第八十四話 二年前、北方にて
晩秋の木漏れ日が、存外目にまぶしかった。
群立諸国連合の版図に入ってからというもの、ずっと曇天が続いていたせいだろうか。北西大陸北部に位置するこの国々は冬が長く、晴れ間も少ない。
一年の半分は雪に閉ざされ、外界から遮断される土地も多いのが実情だ。
そうなると秋の間に作った蓄えだけが人々の命をつなぐ唯一の糧。
だから、北の大地が白銀に覆われてしまう前にと遥々ここまで旅してきた。
今年は豊穣神アサーが降臨したかのような豊作に恵まれたという南のアマゾーヌ女帝国から、安く買い入れた大量の保存食を携えて、大陸の北の北まで。
「おーい、キーリャ! そろそろ出発するよ!」
そよそよと揺れる枝葉の間から注ぐ陽射しに手を翳し、ラッティは天を仰いで声を上げた。逆光でよく見えないが、鮮やかに色づいた落葉樹の一際高い枝の上に、明らかに樹の一部ではない影がある。
その影がラッティの呼び声に気づいて微か蠢き、地上を見下ろす仕草をした。
まったく毎度どうやってあんな高さまで登っているのやら──キーリャは本当に高いところが好きだ。でもってとんでもなく木登りがうまい。
彼女は気づくといつも樹木の天辺にいて、そこまでせっせとよじ登っていく姿をラッティは一度も見たことがないから、たぶん、だけど。
「今行く」
なんてことを考えていたら、いつもと変わらない無愛想な声が降ってきて、いきなり樹木が大きく揺れた。かと思えばラッティの眼前に数枚の落ち葉を引き連れた人影がザッと落ちてくる。あまりの至近距離だったから、思わず体が仰け反って「うわっ!?」と勝手に声まで漏れた。ほんの一瞬、ラッティの世界が茶色と黒の斑で埋め尽くされたのは、降りてきた彼女の頭が睫毛の先にあったせいだ。
「お……おい、キーリャ! 毎回言ってる気がするけど、飛び降りるならもう少し場所を考えて降りてきてくんない!? 心臓に悪いんだって!」
「悪いね。だけどいちいち驚くあんたの顔が見たくてさ」
「はあ~!? ってことは、今までのも全部わざと!?」
「私が着地地点を見誤って跳ぶような真似、すると思う?」
「うっわ! 色んな意味で性格悪っ!」
「二年も付き合ってきて何を今更。あんたもそろそろ学習しなよ」
と、ヒゲひとつ動かさずにそう言って、落ちてきた影の主──キーリャはまったくの無関心に、両手に嵌めた黒い手套の具合を確かめた。
されど二葉(十センチ)ほど高い位置から見下ろしてくる金の瞳は明らかに笑っていて、ラッティはますます腹が立ってくる。まあ、もちろんお互い本気で言っているわけではなくて、昨今定着しつつある獣人隊商流の挨拶みたいなものだけど。
「あれっ、キーリャサン、オメカシしてどうしマシタカ? 頭の葉っぱ、とってもかわいいネ」
ところがほどなく皆の待つ野営地まで引き返すと、焚き火の跡にせっせと砂をかけていたカヌヌが、ニカッと白い歯を見せて笑った。
頭の葉っぱ、というのは言うまでもない。キーリャが木の天辺から降りてきたとき、彼女の耳の間を飾る短い鬣にくっついていたものだ。カヌヌに言われてようやくその存在に気がついたのか、はたと足を止めたキーリャは頭上に手をやって枯れ葉を払った。次いでぎろりとラッティを睨みつけてきたのは、おどかされた仕返しに葉っぱのことを黙っていたのを見抜かれたせいだろう。
「よーし、そんじゃそろそろ馬車を出そうか! ヴォルク、ポリー、荷物の積載は終わった?」
「ええ。もういつでも出られるわヨ、ラッティ」
「……今日中にはトルニの町に入りたいからね。最近、日没がどんどん早くなってきてるし、できるだけ急がないと」
「あんまり北に長居しすぎて極夜に捕まったらお終いだもんなー。カヌヌにはぜひ日の昇らない二ヶ月間を体験させてやりたい気もするけど」
「い、いえ……キョクヤは、ラッティサンのお話聞くだけで、ボク、おなかイッパイデス。そもそも、大陸の北、とても寒くて、ボク、早く南に帰りたいデス」
「アハハッ、これで寒いなんて言ってたら北の冬は越えらんないよ。今日だって久しぶりに日が出てあったかい方なのに」
「ラッティサンたちはポカポカの毛皮あるからイイヨ。でも、ボクは人間だからスッポンポンネ……」
