第八十話 世界は輝いているか
「デハ、改めて自己紹介しマスネ。ボクはカヌヌ、生まれも育ちもワイレレ島デス。一年前マデ、ラッティサンたちとイッショに世界のアチコチ旅してマシタ。おかげでハノーク語、チョットだけなら話せるネ。オテヤラワカにお願いしマス!」
と、夕日色に染まった飛空船の甲板でニカッと笑ってみせたのは、ラッティたちが連れてきた真っ黒な人間だった。名をカヌヌ。笑うと日焼けしすぎた肌のおかげで白い歯がよく目立つ。格好は相変わらず葉っぱの腰巻き一枚という無防備さだが、よくよく見ると腰巻きの下には動物の皮か何かで作られた細長い袋のようなものがあって、そこに人間のオスの象徴が収められているのが分かった。
あの袋はたぶん、グニドら竜人にとっての尻穴と同じだ。
竜人のオスのものは交尾のとき以外、尻尾の付け根の内側にある体内の袋に格納されていて、不用意に傷つかないようになっている。メスも同じ穴を持っており、交尾のあとはその穴の中で数ヶ月のあいだ卵を守るのだ。
だとすると無名諸島で暮らす人間のメスも腰にああいう袋を下げていて、赤子が生まれた直後は袋の中で守ったりするのだろうか、とグニドは激しく気になった。
もっともカヌヌの袋を凝視しながら尋ねてみるかどうか考え込んでいたら、全身の毛を逆立てたポリーに「グニド、どこ見てるのヨ!?」と思い切り背中を叩かれ、何故殴られたのかと眼を白黒させているうちに機会を逸してしまったのだが。
「ウーン、だけど驚きマシタ。まさか、ラッティサンたちの言ってた〝新しいナカマ〟が竜人だったとは……ボク、大陸を旅してたとき、竜人はトテモ恐ろしい獣人と聞いてたネ。人間を襲って食べると言うから、鰐人族みたいに凶暴でコワイ種族かと……でも、グニドサンは温厚でジンチクムガイそうネ。ヤッパリ、偏見、よくないと思いマシタ」
「言葉が通じない上に明らかに威嚇してる異種族に丸腰で近づいていったあげく、いきなり取っ組み合いを始めて相手を投げ飛ばすようなやつが〝人畜無害〟なら、人類の九割は無害ってことになりそうだけどね」
と、無邪気に笑うカヌヌの言に水を差したのは、気怠げに船縁に凭れたマドレーンだった。最初にクワトと対峙したとき、最後の魔力をグニドに分け与えてしまったせいか、彼女はずいぶん疲れ切った様子でいる。
それでもグニドたちが鰐人族の集落から無事に戻ると、ブワヤ島の浜辺に残っていたマドレーンやエクターは素直に生還を喜んでくれた。
特にエクターなどは号泣しながら「グニドどの!! 一時はどうなることかと思いましたぞ……!!」と飛びついてくるほどに。
そうして互いの無事を喜び合ったあと、グニドらはイング=ハンユでの出来事をマドレーンらにも話し、アビエス連合国軍第一空艇団の船でカヌヌの住処であるワイレレ島を目指すことになった。理由は言わずもがな、鰐人族の祈祷師から告げられた件を一刻も早くカヌヌの一族に知らせるためだ。
今朝の魔物の襲撃で飛べなくなった九番艦『ラルス』については、ブワヤ島の浜辺に置いたままで構わないとヌァギクから了承をもらっていた。念のため『ラルス』を守るための船も何隻か沖に残してきたが、義理堅い鰐人たちが「あの船には近づかない」という約束を違えることはまずないと考えていいだろう。
「でもグニドサン、すごいデス。鰐人に力で勝ってしまうなんて、さすがは竜人ネ。島の部族たち、大昔から何度も鰐人に挑んできたけど、一回も勝つコトできなかったヨ。スベテの島で一番強いと言われた戦士も、みんな鰐人族に負けマシタ。だから村のみんな聞いたらビックリするネ。グニドサンのコト、ぜひクムサマたちにも紹介したいデス!」
