第七十八話 〝神〟と呼ばれるものたち
今は遠い、遠い昔のこと。
鰐人族と呼ばれる鰐の獣人の一族は、無名諸島から遥か遠い大陸の森の中で暮らしていた。その森にはアムン河と呼ばれる大河が流れ、雨もよく降り、息苦しいほどに樹々が密生する景色はこのブワヤ島によく似ていたという。
されど森には河の傍でささやかな生活を営んでいた鰐人族の他にも、複数の部族が点在していた。彼らはみな人間で、初めはそれぞれの縄張りから出ることなく暮らしていたが、やがて新しい土地や他の部族の財産を狙って争い始め、鰐人族も自分たちの縄張りを守るために武器を取るようになったそうだ。
とは言え彼らは見てのとおりの巨体と硬い鱗、そして人並みはずれた膂力を持っている。だから襲いかかってくる人間どもを追い払うのはたやすかったし、濁った河の中に隠れて水中から奇襲するという戦法も得意だったから、人間たちは鰐人族を恐れて次第に勝負を挑んでこなくなった。するとときの鰐人たちは自信をつけて、今度は自分から人間を襲うようになったという。
それまで一方的に襲われてばかりだった鰐人たちの逆襲の始まりだ。
実際彼らの戦いは上手く進み、縄張りはどんどん大きくなった。
鰐人の戦士たちは向かうところ敵なしで、そう遠くない未来、人間は森から駆逐されるのではないかと見る者も多かった。
ところがそんな勢力図を一気に覆した人間の戦士がいる。今も鰐人族の間に〝タリアクリ〟の名で語り継がれるその男は、人間たちが崇める太陽の神を味方につけた神子であり、アムン河の水を一瞬で蒸発させるほどの抗いようのない力でもって他の部族を服従させた。鰐人族も初めは勇敢に戦ったが、あまりに強大な神の力の前では為す術もなく、最後には故郷を捨てて命辛々逃げ出す他なかったという。
かくして大陸の森で暮らすことができなくなった鰐人たちは、大海を泳いで渡る長い長い旅の末、無名諸島に辿り着いた。周りを海に囲まれていることを除けば故郷の森にそっくりな島の景観と気候を気に入った鰐人たちは、喜んでここを新たな故郷とした。が、問題は無名諸島にもまた人間が住み着いていたことだ。
最初の鰐人たちが初めてブワヤ島に上陸したときも、ここには三つの人間の部族が暮らしていた。彼らはいきなり現れた余所者の、しかも人間ですらない鰐人族を当然ながら歓迎しなかった。だが鰐人族としても、ようやく見つけた第二の棲み処を追われたら、また危険な大海を何年もさまよう羽目になってしまう。
旅の間に何人もの同胞を失った鰐人たちは、これ以上一族から死者を出したくないと願った。ゆえに武力を用いて追い出そうとする島の先住民たちと戦い、彼らを淘汰してこの集落──〝イング=ハンユ〟を築いた。
「以来、人間タチハ我々ヲ恐レテ島ニ近ヅカナクナッタ。唯一、フゥナー族ト云ウ一族ガ、島ノハズレデ暮ラシテイルガナ」
「フゥナー族……? ソイツラハ、逃ゲナイカ? 鰐人ノコト、恐レナイカ?」
「フゥナー族ハ、トテモ弱イ部族ダ。鰐人族ガ島ヘ来ル前カラ、他ノ部族ニ貢ギ物ヲスルコトデ、何トカ生キ延ウィテイタ。ソコニ我々ノ祖先ガ来テ、他ノ部族ヲ滅ウォスト、今度ハ鰐人族ニ貢ギ物ヲスルト言ッテキタ。ダカラ、フゥナー族ダケハ襲ワナイデホシイ、トナ」
「ムウ……貢ギ物、カ。竜人モ、ニンゲント、取リ引キシテイル。ニンゲン、竜人ニ、肉、ヨコス。〝奴隷〟ト呼バレル、生キタニンゲンノ肉、ダ。カワリニ、竜人、ニンゲンガ敵ト戦ウトキ、協力スル。ソノ関係ト、似テイルナ」
「ソウダナ。フゥナー族モ時々、生キタ人間ヲ、肉トシテ寄越スコトガアル。ソウスルコトデ、力ノ無イ己等ヲ我々ニ守ラセテイルノダ。愚カダガ、賢クモアル。人間ト云ウノハ、実ニ複雑ナ生キ物ダ」
と、紫色の煙を吐きながらそう言ったのは鰐人族の祈祷師ことヌァギクだった。
先刻グニドの魂の復活という大仕事を終えた彼女は、泥と枯れ枝で造られた洞穴状の巣穴の奥でまったりとくつろいでいる。儀式に使われた小道具などの片づけも粗方終わり、今はクワトがせっせと進める客人歓迎の支度が整うのを待っているところだ。グニドとルルが湖に浮かぶ鰐人族の集落に招待されてから一刻(一時間)あまり。ヌァギクの操る不可思議な術により体の自由を取り戻したグニドは現在、彼女の口から語られる鰐人族の歴史に耳を傾けていた。
