの部族がそれぞれの土地で暮らしてる。その部族の首長たちが、互いに争わなくていいように話し合いで各々の土地を守ってるから〝首長連邦〟。あんたでも分かるように訳すなら〝異なる部族の長同士が協力して治めてる国〟ってところね。
例の豹人が殺してみせたのは、そこの首長たちの中でも特に勘が鋭くて用心深く、武芸も達者な男だった。つまりかなりのキレ者だったってわけ。
当然ながらそんな男を闇討ちするなんて簡単なことじゃなかった。
現に過去何人もの豹人がやつの暗殺を請け負ったけど、成功した者はひとりもいなかったどころか、全員返り討ちに遭ってたし。おかげで首長連邦は当時破竹の勢いでね。やつを連邦の旗頭に担いで、隣国に戦争を吹っかけまくっては領土をぶん盗り続けてた。要は連邦の英雄だったのよ。彼が暗殺した男はね。
英雄を殺された連邦の人間たちは、当然怒り狂ったわけだけど……連中はそれ以上に恐怖した。私たち豹人族の存在にね。
〝戦えば必ず勝つ〟と持て囃されていた英雄さえ暗殺しちまう私らの存在が、非力な人間どもの目には脅威に映ったんだと思う。
そして英雄を失った首長たちは後顧の憂いを断つことにした。つまり谷を襲ったのさ。連邦の全軍でもって、谷で暮らす豹人を根絶やしにするためにね。
連中の攻撃は執拗だった。あんなに広大な渇きの谷を隅々まで探索して……豹人を見つければ老若男女関係なく、片っ端から殺して回った。
当時まだ七歳だった私は、大人たちのようにまともには戦えなくて……両親がいざというときのために用意してた隠れ家に押し込まれて何とか生き延びた。
一族を守るために戦いに行った両親ともはぐれて、ひとりきりでね。
何日隠れ家に籠もっていたのかは正直分からない。だけどある日、いよいよ耐えられなくなって外に出てみると、人間どもはもう撤退してた。
谷はとても静かだったわ。
もともと静かな谷だったけど……まるで谷そのものが死んでしまったみたいに。
私は隠れ家を出て、自分の家に戻った。そこに両親の姿はなかった。親戚や知り合いの家も回ってみたけど、やっぱり誰もいなかった。人間が攻めてくる前は、たとえ姿は見えなくても、谷のあちこちに仲間たちの痕跡や気配があったのに。
だけど私は、みんな昨日までの私みたいにどこかに身を隠しているのかもしれないと……逃げ出した豹人たちも、人間が去ったと知ればまた谷に戻ってくるだろうと信じて待った。待った。途方もなく長い間、たったひとりで。
結論から言えば、何日待とうが何ヶ月待とうが、誰も帰ってきやしなかったわ。
でも、当時の私は頑なに信じてたの。両親はどこかで必ず無事でいるって。
生き残った仲間たちも、きっと谷に帰ってくるはずだって。
とは言えいくら無知でどうしようもない子供だった私でも、たったひとりで一年も暮らし続けたら嫌でも理解したわ。
谷にはもう誰も戻ってきやしない。両親も親戚も友達も、みんなみんな人間に殺されたか、谷を捨ててどこかへ行ってしまったんだってね。
ずっと大事に抱えていたはずの希望は日を追うごとに萎んでいった。やがてすべてを理解する頃には、そんなものに縋っていた過去の自分が恨めしくて、呪わしくて、縊り殺してやりたかった。希望なんて初めから持たない方が幸せだったのよ。
そうすればあんなに深い悲しみや絶望に囚われることもなかった。
つまり、私は……当時の自分の愚かさを今でも悔やんでるの。
そしてこう思ってる。
あのユーリって男が自分と同じ想いをする前に、気づかせてやりたいってね。
あんたにこの気持ちが分かる、カヌヌ?
