第七十九話 精霊のまにまに
「ギャーーーーーッ!! う……う……うんめーーーーーッ!!」
と叫びながら土の上を転げ回るヨヘンを、クワトが珍獣でも見るような目で眺めていた。いや、長年この島に引きこもり、外の世界との交わりを断っていた彼にとって、これほど小さくやかましい獣人はまさに〝珍獣〟であることだろう。
そんなヨヘンの隣ではルルもまた、串焼きにされたフィラルクの肉に囓りつくや否や目を見張って固まっている。かと思えば彼女は常にない勢いでバクバクと怪魚の肉を頬張り、土の床に投げ出した両足をバタつかせて「ヤーウィ!」と叫んだ。
生来血の滴る生肉ばかり食べてきたグニドには生憎と並みの魚より臭みがなくて脂が乗っているということくらいしか分からないが、雑食の彼らにとって粗塩をまぶして焼いただけのフィラルクの肉は相当に美味なものらしい。
クワトはルルが大喜びでおかわりをねだると嬉しそうに笑い、火の傍から焼きたての肉を持ってきて彼女に与えた。
鰐人族の集落イング=ハンユの真ん中にある祈祷師の巣穴。
現在そこにはグニドが岸から連れてきた獣人隊商の面々と巣穴の主であるヌァギク、クワト、そしてカヌヌという名の人間がいる。
カヌヌはラッティたちのかつての旅の仲間にして、ワイレレ島に住むラナキラ族の長の身内だ。アビエス連合国の空の戦力、第一空艇団が魔物の襲撃を受け、本国からの救援が来るまでのあいだ無名諸島に留まることを余儀なくされたグニドたちは、島々に暮らす人間の部族の中でも特に力があるというラナキラ族の長に島への滞在許可を求める必要があった。
で、ラッティたちはその交渉のために昔の仲間でもあるカヌヌを頼ってワイレレ島へ向かったわけだが、どうやら滞在の許可はほぼ下りたらしい。
というか許可するとかしないとかいう話し合いをする前に、グニドらが不時着した場所がブワヤ島であると聞いてラナキラ族の人間たちは血相を変えた。
何故ならここは他ならぬ鰐人族の縄張りで、代々無名諸島で暮らす人間たちですら近寄ることが許されない場所だったからだ。ゆえにラッティたちは慌ててワイレレ島から引き返してきたらしいが、グニドが鰐人と対決した結果、力を使い果たして森の中へ運ばれていったと聞いたときは正直「終わった」と思ったらしかった。
が、それでもこうしてグニドとルルを探しに来てくれたのだからいい仲間を持ったものだ。グニドは侵入者として鰐人に囲まれていたラッティたちを救出し、ヌァギクの許可を取ると彼女に彼女らを紹介した。
そうして一行は現在、ヌァギクとクワトから客人としてもてなしを受けている。
クワトはラッティたちがグニドの旅の仲間だと知るや、グニドとルルのために焼いていたフィラルクの肉を彼女らにも気前よく振る舞い、身振り手振りで「どんどん食え」と勧めた。グニドが鰐人族に襲われるどころか、すっかり彼らの集落に馴染んでいたことを知ったラッティたちはしばらくの間「心配して損した」と憤慨していたが、フィラルクの肉を食べると途端にみな驚き、笑顔になった。
巣穴の奥にどっしりと腰を下ろしたヌァギクは、相変わらず変な色の煙が出る管を咥えながらそんなラッティたちの様子を眺めている。
ヨヘンがあまりに騒ぐので「うるさい」と叱られやしないか、グニドはいささか不安だったのだが、彼女は重そうな瞼を時折ゆっくりと瞬かせるだけで特に何も言わなかった。唯一問題があるとすれば、ラッティたちと一緒にやってきたカヌヌという人間が明らかに萎縮しきってしまっていることだろうか。
まあ、先程ヌァギクから聞いた話によれば、彼らは鰐人族を〝島の人間を襲う人喰い獣人〟と思っているらしいから、突然巣穴に連れ込まれて怯えるなという方が酷な話だろう。ゆえに彼はせっかく振る舞われたフィラルクの肉や酒にもほとんど手を出さず、泥を固めて作られた巣穴の床ばかり見つめている。もっとも鰐人族の酒は泡で覆われていて面白いが非常にすっぱく、酒好きのラッティですら「強烈!」と評していたから、それもあって喉を通らないのかもしれないが。