ヌァギクが低く嗄れた声で語ってみせる鰐人族の歴史は、獣人と言えば竜人以外知らずに育ったグニドには大変興味深い。
特に自分たちと同じ、体毛の代わりに鱗を持つ獣人が他にもいるなんて夢にも思っていなかったから、彼らのことをもっと知りたいという欲求が尽きないのだ。
というのも竜人と鰐人の似通ったところは〝有鱗種である〟という点のみに留まらない。ヌァギクの話を聞けば聞くほど、グニドは竜人と鰐人の奇妙な類似点に気づいて驚いた。たとえば、そう──眼の構造。鰐人は鱗でできた第一の瞼の内側に、硝子のように透明な第二の瞼を持っている。
彼らが〝瞬膜〟と呼ぶこの瞼は、水中で眼を閉じてもあたりが見渡せるよう発達したもので、グニドら竜人の眼に備わるものとまったく同じだった。もっとも竜人は水よりも砂に潜ることの方が多いから、瞬膜はもっぱら砂の中で閉じるものという認識ではあるが、水中でも充分応用が効くことはグニドも経験から知っている。
また鰐人族はさすが水辺を生活圏としているだけはあり、泳ぎが得意だ。
その証明として彼らの後肢に生えた四本の爪の間には、長い長い進化の歴史の中で授かった水かきが備わっている。これは砂漠で暮らす竜人の後肢にはないもので、恐らく泳ぎの技術では彼らの方に軍配が上がるだろう。
けれども竜人とてまったく泳ぎが苦手というわけではないし、何より潜水が得意だ。それは普段、砂に潜って獲物が通りかかるのを待つ際に呼吸を止める習性があるためで、水中でも同様に息を止めたまま活動できる。
竜人の鼻は砂や水に潜っている間は鼻孔が閉じる仕組みになっていて、何度も砂に潜る練習をしているうちに、長時間無呼吸のままでも平気になっていくのだ。
しかしグニドが驚いたのは、この〝鼻孔が閉じる〟という能力を鰐人もまた有していることだった。彼らは基本的には鼻先を水面から突き出して呼吸したまま器用に泳ぐが、いざ水中に潜ると途端に鼻を閉じて無呼吸になる。そうして水中で獲物を待ち伏せし、目の前を横切る魚や水を飲みにきた獣を捕らえるらしい。
が、体毛を持たない鰐人は竜人と同じで寒さに弱く、水中で長時間じっとしていると体温が下がって凍えてしまうそうだった。
だから冷えると鰐の姿を取って陸地に上がり、大口を開けて日光浴をする。
言うまでもなく、グニドがさっき岸で目にした鰐人の群の正体がこれだ。わざわざ馬鹿みたいに口をあんぐりさせて日を浴びるのは、口内に直接日を当てると体が温まりやすいという利点があるためだとヌァギクは言った。
ついでに森に棲む野鳥を呼び寄せて、口の中の食べ滓や寄生虫を啄んでもらおうという意図もあるとかないとか。灼熱の砂漠で暮らす竜人には縁のない話だが、とは言え狩りの仕方や寒さに弱いという弱点まで似通っているとなると、グニドはもはや彼らに親近感を覚えずにはいられなかった。
「ムウ……シカシ、気ニナルコト、モウヒトツ、アル。無名諸島ノ先住民ハ、大陸ノニンゲンノ言葉、ワカラナイト聞イタ。クワトモ、ニンゲンノ言葉、話サナイ。ナノニ何故、オマエハ話セルカ?」
「我ハ占者……数多ノ生キ物ノ魂ヲ取リ込ミ、ソノ力デ一族ヲ導ク者ダ。ダガ他者ノ魂ヲ取リ込ムト、元ノ持チ主ノ記憶ガ一緒ニ入ッテクル。我ハ昔、大陸ノ人間ノ魂ヲ取リ込ンダ。大陸ノ言葉ヲ話セルノハ、其奴ノ記憶ノ御陰ダ」
「魂ヲ、取リ込ム……ナラバ、サッキ、オマエガ生贄ニシタ、猿ノ魂モ、カ? オマエハ、アノ猿ノ記憶モ見タカ?」
「否。贄ノ魂ヲ取リ込ンダノハ、我デハナク汝ダ、グニドナトス。故ニ今後暫クノ間、汝ハ猿ノ記憶ト共ニ在ルダロウ。シカシ案ジルコトハ無イ。小サナ獣ノ記憶程度ナラバ、慣レレハ如何ト云ウコトハ無イカラナ」
ヌァギクは相変わらず眠たそうな瞼をゆっくりと瞬かせながら、こともなげにそんなことを言った。が、グニドの方は予想外の答えに仰天し、思わず衣服の上から自分の体のあちこちを触ってみる。
あの猿とかいう仔人に似た獣の魂が、自分の中に──?