……いいえ。きっと、分からないでしょうね。
×
キーリャの話し声が途切れると、ヴァロン広場にびょうと風が吹き抜けた。
寒い。大陸の南は秋の盛りでも、ここはもう冬だ。
寒くて寒くて、身も心も凍えてしまいそう。
(……キーリャに、そんな過去があったなんて)
知らなかった。二年近くも一緒に旅しておきながら。だけど同時に、キーリャが自身の過去をあまり語りたがらなかった理由がやっと分かった気がする。
だからラッティも今日まで深くは触れなかった。
知っていたのは彼女の故郷が人間たちの手によって滅ぼされたという事実だけ。
おかげでラッティはちょっとしたシンパシーを感じていた。
身勝手な人間の行いが原因で帰る場所を失くしたという過去が、自分とキーリャを魂の底で結びつけてくれているなんて勝手に自惚れていた。だけど全然違った。
故郷にはさしたる愛着もなく、一目散に目を背けて逃げた自分と。
一年もの間、たったひとりで愛する故郷に留まり続けたキーリャとでは、どちらが幸せだったのだろう?
「……だから言ったでしょ。聞いて後悔するなって」
耐えるには長く、受け入れるにはあまりに短い沈黙のあと。広場の中心にある神木の梢から聞こえたキーリャの言葉に、ラッティは小さく震えた。
今のは黙り込んでいるカヌヌに対する言葉だったのだろうけど、まるでふたりの話を盗み聞きしてしまった自分に向けられた言葉のようにも感じられたから。
「で? 今の話を聞いて、あんたはどうお世話してくれるわけ? 一緒にあのユーリとかいう男を絶望の底へ突き落とす共犯者にでもなってくれる?」
続けて聞こえたキーリャの問いは残酷だったが、しかしカヌヌを責めているわけでないことは声の響きで分かった。
同時に彼女が今、淡い自嘲を浮かべているのだろうことも。
「……できないわよね、あんたには。ま、私もちゃんと忠告はしてきたし、これ以上お節介を焼く気はさらさらないけど。ただ少し、腹を立ててただけよ。あいつのことを思い返すたび、馬鹿でどうしようもなかった昔の自分の醜態を、目の前に突きつけられるような気がしてね」
「……」
「だからあんな男のことはさっさと忘れて、早く次の土地へ移動したいって……そういうことを考えてただけ。昔のことを思い出すのが憂鬱だってだけで、別に悩んでるわけでも落ち込んでるわけでもないわ。要するにあんたの出る幕はないってこと。分かったら本当に風邪をひく前に、大人しく宿に戻って──」
「キーリャサンは、ホントにソレでイイデスカ?」
「……え?」
「ユーリサンをあのママで、ホントに後悔しマセンカ?」
「私は……」
「ボク、知ってマス。キーリャサン、やさしいヒト。だからココロの中では、今もユーリサン助けたい、思ってマスヨネ?」
「……カヌヌ、あんた何を聞いてたの? 私はあいつに言うべきことは言ってきたし、これ以上他人の領分に首を突っ込む気はないって──」
「なら、言い方変えマス。ボクはユーリサン、助けたいデス。あんな寂しいトコロにヒトリだけ、とてもカワイソウ。だから、助けてあげたいデス」
瞬間、ラッティの脳裏にはありありと、斑の毛を逆立てたキーリャの姿が思い浮かんだ。恐らく今、神木の青い葉の向こうに隠れたキーリャはまさにそんな姿をしているのだろうと、身を潜めた物陰から半身を乗り出して思う。
いい加減自分も出ていくべきかと、ほんの束の間躊躇した。が、ラッティの頭が結論を弾き出すよりも早く、わずかな苛立ちを孕んだキーリャの声が響き渡る。
「カヌヌ。あんたってほんとお人好しね。あいつは自分の意思であの村に残ることを決めたのよ。だったらもう余所者の私らが何を言ったところで無駄でしょう。自分で選んだことなんだから、あとは本人のやりたいようにやらせて……」
「そうデス。ユーリサン、村に残って、ミンナの帰り待つと言いマシタ。だからボクたち、そのお手伝いしマス。ユーリサン、ヒトリでは村をモトに戻すの、とても大変。なら、ボクたちが村を戻すお手伝いすればイイネ! そしたらユーリサン、寂しくナイヨ。村を直すのも早くデキるし、イッコクイチジョー! デショ?」
「は……?」
