第七十六話 竜 VS 鰐
首をもたげてざっと見ただけでも、二十から三十くらいはいた。
何がって、あの石炭の化け物みたいな獣人だ。
島の森から突如現れた彼らは手に手に槍を持ち、竜人の顎よりも大きく裂けた口を開けて威嚇の吼え声を上げている。あいつらは一体なんだ?
マドレーンに魂を半分盗られたせいで動けず、砂浜に埋もれたままのグニドは連中を凝視しながら固まっていることしかできなかった。
傍らではやつらの恐ろしい見た目と咆吼に怯えたルルが縮み上がっていて、エクターやマドレーンも反応に困っているようだ。
「あれは……恐らく鰐人族ね」
「クク族?」
「ええ。私も本物を見るのは初めてだけど、むかし文献で読んだことがあるわ。無名諸島に棲息する唯一の獣人で、ご覧のとおり鰐の強靭さと獰猛さを併せ持つ危険な種族だとか」
「ワニ……トハ、ナンダ?」
「やだ、あなた鰐を知らないの? あなたと同じトカゲの仲間で、水中を縄張りにしてる肉食の爬虫類よ」
「ムウ……オレハ〝トカゲ〟デハナイ……!」
「今はそんなことにこだわっている場合ではなさそうだぞ、グニドどの。どうやら彼らはお世辞にも友好的な種族とは呼べないようだ」
と、全身の毛を逆立てたままのエクターが、楊枝みたいに細くて短い腰の剣に手をかけながらヒゲを震わせた。
隣では彼の愛騎である翼獣も威嚇の体勢を解いていない。
彼らのその態度が示すとおり、マドレーンが鰐人族と呼んだ世にも奇妙な獣人の群は、今にも砂浜の砂を蹴立てて押し寄せてきそうな剣幕だった。恐らくは自分たちの縄張りに許可なく踏み込んできた余所者を脅して追い払おうとしているのだろうが、いつまでも立ち退かなければ武力行使も辞さないといった構えだ。
だがグニドたちには今すぐ島を離れようにもそうできない理由があった。
言うまでもなく今朝の魔物の襲撃で飛行能力を失い、波打ち際でぐったりしている飛空船『ラルス』である。
かの船の船底の穴を塞ぐべく浜辺に残ったマドレーンたちは、応急処置が完了し次第他の船に『ラルス』ごと上空へ引っ張り上げてもらう手筈でいた。
が、問題の修繕作業はまだ半分ほどしか進んでおらず、こちらの合図を待って上空を浮遊している仲間の船団は地上の異変に気づいていない。
彼らに降りてきてもらわなければ、グニドたちには島を出る術がなかった。とすれば今は緊急事態だし、修理途中の『ラルス』を置いて上空へ逃れるしかないのではないか。そう判断したグニドは隣で白い尻尾を膨らませているエクターを振り向いた。何せこの場で自由自在に空を飛べるのは翼獣を連れたエクターだけだ。
「エクター、オマエ、翼獣ニ乗ッテ、助ケ呼ンデクル。ラッティハ、島ノ先住民ト、争ウハ駄目ト言ッテイタ。ナラバ、オレタチ、逃ゲルガ正解ダ」
「た、確かにグニドどのの言い分も一理ある。だが『ラルス』はどうする? ここに置いていけばほぼ確実に彼らの船内への侵入を許すことになるだろう。そうなったら結局『ラルス』を奪還するために彼らと争わねばならなくなるぞ」
「だったら私が船に侵入防止の結界を張っておくわ。希霊が残り少ないから、あまり強力な結界は用意できないけど──とにかく行って! ボヤボヤしてるとここにいる全員エサにされちゃうわよ!」
「あ、相分かった……!」
マドレーンに急かされたエクターは即座に身を翻すと、羽根つきの帽子を押さえながら翼獣の背に飛び乗った。そうして華麗に手綱を操り、すぐさま浜辺から飛び立っていく。しかしそれを見ても鰐人たちの威嚇の声は止まなかった。
