第七十七話 偉大なるヌァギク
──で、何がどうしてこうなったのだろう。
『グニド……ルルたち、どうなるの? このままククに食べられちゃうの……?』
『いや、さすがにそれはないと思うが……』
『でもマドレーンたち、もう見えないよ? 道もうねうねしてて、帰りかた、ぜんぜんわかんないよ……』
『あ、ああ、だが大丈夫だ。いざとなったら潮のにおいを頼りに逃げればいい……そのときまでにおれの体が動くようになっていれば、の話だが』
『うぅっ……グニド、いたいのいたいのとんでけっ……!』
『いや、だからどこも痛くは……はあ……もういいか……』
などというやりとりを背中の上のルルと交わしながら、グニドはずんずん運ばれていく。誰にって、もちろん行列を組んで森の中を突き進む鰐人族の一団に、だ。
浜辺でクワトとの相撲に勝利したのは今から半刻(三十分)ほど前のこと。
グニドは言葉が通じないながらも相撲を通してクワトに認められ、どうにかこうにか鰐人たちからの敵意を削ぐことに成功した。
グニドの読みどおり、どうやらクワトは鰐人族の中でもかなり高い地位にいるようで、相撲に負けると潔く同胞に武器を収めるよう指示を出したのだ。だが問題はそのあとだった。ブワヤ島へ着く直前、マドレーンに魂の半分を捥ぎ取られていたグニドは勝利にほっとしたのも束の間、突然気が遠くなって浜辺に崩れ落ちた。
理由は言わずもがな魔力切れだ。
動かない体をマドレーンの魔法で無理矢理動ける状態にしていたグニドは、術が切れるや否や泥人形のごとく砂に沈んで起き上がれなくなった。するとそれを見たクワトが慌て出し、しばらく鰐人族の言葉で何事か騒いでいたかと思えば、同胞に命じて森の奥から網に棒を結びつけた担架のようなものを持ってこさせたのだ。
抗弁も虚しく、身動きの取れないグニドは屈強な鰐人たちに両脇から担ぎ上げられて担架に乗せられ、森の中へと運び込まれることになった。
ついでにルルまで乗っているのは、グニドが為す術もなく連れ去られようとしているのを見て止めに入ったからだ。
彼女は大人のマドレーンたちでさえ鰐人族の巨躯を恐れて立ち竦む中、ただひとり彼らの前に飛び出して『グニドをたべないで!』と立ち塞がった。
すると鰐人たちは顔を見合わせ、何を思ったかルルをひょいと摘み上げたのだ。
列侯国で人間に飼われていた猫みたいに首根っこを掴まれ、軽々と持ち上げられたルルは、そのまま担架にうつぶせにされたグニドの背に乗せられた。……理由はよく分からないがたぶん、彼女がグニドと同じ言語を話していたせいだろう。
かくしてグニドとルルはふたり揃って逞しい鰐人たちに担ぎ上げられ、現在森の中にいる。グニドに続いてルルまで攫われそうになっているのを認めたマドレーンたちは、さすがに得物に手をかけてクワトらを止めようとしたが、すんでのところでグニドが宥め、お前たちはラッティの帰りを待てと伝えて置いてきた。
クワトらが自分をどこへ運ぼうとしているのかはさっぱり見当がつかないものの、とりあえず彼らに害意はないと何となくそう思えたからだ。