「アッ……間違えマシタ。イッセキニチョー、デス! ボク、このハノーク語とても好きネ。ヒトツの石でフタツの鳥をトる……メデタイ言葉デス!」
「いや……熱く語ってるところ悪いけど、私が訊いてるのはそこじゃなくて。あんた今、自分が何を言ったか分かってるの?」
「え……? イッコクイチジョー、デスカ……?」
「そうじゃない。ケルッカ村を復興する手伝いをするってのがどういうことか、ちゃんと分かって言ってるのかって訊いてるのよ」
「アッ、ソッチデスカ! もちろんデス! ユーリサンの村、確かにとてもボロボロだったヨ。だからモトに戻すの大変なコト、ボクでも分かるネ。だけどユーリサン、村のコト、諦めない。だったらボクたちが手伝って、少しでも村をモトのカタチにデキれば……」
「なんで赤の他人のためにそこまでしてやらなきゃなんないわけ? 縁もゆかりもない村がどうなろうが私らには関係ないでしょ? だいたいあんた、村での話を聞いてなかったの? いくら村を復興させたって冬が明けたらまたエレツエル神領国が攻めてくる。そうなったらせっかく立て直した村をまた焼かれるかもしれないのよ? そんな無駄なことに労力を費やしてどうなるって言うの」
夜の町に響くキーリャの声色は、次第に険しくなりつつあった。
おかげでラッティはまたしても出ていく機を逸してしまう。
だけどカヌヌの提案はまったくの予想外だった。
獣人隊商がケルッカ村の復興を手伝う、だって?
確かにユーリをたったひとりであの村に残しておくのは心苦しい。
だからと言って復興に手を貸したところで、たった今キーリャが指摘したように、来春にはまた神領国軍による侵攻が再開されるであろうこともまた事実……。
だとしたら村のことは諦めて、ユーリにはあそこを去ってもらうというのが最も賢い選択であることはラッティにも理解できた。けれどユーリは故郷を諦めない。
本人がそうすることを望んでいるのだから、あとは好きにさせればいい……というキーリャの言い分もまた真理だ。でもカヌヌは違った。
真夜中の広場を支配する静寂を、彼の言葉がまっすぐに切り裂いていく。
「だけど、神領国がまたケルッカ村襲うかは分かりマセンヨネ? むしろ、一度焼かれて何にもなくなった村、襲ってもイイコトナイデス。だって神領国が奪えるモノ、ケルッカ村にはもうナイデショ? 冬が明ける頃には、ジョーキョーが変わるかもしれないデスし……」
「だとしても次の春は? その次の次の春は? いくら戦争の状況が変わっても、群立諸国連合が神領国軍の脅威に晒され続けることに変わりはないわ。そもそも村を復興したって、戻ってくる人間がいるとも限らないのよ? 百歩譲って生き残りがいたとしても、つらい記憶が残る村でもう一度暮らしたいと思うやつがどれだけいるか……」
「村で暮らすのは、モトいたヒトたちじゃなくてもイイデス。ドコか遠くから旅してきたヒトたちが、村を気に入ってイッショに住んでくれるかもしれないデショ? だってケルッカ村、とってもイイトコロデス! 森があって、湖があって、ケモノやサカナもいて……」
「カヌヌ。あんたの楽観主義は今に始まったことじゃないけど、これはそんな単純な問題じゃないのよ。ありもしない希望に縋ってまた絶望を味わうくらいなら、もっと確実で賢い方法を選んだ方がいいに決まってるでしょ。それがあいつにとっては村を捨ててより安全なところへ逃げることだと私は言ってるの。だけど本人が嫌だと言って聞かないんだから、私たちにはどうすることも……」
「でもユーリサン、ドコにも逃げられない言ってマシタ。安全なトコロに逃げられるは、オカネ持ちのヒトだけだと。なら、ユーリサンにとってもっと確実でカシコイ方法って何デスカ? ──何もかも諦めて、死んでしまうコトデスカ?」
刹那、夜風の冷たさとは別の何かが、ぞっとラッティの背筋を舐めた。
金もなく、行く宛もなく、頼る相手もいないユーリにとって、確実に危険や苦悩から逃げられる方法。……ああ、そうだ。それは確かに〝死〟だ。
何もかも諦め、投げ出して、自らの人生を閉ざしてしまうこと。
