第八十二話 王と愛し子
聞いたことのない鳴き声が、耳いっぱいに響いていた。
──ホロロロロゥ、ホロロロロゥ、ホロロロロゥ。
──ギーコォ、ギーコォ、ギーコォ、ギーコォ。
──コカカカカカカカッ……コカカカカカカッ……。
──ウイーィ! ウイーィ! ウイーィ……!
鳥なのか、虫なのか、獣なのか。
それすら分からない鳴き声の海を、手探りで泳いでいく。
日はとっくに落ちて、巨大な樹々の枝葉で覆われたラナキラ村の夜は暗い。
木の上で暮らす人間たちはみんな、火を怖がっているせいだとグニドは言った。
今、ぐらぐら揺れる木の橋の上でルルの行く手を照らすのは、クムというらしい老人が手にした花籠だけ。樹の皮を細く割いて編まれたカンテラ状の籠の中にはルルの掌よりも大きな白い花が入れられていて、クムが橋の入り口──貧相な二本の柱の間に縄が垂らされ、そこにたくさんの木の実や骨や貝殻が吊るされていた──に立ってふーっと息を吹きかけると、花びらがたちまち光り出した。
とは言え花の光は炎みたいに明るくないし、むしろぼんやりしていて頼りない。
まるで朧な月の光を籠の中に閉じ込めたみたいだ。
だからクムの後ろをついていくルルの目には、籠を持つ彼の手もとがうっすら見えるくらいで、足もとはほとんど闇に近かった。しかも一歩踏み出すたびに足場がゆらゆら揺れるので、何だかルルは落ち着かない。
──でも、グニドがこのおじいちゃんを助けてやれって言ったから……。
そう思いながらルルはふと立ち止まり、橋を吊るす縄に掴まってそっと後ろを振り向いてみた。しかし案の定というべきか、橋の入り口で別れたグニドの姿は既に見えない。……暗闇の彼方だ。
「ヒ・アハカ・ピリキア?」
しかし少しだけ心細くなって立ち竦んでいるとクムが気づいて声をかけてきた。
乾いた声に抑揚はなく、当然ながら何を言っているのかも分からない。
「マオ・ホポホポ。ア・オヘ・ピリキア・イキー」
花明かりはやはり頼りなく、闇に溶け込みそうなほど色黒なクムの表情を照らしてはくれなかった。
されどルルは何となく安心しろ、と言われているような気がしてこくりと頷く。
長い長い橋渡りの再開だった。
ルルたちが最初にクムと出会ったラナキラ村の広場からまっすぐ伸びる宙吊りの橋は、森の〝セイイキ〟と呼ばれる場所に続いているとカヌヌが言っていた。
カヌヌはクムにも負けないくらい真っ黒で、歯や目が異様に白くて、裸だし髪もチリチリだけどいいひとだ。だってルルをクムとふたりきりで〝セイイキ〟へ向かわせるのを心配して最後まで「自分もついていけないか」と交渉してくれていた。
でも、結局〝セイイキ〟を目指すのはクムとルルのふたりだけだ。
〝セイイキ〟はずっと昔からクム以外の誰も入ってはいけないと言われていて、だからカヌヌもついてこられなかった。じゃあなんでルルはいっしょに行ってもいいの、と尋ねたら、ルルサンはマヌ・ホアロハだから、とカヌヌは言った。
マヌ・ホアロハ、というのが何なのかはよく分からなかったけれど、グニド曰く『精霊に守られている者のこと』らしい。
変なの。風精や水精は信じて願えば、誰のことだって守ってくれるのに。
「ロアーア」
かくして一体どれほどの間、ぐらぐら揺れる暗闇の中を歩いただろうか。
やがて数歩先を歩いていたクムが足を止め、花明かりをそっと翳すと、不意に視界が明るくなった。目が眩むほどの光ではないけれど、ルルの眼前を覆っていた闇の中にぽつぽつと青白い灯火が浮かび上がる。
『ふわあ……!』
光の源はクムが手にしているのと同じ、あの白くて大きな花だった。
それがいくつもの籠に入れられて、蔓にぶら下げられている。
『おっきい樹……』
たくさんの花籠を吊るした蔓は、橋の終着点に聳え立つ一際巨大な大樹の幹を巻くようにして上へ、上へと続いていた。
表面がうっすら苔生した巨木はカヌヌたちの巣がかけてあった〝森の主たち〟より何倍も大きくて、天にも届きそうな高みからちっぽけなルルを見下ろしている。
『……森の王さまだ』
同時にルルは確信した。ここが〝セイイキ〟。
どこよりも神聖で力が強くて、島中の精霊たちが集うところ。
その証拠に、ルルには見える。島の王たる大樹の中にはたくさんの霊脈が通い、根から吸い上げた水精や地精を上へ、上へと運んでいる。