「いやー、だけど驚いたよ。まさかラナキラ族があんなに大騒ぎするほど恐れてる鰐人族ってのが、こんなに気前のいい一族だったなんてね。しかもハノーク語を話せる鰐人までいるなんて……クプタ語ならいくらか話せる相手がいるとは聞いてたけど、その人がまさかグニドとルルを匿ってくれてたとは、やっぱ世の中、自分の目で見てみなきゃ分かんないことだらけだな」
と、そうして皆の腹ごしらえがひと段落した頃、指についたてらてらの脂を舐め取りながら言ったのはラッティだった。彼女が怖いもの知らずなのは今に始まったことではないが、カヌヌと違って実際の鰐人を前にしても怯えることなく、むしろすっかり場の空気に馴染んでしまっている。クワトもクワトで、ラッティが魚を肴にどんどん酒を飲むものだから、喜々として彼女の杯に黄色い酒を注いでいた。どうやらラッティの飲みっぷりに「あっぱれ」と感心しているらしく、グニドにも酒入りの壺を向けて飲め、飲めと勧めてくる。
ついでに焼いていないフィラルクの切り身もずずいと出されて、グニドは豪快に輪切りにされたそれを葉っぱの上から摘み上げるや丸飲みにした。
ほんのり血の味がする切り身の方がうまい、とはルルの前では口が裂けても言えないが、クワトはそんなグニドの味覚を理解しているのかこちらには生の切り身ばかり差し出してくる。もしかしたら切り身を丸飲みするたびに尻尾の先がピクピクするのを見抜かれたのかもしれない。何せ生の肉を喰うのは久しぶりだったから。
「フン……今回ハ、気マグレダ。其処ノクワトガ、グニドナトスヲ気ニ入ッテ連レテキタ。故ニ、グニドナトスノ仲間デアル汝等モ、客人トシテ迎エタダケノコト。尤モ我等トテ、島ノ人間タチト争イタクテ争ッテイル訳デハナイガナ」
と、ときに答えたのは当然ながらヌァギクだった。彼女が牙という牙の間から紫色の煙を吐きつつそう言えば、途端にうつむいたカヌヌの肩がぴくりと跳ねる。
彼は肌が黒いせいで異様に目立つ白い眼で、上目遣いにヌァギクを見やった。
かと思えば少時の逡巡ののち、顔を上げてまっすぐに彼女を顧みる。
「……あの。ヌァギクサマ、ソレは本当デスカ? 島で暮らす部族たちはフゥナー族を除いて、みんなアナタ方を恐れてマス。何故ならアナタ方が、森に入るモノ、許さないからネ。でも、ボクたちと争うつもりナイなら、何故人間襲いマスカ?」
「汝ハ、ラナキラノ長、オルオルノ末ダナ。ナラバ問ウガ、汝等ハ我々ガコノ島デ暮ラシテイルコトヲ、如何思ッテイル? 忌々シイ余所者ガ、図々シク島ニ居座リ続ケテイルト、ソウ思ッテイルダロウ」
「いえ、ボクは……」
「少ナクトモ、汝ノ祖父等ハソウダ。故ニ此迄一度モ、和解ノ為ノ使者ヲ送ッテキタコトガ無イ。其方ニ歩ミ寄ル意思ガ有ルナラ我々モ応エルガ、ソウデナイノナラ、余計ナ争イノ火種ハ、燃エ上ガル前ニ追イ払ウノガ賢明ダ」
ヌァギクは至極当然そうにそう答え、クワトが用意した彼女の分の酒をぐびぐびと飲んだ。無名諸島で暮らす人間たちと彼女ら鰐人の間に横たわる遺恨はやはり根深いらしく、カヌヌは何とも言えない表情で再び顔を伏せている。
しかしラッティが通訳として連れてきた青年は、見れば見るほどカルロスやヴェンたちと同じ人間とは思えない姿をしていた。
何しろ肌は泥で漬けたように真っ黒で、髪もチリチリ。衣服の類は一切身につけておらず、唯一腰に枯れ草で作った風避けのようなものを巻いているだけだ。
おかげで最初に彼を紹介されたとき、グニドは思わずラッティに「コレハ、ニンゲンカ?」と尋ねてしまった。
カヌヌは確かに体毛もなければ尻尾もなかったが、もしかしたら見た目が人間に近いだけの、人間とも獣人とも違う種族なのではないかと思ったのだ。
しかしさらに驚いたのは、ラッティたちのかつての仲間が人間であったこと。
グニドはてっきり、獣人隊商は基本的に獣人か半獣人しか仲間にしないものだと思っていたから、人間のカヌヌが昔の仲間だと聞かされて仰天した。ワイレレ島へ向かう前のラッティの話を聞いていなかったわけではないのだが、それでもどこかで〝獣人隊商の仲間だったということは獣人か半獣人だろう〟という思い込みがあったのだ。さっきは状況が状況だっただけにろくに自己紹介も交わせなかったが、浜に戻ったら彼が隊商にいた頃の話を色々と聞いてみたいような気がした。