「まあ。そんなに着込んでおいて〝すっぽんぽん〟はないでしょう? しょうがないわネ……それじゃあ次は毛糸の肌着も編んであげるわネ」
されどキーリャの無言の圧力をさらりと無視し、ラッティはいつもどおり隊商の仲間に出発を促した。人間と狼人の半獣であるヴォルクと犬人のポリー、無名諸島出身の人間カヌヌ、そして元盗賊の豹人キーリャ。
彼らに隊長のラッティを加えた計五名が現在の獣人隊商のメンバーだ。
ヴォルクとふたりで隊商を結成してから五回目の冬の始まり。順調に旅の仲間を増やし、世界のあちこちを放浪してきたキャラバンは現在、群立諸国連合の中でも北寄りの地域に佇む小国、ピュリュリンナ城主国を訪れていた。
城主国はその名のとおり、城都ピュリュリンナの城主一族を元首とする国だ。
現城主の名前は確かイワンコ・ロレフキー。
彼の一族はもともと城主国の南に位置するキルヤスト文王国の辺境伯として名を馳せていたが、大陸の東から海を渡って攻め寄せてきたエレツエル神領国との戦いでさらに頭角を現し、二十年ほど前に国として独立した。
文王国は王が〝文王〟を名乗っていることからも分かるとおり戦争とは縁遠い文治国家で、好戦家だった先代ロレフキー公は国内で爪弾きに遭っていたと聞く。
しかし彼には長年に渡って祖国の国境を守護してきた武人としての矜持があったから、最終的には連合加盟国としての義務を果たそうとしない文王の消極的姿勢を非難し、連合首脳陣の後ろ盾を得て独立に踏み切ったのだという。
が、城主国がそんな血気盛んな軍事国家として知られていたのも今は昔の話。
エレツエル神領国との戦争で多大な功績を遺した先代ロレフキー公が死去してから、城主国はすっかり落ちぶれてしまった。
というのも彼の息子たるイワンコは図体のわりに戦の才能はからきしで、しかも先主が崩御する前から文王国の姫である妻に骨抜きにされてしまっていたのだ。
おかげで城主国の民は先般、北西大陸の植民地化に躍起になっている神領国軍に蹂躙され、とんでもない被害を出した。キルヤスト文王国の王は自らの顔に泥を塗ったロレフキー一族が見る影もなく没落していくのをご所望で、娘を使ってイワンコを厭戦家に仕立て上げたのもそのため。当然ながら、北方全体が雪に閉ざされてしまう冬季の戦闘を避けて神領国が撤退したあとも城主国への援助など一切行わず、戦争で田畑を焼かれた民衆は飢えに苦しんでいた。
このままでは彼らは生きて北方の冬を越せない。
ゆえに、我らが獣人隊商の出番だ。四年前、ラッティとヴォルクが手を取り合って始めた獣人隊商は、人間に迫害されて苦しんでいる世界各地の獣人や半獣人を救うことを目的として今日まで旅を続けてきた。もちろん初めて商いに手を出した理由はそんなご立派なものじゃなく、自分たちが生きていくためでしかなかったけれど、今ではこうして旅の仲間を増やせるほどに懐にも余裕ができてきた。
とは言えたった五人の隊商でしかないラッティたちに救える獣人などたかが知れている。たとえば今も神領国で人類としての尊厳を認められず、奴隷として消費されている獣人たちを解き放つことができるかと言われたら答えは否だ。
だからラッティは、ただ各地で出会う獣人や半獣人を場当たり的に救うだけでなく、もっと自分にできることはないかと考えた。
で、出した結論が獣人だけでなく人間も救うことだ。
狐人と人間の合いの子だからという理由だけで幼い頃から迫害を受けてきたラッティは、当然ながら今も人間が好きじゃない。どちらかと言えば恐怖の対象でしかないし、憎いという気持ちも少なからずある。
だけどそうして憎しみ合っているだけでは、人間と獣人は一向に歩み寄れないと長年の旅で悟ったのだ。少なくとも人間の獣人に対する認識を変えない限り、ラッティたちの待遇は永遠に変わらない。どこへ行っても迫害され、傷つけられ、お前たちは人ではないと氷よりも冷たい言葉を投げつけられる。
ゆえに今も彼らを許せない気持ちをぐっとこらえて、苦しんでいる人のいるところならどこへでも足を運んだ。自分たちが食っていくための商いで救える命があるのなら、やってやろうじゃん、と使命感を燃やした。