そうして梢の隅々まで行き渡り、大樹を満たした水精や地精は、やがて日の出と共に姿を変えて風精として朝日の中へ飛び立つのだ。
《よく来た、万霊の子よ》
ところがルルがあまりに大きな大樹の偉容に見惚れていると、王が語りかけてきた。おかげでルルはびっくりする。だって今まで、こんなに明確な〝言葉〟として精霊の声を聞いたことはなかったから。
『……樹精? あなたが樹精の王さま?』
《我らの中に王はいない。だが、この森の長老という意味ならば、そうなるかな》
と、威厳とやさしさに満ちた声で王は言った。
王の話す言葉はグニドの言葉とも、ラッティたちの言葉とも、カヌヌたちの言葉とも違う。もちろん鰐人たちの言葉ともだ。
けれどルルには分かる。何故なら王が話す言葉は、ルルが精霊に呼びかけるときの言葉と同じだ。いつからかルルの中に当たり前の顔をしてあったその言葉を、グニドは『とても古いナムたちの言葉だ』と言った。
だから、森の王さまも古いナムたちの言葉を喋るんだ、とルルはますます驚いて立ち尽くす。すると橋を渡り切ったクムが、花籠を掲げてルルを呼んだ。
「マヌ・ホアロハ」
とクムはルルをずっとそう呼ぶ。ルルは〝マヌ・ホアロハ〟じゃなくて〝ルル〟だよ、とカヌヌを通して教えてあげたはずなのに、ちっとも覚えてくれない。
「エ・ヘレ・マイ」
王の言葉はクムには聞こえていないのだろうか。尋ねてみたかったけど、カヌヌたちの言葉を知らないルルには難しかったので、仕方なくクムの手招きに応じた。
そうして橋の終わりまで辿り着くと、突然足もとのぐらぐらが止む。
見ればそこにはしっかりと固定された足場があって、花籠を吊るした蔓に寄り添うように、樹上へ続く階段が用意されていた。
まあ、階段と言っても手摺はなく、ルルの目には何の変哲もない木の板が螺旋を描いて上へと伸びているようにしか見えない。
本当は地上から伸びる途方もなく長い柱がすべての段板をしっかりと支えているのだが、暗くてよく見えないから、ルルにとってはないのと同じだ。
『これをのぼるの?』
とルルが小首を傾げて尋ねると、クムは瞼が垂れた眠たそうな顔で頷いた。
ルルは竜語で話しかけているのに、何と言ったか分かったのだろうか。
……いや、あるいはさっきのルルと同じく、雰囲気で察しただけかもしれない。
とにもかくにも、ぐらぐら橋を渡り終えたルルはクムの後ろにくっついて、今度は王の周りにぐるぐる伸びた階段を登り始めた。幹に巻きついた蔓を手摺代わりに、一段一段慎重に登っていく。クムはここには来慣れているのか、飾りがジャラジャラと邪魔そうな杖をつきながら、軽い足取りでどんどん登った。
顔も手も足もしわくちゃで、すごく年を取っているように見えるのに、クムは意外と健脚だ。気を抜くと置いていかれてしまいそうで、ルルはたびたび『待って』と声をかけた。そうするとクムはルルが追いつくのをちゃんと待ってくれた。
言葉が通じないからなのか、もともと無口なたちなのか、ずっと無表情でむっつり押し黙っているわりに意外とやさしい。ひょっとしたらもう夜も遅いから、眠たいだけなのかもしれない。そう思うと、ルルもだんだん沈黙が怖くなくなった。
「エイア」
やがて四半刻(十五分)ほど階段を登り続けると、ルルは王の幹の天辺に出た。
天辺からは八方に向かってルルより太い枝が伸び、その真ん中にぽっかりと開けた空間がある。明らかにナムの手で作られたと思しい板が敷かれた平坦な空間だ。
そこはルルがさっきまでいたカヌヌの巣から、屋根を取り払ったような場所だった。板の中央には人が座るための敷物が広げられており、たくさんの棚も並んでいる。何本もの蔓で王の枝にしっかり固定された棚の中には、花籠と同じ木の皮で編まれた容れ物がいっぱい並んでいた。
全部蓋がされていて何が入っているのかは分からないが、箱の形をしていたり、壺の形をしていたり、とにかく色んな形の容れ物がぎっしり詰まっている。
ルルがそうした棚のひとつひとつを興味深げに眺めていると、クムが短く何か言った。たぶん〝座れ〟と言われたのだ。
『クムはここに住んでるの?』