「ダガ、ラナキラノ子ヨ。汝ノ一族ハ今、少々厄介ナコトニ成ッテイルナ」
「え?」
「長ガ病ニ倒レ、次ノ長ハ試練カラ帰ラヌ。ダト云ウノニ、ヴォソグノ白痴共ハ島ニ攻メ寄セ、汝等ハ、モハヤ後ガ無イ」
「ど……どうしてソレを──」
「フン……精霊タチノ声ヲ聞ケワ自ズト知レルコトダ。汝等ガ〝マヌ〟ト呼フ者タチノ声ガ聞ケルノハ、何モ人間ダケデハナイ」
「……? 長ガ病ニ倒レタ、トハ、ドウイウコトダ?」
話が見えないグニドはクワトの杯に酒を注いでやっていた手を止めて、思わずふたりの会話に首を突っ込んだ。すると顔を見合わせたラッティたちが「実は……」と訳知り顔で事情を話し始める。彼女たちの話によれば、無名諸島でも最有力と見られていたラナキラ族は現在、かなり深刻な事態に見舞われているらしかった。
というのもたった今ヌァギクが言い当てたとおり、ラナキラ族の長オルオルが病に倒れ、敵対する部族がその隙に乗じて縄張り争いを仕掛けてきたというのだ。
おかげで彼らの暮らすワイレレ島は厳戒態勢下にあり、そんな状況ではグニドら余所者になど構っていられないというのが彼らの真の言い分らしかった。
だが長の身内であるカヌヌと、長の次に権力を持つ霊術師──これもまたグニドら竜人の群でいうところの祈祷師だ──が昔の誼でラッティたちの事情を汲み、ヴェンを人質として村で預かるという条件さえ飲めるなら島への滞在を許すと譲歩してくれたらしい。人質、とはあまりに不穏な響きの言葉だが、ヴェン本人は「酒さえ飲めるなら何でもいい」と言って了承したとかで、一瞬でも心配したおれが馬鹿だった……とグニドは思わず遠くを見つめた。
「ムウ……シカシ、難シイ問題ダ。長ガ居ナイママ、敵ト戦ウコトハ、トテモ危険。何故ナラ、長ハ、一族ノ心ヲ、ヒトツニスル。ダカラ、長ガ居ナケレバ、皆ノ心、バラバラニナル」
「そうなんだよ。だからアタシらも何とかしてやりたいんだけど、余所者が下手に関わればラナキラ族の立場を余計に悪くしかねない。せめて長の病気かヴォソグ族の侵略、どっちかだけでも何とかできれば状況はマシになるんだけど──」
「デハ、何トカシテヤロウカ?」
「へ?」
「クワト。アハ・サムヘャン・ケリンガン・アファ・シング・ダッカンド・ハカケ・サドゥルンゲ?」
刹那、ヌァギクが牙から垂れた何本もの呪具を揺らし、鰐人語でクワトに声をかけた。するとクワトはすっと真剣な顔になり、姿勢を正す。それからしばし鰐人語でやりとりしたのち、クワトは力強く頷いた。彼の返答を確認したヌァギクは不敵に口の端を持ち上げると、煙管を足もとの石の上に置いて言う。
「ラナキラノ子ヨ。島ニ帰ッテ汝等ノ霊術師ニ伝エヨ。我々鰐人族ニハ、汝等ラナキラノ子ヲ助ケル用意ガ有ル。我々ノ力ガ必要ナラハ、何時デモ頼ルガイイ、ト」
「エッ……!?」
「但シ助ケルニハ条件ガ有ル。コノ島ヲ我々ノ領分ト認メ、二度ト攻撃シナイコト──ソレヲ約束デキルナラ、ヴォソグノ白痴共ヲ追イ払ッテヤル。無論、汝等ダケデナク、無名諸島デ暮ラス全テノ部族ニ認メサセルノダ。ラナキラガ其ノ努力ヲスルト誓ウナラ、我等ノ牙デ、ヴォソグノ子等ヲ黙ラセテヤロウ」
ヌァギクの口から紡がれた予想外の提案に、カヌヌはもちろん、ラッティたちも目を剥いて驚愕していた。これまで無名諸島で暮らす人間たちと隔絶していた鰐人族が、突然〝協力してもいい〟と言い出したのだから無理もない。
だがグニドは何となくヌァギクがそう言い出すような気がしていたおかげで、他の仲間ほど驚かなかった。どうして察しがついたのかは分からない。
ただ自分がここの長で、末永い群の繁栄と安寧を願うのならばどうすべきか──そう考えたとき、グニドが辿り着いた答えもまた人間との〝共生〟だった。
「お……おいおい、マジかよ。カヌヌ、コイツはまたとない申し出じゃねーのか!? 確かに鰐人族は竜人並みに見た目が極悪だけどよ、話してみたら結構イイヤツらじゃねーか! この人らが群で大挙して押し寄せたら、さすがのヴォソグ族も絶対ビビッて逃げ出すぜ!? つーかオイラなら確実にチビッて失神するね!」