そう言われてもにわかには信じ難かったが、しかし例の儀式のあとからグニドがもとどおり動けるようになったことはまぎれもない事実だった。
そもそもグニドが自力で起き上がることすらできなくなっていたのは魔女であるマドレーンに魂を半分盗られたからで、それが再び動くようになったということはすなわち魂の傷が癒えたということだ。そしてヌァギクの話を信じるならば、欠けてしまったグニドの魂の傷を埋めたのが生贄となった猿の魂、ということらしい。
ならば自分は今後猿が生きていた頃の記憶を見たり、知らぬ間に猿と行動が似てきたりするのだろうか。今のところは特に異変はないものの、もしそうだとしたらあまり想像したくない自分の姿が脳裏に浮かんで、グニドはぶるりと身震いした。
「ホ……本当ニ、大丈夫カ? オレデモ、自分デナイモノノ魂ニ、慣レルコトデキルカ……?」
「難シク考エルコトハ無イ。タダ、己ハ己以外ノ何者デモナイト、気ヲ確カニ持ッテイレバ良イダケダ。特ニ汝ノ魂ハ、並外レテ強靭ナヨウダシナ」
「……? ソウナノカ?」
「噫。デナケレハ、魂ノ半分ヲ失ッタ状態デ、クワトニ勝テル訳ガナイ。仮令、魔女ノ力ヲ借リタトシテモ、ダ」
「確カニ、クワト、トテモ強カッタ。一歩、間違エバ、オレ、負ケテイタ」
「ダガ汝ハ勝ッタ。クワトハ、当代ノ一族最強ノ戦士ダ。彼奴ハ幼少ノ頃カラ負ケタコトガ無イ。故ニ、初メテ己ヲ負カシタ汝ヲ持テ成シタクテ仕方ガナイヨウダ」
と、不思議な煙の出る管を片手にヌァギクが言うので、グニドは思わず巣穴の入り口を顧みた。そこでは例の儀式のあと、ひょっこりと戻ってきたクワトが水際で火を熾こし、彼の身の丈よりも巨大な魚を捌いている。
クワトが最初にあの魚を抱えて水の中から現れたときにはさしものグニドも度肝を抜かれたが、何でもあれは〝フィラルク〟といって、鰐人たちが祝いごとや祭りのときに食べる特別な大魚らしかった。体長は半枝(二・五メートル)以上もあり、興奮したルルが「すごい! グニドよりおっきい!」と飛び跳ねていたほどだ。顔はやけに平べったく、鰭がなければ獲物を丸呑みにした直後の蛇と見間違えそうなほど胴の長い魚で、鱗のところどころにある赤色の斑模様が目を引いた。
さらにヌァギクの話によれば、フィラルクは魚のくせに獣人ともそう変わらぬほど長生きするらしい。
ゆえに鰐人たちの間ではフィラルクの肉を食べると不老長寿になれると固く信じられているとか。そんな大層な魚をクワトは何故余所者の自分に振る舞おうとしてくれるのか、グニドは内心不思議だったのだが、ヌァギクの話を聞く限り、向こうも見慣れぬ獣人に興味津々ということだろう。聞けばクワトはまだ脱皮を終えて間もない若者で──そう、なんと鰐人も脱皮をするのだ!──以前からずっと自分よりも強く、さらなる高みへ導いてくれる存在を求めていたのだという。