「ムウ……オマエト一緒ニ行クコト、構ワンガ、島ノニンゲン、鰐人ヲ恐レテイル。ナラバ、オレノコトモ、皆、恐レルノデハナイカ?」
「まあ、確かにアンタの見た目は鰐人を彷彿とさせるし、ラナキラのみんなも最初はビビるだろうけど、そこはアタシらが何とかするよ。村の一員と認められてる獣人隊商の仲間だって言えば、さすがに攻撃はしてこないだろうしサ。何より鰐人に力比べで勝ったヤツがいるなんて、実物を見なきゃきっと信じないだろ?」
「まったく不服だがオイラたちは立場上カヌヌの舎弟ってことになってるからな。だがそんな舎弟の中に鰐人と渡り合ったヤツがいるなんて知れたらラナキラのヤツら、ついにオイラたちに頭が上がらなくなるに違いないぜ! チュチュチュ!」
「〝シャテー〟?」
「要はカヌヌの子分扱いされてるってこと。アタシらがカヌヌを仲間に加えた当時、島を出る許可をもらうには〝長の血筋であるカヌヌが見聞を広げる旅に出るため、子分どもがその旅路の供をする〟って体裁を取らないといけなかったからね」
「フム……?」
と、マドレーンの隣で同じく船縁に寄りかかり、頭の上の狐耳を風に煽られているラッティを見やって、グニドは思わず首を傾げた。
実際には獣人隊商の長であるラッティがカヌヌの子分扱いというのは何とも不可思議な話だが、外の世界との交わりを断っている無名諸島の人間が余所者と共に島を出るには、表向きの大義名分が必要だったということだろう。
実際、グニドも死の谷でルルの飼育を任されていた頃はよく一族の仲間に嗤われた──人間かぶれ、と。彼らは長老がルルの飼育目的として掲げていた〝人間との共生〟を拒み、理解を示そうとすらしなかったのだ。無名諸島の歴史や現状を聞く限り、きっとカヌヌも似たような立場に置かれていたはずで、それでもなお勇気をもって外の世界へ飛び出した彼をグニドは内心「大したやつだ」と評していた。
「アハハッ、でもダイジョブネ! ボクはラッティサンたちのコト〝コブン〟だなんて思ってないヨ。むしろラッティサンたちは、ボクを島の外へ連れていってくれたジンセーのセンパイ、デス! おかげで外の世界が広くてキレイで、楽しいコトいっぱいなのも知るコトできたし……」
「人生の先輩……って言っても、歳はカヌヌの方が上だけどね」
「分かってマスヨー! でもはじめて島に来たとき、ヴォルクサンはボクより強かったデスし、見た目もボクとおんなじくらいだったデショ? ラッティサンだってボクの知らないコトたくさんたくさん知ってたし──ソレに、キーリャサンはちゃんとボクより年上デシタよネ?」
「……!」
「アッ、そう言えばキーリャサン、今もゲンキしてますか? ケルッカ村の復興は順調デスカ? ユーリサンともナカヨシ、デスヨネ?」
とカヌヌが依然無邪気に尋ねた刹那、明らかにラッティたちの顔色が変わった。
が、ラッティはカヌヌに悟られまいとしたのかすぐに足もとへ視線を落とし、ヴォルクはそんなラッティを一瞥し、ポリーもつらそうに耳を伏せる。
たったそれだけの変化ではあったものの、グニドにははっきりと、これは触れてはいけない話題なのだと分かった。
キーリャという名前を耳にしたのは初めてだが、今のカヌヌの口振りを聞く限り、その人物もまたラッティたちの昔の仲間と考えてまず間違いないだろう。
「キーリャ?」
ところが皆の反応を受けてどう対処すべきかと困惑したグニドの一瞬の隙を衝くように、カヌヌが口にした名前を復唱する声があった。
