第八十七話 お節介
トルニの町へ入ってからも、キーリャはずっと不機嫌だった。
ラッティに言わせれば、彼女がここまで感情的になるなんてちょっと珍しい。
普段から誰に対しても素っ気なく、何かに執着する素振りなんて見せたこともなかった彼女が。
一体どうして、ユーリのことをあんなにも気にした様子でいるのだろう?
「やー、売れた売れた! 初日から完売する勢いの売れ行きだったね。やっぱ食糧に投資したのは正解だったなあ。アマゾーヌ女帝国からここまでの輸送費を差し引いても充分おつりが来るよ。明日はケルッカ村で仕入れてきた酒を酒場に卸しに行きたいとこだけど……今日の万客御礼ぶりだと、先に食糧を売り切っちゃった方がいいかもね」
そんなことを考えながらトルニの町に入って四日目の晩。
滞在一日目に宿を取り、二日目に町の商人組合へ顔を出して七日間の出店権を買い、そこから三日目にかけて念入りに行った市場調査の末、ラッティたちがいよいよ着手した食糧提供は初日から見込み以上の大盛況だった。宿に戻ってから算盤を弾いて出した計算によれば、今日一日だけで売上は五十三金貨。
このくらいの規模の町で暮らしている平凡な町民なら、一年半は優に暮らせるほどの稼ぎが一日で手に入った。四年間あちこちで商いをしてきたラッティでさえ経験したことがないほどの大儲けだ。
トルニの食品市場では案の定食糧の値段が高騰していて、連合の外であれば赤銅貨一枚で買えるジャガイモすらも六倍の値段で売られていた。よってラッティたちは各品目を市場価格の六割程度──つまりジャガイモなら四赤銅貨。本当はもっと安くしたかったが、市場平均価格の半額以下に設定すると組合の取り決めに違反してしまう──程度で売りに出してみたのだが、これが飛ぶように売れたのだ。
やはりピュリュリンナ城主国の食糧難は深刻らしく、少しでも安く食糧を買い込めるならと、ラッティたちが市場のはずれで開いた露店には町人が殺到した。
本来であれば日が暮れ始める蒼神の刻(十六時)頃に閉店するつもりでいたのが、商品が売れすぎて聖神の刻(十四時)には店じまいをしたほどだ。
ラッティは今回の行商に七十金貨を投資している。うち七割以上を一日で回収できたというのはかなり大きな成果と言っていいだろう。
こんなに売れるなら七日分も出店権を買う必要はなかった。明日も同じ勢いで商品が捌けるならあと二、三日もすれば馬車の中身はすっからかんになってしまう。
とすると獣人隊商は四日分も余計に場所代を払ってしまったというわけだ。
とは言え連合商業組合から買った出店権は払い戻しができない。
せめて申請費の何割かだけでも返してくれりゃいいのに、と唇を尖らせつつも、ラッティは昼間のうちに殴り書きした売上の書きつけを、せっせと帳簿に清書する作業に明け暮れていた。宿はふた部屋取ったので、現在ラッティのいる客室に居合わせているのはキーリャとポリーのふたりだけだ。
ヴォルクとカヌヌも今頃は隣室でくつろいでいるはず。
本当なら誰かにこの煩雑な事務処理を手伝ってほしいところだが、生憎とラッティ以外の仲間は字の読み書きや算術ができなかった。つまり帳簿の管理は隊長であるラッティが受け持つしかないということだ。もっともポリーだけは意欲的に読み書きの練習を続けていて、出会ってから二年で字もだいぶ上達した。
あとは算術さえ覚えてくれれば、帳簿の管理もある程度任せられる。
ヴォルクは何度教えても字を覚えられず、キーリャに至っては「めんどくさい」の一点張りで覚えようとすらしなかったから、勤勉なポリーの存在は隊商を負って立つラッティにとって唯一の希望だった。