「それ、胸張って断言するとこ……?」
「うっせーぞ、ヴォルク! オイラの繊細さを甘く見んな! ぶっちゃけさっき鰐人に囲まれたときだって、半分チビッてたんだからな!」
「いや、ヨヘンがチビろうがチビるまいがどうでもいいんだけどサ、実際どうなんだ、カヌヌ? 確かに今回の問題は余所者のアタシらには手出しできない。けど同じ無名諸島で暮らしてる鰐人族の力を借りるなら、周りの部族もそこまでとやかく言わないんじゃ?」
「ウ、ウーン……むつかしい、デス。本当のコト言うと、ボクは、鰐人族とも仲良くしたい……と、思ってマス。ナゼならラッティサンたちと一緒に旅した四年間、世界の色んなトコロを見て……争いはトテモ悲しいコトだと分かったからデス。でも村の人たちはみんな、鰐人族のコト、嫌ってマス。ボクたちの島、横取りした余所者だと思ってるからネ。だから、説得できるかどうか、分からない……」
「だ、だけど今のままじゃ、ラナキラ族はヴォソグ族に島を乗っ取られちゃうかもしれないのヨ? ラナキラ村やみんなの命を奪われるくらいなら鰐人族と手を取り合った方がいいって、オルオルさまだってそう思うんじゃないかしら?」
「……」
ポリーが珍しく身を乗り出してそう言えば、カヌヌはやはり灰色の床を見つめたままじっと沈黙した。彼の話すハノーク語は拙く、顔も真っ黒なせいで何を考えているのかいまいち読みづらいが、思いがけないヌァギクの申し出に心が揺れているらしいことは何となく、分かる。
「……確かに、ポリーサンの言うコトも分かりマス。デスガ、ヌァギクサマ、ソレならヒトツ訊いてもイイデスカ?」
「ナンダ?」
「アナタ方はどうして突然、ボクたちに協力すると言い出しマシタカ? ボクたちがわざわざ認めなくたって、ブワヤ島はもうアナタ方のモノデス。だってアナタ方を怖がって、誰もココには近づかナイから。今マデどおりの関係を続けていれば、この島を攻めようとする部族もキット現れないハズデス。なのに、どうして……」
「フン……汝等ノ霊術師ハ、何モ言ワヌノカ。無名諸島ガ此先モ、永遠ニ今ノママデ在リ続ケルト思ッテイルノカ」
「ど……どういう意味デスカ?」
「精霊ノ声ヲ聞ケ、若人ヨ。然スレバ、直ニ同ジ土地ノ者同士デ争ッテイル場合デハ無クナルト気ヅクダロウ。生キ残リタケレハ──〝神〟ノ名ヲ騙ル者ニ抗イタケレハ、我々ハ過去ノ遺恨ヲ捨テテ、手ヲ取リ合ワネハナラナイ。ソウ云ウ時代ガ、遂ニヤッテクル、ト云ウコトダ」
──〝神〟の名を騙る者。
ヌァギクが放ったそのひと言が、音もなくグニドの横面を叩いた。
ゆえにグニドは頭をもたげ、長い首を巡らせる。
巣穴の奥でじっと精霊の声を聞いている、偉大な祈祷師を凝視する。
するとヌァギクもグニドの視線に気づき、ふっと口の端を持ち上げた。
老いた雌の鰐人はそうして再び煙管を手に取ると、先端についた極小の臼のような部分に何かの葉っぱを詰めながら言う。
「グニドナトス。汝ガ此処ヲ訪レタノモ、精霊ノ導キダ。汝ハ、我々ト島ノ人間タチヲ結ウィ付ケル為ニ遣ワサレタ」
「オレガ、島ノニンゲント、オマエタチヲ?」
「ソウダ。故ニ我等ハ、精霊ノ声ニ従ウ。汝モ見テユケ。ソシテ備エヨ。孰レ来ル選択ノ時ニナ」
草で編んだ敷物を挟んで向き合うラッティたちは、ヌァギクが何を言っているのかさっぱり分からないという顔をしていた。
しかしやはりグニドには分かる。明確にそうと言われたわけではないが、恐らくこれからこの島で起こる出来事は、グニドもいつか直面する現実だ。
ゆえにグニドは頷いて、ヌァギクに深々と頭を垂れた。
彼女の言葉は精霊の言葉だと、確信を持って敬意を表した。
そんなグニドの背中を、クワトがまぶしそうに眼を細めて眺めている。
ほどなくグニドたちはクワトらに見送られてイング=ハンユを去った。ラナキラ族と鰐人族が手を結ぶかどうか、明後日までにその結論を持ち帰ると約束して。
別れ際グニドは森の出口でクワトに何か声をかけられ、ばしりと肩を叩かれた。
きっとまた来い、と、そう言われたような気がした。