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第七話 長老殺し

 巣穴への入り口を入ってすぐのところにある大穴は、えらい騒ぎになっていた。

 ざっと見渡した限りでも、巣穴中の竜人ドラゴニアンが集まっているのではないかと思う。その中でもスエンに叩き起こされてやってきたグニドは、明らかに出遅れた部類に入っていた。


『グニド、スエン! あんたたちも来たのね』

『エヴィ、話はスエンから聞いた。だが新長老ドニクが死んだって、本当なのか?』


 未だ事態が呑み込めず、グニドが半信半疑に尋ねると、エヴィも困惑した様子で頷いた。

 大穴に集まった一族の者たちは、口々に事情を説明しろと騒ぎ立てている。それにはグニドもまったくの同感だ。

 先代から次の長老レドルに指名されていたドニクが死亡したということは、ここ、死の谷モソブ・クコルで最も重要な役割を担うドラウグ族の長がいなくなったということだった。

 そんなことは、長く続く谷の歴史でもかつてなかったことだ。そもそも何故ドニクは死んでしまったのか。


『皆、静まれ!』


 そのとき、巣穴中の竜人が集まってもなお余りある大穴に、地を震わせるような大声が響いた。

 その声に打たれたように、それまで騒いでいた者たちがしんと静まり返る。ほどなく皆の前に現れたのは、他の竜人に比べて一回りほど体のでかいオスの竜人だ。


『イドウォルだわ』


 と、ときにそのオスの姿を認めたエヴィが、小声で囁くように言った。

 その横顔には、微かな嫌悪の色がある。そう言えばエヴィはあのオスが嫌いなのだったな、とグニドは他人事のように思い出した。

 イドウォルは現在、グニドらドラウグ族の戦士の中で最強と言われているオスだ。派手な戦いが得意で、彼の大竜刀に斬れないものはないとまで言われている。

 だがそんな名声がいつしか彼を傲慢にし、エヴィなどは初めての産卵のときに自分の子を生めとしつこく言い寄られたとかで、以来イドウォルを毛嫌いしていた。

 歳は二十三か四くらいだっただろうか。

 そう、ちょうど死んだ新長老ドニクと同世代だったはずだ。


『イドウォル、これは一体どういうことだ。ドニクが死んだというのは本当なのか』

『ああ、残念だが事実だ。今朝、俺たちが三日後に迫った継承の儀の段取りを確かめに行ったら、そのときにはもう祠の奥で倒れていた。今、先代の葬儀のために来訪していた長老たちが集まって状況を調べているが、恐らく病死だろうと思う』

『病死だって?』


 イドウォルの口から告げられた事実に、大穴は再びざわついた。

 が、そのざわめきは、イドウォルが現れる前より控えめになっている。それは皆が状況の分からない混乱から徐々に解放され、代わりに自分たちの長老を失ったという事態の重さを実感し始めたからだ。


『だけどドニクはまだ若いし、特に病も患ってなかったはずよ。なのにどうして……』

『詳しい原因は俺にも分からん。だがドニクのむろには誰かと争ったような形跡はなかったし、あいつは自分の寝床の中で冷たくなっていた。だとしたら病気以外の死因なんて考えられないだろう?』


 イドウォルが皆の同意を求めるような口調で言えば、ざわめきはますます膨らんだ。

 そのざわめきを為す術もなく聞きながら、グニドは呆然と立ち尽くしている。唯一まともに考えられたことと言えば、それじゃあ次の長老には誰がなるんだ?という至極当然な疑問だけだ。


『そこでだ』


 と、ときにイドウォルが、場を仕切り直すような声を上げた。

 それを聞いた一族の者たちは、またしても水を打ったように静まり返る。今この状況で頼れるのは、最も事態を把握しているイドウォルだけだと、皆がそう考えているようだ。


『先代より次の長老に指名されていたドニクが死んだとなれば、誰かがその跡を継がねばならん。だがドニクの次の長老については、何の遺言もないのが現状だ。このままでは谷の祠守ほこらもりたる我が一族の威信が揺らいでしまう。となれば、この中から早急に次の長老を選び出す必要があると思うのだが、どうだ』