ひとまず示された場所にちょこんと腰を下ろしながら、ルルは好奇心を抑えられずに尋ねてみた。だってここは、屋根がなくても王の枝葉が雨や風から守ってくれるし、いかにも人が住めそうだ。ところが対座に座ったクムは、今度は何を訊かれているのか分からなかったのか、数瞬無言でルルを見つめた。
かと思えばこちらの質問を無視して杖を置き、代わりに手近な棚の中から、見たこともない道具を取り出してくる。
『それはなに?』
言葉が通じないと分かっていても、ルルは質問をやめられなかった。
何しろ右を見ても左を見ても、不思議なものばかりが視界に並んでいるのだ。
おかげでルルは長い長い吊り橋と長い長い階段を渡ってきた疲れも忘れて、興味津々にクムの手もとを覗き込んだ。彼が棚から取り出したのは、玩具みたいに小さな船──の形をした何かだ。ただしルルたちが乗ってきた飛空船のような帆はなく、翼もなく、ただ真ん中に小人が乗れそうな溝があるだけ。
さらにクムは別の棚へ手を伸ばすと、いくつかの小さな容れ物を取った。
容れ物の中には何かの種や、枯れてしわくちゃになった葉っぱや、真っ黒に焦げた生き物の尻尾なんかが入っていて、クムはそれらをひと摘まみずつ船に乗せると、これまた小さな車輪で丹念に挽き潰し始めた。
車輪は船の溝にぴったり嵌まる大きさで、左右に棒が突き出している。
クムはその棒を両手で持って前に押したり、後ろに引いたりすることで車輪を回し、船に乗せた色んなものをまとめて擂り潰しているのだ。
『ふわあ……! たのしそう! ルルもやりたい!』
ルルが身を乗り出しながらぴょんぴょん跳ねてそう言えば、クムは一旦手を止めて、また無言で見つめてきた。かと思えば船と車輪をルルへと差し出し、また短く何か言う。やってみてもいい、ということだろうか。
ルルは喜びとわくわくが胸の中で弾けるのを感じながら、早速見様見真似で車輪を動かしてみた。左右の棒を通じて細かく硬い手応えが伝わってくる。
ズリズリ。ズリズリ。だけどクムがやるとあんなに簡単に砕けていた種や葉っぱが、ルルのときはなかなか潰れない。
力を込めて一生懸命挽いてみるものの、全然粉々にならないのだ。
『クム、このタネ、硬い!』
ほどなく痺れを切らしたルルがそう訴えれば、クムは初めて〝やれやれ〟という顔をした。そのまま道具を取り上げられてしまうのかと思ったがそうはならず、クムは皺だらけの手をルルの手に重ねると、今度は一緒に車輪を動かしてくれる。
すると溝の中の種や木の実はたちまち割れて、全部が混ざった粉になった。
手を掴まれて分かったが、クムは結構力が強い。
見るからにおじいちゃんで、しわしわで、腕もルルと同じくらい細いのに、どこからそんな力が湧いてくるのか不思議だった。
『つぎはなにする?』
と、やがてすべての材料が粉々になったのを見届けてルルが尋ねれば、クムは船を持ち上げる。そうして舳先からちょっとずつ、小さな泥焼き皿に船の中身を注ぎ始めた。皿の数は全部で四つ。色んな材料が混ざった粉には、クムの唾が吐きかけられ、山の形に整えられる。クムはたくさん唾を出すために、別の容れ物から取り出した黄色い木の実を噛んでいる。とてもすっぱそうなにおいがした。かくて完成した粉の山は、クムの巣──だとルルは思うことにした──の四隅に配される。
『……あれ?』
ところが腰を上げたクムが粛々と四つの皿を置いていくさまを見て、ルルはまた首を傾げた。だって似たような光景をつい昼間、鰐人の里で見た気がするのだ。
『ヌァギクが、グニドのいたいの、とんでけしたときとおなじ……』
あのときヌァギクと呼ばれた鰐人が置いていたのは、皿ではなく黒い石だったけど。そう言えば似たような粉を皿に乗せたものを、ヌァギクもグニドの鼻先に置いていた。確かそのあと、ヌァギクは粉の山に火をつけて……とルルが回想していると、クムがぼそりと何か呟く。途端に彼が手にした杖の先に炎が生まれた。
びっくりして固まってしまったルルの視線の先で、クムは四つの皿の粉に、順番に火をともしていく。
『あれもヌァギクとおんなじ……クムも火精と話せるんだ!』
ルルはまたしても興奮した。
何しろ自分以外に精霊を呼び出して使役するナムを初めて見たからだ。
ヌァギクもそうであったように、クムはルエダ・デラ・ラソ列侯国のナムたちが使っていた神刻を持っていない。