彼らの中には天空に浮かぶ無数の船を見つけて槍を突き上げ、さらに興奮した様子で吼え立てている者もいるし、まさに一触即発といった感じだ。が、ほどなく群の中からひとり、一際巨体でずんぐりした鰐人が進み出てきて、聞く者の鼓膜を食い破らんばかりの雄叫びを上げた。グニドの鼻先の砂がぶるぶると振動するほどの絶叫に、もはやルルだけでなく連合国の戦士たちまでもが耳を塞いでいる。
「キタ・ネゲレカケ・サヌヘャン。ルンガ・サカ・ケネ・サイキ」
かと思えば巨体の鰐人は彼らの言語で何事か喚き出した。
最初に話しかけてきた鰐人の声よりもさらに野太く、腹に響くような声だ。
しかし彼──だと思う。メスにしては声が低すぎる──のすさまじい一喝のおかげで、先程まで口々に騒ぎ立てていた他の鰐人たちはシンと静まり返っていた。
抜きん出て恵まれた体格と言い、堂々とした立ち居振る舞いと言い、もしかしたらあれが島で暮らす鰐人たちの長なのかもしれない。
相変わらず彼らが何を言っているのかはさっぱり理解できないが、恐らくは警告されているのだろうということは理解できた。たぶん「お前たちは誰だ」とか「さっさと出ていけ」とか、そんな風なことを言われているのだろう。
とすればこのまま彼らの警告を無視し続けたら、きっとまずいことになる。だが空からの迎えが来ない限り、グニドたちは彼らの警告に従うこともできない。
つまり今、自分たちに必要なものは時間稼ぎだ。グニドは直感でそう思った。
鰐人たちの出方を何となく予測できるのはグニドも竜人として、彼らと同じ閉鎖的な暮らしを営んでいた経験があるからなのかもしれない。
「マドレーン。オマエ、オレ、動クコト、デキルヨウニデキルカ?」
「え? ……つまりあなたを戦える状態にしろってこと?」
「ソウダ」
「できなくはないけど、ついさっき島の先住民とは争うべきじゃないって話をしたばかりでしょ? ここであなたが暴れたら──」
「違ウ。オレ、アノ鰐人ト交渉、スル。エクターガ戻ルマデ、時間、稼グ」
「交渉? ひょっとして彼らの言葉が分かるの?」
「ワカラン。ダガ、ヤッテミル」
『グニド、だめだよ! あのひとたち、すっごくこわいよ!? あぶないよ!?』
『大丈夫だ、ルル。あいつらの様子を見る限り、むしろじっとしている方が危ない。だからおれが行ってやつらの気を逸らす。向こうも人間を見たことはあっても、竜人を見るのは初めてだろうからな。きっと戸惑うはずだ』
『でも……!』
『ルル。お前のことはおれが必ず守ると言ったろ。だから信じろ』
まったく動けない体で言っても様にならないが、グニドはまっすぐにルルを見つめて言った。ふたつの丸い鏡のようにグニドを映すルルの瞳は、恐怖と不安ですっかり滲んでしまっている。けれど彼女はやがてきゅっと唇を引き結び、うつむいて貫頭衣の裾を握った。小さな手で力いっぱい白い生地を握り締めているのは、ルルが不安に打ち勝とうとしている何よりの証拠だ。
『……わかった。でも、グニドがあぶなくなったら、ルルもグニドをたすける。それでもいい?』
『ああ。期待してるぞ、ルル』
そう言ってルルの頭を撫でやりながら、しかしグニドは決してこの子を危険には晒すまいと誓った。そのためにも自分が上手く時間を稼ぎ、全員が無事に島を脱出するまで持ちこたえるしかない。
「マドレーン。ヤッテクレ」
「……しょうがないわね」
ため息をついたマドレーンは肩に乗った金鬣を払い除けたのち、二本の指を強く擦り合わせるようにして器用にパチンと音を立てた。
次の瞬間、グニドの心臓がかつてないほど大きく脈動する。
驚くほど力がみなぎってきた。まるで体が内側から燃えるようだ。