 集まった皆を見渡して、イドウォルは吼えるようにそう言った。

 これには誰もが首を傾げて顔を見合わせている。イドウォルの言うことは確かにもっともだが、問題はその選出方法だ。

 グニドらドラウグ族の長老は、代々一代前の長老の遺言によって定められてきた。一族の長老はいつ己の命が尽きてもいいように、必ず何人かの側近と他の部族の長たちに次の長老の名を伝えていて、当代の長老亡きあとはその遺言のとおりに次の長老が選ばれる。

 しかしドニクは新たな長老になることこそ決まっていたものの、まだ正式に長老の座には就いておらず、当然ながらそんな遺言は遺していなかった。

 となれば一体誰が次の長老を指名するのか。皆がまったく同じ疑問を抱いたそのとき、突然、大穴に若い竜人の声が響く。


『オイラはイドウォルが次の長老でいいと思うぜ!』


 再び場がざわめいた。発言の主がどこにいるのかは、グニドらの位置からは分からない。

 だがその声には聞き覚えがあった。

 今の声は、グニドやスエンと同じエリフの年に生まれたオスの竜人のものだ。それも普段からイドウォルの取り巻きとして彼に媚びへつらっているやつで、今も「キヒヒヒ」と愛想を売るように笑っているのが聞こえる。


『そうだ、それがいい。次の長老はイドウォルでいいじゃないか。何せイドウォルは、我が一族の中でも当代最強の戦士だ。次の長老となるのに、こいつ以上にふさわしいやつなんていやしない』

『そうだな。喪が明ければ我らは東の戦線へ赴いて、また小賢しい人間ナムどもと一戦交えることになる。そのとき一族の先頭で指揮を執ってくれるのがイドウォルなら我々も安心だ』

『正直ドニクは、戦いに関しちゃ皮も剥けてない青トカゲみたいなところがあったからな。それなら断然イドウォルの方が頼りになるぜ』

『そうだそうだ! 次の長老はイドウォルにしよう!』


 どこからともなく生まれた異様な熱狂が、大穴に集まった皆の心をじわじわと絡め取っていくかのようだった。

 初めはイドウォルを次期長老に推す声に眉をひそめていた者も、次第にその熱狂に呑まれ、誰も異議を唱えられない空気が作られていく。

 だがグニドはその中で、形容し難い違和感を覚えていた。

 心の奥でざわざわと蠢く、この違和感の原因は何だ。グニドがじっと眉を寄せながらそんなことを考えていると、ときに隣でスエンが囁く。


『おい、なんかおかしいぜ。イドウォルってこんなに人気者だったか?』

『いいえ、どちらかと言えば嫌われ者ね。そりゃ戦士としての腕は一流だけど、あいつは自分のためなら仲間だって平気で犠牲にするようなやつよ。それに、最初にイドウォルを長老にしようって言い出したやつら、みんなあいつの取り巻きじゃない』

『だよな? オレは嫌だぜ、あんな陰険野郎が長老になるなんて』

『じゃ、あんたがあたしたちを代表して言いなさいよ。イドウォルが次の長老だなんて糞喰らえって』

『バカ、この状況でんなこと言ったら間違いなくフクロにされるだろうが! お前はオレを殺す気か!』

『大丈夫よ、バカは死んでも直らないって言うし』

『何がどう大丈夫だ! 何一つ大丈夫じゃねーだろーが!』


 こんな状況でも懲りずに不毛なやりとりを続ける二人を、グニドは呆れたような、それでいてちょっと羨ましいような気持ちで眺めた。

 ここまで場や状況に関係なく騒げるスエンやエヴィは、よほど精神が図太くできているのだろうと思う。そう言えば谷中の竜人から至聖所と崇められている竜祖の祠の中でさえこの二人は構わず騒いでいるし、グニドにすれば、その胆の太さを半分でいいから分けてほしいくらいだ。