そうすれば彼はもう二度と苦しまなくて済む。失わなくて済む。北方の長い冬に凍えることも、飢えることも、魔物やエレツエル人に襲われることもなくなる。
けれど──
「ボク、知ってマス。ヒトが死ぬのはとても簡単デス。でもユーリサン、そうしマセン。ホントはとても、とても苦しいハズなのに……諦めたくナイと言いマシタ。だからボクはユーリサン、助けたいと思うデス。ヤッパリ死んでしまった方がイイなんて、思ってほしくナイデス」
「……」
「キーリャサン。キーリャサンは、故郷のミンナ、もう戻らないと知ったとき、どうして生きるコト選びマシタカ? もう希望なんて持ちたくナイなら、死んでしまった方がイイって思わなかったデスカ?」
「私は」
「無名諸島には、こんなコトバ、アリマス。オカマナ・オ・ラナ・ケカヒ・ノア・ノケオーラ──〝希望とは生命の別の名前〟という意味デス」
広場に再び風が吹いた。
その風はどこまでも力強く、迷いを知らないカヌヌの口調にそっくりだった。
神木の青い梢が騒ぎ出す。まるで何かの始まりを告げるように。
カヌヌの言葉に、ラッティの全身が──世界が総毛立つ。
「キーリャサン。故郷が滅びても、キーリャサンはヒトリで生きるコト、選びマシタ。ソレはキーリャサンが、希望、捨てなかったから。希望なんて持つのはマチガイだったと言いながら、ヤッパリ捨てられなかったから。違いマスカ?」
「私は……!」
「ホントに捨ててたら、キーリャサン、今、ココにいなかったデス。そして、ボクもいなかったデス」
「は? なんであんたが」
「ボクも希望を捨てようと思ったコト、アルからデスヨ。でも、ヤッパリ捨てられなかった。だからボクはココにいる。そしてあのとき捨ててしまわなくてよかったと、今、ココロからそう思ってマス」
……希望を捨てる?
いつも前向きでのほほんとしていて、悩みなんてなさそうなカヌヌが?
と、驚きのあまり思わず声に出してしまいそうになったのを、すんでのところで口を押さえてラッティは堪えた。
が、キーリャもまったく同じ感想を──恐らく表情だけで──伝えたのか、広場の真ん中からはアハハッと無邪気に笑うカヌヌの声が聞こえてくる。
「キーリャサン、ヒドいデスヨ! ボクだってツラいコト、悩むコト、たくさんアリマシタ! キーリャサンに比べれば、チッポケなコトばかりデシタけど……」
「……それって、あんたが故郷の島を出たがってたってことと関係ある?」
「ハイ。ボク、コドモのときから島を出て、広い世界見るのが夢デシタ。でも、島のダレもボクのユメ、分かってくれなくて……時々島に来る外のヒトも、ボクのコト、全然相手してくれなかった。ツラくて、悔しくて、何度も諦めようと思ったデス。でも、諦められなかった。ユメを捨てたら、ボクが生きてる意味なんて何もナイって、そう思ったからデス。だからずっと、ずっと神様にお祈りしマシタ。そしたらついに神様が、ラッティサンたちを連れてきてくれたんデス!」
ああ、そうだ──あれは二年前の春先のこと。
ラッティたちは北西大陸から南西大陸を目指す旅の途中で嵐に遭い、乗っていた輸送船が座礁しかけて、命辛々無名諸島へ漂着した。
で、船の修理が完了するまでの間、先住民たちの許可を得て、島に滞在させてもらうことになったのだ。そしてある日、ラッティは浜で拙いハノーク語を操り、必死に船長と交渉しようとしているひとりの青年に目を留めた。
その青年こそが、カヌヌだった。
「ラッティサンたちはボクのヘタクソな話、イッショケンメイ聞いて、爺さまと話して、命懸けでイスグの滝に飛び込んでくれマシタ。ボクがラッティサンたちのタメにデキるコト、何もなかったのに……アカの他人のボクがどうなったって、ラッティサンたち、関係ナイのに。でも〝ソレが獣人隊商だから〟って。だからボク、こう思ったデス。ボクも世界の色んなコト見て、いつかラッティサンたちみたいになりたいって!」
熱を帯びて響くカヌヌの声が、物陰で膝を抱えたラッティの頬にサアッと熱を呼んだ。あの日、ラッティがカヌヌの夢と気概を気に入って、仲間にしようと決めたのはいつもの気まぐれだったのに。
当時のことをカヌヌがそんな風に思っていたなんて、全然知らなかった。