不思議そうに目を丸くしながら尋ねたのはルルだ。今の会話の流れで、彼女もキーリャというのがラッティたちの昔の仲間だと何となく理解したのか、もっと詳しく聞いてみたいという無垢な好奇心が瞳の奥で燻っている──幼子特有のそうした純真さが、ときに残酷な刃となって誰かの心を抉ることになるとは露知らず。
「あー、キーリャっていうとアレだよな? オイラが獣人隊商に入る直前に、群立諸国連合のどっかでキャラバンを下りたっていう……結局オイラはまだ会ったことねーんだけど、世にも珍しい豹人のイカした姉ちゃんなんだってな!」
「ぱんさー?」
「おう。豹人ってのはエクターさんよりもずっとでっかいネコ科の獣人でな、見た目は猫っぽいんだが全体的にスラッとしてて、体中に斑模様のある砂漠のハンターなんだぜ!」
「さばくのはんたー……!?」
「そうとも。オイラもまだ生粋の豹人にはお目にかかったことがないんだけどよ、何十年か前までは南東大陸に広がるバクル砂漠の南部に集落を持ってた一族らしいぜ。だけどアッバース首長連邦の人間どもと対立したせいで集落ごと滅ぼされて、わずかな生き残りも世界中のあちこちに散らばっちまったらしい。だから会いたいと思ってもなかなかお目にかかれない幻の獣人なんだよなー」
と、ヴォルクの頭の上で得意げに知識を披露してみせるヨヘンを見上げて、ルルは「おぉ……!」となおいっそう瞳を輝かせていた。そんなに珍しい獣人がかつての仲間だったなら自分もぜひ会ってみたい──と彼女の顔にはそう描かれているものの、グニドはやはり直感している。先刻のラッティたちの様子を見る限り、恐らくキーリャという名の豹人は、もはや会うことの叶わない相手なのではないかと。
「あー、うん……まあ、そうだね。キーリャは二年前、カヌヌよりも先にキャラバンを抜けた仲間でサ。北西大陸の北も北、群立諸国連合のピュリュリンナ城主国で、その……人間と恋仲になって……」
「こいなか?」
「んっ、んんっ、つ、つまり人間の男性ととても親しくなったということだよ、ルル。要は、そう、君とグニドどののような関係になったということだ!」
「おぉ……! ルル、グニド、好き! だから、キーリャも人間のこと、好き?」
「え、え、えっと……そ、そうね、ルルちゃんとグニドの関係とはまたちょっと違うような気もするけど……でも、キーリャがユーリさん……に、人間の男性を好きになったのは本当ヨ」
「で、結局そいつとふたりで暮らすことにしたからキャラバンを離れたんだろ? アビエス連合国の外じゃ珍しい異種族婚ってやつだが、ま、ラッティの親父さんもそうだったらしいし、実は北じゃ結構ありふれた話なのかもな」
「だけど仮にそうだとしても、ずいぶん思い切った決断をしたのね。北西大陸の北部って言ったら、エレツエル神領国の勢力圏でしょ? あの〝獣人狩り〟で有名なエレツエル人の目と鼻の先で異種族婚なんて、お互いによっぽど好き合わなきゃできない選択だと思うけど、障害が大きい方が燃えるタイプのふたりだったのかしら? だとしたら妬けちゃうわねえ」
などと気の抜けた口調で言いながら、マドレーンが横を向いて眠たそうにあくびを零している。が、彼女の紡いだ〝獣人狩り〟という言葉が、グニドの脳裏にハッととある記憶を浮き上がらせた。
そうだ。先日までグニドたちが旅をしていた北西大陸の北部では、エレツエル人による獣人狩りが頻繁に行われていると昔ラッティが話していたような気がする。
神領国で暮らす人間たちは人間以外の種族を下等で穢れたものと見なし、見つけ次第命を刈り取るか、捕らえて隷属させるかのどちらかだと。
だとしたらまさか、キーリャもそうしたエレツエル人たちの手にかかって──?