『分かった。皆、聞いてくれ』


 と、ときに渦中のイドウォルが、声を上げて皆をなだめた。

 その表情は、一見落ち着き払っているように見える。しかし彼はやがて「やれやれ」というように首を振ると、赤茶色のたてがみを掻きながら言う。


『これは皆の意見を尊重するために敢えて言わずにいたんだが……実は俺は、かつて死んだドニクと共に先代のもとに呼ばれ、先代亡きあとは俺かドニク、そのどちらかを長老の座に就けたいと打診されたことがあった。だが俺は、自分にはドニクのような思慮深さが足りないからと言ってその話を固辞したんだ。先代も初めはそれを残念がっていたが、俺の意思が固いことを知ると仕方なくドニクを次の長老にすると仰った』


 これで何度目になるか分からないどよめきが大穴に満ちた。

 そのとき、傍にいたスエンとエヴィがほとんど同時にグニドを振り向いてくる。が、かなり離れた場所にいるイドウォルはそんなことなど露知らず、更に話を進めていく。


『そうした事実がある以上、皆がこの俺を次の長老にと言うのなら、俺もそれを拒むことはできない。これからはこの俺が、亡き先代とドニクの遺志を――』

『――あんた、何を寝惚けたこと言ってるんだい。先代の長老様は一度だってあんたを奥へ招いたことなんてないよ』


 刹那、イドウォルの演説を遮るように響いた声が、皆のどよめきを打ち消した。

 声を上げたのは他でもない。

 長年先代長老の身の回りの世話をしていたメスの竜人、イダルだ。


『逆にあんたが無理矢理長老様に会わせろと押しかけてきたことはあったけどねえ。長老様はあんたみたいな狼藉者とはお会いにならないと言って、あんたをすげなく追い返したろう。それに対してあんなに腹を立てていたのに、もう忘れちまったのかい?』

『ああ……イダル、どうやらあんた、何か思い違いをしてるみたいだ。確かに過去にはそういうこともあったが、同時に先代から俺に次期長老の打診があったことも事実だ。あのときあんたは席を外してたから、俺が先代に呼ばれたのを知らないだけだろう』

『だとしても、先代があんたを長老に指名するなんて有り得ないよ。アタシは誰よりも長く先代のお傍にいたけどね、先代の口から次の長老候補としてあんたの名前が出たことなんてただの一度もなかった。先代がドニクとどちらを次の長老にするかで悩んでたのはあんたじゃない。――グニドさ』


 ざわり、と再び生まれたざわめきの主たちが、一斉にグニドを振り向いた。

 胆を潰したのはグニドの方だ。確かに先代はいずれグニドを長老にと考えている節があったが、それをここで引き合いに出されるとは思わなかった。


『それにね、アタシゃ見たんだよ。あんた昨夜遅く、手下を引き連れて祠から出てきただろう。何だか様子がおかしかったから、アタシはそのあとドニクを訪ねたんだ。だがドニクの室の前にはあんたの手下がいて、ドニクはもう寝たからと絶対にアタシを中には入れなかった』

『……。つまり、何が言いたい』

『先代の長老様がいつも仰ってたよ。あんたは野心が強すぎる。だから自分亡きあとはあんたの動きに細心の注意を払えと……だけどまさか、先代もあんたがここまで愚かな真似をしでかすとは思わなかったろうさ。――あんた、ドニクを殺したね?』