あともうひとりくらい読み書きや算術ができる仲間が増えてくれればなあ、とは常々思っているのだが、そもそも獣人や半獣人の識字率は人間よりもさらに低い。
どの種族も人間とは隔絶された環境で生活していることが多いから、当然と言えば当然だ。どうしても隊商の業務を支えてくれる獣人を仲間に引き込みたければ、学問の門戸を種族問わずに開いているアビエス連合国あたりで求人を出して、協力者を募るしかないだろう……もっとも既にカヌヌの前例があるから、ラッティとしては別に仲間を獣人や半獣人に限定するつもりはないのだけれど。
「他の町から買いつけに来てる商人にも商品を卸す予定だったけど……この分だとトルニの中だけで売り切れちゃいそうネ。でも町の人たちが飢えを凌げるなら、これでいいんだと思うべきかしら」
「まあ、ね……アタシとしても本当は城主国のあちこちに食糧を供給したいとこだけど、馬車一台じゃどんなに頑張っても村ひとつ潤すだけで精一杯だ。こんだけ儲けが出るんだから、他の商人たちも北に商いに来てくれりゃいいんだけど……」
「諸国連合で冬を越そうと思ったら経費がかかりすぎるし……何より冬が明けたらまたエレツエル神領国が攻めてくるかもしれないものネ。人間はみんな、そんな危険は冒したがらないワ」
「特に商人ってのは先々のことまで金勘定しないと気が済まない人種だからねえ。遥々連合諸国くんだりまで来て販路を築いても、次の春には神領国軍に更地にされて、せっかくの苦労が水の泡なんてことになりかねない。そうと分かっていながら敢えて北に投資しようなんて物好きはそうそういないだろうサ」
「キュン……人間の社会って世知辛いわネ……」
と暖炉の火が明々と燃える室内で、三、四人が雑魚寝できそうなくらい広い寝台に腰かけたポリーが垂れた耳をさらに伏せた。人間社会が基本的に利己主義で回っていることなど、獣人であるラッティたちは既に嫌というほど学んでいるが、改めてそう思わずにはいられないほど彼女も城主国の現状に胸を痛めているらしい。
長い冬を間近に控えた群立諸国連合ではこの時期、どこの国も冬籠もりの準備の真っ只中だ。本来であれば加盟国同士で物資を融通し、助け合うはずの連合内でも、秋から冬にかけては物流が滞る。
もともと痩せた土地が多く、ひどいところでは一年の半分も雪に閉ざされたままの大陸北方では、どの国も自国が生き残るための蓄えを確保するだけで精一杯なのだ。だから連合内部にすら、今の城主国に手を差し伸べてくれる者はいない。
そんな状況がどうしても、獣人というだけで爪弾きに遭って生きてきた自身の身の上と重なるのだろう。ラッティとしても同じ気持ちだが、たった五人の隊商である自分たちにできることなどたかが知れている。今日、市場で売った食糧だって、せいぜい買い手の腹を四、五日ほど満たしてそれで終わりだ。たった数日客の命を長らえさせたから何だと言われれば、ラッティはたぶん、答えられない。
(でも、何もしないよりはマシなはずだと……そう思いたいんだよな)
たとえば獣人隊商の他にも志ある商人がこの町を目指していたとして、ラッティたちの売った食糧によってほんの数日延命したおかげで、町人は次を食いつなぐための物資を手に入れられるかもしれない。だから、何もしないで最初から諦めてしまうよりはマシ。自分たちは彼らの可能性をつなぎにきたのだ。そう言い聞かせる他に、やり場のない無力感をまぎらわす方法がラッティにはなかった。
が、そこでふと帳簿に筆を走らせていた手を止めて、思う。