試しに再び砂浜に手をつき、起き上がってみる。
今度は自力で立ち上がることができた。ドクン、ドクンと竜鼓を打つのに似た鼓動は続き、グニドは水浴びをした直後のように大きく体を震わせる。
そうして全身の砂を払い、居並ぶ鰐人たちを見据えた。
「言っておくけどその状態、長くは持たないわよ、竜人。私も力が底を尽く寸前なの。何かあっても手助けできる保証はないわ。だからやるなら慎重にやって」
「ワカッタ」
長い首を巡らせ、グニドは短くも力強くそう答えた。マドレーンは直前までと変わらぬ様子に見えるが、目を凝らせば額には汗が浮き呼吸もうっすら弾んでいる。
あれは単にラムルバハル砂漠にも匹敵する島の暑さが原因、というわけではないだろう。どうやら彼女の魔女としての力が残りわずかだというのは事実のようだ。だとすればマドレーンにもこれ以上無理はさせられない。
グニドは獣人隊商の用心棒だが、共にアビエス連合国を目指す彼らも今は仲間だ。そして竜人の戦士は、仲間のためならどんな危険の前にも怯まない。
『おい、鰐人族とやら。おれは死の谷から来た竜人の戦士、グニドナトスだ。今からそっちへ行くぞ』
鬣や鱗の隙間という隙間に入り込んでいた砂を落とし、気合いを入れ直したグニドはまず鰐人族に向かってそう声を上げた。人間たちの言葉ではなく竜語で話しかけたのはまあ何となくだが、一応の効果はあったようだ。
見たこともない鱗まみれの巨体に耳慣れない言語。突如砂の中から現れたグニドを目の前にして、鰐人たちは明らかな動揺を示していた。もしかしたら連中もグニドを見て〝自分たちに似ている〟という感想を抱いたかもしれない。とにかくグニドは相手を刺激しないよう、細心の注意を払いながらのっしのっしと歩き出した。
グニドの大きな足が持ち上がるたび、白い砂が飛沫のように跳ねる。
「ヌング・カシィ」
ところが鰐人族の長──かどうかは分からないが、とりあえずそうだと仮定する──との距離が一枝(五メートル)ほどまで近づいたところで、黒い巨石のごとく黙り込んでいた彼が声を上げた。今にも暴れ出しそうなほど荒々しい口調ではないものの、はっきりと敵意を滲ませた声。ゆえにグニドは足を止めた。ヌング・カシィとはたぶん彼らの言葉で「止まれ」とか「来るな」とかいう意味だろう。
「ソホ・コウェ?」
『おれは竜人のグニドナトスだ。グニドナトス。分かるか? お前の名は?』
「……アファ? アク・クク=スク・クワト」
『クワト? クワトだな。それがお前の名前か?』
「イエァ。ヌァラング・ジェネング・サヌヘャン・ヌァネフ」
『おれはグニドナトスだ。グ・ニ・ド・ナ・ト・ス』
「グ、ニ、ト……ナ、ト、ス?」
『そうだ。グニドナトスだ』
グニドは指先で自分の胸を指し示しながら、繰り返し己の名を名乗った。すると鰐人もやがて自分を指差して、今度ははっきり「クワト」とだけ発声する。
その仕草を見る限り、相手の名はやはりクワトで間違いないらしかった。
グニドは『分かったぞ』と伝えるために、「クワト」と相手の言葉を復唱しながら小刻みに頷く。と、クワトは依然こちらを注意深く観察したまま頭を低くし、グルルルル……と喉の奥で鳴いた。おかげでグニドは驚いた。何故ならクワトが喉の奥で鳴らした低いうなりは、竜人が相手を警戒したり推し量ろうとしたりするときに鳴らす音にそっくりだったからだ。偶然かもしれないが、聞き慣れた音程になつかしさを覚えたグニドは首を伸ばし、フン、フン、と鼻を鳴らす。
「グルル、グルルル……」