 大穴に満ちたどよめきは、そこで最高潮に達した。

 どういうことだ。説明しろ。仲間たちの間からそんな怒号が上がり、その矛先はイドウォルとその一味へ向けられている。

 だがその状況を見ただけでも、皆が狼藉ばかり働いてきたイドウォルの言葉より、長年先代に尽くしてきたイダルの言葉を信じたことは一目瞭然だった。

 ――イドウォルがドニクを殺した。

 イダルの推測は驚くほどの真実味を帯びて皆の間に広がり、大穴にはイドウォルをなじる声が満ちていく。

 が、やがて、


『ジャララララララ!』


 はち切れそうなまでに膨れ上がった非難の声を吹き飛ばしたのは、天井を仰いだイドウォルの大笑だった。

 これには皆が気圧されたように声を飲む。それを見たイドウォルは、わずかに残ったどよめきさえも蹴散らさんとするように、傲然たる態度で言う。


『まったくこの老いぼれは、何を根拠にそんなことを言ってるんだか。そんなに俺を長老殺しの犯人に仕立て上げたいなら、俺がドニクを殺したという証拠を並べてみろ。今すぐ、この場所でな!』

『それを言うなら、あんたが先代から次期長老の打診を受けたという証拠だってありゃしないだろう。だけど先代が次の長老にドニクかグニドをと考えていらしたことは、ここにいる皆が知っている。なのにあんたは自分の取り巻きを使って、強引に次の長老の座を奪おうとした。そこから導き出される答えはなんだい?』

『もう卵も産めやしない死に損ないのババアが、何を偉そうに。おいお前ら、今すぐその老いぼれを黙らせろ! 偉大なる長老を失った今、このカプには新たな秩序が必要だ。その秩序を徒に乱すやつは、群の結束を妨げる邪魔者として排除する!』


 喊声が上がった。それまでイドウォルの周りを固めていた取り巻きたちが、大竜刀を引き抜いて上げた雄叫びだった。

 今、大穴に集まっている群の仲間は、そのほとんどが不測の事態で大竜刀など置いてきている。

 イドウォルの取り巻きたちがその中へ飛び込み、無差別に刀を振り回し始めたことで、大穴は大恐慌に陥った。

 逃げ惑う仲間たちが濁流のような勢いでこちらへ迫ってくる。

 だがグニドには、それから逃げるよりもっとずっと重要なことがあった。


『イダル!』


 仲間の洪水に呑まれ、逃げ遅れたイダルに、刀を振り上げたイドウォルの取り巻きが迫るのが見える。

 イダルは逃げる途中で誰かに突き飛ばされたのか、地面に倒れて起き上がれずにいるようだった。


 このままではイダルが殺される。


 そう思った瞬間、グニドは地を蹴って駆け出した。

 押し寄せてくる仲間を押しのけ、弾き飛ばし、今にもイダルへ斬りかかろうとしていた若いオスへ体当たりを喰らわせる。グニドの奇襲を喰らったオスは無様に吹き飛び、体勢を失って地面を転がった。

 更に左から迫ってきたオスをエヴィティス直伝の尻尾打ちで叩き伏せ、それでもなお迫ってこようとするイドウォルの取り巻きに威嚇の咆吼を浴びせる。勢いよくしならせた尾で地を打ち鳴らし、頭を低くして牙を剥けば、取り巻きたちは怯んだように後ずさった。


 グニドはその隙に身を屈め、最初に体当たりを喰らわせたオスの大竜刀を拾い上げる。

 それはグニドの愛刀に比べてずっと軽く、まるで手に馴染まなかったが、今はそんな贅沢を言っている状況ではない。


『ぐ、グニド……!』

『大丈夫か、イダル?』

『あ、アタシは大丈夫だけど、あんた……』

『おれのことはいいから、下がってろ。群の仲間を殺そうとするなんて、こいつら正気を失ってるんだ』


 低く喉を鳴らしながら言い、グニドは目の前にいるイドウォルの取り巻きたちを睨みつけた。

 すると、その取り巻きたちの後ろから重い足音が近づいてくる。そのうちの一人を突き飛ばすようにして現れたのは、言うまでもなくイドウォルだ。


『おやおや、誰かと思えば次期長老候補だった・・・グニドナトスじゃないか。どうした? 先代が亡くなる前は〝長老になんかなりたくない〟とか何とかほざいてたくせに、やっぱりあんなのは口先だけで、長老の座が欲しくなったのか?』