特にエレツエル神領国の侵攻に喘いでいる群立諸国連合の人々を救うことには、並々ならぬ意味があるとラッティは考えている。
何しろラッティ自身、もとは連合の末席に名を連ねていたヨルト自治領国の出身だし、そもそも神領国は先述のとおり、獣人を人とは見なさぬ悪魔の国だ。
そんな国が今以上に勢力を拡大してしまったら、ラッティたちのような獣人や半獣人はますます世界に居場所を失くしてしまう。ましてや神領国が国策として掲げている世界征服が成就しようものなら、純血の人間以外は地上から淘汰され、獣の血を引く人類は存在したことすらも歴史から抹消されてしまうだろう。
それを防ぐためには、目下神領国最大の標的となっている群立諸国連合に踏ん張ってもらうしかない。ずいぶん打算的な考えだと言われれば否定のしようもないが、かつて自分たちに石を投げ、農具で叩き殺そうとした連中を援助してやろうと言っているのだからこれくらいはご愛嬌だ──というような事情があって、キャラバンは現在ピュリュリンナ城主国南部の町トルニを目指している。
戦後の食糧難に苦しんでいる城主国の人々に、わずかでも食糧を届けるために。
「にしても文王も器がちっちゃいよなー。そもそも城主一族が文王国からの独立を宣言したのは、自分たちを祖国の盾として散々扱き使っておきながら、文王がその働きに一切報いようとしなかったせいだろ。むしろロレフキー公が自分より力を持つことを警戒して、約束してたはずの援軍を出さなかったり、後方支援を断ったりしたって噂もある。つまり城主国が独立に踏み切った原因は自分にあるってのに、逆恨みして足を引っ張るような真似を繰り返すなんて」
「……まあ、人間の間じゃよくある話でしょ。仲間割れは連中のお家芸だもの。魔物ですらも同族同士では殺し合わないってのに、人間は神話の時代から私利私欲のために同族を手にかけることをためらわない。そういう習性を持って生まれた生き物なんだからしょうがないわ」
「だとしても今は連合加盟国同士力を合わせて東からの脅威を取り除くことが先決だろ。なのに一体いつまでこんなくだらない内輪揉めを続けるつもりなんだか……下等なまざりもののアタシらですらちょっと考えりゃ分かることを、高尚な頭脳と精神をお持ちの人間サマがなんで理解できないかね」
などと荷馬車の馭者台でぶつくさ文句を垂れながら、ラッティはトルニへと続く間道を進んでいく。隣にはヴォルク、幌一枚を隔てたすぐ後ろにはすらりとした肢体を荷台に投げ出したキーリャがいて、ポリーとカヌヌはさらに後ろの乗り込み口付近で談笑しているみたいだ。
しかしあと三刻(三時間)も馬車を走らせれば、山間のこの間道もついにトルニへと至る街道へ合流する。そこから先はいつ人間の目に留まってもいいように、隊商の仲間を人間に見せかけなければならないから大変だ。
何しろ町へ入る前に半獣だと知れたら、それだけで市門をくぐらせてもらえない恐れがある。いくら人間から敵意を取り除き、獣人に対する認識を改めてもらうために来たとは言え、最初から獣人であることを堂々と明かせるほど世界は優しくないのだ。ゆえにまずは人間のふりをして町へと入り、人々の信頼を勝ち取ったのち、然るべき相手にだけ真実を伝える。そうまでしても受け入れてもらえないことも多々あるが、だからと言って簡単にはへこたれない。
(……アタシひとりじゃすぐに心が折れて諦めてたかもしれないけど。だけど今は仲間がいる。アタシのバカげた夢を知っても、見捨てないでいてくれる仲間が)
そう考えると自然、不満たらたらだった口角も持ち上がる。手綱を握る手にも力が籠もる。ここにいる仲間と一緒ならどこへだって行けるし、何だってやれる。
そんな気がしていたのだ。少なくとも行く手から割れるような悲鳴が聞こえて、自分たちの運命が狂い出す前は。
「──うわあああああああああっ!?」
刹那、突如として響き渡った絶叫に、ビクリと震えた馬たちが嘶いた。
彼らの反応につられ、ラッティもとっさに手綱を絞る。
最後の峠へと続く細い坂道が、ようやく前方に見えてきたときのことだ。