一抹の苦い予感がグニドの鬣を逆立たせ、これ以上この話題を続けるのはまずいと本能に囁きかけていた。キーリャというかつての仲間のことも、彼女の現在の状況もグニドは知らない。けれど。
今までラッティたちから聞かされた北の話や現在の彼女らの様子を見る限り、グニドの予想が大きくはずれているということは恐らくあるまい。
しかしだとしたらなおのこと、彼女の息災を無邪気に信じているカヌヌやルルの眼前に、残酷な現実を突きつけるのは──
「──でも、おかげで幸せそうだよ」
「え?」
「キーリャは、今でもすごく幸せそうだ。色んな危険や障害があると分かっていてなお、自分を受け入れてくれた人と結ばれることができたから……一度は神領国に滅ぼされた村で、大変なこともたくさんあるけど、ユーリさんと一緒なら何があっても頑張れるって」
「ヴォルク」
「そう言ってた。そうだろ、ラッティ?」
まったく予想外の人物の口から飛び出した予想外の言葉に、グニドは驚いて固まってしまった。それはラッティやポリーも同じだったようで、ふたりとも目を見張ったまま声の主──ヴォルクを見つめて絶句している。そんなふたりの反応からも、今のヴォルクの発言が場を取りなすための嘘だということはすぐに分かった。
しかしヴォルクはいつもと同じ無表情で、立ち竦むラッティをじっと見返している。まるで〝こうするのが一番いい〟と、無言で彼女に語りかけるかのように。
「そう、デスカ……そうデスカ! ソレはトテモよかったデス! キーリャサン、あんなに寒いところに、ユーリサンとふたりだけで置いてきてしまったから……実はボク、ずっと彼女のコト心配デシタ。でも、捕らぬタヌキのカワザンヨー、デシタネ! だってあのキーリャサンが、自分で決めたコトで弱音を吐いたり、後悔するハズ、ナイデスもんネ!」
「う……うん……いや、この場合〝捕らぬ狸の皮算用〟とは言わないけども……」
「あれ、そうデスカ? ボク、ハノーク語話すの久しぶりだから、チョットなまっちゃったヨ。やっぱり島に帰ってきても、時々ハノーク語話すようにしないとダメネ! 爺サマは今も、ボクがハノーク語話すとイイ顔しないけど……」
「だが大陸との交流が一切ない無名諸島に、ハノーク語を話せる者がいるというのは大変重要なことだと思うぞ、カヌヌくん。何故なら島に侵略者や漂流者がやってきたとき、まったく言葉が通じないとなると交渉の余地もないだろう? つまりそれだけで平和的解決の道は断たれ、暴力によってことに臨まねばならなくなるということだ。しかしいつまでもそんなやり方を続けていたのでは、無名諸島はますます世界から孤立してしまうだろう」
「ハイ。ボクもそう思いマス、エクターサン。島の暮らし守るコトと、世界を拒絶するコトは違うネ。ボクたちもエマニュエルのイチインとして、存在するコト、みんなに認めてもらう必要アリマス。ナゼなら、周りを敵だらけにするコトは、島のタメにもよくないデス」
「うむ、まったくもってそのとおりだ! 君は実に立派な若者だな、カヌヌくん。排他的な島に生まれながらしっかりと外の世界を認識し、異文化や余所者を否定することなく、共存共栄の思想に自力で辿り着いてみせるとは……」
「イエイエ、ボクがそういう風に考えられるようになったのは全部ラッティサンたちのおかげデスヨ! ラッティサンたちが外の世界のキレイなところ、楽しいところ、イッパイ見せてくれたからネ。だからボク、エマニュエルがダイスキ! でも、島での暮らしもスキだから、ドッチも大切にしたいと思うデス」
照れたように笑ってそう言いながら、カヌヌは「エヘヘ」と白い歯を見せてチリチリの頭を掻いた。きっと旅の間も楽しいことや嬉しいことばかりではなかっただろうに、苦労や痛みは全部なかったことにして〝エマニュエルが大好き〟と言えてしまう彼の豪放さには恐れ入る。
見た目はちょっと頼りなく、どちらかと言えばひょろひょろとしているくせに、どうやらカヌヌの胸中には海のように広く澄んだ心が広がっているようだった。そしてだからこそラッティも彼を仲間に加えて旅することを認めたのだろう。カヌヌの人柄や考え方はいかにもラッティと波長が合いそうだし、物事をこんな風に考えられる人物を閉鎖的な島に閉じ込めておくのはもったいないと感じたに違いない。
だが──だからこそヴォルクは、彼に真実を告げないことを選んだのだろうか?