次いでグニドも試しに喉を鳴らしてみた。クワトが鳴らした音より幾分か高く、短いうなりを何度か繰り返す鳴き方は、竜人の間では敵意がないことを示したり、相手を信頼していることを伝えるものだった。
途端にクワトは驚いた様子で頭を引き、瞳孔が縦に裂けた瞳を瞬かせている。
かと思えば彼は鰐人語で何か尋ねてきた。明らかに戸惑っている様子だ。
『お前が何を言ってるのかは分からん。だがおれたちに島を荒らす意思はない。別の島へ行った仲間が戻り次第すぐに去る。だからここは見逃してくれないか』
とは言え彼が何を言っているのかは相変わらずさっぱりなので、グニドも自分が伝えたいことを一方的に喋ることしかできなかった。
当然クワトもこちらの言葉は理解できないから、今度は語調を強めて問い重ねてくる。質問されていると感じるのは相手の語尾が上がっているからだ。
不思議なことに人語も竜語も、疑問を投げかけるときは語尾の調子が上がる。
どちらもすべての場合に当てはまるわけではないが、比較的高い頻度で会話の中に現れる法則だった。だからたぶん、鰐人族の言葉も疑問を呈する場合は語尾が上がり調子になるのではないかとグニドは踏んでいる。
だが彼の問いに答える術を持たないグニドはしばし困って頭を掻いたのち、ふと思い立って大竜刀へ手を伸ばした。クワトもグニドの腰に収まるそれが武器であると認識していたのか、警戒の声を上げて牙を剥く。
されどグニドの目的は、刀を抜いて相手を脅しつけることではなかった。
ただ己の得物を剣帯からはずし、遠くへ放り投げてしまおうと思ったのだ。
実際グニドはそのとおりにした。剣帯からおもむろに刀を引き抜き、敵も味方も誰もいない明後日の方向へぶん投げた。大重量の刃は着地と同時に盛大な飛沫を上げて、白い砂浜に半分埋まってしまう。クワトはご丁寧にも飛んでいく大竜刀の軌道を目で追って、そして唖然と沈黙した。
いや、本当に唖然としているのかどうか、鰐人族のことをよく知らないグニドには判別がつかない。が、口をあんぐり開けて動かなくなったところを見る限り、まったく驚いていないということもなさそうな気がする。
「……アク・ンデレング。サヌヘャン・ニナングカ・アネフ」
するとほどなくこちらへ向き直ったクワトが予想外の行動に出た。
なんと彼もまた手にしていた槍のような武器を砂浜に放り投げたのだ。
まさか向こうも自分の行動を真似てくるとは思わなかったから、グニドは思わずぎょっとして首を傾げた。しかしクワトは俄然乗り気な様子でバシンと尾を鳴らすや、今度は自らの胸を力強く拳で打つ。
「ィヤ。アヨ・ンヨカフ・ケクワタネ。ンッガワ・イング!」
『……何のつもりだ?』
グニドには彼の意図がまったく理解できなかったが、それでもなおクワトは自身の胸を拳で叩き続けた。彼の胸はたぶん樹皮か何かを接ぎ合わせて作られたと思しい胸当てに覆われていて、叩くたびにひどく硬い音がする。
赤や黄色や青といった原色で不思議な模様が描かれた胸当ては派手なだけかと思ったが、意外と強度もあるようだった。さらにクワトは両腕にそこそこ太い金の腕輪を嵌めていて、あれも使いようによっては身を守る防具になりそうだ。
対するグニドは頭からすっぽり被るだけの、袖も何もない布を一枚まとっているだけで至って無防備だった。自慢の鱗は鎧代わりにはなるものの、いかにも竜人並みの膂力を持っていそうな鰐人族に通用するかどうかは分からない。
だというのにクワトはやがて両腕を広げ、どっしりと腰を落として構えるやもう一度「ンッガワ・イング! ンッガワ・イング!」と同じ言葉を繰り返した。
もしかすると彼は……〝かかってこい〟と言っているのか?