「何だ……!?」
異変に気づいたヴォルクがすかさず馭者台を飛び下り、続いてキーリャも飛び出してきた。荷台から身を乗り出すようにして前方を睨んだ彼女の手には、豹人たちが〝カリニャ〟と呼んでいたらしい変わった短剣が握られている。
刃渡り六葉(三十センチ)ほどの、刀身がぐにゃりと曲がった剣だ。細身だが切っ先が上を向いているため斬るのにも刺すのにも向いており、特に豹人たちの牙のごとく鋭利な先端は鎧通しとしての威力も秘めている。豹人族の間に伝わる伝統的な武器であり、キーリャも故郷にいた頃から愛用しているものだと聞いた。
しかし獰猛な刃の形にそぐわず、鞘や柄に施された金の装飾は優美で芸術性さえ感じさせる。まさに豹人族の得物として使われるために生まれてきたかのような武器だ。何せ凶悪な構造でありながらどこか優雅なカリニャの姿は、ラッティが思い描くキーリャの姿、まさにそのものだったから。
「瘴気の臭い……たぶん魔物だ。誰かこの先で襲われてる」
「人間? だとしたら助ける義理はないけど」
「そんなコト言ってはダメデス、キーリャサン! ボクたち、城主国の人々助けるタメにココへ来た。見捨てるなんてゴンゴドーダンネ!」
「カヌヌの言うとおり──っていうかそもそも魔物がいるなら倒さなきゃ、アタシらだって先に進めないし! ヴォルク、キーリャ、カヌヌ、頼む!」
「うん。行ってくる」
「了解デス! ホラ、キーリャサンも!」
「……ったく、しょうがないね」
ヴォルクに続いて走り出したカヌヌに促され、舌打ちしたキーリャが手の中でくるりと短剣を回した。かと思えば鋭い爪の生えた指先で華麗に柄を握り直し、馭者台を蹴って跳躍する。ヴォルクとはまた違った獣のしなやかさだ。
「ポリー! 連合国で仕入れてきた魔導石の在庫、まだあるよな!?」
「はっ、ハイッ……! いいいいい一応持ってはいるけど……!」
「なら念のため、いつでも使えるようにしといて! アタシも向こうの様子を見てくる! やばいと思ったらすぐに引き返すから、馬を頼むよ!」
「き、き、き、気をつけてネッ、ラッティ……!」
荷台の奥でガタガタ震えながら、黄色の魔導石を握り締めてポリーが叫んだ。
そんな彼女をひとりで残していくのは心苦しいが、ここからでは坂の向こうの状況がまったく見えない。つまり進退を見極めるためには偵察が必要だ。
ゆえにラッティは自身もまた護身用に携えている短剣を抜いて馭者台を下りた。
仲間が連れ立って消えた坂を駆け上がり、頂上付近で道に伏せる。
──ヴォルクの言ったとおりだ。魔物がいる。
一、二、三、四、五。全部で五体か。三人は既に戦闘に入っているが、彼らにかばわれるようにして、道に誰か転がっている。血の臭い。人間だ。負傷しているのか。ひとりきりで、うずくまっている。あそこにいては危険だ。助けないと。
「チッ……ヴォルクたちの足は引っ張りたくないけど……!」
舌打ちと共に身を起こし、すぐさま坂道を駆け下りた。
倒れている人間はどうやら若い男で、突如として現れた魔物と獣人とに泡を食っているのか、言葉にならない声を発して怯えている。見たところ武器の類は帯びていない。布でくるまれた大きな背負い籠をひとつしょっているだけだ。
山に食糧を探しに来た庶民だろうか。頭の片隅でそんな推測を立てながら、ラッティはただちに走り寄って男の腕を引っ張った。魔物の方に気を取られていた男は途端に「ひぃっ」と情けない声を上げ、青ざめた顔でラッティを振り向いてくる。
「あ、あ……あんたは……!?」
「いいから立って! ここはあいつらに任せりゃ大丈夫だから!」
「じゅ、獣人……いや、半獣人か……? なんで……」
「そういう話は今はあと! アンタ魔物の朝食になりたいわけ!?」
今は事態が事態だし、人間だとか獣人だとか言っている場合ではない。
ラッティは混乱のあまりモタついている男を叱り飛ばし、もう一度彼を引っ張り上げようとした。ところが男がようよう身を起こすよりも早く、悪臭を振り撒く黒い影がふたりに飛びかかってくる。
「……っ!」
黒鋏獣と呼ばれる、クワガタと獣が合体したような小型の魔物だった。