あれじゃまるで自分たちが救い主か何かみたいだ。だけど少なくとも、カヌヌにとっての獣人隊商は、まさしく救い主だったのだろう。
いつか誰かを、たったひとりでも構わないから、この手で救うことができたら。
そう思って、信じて、今日まで旅してきたラッティにとって──闇の中で弾むカヌヌの言葉は、瞳の中でキラキラと熱を帯びるほど、まぶしい。
「だからボク、ココに居マス。そして思うデス。ボクはラッティサンたちと出逢えてとてもシアワセ。でも途中で希望を捨ててたら、今のボク、いなかったって!」
「……」
「キーリャサンは、違いマスカ? 今、シアワセじゃナイデスカ?」
「……」
「ボク、知ってマス。キーリャサンも、ラッティサンたちのコト、とても大切ネ。そうじゃなかったらキーリャサン、ボクみたいなオセッカイといるコト、ガマンしない。デショ?」
きっと首を傾げてそう尋ねたのであろうカヌヌの声色には、ほんのちょっとのからかいと、確かな信頼の響きがあった。
キーリャは何も答えない。だけどもう一度、自惚れ直してもいいだろうか。
彼女のその沈黙もまた、きっと肯定であるはずだと。
「だからボク、ユーリサンにシアワセのオスソワケ、したいデス。今、ケルッカ村に希望ナイなら、ボクたちが作ってあげればイイネ! ラッティサンたちが、キーリャサンやボクにそうしてくれたみたいに!」
「……あんたはそうやって、何でも簡単に言うけどね。今からケルッカ村に戻ってあいつを手伝うってことは、城主国でひと冬を明かすってことよ。熱帯育ちのあんたが北の冬を耐えられるの? 本物の吹雪も極夜も知らないあんたが」
「そ、ソレは……頑張りマス! ポリーサンにポカポカの服、いっぱい作ってもらいマス! あとはキアイで……!」
「気合いで冬を乗り切れるなら、あんなバカみたいに食糧が売れたりしないわよ」
「で、でも! ラッティサン、言ってマシタ! 世の中のコト、だいたい全部、キアイがあれば何とかなるって!」
「あんたもヴォルクに誘われてラッティ教に入信したわけ? だけどあんたらの教祖サマの言うことは、半分くらい適当だから信じたらバカを見るわよ」
(否定はできないけど腹立つな!)
キーリャの言い草に立腹し、今にも抗議の声を上げてやりたいのをジッと堪えて、ラッティはギリリと切歯した。せっかくカヌヌがいい雰囲気で話をまとめようとしてくれているのに、キーリャは相変わらず容赦がない。けれど直後、頭の上で不機嫌に伏せられたラッティの狐耳を、小さな笑い声がくすぐった。
呆れたような、諦めたような──けれど確かに、キーリャの笑い声だった。
「……まあ、あんたがどうしてもって言うならそうすればいいんじゃない。さっきも言ったけど、豹人は他人の決めたことには不必要に干渉しない主義なの。だからあんたがケルッカ村のために命を張って、吹雪の中で凍えたり、遭難したりしても構わないって言うなら止めやしないわ」
「う、うぅ……!」
「でも、それがあんたの誇りなんでしょ。そして私の誇りは豹人族の生き残りとして、一族の誇りを守ること。つまり、一度請け負った仕事は完璧にやり遂げる……今の私は、獣人隊商に雇われた用心棒だからね」
「……! キーリャサン……!」
直後、ガサッと梢の揺れる音がして、静かに影が降り立った。
振り向かずとも、キーリャが木から下りてきたのだろうと分かる。一体どうやっているのだか、彼女は木登りと同じくらい気配や物音を消すのが得意だからだ。
さらにガサガサと葉擦れの音が聞こえるのは、カヌヌも慌ててあとを追おうとしているためだろうか。そんな彼を見上げ、首に巻かれた襟巻きを口もとまで引き上げて──キーリャはやはり、笑っていた。
「ま、だとしてもまずは隊長の許可が下りなきゃどうにもならないけどね。私らだけで勝手に話を進めたところで飛ぶ鳥の献立だわ」
「トぶトリのコンダテ……?」
「石を投げる前から二羽の鳥を獲れるかなんて話をしててもしょうがないってことよ。──そうでしょ、ラッティ?」
が、瞬間、闇夜に響いた自身の名前に、ラッティは座り込んだまま凍りついた。
……あれ? もしかして今、名前呼ばれた? 呼ばれたよね?