世界は美しいと信じるカヌヌの無垢な心を、粉々に打ち砕いてしまわぬように。
ほどなくグニドらを乗せた船はワイレレ島沖に到着し、一行はそこから小型の飛空船に乗り替えて島を目指すことになった。というのもラッティたちがラナキラ族に〝連合国の艦隊は島に近づけない〟と約束してきたからで、約束を破れば人質となっているヴェンに危害が及ぶかもしれないからだ。よってグニドとルル、ラッティ、ヴォルク、ポリー、ヨヘン、カヌヌの七人だけが小舟に乗り込み、残りの者たちはマドレーンやエクターと共に船に残ることになった。彼らの長であるヴェンがラナキラ村を離れられない状態にある以上、代わりに指揮を執る者が空艇団には必要だろうし、マドレーンは休んで魔力を回復させなければならないだろうから。
かくして七人を乗せた小舟は海に下りた飛空船から飛び立ち、ワイレレ島の浜辺に降り立った。ブワヤ島の浜辺とほとんど変わらない景観だが、水平線に沈む夕日の光を浴びた海はグニドの知るいかなる言葉でも言い表せない色に輝いて、見惚れるほど美しい。浜から島の中心部に向かって広がる森もブワヤ島にそっくりで、踏み込めば視界は一面の緑。噎せ返りそうなほどの草熱れを発して生い茂る草木の向こうには、溢れんばかりの生命の躍動が感じられた。
「ふわあ……!」
そうして森の中に通った一本道をまっすぐ進むと、やがて一際大きな巨木の森に辿り着く。そこはラナキラ族が暮らしているという太古の森で、グニドとルルがあんぐりと口を開けて見上げた巨木の上には、枝と枝の間に渡された板や、その上に建てられた人間たちの巣が見えた。〝樹上家屋〟と呼ばれるらしいあれらの家々は、外敵や害獣から身を守るために築かれた島の先人たちの智恵らしい。
グニドたちが先程まで滞在していたイング=ハンユも湖の上にある変わった集落だったが、ラナキラ族の集落もなかなかに未知で興味深かった。
さらに彼らの棲み処を支える巨木の根もとには、見たこともない黒くてずんぐりした鳥がたくさんいる。凶器めいた大きな嘴とギョロッとした眼、そして爛れたような皮膚が剥き出しになった顔面を持つ彼らは、見た目こそやや不気味だがいずれも丸々と太っていてうまそうだった。
『わあー! 知らないグニウ、たくさん!』
「アッ、おいルル、よせ! そいつらにだけは手を出すな、喰われるぞッ……!」
「……喰われないでしょ。ヨヘンじゃあるまいし」
と、頭の上で黒い狼耳をぐいぐい引っ張りながら喚くヨヘンに、ヴォルクが相変わらず無慈悲な答えを返していた。
しかし、なるほど。ふたりのやりとりやヨヘンの怯えようを見るに、どうやらヨヘンはかつてあの鳥どもに食われかけたことがあるようだ。
ドードーという変わった名前らしいその鳥の群の中を突っ切りながら、一行はまずラナキラ族の霊術師──鰐人族にとってのヌァギクのような者──がいるという樹上へ上がることにした。集落を乗せた大樹には梯子の形をした縄があちこちぶら下がっていて、そいつを使って樹の上と下を行き来するのが常らしい。
ところが先に登ったラッティたちを真似てグニドも梯子に足をかけると、中ほどまで登ったところでブチッと不吉な音がした。森の木々から拝借した蔓を結び合わせただけの梯子は、さすがに人間の六倍もある竜人の体重を支えられるほどの強度は持ち合わせていなかったらしく、グニドは真っ逆さまに地面へ落ちた。
突然空から竜人の巨体が降ってきたことに驚いて、麓にいたドードーたちが喚きながら逃げ散ったことは言うまでもない。
背中からドテッと落下したグニドは、幸い硬い鱗のおかげで大事には至らなかったものの、しばし仰向けに倒れたままわたわたともがく羽目になった。
で、どう頑張っても樹上へ辿り着くことのできなかったグニドは、カヌヌが呼び集めてきたラナキラ族の屈強な戦士たちによって荷物のごとく引き上げられることになった。千切れた縄梯子よりもさらに太く縒り合わされた蔓製の縄で体をぐるぐる巻きにされ、数人がかりでその縄を引いて上まで運んでもらうというやり方だ。
幸いラナキラ族の集落には、森から切り出してきた木材などを引き上げるための滑車が用意されていて、グニドはそこから垂れた縄を体に巻きつけ、戦士たちの奮闘によってどうにかこうにか樹上まで引き上げてもらうことに成功した。カヌヌに説得されて集まった戦士たちは、鰐人にも並ぶ巨体のグニドががしっと太い枝を掴み、あとは自力で樹上へ登ってくるとさすがに恐れおののき跳びのいた。