『そんなことはどうでもいい。それよりイドウォル、お前、ドニクを殺したのか?』

『なるほど、お前もそこの老いぼれの妄想を信じるわけか。まったくおめでたいやつらだよ。仮に俺がドニクを殺したんだとしたら、どうだと言うんだ?』

『仲間殺しは群の中で最も重い罪だ。それも自分たちの長老を手にかけるなんて、どうかしてる』

『ふん、あんな青トカゲが俺たちの長老だと? 冗談も休み休み言え。お前だって知ってるだろう、ドニクは戦士としての腕も未熟なら、皆の前で〝戦いは好きじゃない〟などとほざく腰抜けだった。あんなザコが誇り高きドラウグ族の長老として担がれるなんて、そんなことがあっていいわけがない』

『だからドニクを殺したっていうのか? 一族の掟にも先代の遺言にも背いて』

『俺はな、グニドナトス。掟がどうとかしきたりがどうとか、そういう古くさくてくだらないしがらみが大嫌いなんだよ。そんなものに一体何の価値がある? 俺たち竜人に必要なのは〝力〟、ただそれだけだ。力の前では掟もしきたりも人間の鎧のように脆く無価値。それをこの俺がこれから証明してやる』

『それは頭を空っぽにして、ただ刀を振るっていればいいだけの戦士の理屈だ。いくら力があったって、大局を見極める目がなければ戦場で群の仲間を危険に晒してしまうし、砂嵐ムロトスの月には一族を飢えさせてしまう。本当に一族を守ろうと思ったら、力だけじゃ駄目なんだ。先代もそれを分かっていたから、慎重で仲間想いなドニクを次の長老に選んだんじゃないか』

『ほう、人間かぶれエズィ・ナムのくせに言うことだけは立派だな。感心した』

『何だよ、エズィ・ナムって?』

『知らないのか? ここじゃお前のことをみんなそう呼んでる。何せあのルルアムスとかいう人間のガキを世話するようになってから、いつも人間の臭いをプンプンさせてるからな。おまけに最近じゃ、狩りに出ても人間を殺さないっていうじゃないか。俺も戦士としてお前には一目置いていたのに、人間ごときに懐柔されて、ずいぶんと腰抜けになったもんだな』

『違う。おれが人間を殺さないのは、先代の長老に忠告されたからで……』

『そう、その先代もだ。聞けば先代は人間との共存だの何だのと、裏でふざけた御託を並べてたって言うじゃないか。谷の平和を守るためには、竜人もいずれ人間と手を取り合って生きていく必要があるとな。そんな馬鹿げた話、糞喰らえだ。先代もお前も、竜人の誇りを捨てたクズに用はない』

『おれのことはいい。だが先代を愚弄するな。自分たちの長老をそんな風に蔑むなんて、誇りを捨てたのはお前の方だろう、この恥知らずめ!』

『その言葉、そっくりそのままお前に返すぞ、人間かぶれ。今このときから、お前たちの長老はこの俺だ』

『いいえ、あたしたちの長老はグニドよ。あたしはあんたが次の長老だなんて絶対に認めないわ、イドウォル!』


 そのとき、突然もう一つの咆吼があたりに響いた。驚いたグニドが振り向けば、そこには怒りに牙を剥いたエヴィの姿がある。

 彼女はその金色こんじきの瞳でイドウォルを睨みつけると、すぐにイダルを助け起こした。

 よく見れば、エヴィの後ろにはスエンの姿もある。が、彼は一族最強と謳われるイドウォルを恐れているのか、大きな岩の陰に隠れてこっそり頭を覗かせているだけだ。……何とも情けない。