(……ああ、もしかしたら)
もしかしたら、あのユーリという人間の青年も同じ気持ちだったのだろうか。
何もしないで、ただ無力感に苛まれるだけの日々に耐えられず。
だからああも必死に滅びた故郷にしがみついて、絶対に再建してみせると息巻いていたのか。今にも崩れそうな自身の心を、辛うじてつなぎとめておくために。
「……」
窓際に置かれた椅子に腰を下ろし、卓に向かっていたラッティは何気なく窓の外へ目を向ける。吹き込む風は冷たいが、閉めると熱が籠もりすぎるからと半分ほど雨戸を上げてある窓の外は暗く、月明かりさえ射していなかった。こんなに暗い夜を今、ユーリはたったひとり、あの村で何を思って過ごしているのだろう。
彼とケルッカ村で別れてから既に五日が過ぎていた。
そして六日目が間もなく終わろうとしている。
ユーリは獣人である自分たちを快く思ってはいなかったようだし、別れる以外に道はなかった。頭ではそう分かっているものの、ひとり、山の斜面を埋め尽くさんばかりの墓標を見上げていた彼の姿を思い出すと、どうしても胸が騒ぐ。
「……あー、やめやめ! まだ作業途中だけど、今夜はもういいや。一日中化かしの術をかけてて疲れたし、酒飲んで寝よ。キーリャ、よかったら一杯……」
付き合ってよ、と誘いたかったのに、振り向いた先で寝台に横になったキーリャがぴくりともしないのを見たラッティは、あれ、と思わず拍子抜けした。
試しにもう一度「キーリャ?」と呼びかけてみたが返事はない。
こちらに背を向ける形で寝そべっているので分からなかったが、どうやら彼女はひと足早く夢の世界へ旅立っていたようだ。寝台脇の小さな棚の上には、彼女の飲みさしと思しい酒瓶が放置されていて、おのれ、とラッティは切歯した。
人が隊商を支える売上をせっせと計算している間に、さっさと酒を飲んで寝入ってしまうとは。まったく友達甲斐のないやつだ。キーリャとは友達というか、仲間というか、雇用主と用心棒というか、正確にはそんな関係だけど。
「はあ……まったく獣人社会も案外世知辛いよ。というわけでポリー、代わりに一杯付き合ってくんない?」
「む、むむむ無理ヨ! ワタシがお酒飲めないのはラッティも知ってるデショ!?」
「ヘーキヘーキ、ポリーは字の読み書きだってちょっとずつ慣れてきたんだから。次は酒に慣れようと思えばきっと……」
「デタラメ言わないの!」
……結局その晩、ラッティは孤独な晩酌ののちに眠ることとなった。群立諸国連合では、宿でも家族でもひとつの寝台を共有するのが一般的だ。干し草を敷き詰めた横長の寝台に、家族や仲間が並んで雑魚寝をする。これは長く寒い冬の夜を乗り切るために、互いの体温で温め合うことを考えついた先人の智恵だという。
ラッティはこの大きな寝台で、仲間と並んで寝るというのが結構好きだ。
普段の旅でも、野営をするときはよく馬車の中に皆で寝転んで眠るから、手の届く場所に誰かがいてくれると安心する。もしかしたらそれは幼い頃、父と母と三人で並んで眠った記憶がもたらす安心感なのかもしれない。
連合諸国にあるのはつらい思い出ばかりだけれど……やっぱり、なつかしい。
「ん……」
ところが、深夜。
暖炉の熾火がパチンと弾ける音で、ラッティの意識の幕が上がった。
……何の音だろ、と寝ぼけた頭で思いながら、ゆっくりと瞼を開ける。
見えたのは暗闇。ということはまだ夜だ。
隣ではふわふわの毛皮にくるまれたポリーが寝息を立てていて、三人で共用している大判の毛布の中はほんのりと温かかった。が、最も窓に近い位置で横になったラッティの狐耳に刹那、ヒュウッと冷たい風が吹きつける。