仮にこちらを食糧と見なしたのなら多勢に無勢のマドレーンたちを差し置いて、いかにも食べにくそうなグニドだけを連れていこうとする意図が分からないし。
『……しかしここはずいぶん騒がしい森だな』
と、四人の鰐人が担ぐ担架に揺られながら、グニドは眼だけで頭上を見上げてみる。そこには列侯国でさえ見かけなかった毛むくじゃらの仔人のような生き物がいて、キーッ、キーッと甲高い声を上げながら足場の枝を揺らしていた。
さらに鰐人たちが縦列を組んで進む道なき道の左右からも、とんでもない数の鳴き声が聞こえてくる。あの毛むくじゃらの仔人の声ともまた違う、多種多様な鳴き声の洪水だ。濃い緑に覆われて生き物の姿はどこにも見えないのに、ジリリ、ジリリリとかギャコギャコギャコギャコとかグワーォ、グワーォとか、とにかく色んな声が繁りすぎた木々の間に響いていた。
『……ここ、ホルトがいっぱいいる。森がうるさいの、そのせいだよ。ホルトがたくさんいると、水も食べものもいっぱいだから、だからすごくうるさいの』
『ホルト?』
『うん。ホルトはね、アメルとエオルドがイールトに入ったやつのこと。ここ、イールトがたくさんだからホルトもいっぱいなの』
『……?? いや、確かにこの島は樹木だらけだが……〝アメルとエオルドが樹木に入ったやつ〟って?』
『んー、アメルはアメルで、エオルドはエオルドだよっ! 前にルルに神術の使いかたおしえてくれたの、風だって言ったでしょ? アメルとエオルドもビレの友だちみたいなので──』
「──ィヤ、タヌー。イキ・ニナングカ・オナァク」
ところがルルが拙い語彙で何かを説明しかけた刹那、彼女の言葉を遮って突然クワトが声を上げた。
行列の先頭を歩いていた彼はこちらを向いて足を止めるや、行く手に垂れる木々の梢をゆっくりと手で払う。そうして開かれた視界の先に見えたのは、
『ふわあ……!』
直前までの話も忘れ、グニドの背中から身を乗り出したルルが歓声を上げた。
同じくクワトの肩越しに梢の先を見やったグニドも絶句する。
何故ならあれは──泉か?
いや、ただの泉にしては大きすぎる。池……否、それよりもっと大きい、湖だ。
ラムルバハル砂漠の地下、大地の肚に点在するどの地底湖よりも広大な地上の湖。しかも普通の湖ではなかった。茶色く濁った水の上にはぽつんぽつんと突き出た地面があって、その地面の上に変なものが屹立している。
鰐人族の身の丈より大きな泥の山に、枯れ草や枯れ枝を手当たり次第撒き散らしたような奇妙な物体だ。目を凝らせば物体の一方には四十葉(二メートル)ほどはあろうかという口が開いていて、ちょっとした洞穴の様相を呈していた。
そして穴の向こうには網状の何かを繕っている鰐人がいたり、槍を研いでいる鰐人がいたり、向かい合って座っている鰐人がいたり……。
『……もしかして、あれがお前たちの巣か』
言葉は通じていないはずなのに、改めてこちらを顧みたクワトが頷いた──ような気がした。グニドを担いだ一行が森を抜けると、そこには剥き出しの地面が三日月状に広がっていて、あちこちに黒くて巨大な謎の生物がいる。
どいつもこいつも腹這いになって地面に寝そべり、日の射す方に向かってあんぐりと口を開けているのは……もしや鰐人族か?