そうしてクプタ語と呼ばれる彼らの言語でカヌヌに向かって何事か叫んでいたようだが、ラッティたちの身振り手振りによる説得で彼女らの仲間だと理解してくれたらしい。槍を手に体をこわばらせた彼らの眼差しは、未だグニドに対する恐怖と疑念をありありと物語っているものの、とりあえず〝鰐人に似ている〟というだけで攻撃される心配はしなくてよさそうだった。
「ヌイ・クム! レウェ・マイワウ・イ・カヒ・マリヒニ」
それからグニドらがカヌヌに連れられて向かったのは、集落を乗せた〝森の主〟たちのずっと奥。
そこには四方から伸びた枝が複雑に折り重なった広場のような空間があって、板がなくとも足場に困らなさそうなその場所には大勢の人間が集まっていた。
いずれもカヌヌと同じ真っ黒な裸体に、袋つきの腰巻きを身につけた男たちだ。
グニドはルエダ・デラ・ラソ列侯国で過ごした日々のおかげで、人間の顔を見分けるのにもそこそこ慣れたと思っていたのだが、すっかり日が落ちてしまったせいもあり、現在目の前にいるラナキラ族の男たちが全員同じ顔に見えた。
ところがグニドの姿を見て色めき立ったのは彼らも同じだ。広場で集会か何かをしていたらしいラナキラ族の男たちは、見たこともない鱗姿の獣人を見るや雄叫びのような声を上げて次々立ち上がり、取り乱した様子で一斉にあとずさった。
グニドは先に出会った戦士たちの反応を見ていたから、少しでも無害そうに見えるようにとルルを抱いていたのだが、期待した効果は得られなかったようだ。
樹上の集落は瞬く間に騒然とし、燃え盛る松明を手にした男たちが「来るな、来るな!」とでも言うように炎でこちらを威嚇していた。と言ってもグニドも一応知性ある人類なので、獣のように火を恐れたりはしないのだが……どうやら彼らの目には自分が人ではなく、未知の野獣か何かに見えているらしい。
「あー、まあ、こうなる予感はしてたけど……カヌヌ、もう一回説明を頼める?」
と、そんな彼らの様子を見て苦笑したラッティが頬を掻きながらカヌヌを振り向いた。が、彼が頷きを返すより早く、怯える人の群から進み出てきた人物がいる。
「クムサマ!」
とカヌヌが呼んだその人物は、集まったラナキラ族の中でもかなりの老齢に見えた。何しろ顔がしわくちゃで瞼も垂れ、やや曲がった腰を支えるためか手には杖も持っている。しかし彼の腕や胸もとは、鰐人族のヌァギクが身につけていたのと同じ呪具らしきものによって飾られており、ひと目でラナキラ族の霊術師だと知れた。クムという名らしい老人はグニドを見ても怯えることなく近づいてくると、垂れた瞼を捲り上げるように開いてこちらを見上げてくる。
「ヌイ・クム、オ・イァオ・グニド」
黒い肌、そして闇の中で際立つ白い眼をひん剥いて、クムはグニドを凝視していた。すかさずカヌヌがクプタ語でグニドを紹介してくれたようだが、彼の声が聞こえているのかいないのか、話しかけられても微動だにしない。
「……クムサマ?」
さすがに様子がおかしいと察したのか、カヌヌが不思議そうな顔をして再びクムに呼びかけた。するとクムは全身をわななかせながら深く深く息を吐き、直後、何を思ったかグニドの足もとにうずくまる。
「ちょっ……えっ!? クムじいさん……!?」
と、これにはラッティたちも意表を衝かれたようで、皆が驚きと戸惑いをあらわにしていた。まさか未知の獣人に対する恐怖のあまり気が狂れたか、はたまた命乞いに出たのか──とグニドも同じく混乱していると、苔生した大樹の枝に額を擦りつけた老人が何事か、呻く。
「マヌ・ホアロハ……エ・コモ・マイ・オネ・ハーナウ」
当然ながら老人の呻きはクプタ語で、グニドにはまったく聞き取れなかった。
ゆえに「なんと言っているのか」と尋ねる意味でカヌヌを振り向けば、彼もクムの言葉を聞き、驚愕に目を見開いている。
「〝マヌ・ホアロハ〟……? く、クムサマがグニドサンのコト、〝精霊の大切な子ども〟と言ってマス!」
それを聞いた瞬間、グニドは確信した。
──こいつが畏敬の念を向けているのはおれではない。
恐らくルルだ、と。