思わず身震いして振り向くも、見えたのは相変わらずの闇だった。
ああ、そう言えば閉めると暑すぎるからと、雨戸をほんの少しだけ開けたまま眠りに就いたんだっけ。しかし気づけば暖炉にくべた薪は燃え尽きかけて、すっかり火勢が萎えている。おかげで毛布から出た顔が寒い。
このままだと目が冴えてしまいそうだ。そこでラッティは仕方なく毛布の下から這い出すと、ぼんやりと明るい暖炉を目指して闇を泳いだ。赤茶けた煉瓦によって組まれた暖炉の傍はまだじんわりと暖かく、思わずほうっとため息が出る。
(薪代もタダじゃあないんだけど……)
と、依然靄がかかったままの頭の隅でそんなことをぼやきつつ、部屋を取る際に宿から買った薪の束を引き寄せ紐をゆるめた。その中から一本、二本とまずよく燃えそうな細身の薪を抜き取り、熾火の上に重ねていく。次いで薪と一緒に置いておいた短剣を手に取り、暖炉の薄明かりを頼りに適当な薪の表面を薄く削いだ。
そうして手早く木屑の山を作り、火鋏を使って熾火の上に振りかける。
あとは火吹き棒を使って熾火に息を吹き込むだけだ。そうすると真っ黒に焦げた炭の表面が赤く明滅し、消えかけていた炎が再びちらちらと瞬き始めた。
それがまず木屑に燃え移り、徐々に真新しい薪をも飲み込んでいく。
充分な火勢が確保できたら、最後に太くて大きめの薪をくべて作業完了だ。これだけ薪を足しておけば明朝まではまず持つはず。ラッティはしゃがみ込んだ暖炉の前でしばらくぼーっと揺れる炎を見つめたあと、ふわあとひとつあくびを零した。
ダメだ。眠い。火の暖かさも相俟って、このまま眠りこけてしまいそうだ。
そうなる前に寝台に戻らないと。
早速まどろもうとする瞼を擦り、ラッティはようよう腰を上げた。
かくして再びポリーの体温に縋りつこうと踵を返したところで、はたと気づく。
「……あれ?」
暖炉の火が再び室内を照らしてくれたおかげで、ようやく気づいた。
三人で雑魚寝してもまだゆとりのある干し草の寝台の上。そこにある毛布の膨らみはひとつだけ。言わずもがな今もすやすやと寝息を立てているポリーのものだ。
なら、キーリャは?
ぽつりと脳裏に浮かんだ疑問が、覚醒の合図となった。
鋭く鞭で打たれたような衝撃によって、ラッティの意識の靄が晴れる。
キーリャ。いない。部屋中、どこを見渡してもいない。
必要最低限の広さと設えしかない安宿の一室には身を隠す場所なんて皆無だ。
ならば、まさか。ラッティは直前まで寝ぼけていたのが嘘のような機敏さで身を翻し、慌てて部屋の扉に取りついた。そしてすぐさま凍りつく。
──開いてる。鍵が。
分厚い氷の下から掬い上げた真冬の水を背中に流し込まれたような感覚だった。
驚愕で思考が固まると同時に、体温が滴り落ちる。
まさかひとりで部屋を出たのか。いくら真夜中とは言え、獣人の彼女が。
全身を斑模様の毛皮で覆われたキーリャは、どう頑張っても半獣のように正体をごまかせない。だからたとえ厠へ行くだけだとしても、人間の町に滞在している間は必ず自分を起こすようにと何度も言い聞かせてきたのに。
(町の人間にキーリャが見つかったらまずい。探しに行かなきゃ……!)
ラッティはわななく指先で解いたままの髪をぐしゃっと掴むと、すぐに扉の脇の衣裳掛けから自分の外套と角灯を引ったくった。
よくよく見れば同じくそこにかけてあったはずのキーリャの外套もなくなっていて、彼女が単身夜の町へ繰り出したことを裏づけている。
──なんだってそんな危険な真似を!