地を掻く足は六本あり、いずれも獣の手足の姿をしているが、全身は毛皮ではなく甲殻で覆われている。
おまけに頭部にクワガタのようなハサミを持ち、そのハサミで獲物を掴んで締め上げながら、すぐ下についた見るもおぞましい円形の口で肉を貪る醜悪な魔物だ。
だがラッティがとっさに短剣を振るうよりも早く、魔物の眼前に躍り出た人影があった。カヌヌだ。彼は長い木の枝に鋭く研いだ獣の骨を括りつけただけの簡素な槍を振り回し、空中にいた黒鋏獣を弾き飛ばす。「ジュヴヲァッ」と醜い悲鳴を上げた魔物が後方へ飛び退いた。あと一歩で獲物に牙が届いたのに、とでも言いたげに、口の上にいくつもついた赤い目玉をチカチカと明滅させている。
「キーリャサン!」
ところが割り込んできたカヌヌに気を取られたのが仇となった。魔物がこちらを睨んでカカカカカッと不気味に牙を鳴らしている間に、キーリャが背後を取っている。彼女の鋭い眼光が尾を引き、美しいとすら思える無駄のない動きで、逆手に握ったカリニャを魔物の首もとへと突き刺した。そこにはちょうど甲殻の継ぎ目があり、鋼鉄の鎧をも貫く豹人族の牙が、容赦なく魔物の肉を斬り裂いていく。
「ゴゲッ……グッ……ジュヴヲッ……」
ほどなくキーリャが短剣を引き抜いて飛びずさると、魔物は口と首から真っ黒な体液を吐き出して頽れた。
魔界の瘴気に冒された血の臭いは何度嗅いでも吐き気を催しそうになる。
ゆえにラッティは空いた腕で鼻のあたりを押さえつつ、今度こそ男を引っ張り起こして後退した。五体いた黒鋏獣はヴォルクたちの手によって次々と倒され、やがて五つの黒い血溜まりを作る。中型以上の魔物ならともかく、小型の黒鋏獣だけならあの三人の敵ではなかった。やがてすべての魔物を倒し切ったことを確認したヴォルクが「もう大丈夫」の合図を送ってきて、ラッティは胸を撫で下ろす。
「た……助かった、のか……?」
坂の上り口でへたり込んでいた男が、同じくヴォルクの合図を見て掠れ切った声を上げた。そう言えばまずは安全なところへ退避させるので必死でろくに確認していなかったが、男は黒鋏獣のハサミで斬り裂かれたのか、左の肩口からかなりの血を流している。傷を押さえた手も血塗れで、顔面はやはり蒼白だ。
ラッティは魔物と交戦した仲間の無事をざっと確かめてから男の前に膝をついた。いかにも日照時間の短い雪国育ちだと言わんばかりの白い肌に、線の細い体つき。歳は二十歳絡みと思しいが、どこか頼りない体格とは裏腹に、意思の強そうな太い眉が妙に印象的な青年だった。
「アンタ、大丈夫? アタシはラッティ、アンタと同じ諸国連合出身者だ。怪我の手当てをさせてほしいんだけど、名前は?」
「ゆ……ユーリ……ユーリ・マウネル……」
「ユーリさんか。半獣に助けられるなんて不本意かもしれないけど、命が惜しけりゃ大人しく言うとおりにして。別に取って食ったりはしないからサ」
「……」
「本当に助ける気、ラッティ? そいつ、獣人に情けをかけられるなんてお断りって顔してるけど」
ところが血を流したままうなだれたユーリを見下ろして、戦闘から戻ったキーリャが冷然と吐き捨てた。
彼女の手の中では魔物の血にまみれた短剣がくるくると器用に回されており、ラッティがひと声上げれば、いつでも目の前の男を殺すと告げている。
「……だとしても見捨ててはいけない。この出血じゃほっといたら死んじまうよ。ヴォルク、カヌヌ、手を貸してやってくれる?」
「ああ」
「任せて下サイ!」
ラッティがそう指示を出せば、ヴォルクとカヌヌは率先して進み出て、座り込んだユーリを左右から担ぎ上げた。そうして坂の向こうへと運ばれていく人間の後ろ姿を一瞥し、そっぽを向いたキーリャが不機嫌そうに鼻を鳴らしている。
彼女はああ見えて義理堅いから、助けられたくせに礼のひとつもないことを気に食わないと感じているのだろう。もちろんラッティもモヤッとしたものがないわけではないけれど、だからと言って見捨てればきっと後々悔やんでしまう。
そういう性分なのだ。仕方がない。
けれどこのときのラッティはまだ知らなかった。
ユーリを助けずに見捨てるよりも、助けてしまったことを後悔する結末を迎えるなんて。