いや、しかしそれにしては手足がずいぶん短いし、寝そべった姿は人というより蜥蜴に似ている。あんなにでかい蜥蜴は巨大生物がうようよしていたラムルバハル砂漠でも見たことがない……が、長く突き出した上顎にずらりと並んだ牙や、背中から石炭が生えているかのような鱗はやはり鰐人にそっくりだ。
(ということは、もしやあれは鰐人族が獣化した姿か)
そう言えば先刻マドレーンが鰐人族のことを〝ワニと呼ばれるトカゲの獣人〟と言っていた。彼らがもし狐人や狼人のように獣化することができる種族なら、人型とは似て非なるあの姿にも納得だ。揃いも揃って何故バカみたいに口を開けたまま動きを止めているのかは不明だが、しかしあれもまた鰐人族であると推測するならば、ここは彼らの集落と考えて間違いなさそうだった。
現に口をあんぐりさせたまま動かない鰐人の間には人型を取ったかなり小さな鰐人もいて、彼らは森から現れたクワトを見るなり大はしゃぎで駆け寄ってくる。
体高四十葉を越えるクワトの腹までしか身の丈がないその鰐人たちは、痩せ型の体に比べて頭が大きく、特に眼がやたらとギョロッとしていた。
恐らくは鰐人族の子供なのだろうが、彼らは担架に乗せられてやってきたグニドとルルを見るなり甲高い声を上げて騒いでいる。相変わらず何を言っているのかはさっぱり聞き取れないものの、きっと森から戻った大人たちを「これは何!?」とか「食べられるの!?」と質問責めにしているのだろう。
「ィヤ、ダディ・ホカフ・スィング・アフィキ。ドゥ・ヘウェケ・ファンケン・タヌー。アク・ハカル・ンジュク・ヌハ=ヌァギク」
ところが直前まで飛び跳ねんばかりに興奮していた鰐人の子供たちは、クワトが諫めるような口調で口を開くや、途端にピシッと背筋を伸ばして大人しくなった。
眼窩から飛び出した大きな眼だけは未だ興味津々にグニドとルルを見上げているものの、恐らく「静かにしろ」とでも叱られたのだろう、まだ牙の生え揃っていない上顎と下顎をピッタリと閉じている。
そんな彼らを見下ろして満足げに頷いたクワトはすぐに後続の仲間を促した。
かと思えば彼は先陣を切ってざぶざぶと、着の身着のまま湖へ入っていく。
『わ、わ……! グニド! ルル、およげないよ!?』
さらにそのクワトに続き、担架を担いだ四人の鰐人も迷わず湖へ歩を進めた。
そうして濁った水面がみるみる迫ってくると、怯えたルルがグニドの背中の一番高いところに上り、ぐいぐいと鬣を引っ張ってくる。けれど心配は無用だった。
水中にはたくさんの泥が舞っているため、一見しただけでは深さが分からないものの、鰐人たちは担架を器用に水上へ突き出したまま泳いでいる。いや、あるいはこの湖はグニドが思うほど深くはなくて、底に足がついているのだろうか?
おかげでグニドもルルも濡れずに済みそうだが、しかし足がつくほど水深が浅いなら、湖のあちらこちらで鰐人たちが眼と鼻だけを水面から突き出しているのは何故だろう。水底に足をつけばきっとあんなに水に浸かる必要はないだろうに、彼らはわざわざ眼と鼻以外の部位を水中に隠して移動している。
水面のあちこちに眼だけが浮いている光景は、正直ちょっと不気味だった。
「ヌハ=ヌァギク、アク・ンッガワ・タヌー」
ほどなく水中を渡った鰐人たちは湖の中ほどに浮かぶ泥山のひとつに上陸する。
そこは湖上に浮かぶどの島よりも大きく、巣穴もかなり広々としていた。
そして穴の中には一際奇妙な見た目の鰐人がいる。オスかメスかは分からないが、腕やら首やらにやたらじゃらじゃらと装飾品をぶら下げた派手な鰐人だ。