ラッティは舌打ちしたい衝動を堪えながら、素早く角灯に火を入れた。
次いで扉に手をかけた瞬間、ポリーをひとり残していって大丈夫だろうか、という不安が頭をもたげたが、部屋の鍵はラッティが首から下げている。
ならば外から鍵をかけてしまえばいい。隣室にはヴォルクとカヌヌもいることだし、何かあれば異変を察したふたりがすぐに駆けつけてくれるだろう……。
そう信じることにして、ラッティは部屋を出た。いなくなったキーリャを追跡するなら狼人の嗅覚を借りたいところだが、彼にはいざというときに備えてポリーの傍にいてもらった方がいい。寝る前に呷った酒がまだ若干残っている気がするものの、念のためむさくるしいガタイの人間に化けて扉に鍵をかけた。酔いのせいで男の尻から尻尾が生えていないことを祈りつつ、足早にロビーへ向かう。
が、宿の正面玄関はしっかりと施錠されており、把手には鎖まで巻かれていた。
そう言えばこの宿は夜間の外出が禁止だと言われたような。
元盗賊のキーリャは鍵開け程度ならお手のものだが、彼女が無理矢理解錠していった形跡はない。ならば別の場所から外へ出たのか。宿の亭主や他の宿泊客に気取られぬよう、一旦角灯には幌を被せて、そろり、そろりと闇の中を移動した。
そうして試しに食堂へ続く扉に手をかけてみると、こちらは鍵が開いている。
深刻な食糧難に見舞われている町の宿屋が、ともすれば厨房に忍び込めてしまう食堂の鍵を開けたままでいるなんて何だか変だ。
とするとここの鍵を開けたのはキーリャではなかろうか。
そんな予測とも予感ともつかぬものを胸に、音を殺して扉を開けた。
深夜の食堂はまったくの無音だ。当然ながらこんな時間に食事をする客などいるはずもなく、朝食の仕込みもまだ始まっていない。
それを確かめたラッティはするりと扉の隙間に身を滑らせた。後ろ手でゆっくりと出口を閉ざし、向かって左手の壁に並んでいる窓を手前から順に調べてみる。
すると案の定ひとつだけ雨戸の錠がはずれている窓があった。他の窓はいずれもしっかりと施錠されているから、宿の従業員がここだけ鍵をかけ忘れたとは考えにくい。ラッティは「よし」と小さく自分を励ますと、雨戸を持ち上げて外へ出た。
ずいぶん古い雨戸のようで、跳ね上げ式の板を持ち上げた途端蝶番がギィと鳴ったのには肝を潰したが、どうにか気取られることなく宿からの脱出に成功する。
(問題はキーリャがどこに向かったか、だけど……)
まさか隊商に見切りをつけて行方をくらました、なんてことはあるまい。
普段の素っ気ない態度とは裏腹に、キーリャはああ見えて義理堅いから、隊商を抜けるにしても仲間に断りもなく……なんて真似はしないはずだ。
そういう部分については、ラッティはキーリャを信頼している。
だからひとりでこっそり宿を出ていったとすれば、気晴らしか何かだろう。
キーリャにはもともと孤独癖のようなものがあって、時々どうしてもひとりになりたい衝動に駆られるらしかった。豹人というのはひとり立ちすると親もとを離れ、伴侶を見つけるまではよほどのことがない限り単独で行動するというから、恐らく故郷にいた頃の名残というか、習性みたいなものなのだろう。
しかしそういうときのキーリャは決まって、ラッティたちには到底辿り着けない木や崖の上に登ってぼんやりしていることが多い。とすればどこか町の全景を見渡せるような、ずっと高い場所……居場所に当たりをつけるとしたらそんなところだ。
そしてトルニで最も高い場所と言えば、恐らく町の中心部にある金神正教会の大鐘楼。戒神の刻(二十時)までは一刻(一時間)置きに時刻を知らせる鐘を鳴らす鐘楼も、この時間は町の眠りを妨げぬよう静まり返るのが常だった。
だとすればキーリャがあそこを目指した可能性は高い。
ラッティは外套のフードを目深に被ると、自分の推測を信じて駆け出した。
大陸南部の豊かな国々とは違い、トルニの町には闇夜を照らす街灯もない。
おまけに通りを吹き荒ぶ風は身を切るように冷たく、こんな時間に外をうろついている人間など皆無だ。だからキーリャも、きっと無事でいる。
もともと盗みを生業としていた彼女は、夜陰にまぎれたり身を隠しながら移動したりする能力に長けているから大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、駆ける。
けれどやっぱり──心配なものは心配だ。
(ばかキーリャ!)