『おう、何だ。お前もその人間かぶれの肩を持つのか、エヴィティス? 俺は、お前はもう少し賢いメスだと思ってたんだがな』

『あんたの肩を持つ方が賢いって言いたいなら、あたしは穴蜥蜴ティプ・ドラズィルのままで結構よ。まあ、正真正銘の穴蜥蜴は、今あたしの視線の先にいるけどね』


 まったく怖じる様子もなくエヴィが言えば、イドウォルの眉間がぴくりと動いた。言うまでもなく、エヴィの刺すような眼差しは真っ直ぐにイドウォルを向いている。

 多くの竜人は蜥蜴ドラズィル呼ばわりされることを嫌うが、中でもエヴィが口にした〝穴蜥蜴〟は、竜人が使う侮蔑語の中で最上級のものと言えた。

 本物の穴蜥蜴はこの死の谷にも棲息しているが、彼らには目がない。生涯を岩の麓に掘った暗い穴の中で過ごし、時折巣穴の前を通る虫や鼠を素早く捕まえて生きているだけの小型のトカゲだ。


 つまり〝穴蜥蜴〟とは、〝めくらでつまらないトカゲ野郎〟を意味する非常に過激な侮蔑語だった。

 そんな言葉を吐かれて怒らないやつは、竜人ではない。が、ここでイドウォルの怒りがエヴィに向かうのはまずい、とグニドは思う。

 何故ならイドウォルは、腐っても一族最強の戦士だ。エヴィも群の若いメスの中ではそこそこ優秀な戦士だが、膂力も体格も勝るイドウォルに喧嘩を売って無事でいられるとは思えない。


『エヴィ。お前はイダルを連れて奥に行ってろ』

『嫌よ。あたしは次の長老がそこの穴蜥蜴だなんて耐えられない。糞でも喰らってればいいのはそいつの方だわ』

『いや、だから、エヴィ……』

『先代のご遺志に従うなら、次の長老にはグニド、あなたがなるべきよ。うちの一族は代々そうやって次の長老を選んできた。なら、あなた以外に長老にふさわしい戦士なんて、他にいやしないわ』


 グニドはますます閉口した。エヴィの物怖じしない性格は戦士としての美点だが、それが今は事態を悪い方へ悪い方へと導いているような気がする。

 そのとき、すっかり閑散とした大穴に、低い笑い声が響き始めた。

 その笑い声の主――イドウォルはやがて、鍾乳石が垂れる天井を仰ぎ見るように首を反らし、大笑いし始める。


『いいだろう。そこまで言うならグニドナトス、お前に機会をくれてやる。今すぐここで、この俺と決闘しろ。それでもし俺に勝つことができたら、長老の座をお前に譲ってやる。ついでにお前とそこのメスどもがこの俺に働いた無礼もなかったことにしてやろう。どうだ? やってみるか?』

『げえっ、よりにもよってあのイドウォルと戦うのかよ……!』


 と、そこで早くも怖じ気づいた声を上げたのは、挑戦を申し込まれたグニド――ではなく、岩陰に隠れたスエンだった。

 が、そのスエンもエヴィにぎろりと睨まれるや、たちまち首を竦めて岩の裏手に引っ込んでいく。エヴィの放った殺気が珍しく本物だったので、殺されると思ったのかもしれない。


 しかし、グニドは一瞬悩んだ。スエンのように、イドウォルの力を恐れたわけではない。

 ただ、自分には次の長老となる意思がない。覚悟もない。そんな自分がここでイドウォルの挑戦を受けてしまっていいのかと、そう思ったのだ。


 とは言えイドウォルのような卑怯者を長老にしたくないという思いは、グニドもエヴィと同じだった。

 それにここで自分が勝てば、イダルやエヴィがイドウォルの怒りを買うこともなくなる。彼女たちを守るためにも、ここで引き下がるわけにはいかない。


『……分かった。その決闘、受けて立つ』

『うええええええ!?』


 背後からスエンの絶叫が聞こえた。

 しかしグニドはもう、迷わない。

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