いや、腕や首だけじゃない。果ては牙にまで色とりどりの飾り珠がついた紐状の装飾品を括りつけていて、彼──または彼女──がゆっくりこちらを振り向くや、下顎から垂れた何本もの紐がぶつかり合って音を立てた。瞬間、グニドは本能で察知する──あれは恐らく竜人の群でいうところの祈祷師だろう、と。
一族を守り繁栄させるための祈祷やまじない、占いを得意とする精霊たちとの交信役。竜人らが〝祈祷師〟と呼んでいた彼らは群の中で長老に告ぐ発言力を持ち、いつも体中を呪術的な文様や装身具で飾っていた。今、目の前でクワトが恭しく頭を垂れている相手の姿は、そんな谷の祈祷師を彷彿とさせる。
眼はやたらと眠そうで、長い口の先に煙の出る管みたいなものを咥えているのは気になるものの、生き物の骨や不思議な色合いの石がたくさん括りつけられた装身具は、いかにもまじないの力を秘めていそうだった。ところが次の瞬間、
「……ホウ。大陸ノ鱗ノ民トハ珍シイ」
嗄れた声で突如紡がれた言語に、グニドとルルは揃って目を見張った。
今の言葉はまぎれもない人間の言葉だ。発音はいささか拙いが、目の前の眠そうな鰐人がなんと言ったのか、グニドにもルルにも確かに分かる。
「オ、オマエ、人間ノ言葉、ワカルカ? オレタチト、話セルカ?」
「噫。少シナラ話セルゾ、客人ヨ。シカシ此ノ里ニ竜人ガ訪ネテクルトハナ……クワト、テテフ・アドーフ。ナン・ギング、サヌヘャン・ヒサ・ウガ・テテフ」
まったく予想外の展開だった。まさか鰐人族の中にも人語を解する者がいるとは夢にも思わず、グニドとルルが揃って唖然としている間に、ふたりを乗せた担架がゆっくりと地に降ろされた。かと思えば担ぎ手をしていた四人はクワトに何事か命じられ、派手な身なりの鰐人に一礼するや再び水中へと帰っていく。
巣穴に残されたのはグニドとルルとクワト、そして派手な装いの鰐人だけだった。あの鰐人をなんと呼べばいいのか、グニドが腹這いになったまま困っていると、クワトが身振り手振りを交えて「ドゥ・ヘウェケ・ヌハ=ヌァギク」と話しかけてくる。何を言っているのかと視線を上げれば、彼はさらに派手な鰐人を示して「ヌハ=ヌァギク。ヌハ=ヌァギク」と同じ言葉を繰り返した。グニドはそこでようやくクワトが何を言わんとしているのか察し、改めて奥の鰐人に向き直る。
「〝ヌハ=ヌァギク〟。ソレガ、オマエノ名前カ?」
「否。〝ヌァギク〟トハ、代々コノ里ノ占者ニ与エラレル名ダ。故ニ我ノ名デハナイガ、皆ニハ、ソウ呼ワレテイル」
「デハ、オレタチモ〝ヌァギク〟ト呼ンデイイカ?」
「好キニスルトイイ。汝等ノ名ハ?」
「グニドナトス。オレノ名ハ、グニドナトス、ダ。背中ニ乗ッテイルハ、ルル、トイウ。オレハ竜人ダガ、ルルハ、ニンゲンダ」
「見レバ解ル。人間ト竜人ノ親子カ。随分ト珍奇ナ取リ合ワセダナ……」
依然眠たそうに瞬きしながらそう言って、ヌァギクと呼ばれているらしい鰐人は咥えていた細長い管を手に取った。直後、牙という牙の間からフゥーッと紫色の煙を吐いてあたりに撒き散らす。煙はまるで意思を持った生き物のようにぶわりと広がり、風もないのに巣穴の隅々まで行き渡った。何とも譬え難い不思議なにおいの煙がグニドの鼻孔をくすぐり、かと思えば突然ルルがバッと己の両耳を塞ぐ。
「ルル?」
「……きこえない」
「ジャ?」
「アメルの声も、ホルトの声もきこえない。きこえなくなった! なんで……!?」
「フン……精霊タチガ余リニ煩イノデナ。少シノ間、遠ザケタ。島ガズット騒ガシカッタノハ汝ノセイカ、選ワレタ子ヨ」
やはりひどく嗄れた声で言いながら、ヌァギクは横目にルルを見た。