いよいよ無人の町の真ん中でそう叫びたい衝動を抑え難くなってきた頃。強面の大男に化けたラッティの行く手に、ようやく町の中心部が見えてきた。
ヴァロン広場と呼ばれるその広場には、天を貫く槍のごとき塔がある。
あれが件の大鐘楼だ。今は麓に建てられた金神正教会の聖堂の一部として管理されているが、もともとはトルニの町が生まれる前からそこにあり、一体誰が建てたのかも、何のために建てられたのかも分からぬまま周囲に町が開拓されていったのだという。だからここは鐘楼の町と呼ばれるのだ。だが何度訪れても感嘆のため息が零れるほど見事な塔の天辺には、キーリャらしき人影は見当たらなかった。
さすがにあの穂先のような屋根の上にはいられないだろうから、町を見渡しているとしたら、四方を腰壁に囲まれた鐘衝き場あたりにいそうなものだが──
「──教えてクダサイ。ボクはキーリャサンが心配デス。だから訊いてマス。だってボクたちは仲間デス! 困っていたり悩んでいたりしたら心配シマス。それが仲間デス。違いマスカ?」
ところが刹那、頭の上の狐耳が、聞き慣れた誰かの声を拾った。
はっとしたラッティは足を止め、とっさに視線を巡らせてみる。されど広場に人影はない。町の真ん中にぽっかりと口を開けた闇溜まりは、どう見ても無人だ。
されど聞き間違えるはずもない。
青年にしてはやや高く、異郷の響きを孕んだあの声は──カヌヌのものだ。
「……あんたってほんとしつこいわね。いい加減〝余計なお世話〟ってハノーク語を覚えたら? 私は別に何も困ってないし、悩んでもいない。だからあんたに心配される筋合いなんかないの。わかる?」
「ワカリマセン! 無名諸島には、オセワにヨケーもムダもないヨ! ダレかがゲンキなかったら、みんなでオセワする。ダイジなダイジなナカマだからネ! キーリャサンは、ボクのコト、ナカマと違いマスカ?」
「私は……」
「ラッティサンや、ヴォルクサンや、ポリーサンもナカマじゃないデスカ? だったら、ボクもコレ以上オセワしませんケド……」
聞いただけでそうと分かるほどしょぼくれたカヌヌの声を最後に、広場には静寂が降り立った。直前まで聞こえていたもうひとつの声は、言うまでもなくキーリャのものだ。しかしやはりふたりの姿は見えない。今の会話は一体どこから……?
(……あ)
その瞬間、ラッティの意識と視線はある一点に吸い寄せられた。
美しい円を描く広場の中央。
そこには人々の憩いの場にふさわしい、立派な大木が佇んでいる。
落葉樹によく似た姿をしながら、一年中葉が落ちないことで有名な〝神木〟と呼ばれる樹木だった。白樺を思わせる真白い幹に、青とも緑ともつかぬ不思議な色合いの葉を繁らせた神聖な樹だ。かつて天界から蒔かれた種によって根づいたと伝わるかの樹の上から、ふたりの話し声は聞こえた。
文字どおり青々とした葉が梢を覆っているため姿は確認できないものの、考えてみれば地面から垂直に佇む大鐘楼よりもあちらの方が断然手近で登りやすい。
何しろキーリャとカヌヌは木登り名人だ。生来高所を好むキーリャは言わずもがな、カヌヌは生まれたときから樹上で暮らしてきた森の民だし。
「あんた、さっきから震えっぱなし。そんなに寒いならさっさと宿に戻ったら?」
ほどなく聞こえたキーリャの声に静寂が破られたとき、ラッティはあの木へ走り寄って自分の存在を知らせるべきかどうか迷った。
「戻りマセン。キーリャサンがココに居るなら、ボクも居マス」
されど強い決意に満ちたカヌヌの答えを聞いたとき、踏み出しかけていた足が止まる。
「まったく……あんたたちってなんでそうなんだろうね」
やがて深い深いキーリャのため息が聞こえた頃には、物影に腰を下ろし、ふたりの邪魔をしないようじっと息を凝らしていた。
「お節介だよ、ほんと」
「スミマセン。〝オセッカイ〟、ボク、ワカリマセン」
白い天の木の枝に腰かけながら、にっこり笑ったカヌヌの顔が瞼の裏に浮かんだ。ほどなくキーリャの二度目のため息が聞こえたものの、ラッティには分かる。
彼女もまた呆れながらも、微かに笑ったのだろうということが。
「……あんたに風邪をひかせたら、ラッティがまた騒ぐだろうね。そこまで言うならしょうがないから話してあげる。ただし、聞いて後悔しないでね」