「我々鰐人族ハ何時ノ世デアレ、強キ者ニ従ウ。故ニ、クワトハ幼キ頃から皆ニ敬ワレテキタガ、一方デ、己ヲ対等ニ扱ッテクレル相手ガ居ナカッタ。要ハ、孤独ダッタノダ。ダカラ、ズット、己ヨリ力ノ優レシ者ヲ探シテイタ」
「ムウ……ダガ、オレ、クワトヨリ、ズット年上ダ。ナラバ強イノ、アタリマエ。ソモソモ、オレハ、鰐人デハナイ。ダカラ、ズットココニ居ルコト、デキナイゾ」
「ソウダナ。ダガ、クワトトテ、ソレハ解ッテイヨウ。今ダケハ、彼奴ノ好キナヨウニサセテヤレ」
ヌァギクがそう言って見つめる先では、薄く切ったフィラルクの身を串に刺したクワトが、図体に似合わぬ繊細な手つきで慎重に魚肉を炙っていた。
隣ではそうしたクワトの作業を、ルルが身を乗り出して覗き込んでいる。
初めはデカくて凶悪そうな鰐人の見た目に怯えていたルルも、ヌァギクの儀式によってグニドが復活すると、彼らに対する警戒心をいくらか緩めたようだった。
未だおっかなびっくりという様子ではあるものの、見たことも聞いたこともない種族の暮らしに興味が尽きないらしく、先程もヌァギクの許しを得て、彼女の巣穴で飼育される生き物に餌やりをしていたほどだ。
そして今はクワトがフィラルクを調理する様を熱心に観察し、時々魚肉を串に刺す作業を手伝ったり、クワトを真似て火で炙ってみたりしていた。
一方、クワトもルルが鰐人を恐れないと知るや笑って鰐人語で話しかけ、身振り手振りで上手い串の刺し方を教えたり、炙るときの角度を指南したりしている。
意図してそうしているのかどうか、ルルもクワトに話しかけるときは竜語を発していて、言葉はまったく通じていないはずなのに、ふたりは何だか歳の離れた兄妹みたいに見えた──実際はルルの方が若干年上なのだが。
「フン……シカシ、面妖ダナ。竜人ニ育テラレタ人間ノ子カ。汝ハアレガ如何云ウ子供カ、解ッタ上デ共ニ居ルノカ?」
「ウム……ルルハ、ニンゲンガ〝預言者〟ト呼ブ者ダ。生マレタ時カラ、精霊ト言葉ヲ交ワス力、持ッテイル。トテモ、特別ナニンゲンダ」
「噫。デハ、質問ヲ変エヨウ。グニドナトス。汝ハ〝精霊〟トハ何カ、真ニ理解シテイルカ?」
「ジャ?」
「我々ハ其ヲ〝ロー〟ト呼フ。島ノ人間タチハ〝マヌ〟ト呼フ。此等ハ、大陸ノ人間タチガ〝精霊〟ト呼フ存在トハ違ウ」
「アァ……ソウダ。ニンゲンハ、精霊ノコト〝神〟ト呼ブ。ダガ、ニンゲンノ信ジル〝神〟ト、竜人ノ信ジル〝精霊〟、ドコカ違ウ」
「当然ダ。人間ガ〝神〟ト呼フ〝アレ〟ハ、イヅレ人類ヲ滅ウォス者ダ。シカシ、我等ガ信仰スル精霊ハ違ウ。アレ等ハ最初カラ此ノ大地ニ居タ。アノ子供……ルルアムスガ居ルノハ、如何ヤラ其方側ノヨウダ。恐ラク、神ヲ信ジヌ汝等ノ傍デ育ッタガ為ニ、神デハナク、精霊ノ声ヲ聞クヨウニ成ッタノダロウ」
刹那、湖から風が吹き込み、巣穴の奥に座り込んだヌァギクの装身具をシャラシャラと鳴らした。大小様々、色とりどりの石や骨や木彫り細工がでたらめにつながれたそれらの揺れ動くさまに、グニドは目を奪われる。
──人間の信じる神々は、いずれ人類を滅ぼす者?