ふたりが何の話をしているのかグニドにはよく分からないものの、ひとつだけ推測できたことがある。それはこのヌァギクなる人物は恐らくメスで、しかもかなりの高齢だろうということだ。何故ならば喉のあたりでガラガラと鳴るヌァギクの声は年老いた竜人のメスに似ていた。さらに筋骨隆々で若々しいクワトに比べると、鱗はややくすんでいて艶がない。竜人も歳を取ると鱗が色艶を失くし、全身が色褪せたようになるから、きっと鰐人族もそうなのではないかと思えた。
「……トコロデ、グニドナトス。ドウヤラ汝ハ魂ガ欠ケテイルナ。動ケナイノハ、ソノ所為ダロウ」
「〝ジワ〟……トハ、魂ノコトカ? ダトシタラ、ソウダ。オレハ、魔女ニ、魂、盗ラレタ」
「フン。故ニ、クワトハ汝ヲ此処ヘ連レテ来タカ。イイダロウ。デハ特別ニ力ヲ貸シテヤル」
と、手にした煙管を小さな石の上に置きながら言い、ヌァギクは水掻きのついた後肢でおもむろに立ち上がった。彼女が鰐人族の言葉で話しかけるとクワトは頷き、次いでグニドに何事か言葉をかけてから、背中をぽんぽんと叩いてくる。
ほどなく彼は先の四人の鰐人と同じく湖中へ消えた。さっきの仕草はグニドを安心させようとしてのものだったのだろうか。何となく「すぐに戻る」と言われたような気がして、彼が巣穴を去ってもグニドは動じなかった。一方、巣に残ったヌァギクは「少シ待テ」とだけ言って、奥にある蓋つきの箱を漁り出す。
何かの植物で編まれたと思しい大きな箱だった。ルルくらいならすっぽり隠れられそうで、中身が気になるのか、彼女もグニドの背から伸び上がっている。
やがてヌァギクが取り出したのは、彼女の大きな掌にようやく収まるほどの真っ黒な石だった。かなり磨き込まれているのか表面には光を弾くほどの光沢があり、ヌァギクはぶつぶつと何か唱えながらその石を四つ、順々にグニドの周りに置いていく。さらに箱の横には大きな布を被った物体があって、ヌァギクはそちらに手を伸ばした。彼女が布を引き剥がすと、現れたのは木で組まれた小さな檻だ。
壁際にいくつも積まれた檻の中には色んな生き物がいて、布が取り払われるやにわかに動き出したり騒ぎ出したりした。さっき森で見かけた仔人に似た獣や目を疑うほど大きな蛙、毒々しい見た目の蛇に深い青色の羽が美しい鳥もいる。
ヌァギクはそこから最も騒がしい毛むくじゃらの仔人の檻を選び取るや、把手を持ってグニドの傍まで運んできた。檻の中の獣は忙しなく動き回りながら、なおも「ギィーッ、ギィーッ!」と歯を見せて威嚇の声を上げている。
「オイ。コレハ、ナンダ?」
「猿ダ。人間タチノ言葉デハ〝サル〟ト云ウ」
「サル……ハジメテ見ル獣ダ。小サイガ、人ニ似テイル」
「噫、ダカラ此奴ヲ使ウノダ。ルル、ト云ッタカ。シバシ離レヨ。汝ガ其処ニ居ルト儀式ガ出来ナイ」
ヌァギクから手で追い払うような仕草をされたルルは、少し不安げにグニドを一瞥したのち、やがておずおずと背中を下りた。
そうして所在なげにしているルルに、ヌァギクは奥にある敷物──例によって草を編んだだけのものだが──を示す。そこに座っていろということらしい。
言われるがままルルが敷物の上にちょこんと腰を下ろすと、ヌァギクは最後に腰の物入れから小さな袋を取り出した。それを泥を焼いて作ったと思しい皿の上に傾ければ、中から薄緑色の粉が注がれる。ヌァギクはその粉を皿の上で山の形に整え、グニドの鼻先にそっと置いた。一体何が始まろうとしているのか、グニドにはさっぱり分からないものの、これにて準備は完了のようだ。
「ロー、ロー。ナンッガ・クヌフル・ナガンゴ・ドゥリジ」
すべての支度を終えたヌァギクが、長い長い息を吐いたあとに鰐人語で何事か呟いた。すると彼女が宙に掲げた右手の指先に、突如ボッと明かりがともる。
否、ただの明かりではなかった。とても小さいが、彼女の鋭い爪の先にともったのは炎だ。今のたった一刹那でどうやって火を熾したのだろうか。