なのに精霊を意のままに操っている。しかも神刻使いが呼び出す無機質で冷たい精霊ではなく、大地から生まれる生きた精霊を、だ。
《彼が力を使えるのは、この聖域の中だけだ》
ところがルルが瞬きも忘れてクムの動きを追っていると、王が話しかけてきた。
《ここは霊脈が集う特別な場所だから。だから霊力の弱い者でも霊術を使える》
ルルは王の枝と枝とを渡る何本もの蔓草を見上げ、そこにぶら下げられた花明かりに目をやった。あんな風に花が光っているのも、森の王が持つとても強い力のおかげなのだろうか。
『でも、ヌァギクがいた場所は、ふつうの場所だったよ? ヌァギクの巣の下の霊脈は、ちょっとだけ太かったけど……』
《そうだろう。鰐人族は〝はじまりの一族〟のひとつだから、大地との結びつきが強い。中でも当代の巫女はとても長寿で、優秀だ》
『〝はじまりの一族〟……? じゃあ、ルルもそうなの?』
《いいや。其方は人間だ。人間は〝生み出されしもの〟だ。だから〝はじまりの一族〟ではない》
『でも、ルルも精霊とおはなし、できるよ?』
《それは其方の胸の万霊刻がもたらす力。人間が〝希術〟と呼ぶ力の、違ったかたちだ》
『キジュツはマドレーンの使う力? でも、マドレーンはおなかの中に石がある。あの石が精霊を集めてる。だけどルルには石、ないよ?』
《石の代わりが万霊刻だ。万霊刻が其方と精霊をつないでいるのだ。何故ならその神刻もまた、太古の希術によって生み出されたものなのだから──》
「──エホ・オマカ・カーコウ」
ルルがジッと息を詰めて王の言葉に耳を傾けていたら、嗄れた声が割り込んできた。驚いて視線を下ろせば、いつの間にか目の前にクムが再び座っている。
彼の巣の四隅に置かれた皿からは、ゆらゆら煙が立ち上っていた。
燃えているのに焦げ臭くはない。むしろ先程クムが噛んでいた木の実のにおいが、煙になって漂っているみたいだった。要するに、いいにおいだ。
『……ルルはなにをすればいい?』
そう言えば自分はグニドからクムを助けるよう言われて来たのだったと思い、ルルは改めてクムに尋ねた。すると数瞬の沈黙ののち、クムと王の声が重なる。
《──〝呼び覚ませ〟》
ああ、なんだ、そんなことかとルルは思った。
物心ついた頃から、ルルはグニドに『精霊の力は使ってはいけない』と諭されてきたから、ありったけの力で精霊たちを呼んだことはなかったけれど。
今宵はそれが許されたのだ。
クムを助けろと言ったのもグニドなのだから、きっとそうだ。
だったら、とルルは王の冠に座したまま、瞳をきらきら輝かせた。
次いですうっと息を吸い、
「万霊よ、集え!」
ずっと言ってみたかった言葉を、声の限りにルルは叫んだ。
それをクムが〝歌のようだ〟と思ったことをルルは知らない。
万霊刻から光が弾けた。
その光に呼応するかのごとく、王を取り巻く花明かりが瞬き出す。
いや、花明かりだけではなかった。王の中に通いしすべての霊脈が脈動し、歓喜に沸いて、ついには光を放ち始める。
「イリヒァ……」
あんなに眠たそうだった瞼を見開き、クムが言葉を失っていた。万霊の歓呼によって森の王は今、葉の一枚一枚まで黄金に──ルルの瞳と同じ色に輝いている。
ずいぶん長くこの島で霊術師をしてきたクムでさえ見たことのない輝きだった。
本来ならいくつも儀式の手順を踏んで、何日も飲まず食わずで瞑想し、ようやくひと筋の霊脈と己が精神をつなぐのがクムの精一杯だというのに。
『王さま、目をさましたよ!』
舞い踊る風精が木の葉を揺らし、無数の光の雨を降らせた。
その真ん中でパッ!と立ち上がり、ルルは笑いながら両手を広げる。
あまりにまばゆく、神聖で、触れ難き光景だった。まどろみから覚めた王の声はさっきよりもはっきりと、今度はクムの耳にも、聞こえる。
《汝の問いに答えよう、人間よ》
クムの老体が畏れと驚愕と歓喜に打ち震えた。遠い昔からラナキラ族の間で〝霊樹〟と呼ばれるものの声を聴くのは、彼もまた初めてだった。
ゆえに霊術師は平伏する。
至聖所の床に額を擦りつけ、魂底からの畏敬を込めて霊樹と精霊の愛し子に。
「……聖なる大樹よ、どうか我らに導きを」
頷くように金色の葉が揺れた。
森の王の勅命が今、下ろうとしている。