いや、でも、アタシがここにいることはキーリャもカヌヌも知らないはず……。
自問自答ののち、ラッティはサッと外套のフードを目深に被り直した。
そうだよ。そもそもアタシは今〝ラッティ〟じゃないし。
むさ苦しい人間の大男にちゃんと化けられてるはずだし。
そう自分に言い聞かせるも、額からだらだらと冷や汗が流れてくる。
……本当は分かっていた。
生粋の狩人であるキーリャなら、物陰で息を潜める不届き者の気配に気づくことなど造作もないということは。
「……あら。気のせいかしら。確かに酒臭い狐のにおいがしたと思ったんだけど」
「……!」
「ま、いいわ。出てきたくないならそれもあんたの自由だし。代わりに私らはさっさと宿に戻って、無断外出がバレないようしっかり雨戸を施錠しとくから……」
「ああああああああ! ハイそうですごめんなさい、アタシが酒臭い狐ですぅ!」
キーリャの身を案じて探しに来たはずの自分が、宿から閉め出されたあげく凍える一夜を過ごす羽目になるなんて本末転倒だ。ゆえにラッティは物陰からガバリと立ち上がり、早々に謝罪と降伏の言葉を口にした。
が、その声に仰天したらしいカヌヌが、悲鳴を上げながら落ちてくる。
もこもこの外套ともこもこの帽子、そしてもこもこの雪靴ともこもこの手袋に全身を包まれた彼は幸いもこもこに守られ怪我などはしなかったようだが、完全に腰を抜かして唖然とラッティを見つめていた。
「ら……ラッティサン……!? イツからいたデスカ……!?」
「わりと最初からいたわよ。わざわざ風上から酒のにおいをぷんぷんさせてくるから、私はすぐに気づいたけど」
「サイショから……!? じ、じゃあ今のボクたちの話、聞いてたデスカ……!?」
「う、うん……ごめん……だ……だいたい聞こえてた、かな……」
キーリャに潜伏を看破された時点で、観念して化かしの術を解いたラッティは、意味もなく頭を掻きながら目を泳がせた。だって今の今まで隠れて会話を盗み聞きしていたなんてバツが悪いし、何よりさっき聞いたばかりのカヌヌの本心を思い返すと、何だか照れ臭くてふたりを直視できなかったし。
「で、隊長。あんたの答えは?」
ところが照れるラッティと絶句するカヌヌ、その双方を差し置いて、腕を組んだキーリャが涼しい顔で尋ねてきた。初めからラッティが近くまで来ていることに気がついていた彼女にしてみれば、たぶん話が早くて助かる程度の認識なのだろう。
豹人のキーリャとはそういうヤツだ。過ぎたことにはこだわらず、合理主義で、他者にも自分にも無関心。でも実は意外と世話好きで、仲間想いで、誰かを思いやれる心の持ち主だということも、ラッティはちゃんと知っている。
「……そうだな。アタシの考えとしては──」
ゆえにラッティは、迷うことなく口を開いた。
このふたりの仲間を大好きだと思う気持ちと同じくらい明確に、答えはもう、決まっていたから。