驚愕のあまりグニドが絶句していると、彼女はゆっくり身を屈め、炎を皿へ近づけた。皿の上で小さな山を作った緑の粉が天辺からジリジリと燃え始め、細い煙が立ち上る。先刻ヌァギクが吐き出したのとは違うごく普通の煙だが、やはりグニドが今まで嗅いだことのない、スーッと抜けていくようなにおいがした。
「ロー、ロー。アヨ・コルファン。クヌフル・イング・ケネ」
次いでヌァギクは腰に吊っていた筒のようなものを手に取ると、栓を抜いて檻へ近づく。牙を剥いて威嚇する猿の上で彼女が筒を傾け揺らせば、中から飛び出した液体がビシャビシャと降り注いだ。
液体は透明で一見水のようだが、においですぐに酒だと分かる。筒の中身が空になるまで酒を振りかけられた猿の毛皮は、言うまでもなくずぶ濡れだった。
いきなり謎の液体をかけられ、怯えた猿は檻の隅で身を縮めてしきりに濡れた頭を拭っている。ところが次の瞬間、ヌァギクは檻を開けてすかさず猿の頭を掴み、力づくで引きずり出した。いきなり巨大な鰐の獣人に捕まった猿はまたも大声で喚き出し、必死に逃れようと暴れている。
されどヌァギクはびくともせずに猿を連れてグニドの前までやってくるや、もう一方の手で今度は猿の首を掴み──ボキリ、とすさまじい力で頭を捩じ切った。
「ひっ……!?」
と怯えたルルが奥で口を覆っているが、ヌァギクは気にも留めない。
頭を取られ、途端にだらんと弛緩した猿の胴体を逆しまに持ち、彼女は首から滴る血を四隅に置かれた黒石に振りかけた。そうして四つの石が血まみれになったのを確かめるや満足げに頷き、最後は猿の頭と胴をそれぞれ丸飲みにする。鰐人の大きな顎にかかれば、片手で持ち上げられるほど小柄な猿などひと口だった。
「ロー、ロー。アク・ヌェネヒ・サヌヘャン・コルファン。トゥルンギ・ドゥ・ヘウェケ。トゥルンギ・ドゥ・ヘウェケ……」
かくして両腕を広げたヌァギクは、歌うように何か唱えながら小刻みに体を揺らす。すると彼女の体のあちこちから垂れる装身具がぶつかり合い、ガラガラ、シャラシャラ、コロコロと聞き取れないほど無数の音色を奏でた。
そしてそれらの音色に呼び起こされたかのように、刹那、グニドの周りに置かれた黒い石が発光する。目を疑う光景だった。四つの石はぼんやりと淡い光に包まれたかと思えば、みるみる端から色を失い、やがて真っ白な石になった。
新月の夜を固めて生み出されたようだったあの石が、だ。
──この祈祷師はとんでもない力を持っている。
グニドが驚愕と共にそう悟った直後、異変は起きた。ふと自身の手に目をやれば、真っ白になった四つの石と同じく鱗が淡い光に包まれているのだ。仰天して逆の手も見てみるが、同様に白く発光している。まるで四つの石とグニドの体が同調しているかのようだった。そしてその見立てはあながち見当はずれではなさそうだと気がついたのは、白熱した四つの石がさらに白く燃え上がると同時にグニドの体もカアッと熱を帯びたときだ。熱い。臓腑という臓腑が煮えている。しかし不思議と苦しさはない。むしろ体の隅々までみなぎってくる──生命の力。
「アク・ヌァトゥル・ヌゥン」
やがてヌァギクが踊るような動きを止め、胸の前で手を合わせると、グニドを包んでいた光が吸い込まれるように消えた。かと思えばパキンと甲高い音がして、同じく光を失った四つの石に亀裂が入る。白熱をやめた四方の石は、再びもとの真っ黒な石に戻っていた。しかし役目を終えたそれらはあっという間に砕け、粉々になり、小さな猿の血溜まりの上に無惨な残骸を晒している。
「モウ動ケルゾ、グニドナトス」
そうして訪れた静寂ののち、ヌァギクが言った。
「贄ノ魂ヲ汝ニ与エタ。精霊ト全テノ生命ニ感謝セヨ」