そうしてヌァギクを凝視しながら、グニドはたったいま彼女の口から紡がれた衝撃の事実に絶句した。
彼女の話が真実ならば、やはりグニドがルエダ・デラ・ラソ列侯国で正義の神と邂逅したときに感じた〝これは精霊ではない〟という直感は正しかったのか。
ヌァギクの話を聞く限り、グニドら竜人族が古くから信仰してきた精霊たちは、彼女らが〝ロー〟と呼ぶものに近い。人間が〝精霊〟と呼んでいるのは神と人間の精神をつなぎ、神術を使うための力の受け渡しをする存在だとラッティから聞かされたことがあるが、グニドの知る精霊は違う。
彼らはヌァギクの言うとおり、この世界を創り給うた原初の存在だ。
そして人間たちの信じる神々のように気安く人前に現れたり、地上の物事に干渉したりはしない。彼らはただそこに在り、世界の理を司り、その上で生きるすべての生命の営みを見守るものたち──目に見えず、触れられず、されど確かに存在していて、風を起こしたり水を湧かせたり大地を形作ったりするものだ。
(だが……それならルルが生まれたときから聞いているのは、カルロスたちが言っていた〝神の言葉〟じゃない。あいつは意思や言葉を持たないはずの、精霊の声なき声を聞いているのか)
そう言われて初めてグニドはすべてが腑に落ちた。
これまでも人間たちが信じる神とルルの言動はいまいち結びつかないように感じていたが、彼女は神の言葉ではなく、原初の精霊たちの囁きを聞いていたのだ。
ルルが何故そのような力を持って生まれたのかは分からない。
だが少なくとも彼女が神の言葉を聞き、彼らの意思に従っているのなら、今頃は自ら神のもとへ行きたがり、グニドの手を離れていたことだろう──何せツェデクはルルの力を欲している様子だったから。
しかしそうなると、人間が〝神〟と呼ぶものたちは何のためにルルを攫おうとしているのだろうか。
彼女の胸に刻まれた神刻……神が求めているのはもしやルル本人ではなく、エレツエル神領国の人間が〝万霊刻〟と呼んでいたというアレの方なのか?
いや、それ以前の問題として、
「ヌァギク」
「ヌ?」
「ヒトツ、訊キタイ。今、オマエノ言ッタコトガ、本当ナラバ──ニンゲンガ〝神〟ト呼ンデイル、アレハ何ダ?」
ただでさえ重たそうな瞼が垂れたヌァギクの眼が、瞬間、すうっと細められた。
彼女のその反応を見てグニドは確信する。目の前にいる偉大なる祈祷師は、あの〝神〟と呼ばれるものたちの正体を知っている。
「……ソウダナ。汝ハ知ル必要ガアル。アレハ──」
「ギャーーーーーーーーッ!?!?」
ところがヌァギクがおもむろに口を開いた直後、彼女の言葉を遮るほどの甲高い悲鳴が轟き渡った。驚いたグニドが何事かと首を巡らせれば、巣穴の入り口にいるルルとクワトもびっくりした様子で手を止めている。彼らの視線を辿る限り、どうやら今の悲鳴は巣穴の外、岸の方から聞こえたようだ。
「あ、ああ、あ、お、お助け、お助けぇぇえーーーっ!! オイラは喰ってもうまくないから!! ただの無害でちっぽけなネズ公だからぁ!! つーかラッティ、やっぱ無理だって帰ろうぜ逃げようぜそうしよう!! きっとグニドもルルもコイツらに食われちまったんだよぉ!!」
「だーっ、うっさい! ヴォルク、ちょっとヨヘンを黙らせといて! カヌヌ、通訳してくれよ、コイツらはなんて言ってんだ!?」
「む、無理デスヨ! 鰐人族のコトバ、ボクたちの話すコトバと違うネ……! だ、だからこうやって、まずは敵意がないことを示さないと……」
「──グニド! あっちにラッティたちがいる!」
……どうりで聞き覚えのある悲鳴だと思った。
グニドは水際から身を乗り出したルルが岸を指差して叫ぶのを聞きながら、やれやれと首を振った。どうやら浜辺に残してきたマドレーンたちから話を聞いて、獣人隊商の仲間がグニドとルルを探しにきたようだ。ということはラナキラ族とやらとの交渉は無事に済んだのだろうか。グニドはのそりと立ち上がると、自分もヌァギクの巣穴から首を伸ばして岸辺を見やった。そこでは森から現れた余所者たちを、群をなした鰐人たちが威嚇しながら取り囲んでいる。
「アー……ヌァギク。少シ、向コウ、行ッテキテモ良イカ?」
「フン。迎エガ来タカ」
「ウム。オレト、ルルノ、旅ノ仲間ダ。トテモ、騒ガシイヤツラダガ──迷惑デナケレバ、オマエタチニモ、紹介シヨウ」