『……まさかとは思うが〝相撲〟か?』
と、グニドはそこでひとつ思い当たり、傾げていた首をさらに傾げた。
〝相撲〟とは竜人にとっての娯楽のひとつで、腕に自信のあるオス同士が武器を用いずに素手でぶつかり合うものだ。ぶつかり合うと言っても殴り合いの喧嘩をするわけではなく、文字どおり互いの体と体をぶつけて取っ組み合い、先に相手を円陣の中から押し出すか、地面に押し倒した方が勝ちという単純明快な力比べ。
死の谷で暮らす竜人の子供たちは暇さえあれば狩りの練習かこの力比べに熱中していたし、成人したオスの戦士たちも、繁殖期には群のメスに己の力を誇示したり、一匹のメスを取り合ったりしてよく相撲に興じていた。
果たして同じ文化が鰐人族の間にもあるのかどうか、グニドには計りかねたが、しかしクワトの様子を見る限りこちらを焚きつけているのは間違いない。
しかも武器を捨てたということは、向こうも危害を加える気はないという意思表示のつもりなのではないか。
だとしたら、正々堂々たる勝負の申し出には全力で応えるのが戦士の礼儀だ。
『いいだろう。そっちがその気なら──』
グニドは腹を決めた。クワトを真似て両足を開き、腰を落とす代わりに頭を下げて首と尾を地面と水平にする。可能な限り姿勢を低くし、狩りのさなか、目の前の獲物に飛びつく直前の構えを取ると腹の底から咆吼を上げた。
するとクワトもそれに応えるように、あのとんでもない吼え声を上げる。
グニドが〝今からお前に飛びつくぞ〟という合図のつもりで三本の指を開くと、向こうも鋭い爪の生えた五本の指を開いて構えた。瞬間、グニドはピンと伸ばした尻尾を左右に振って体に勢いをつけ、思いきりクワトに飛びかかる。
『グニド!?』
ずっと後ろの方でルルたちが騒然としている気配があったが構わなかった。
グニドがクワトの懐に全力で突っ込むと、クワトも両足を踏ん張ってこちらの突撃を受け止める。まるで巨大な岩にぶつかったような手応えだ。
クワトは体重が人間の六倍もあるグニドの体当たりを受けたところでびくともせず、望むところだと言いたげに組みついてきた。
やはりこちらを殴ったり蹴りつけたり、尻尾で不意打ちをしてくる気配はない。
これは相撲だ。あまりにも純粋な力と力のぶつかり合い。グニドはクワトが腰に回した鎧の帯を掴み、両足に渾身の力を込めて相手を押し出そうとした。するとクワトも負けじとグニドの背中に腕を回し、横へ横へと去なそうとしてくる。
瞬間、グニドは戦士の矜持に火がついた。負けてたまるかと尻尾を左右にぶん回し、横へ押しやろうとしてくるクワトの力に抵抗する。クワトも太くて硬そうな尻尾を砂浜に打ち込み、両足に次ぐ第三の支点として体を支えているようだ。
両者の力比べは拮抗した。
気づけば森の傍でふたりの闘いを見守る鰐人たちから野次が飛んでいる。
みんな槍を振り回したり拳を突き上げたりして大興奮だ。
彼らの声援を味方につけたかのように、クワトはさらなる力でグニドを押し込んできた。黒い鱗に覆われた二の腕が意思を持った生き物のごとく膨れ上がり、横へ去なすのをやめて今度はグニドの巨体を持ち上げようとしてくる。
驚嘆に値する力だった。実際、腋に差し込まれたクワトの両腕によってグニドの体は持ち上げられ、踵が若干浮き上がった。
グニドとクワトの体格はそこまで差があるわけでもないのに、人間が十人力を合わせてようやく持ち上げられるほど重い竜人の巨体を動かすなんて。
このままではまずい。そう悟ったグニドはとっさに長い首を折り畳み、クワトの左肩に押しつけるようにして力を込めた。クワトがこちらを持ち上げようと背を反らしたのに合わせて己の全体重をかけ、相手を押し倒す作戦に出たのだ。
おかげでグニドはよろけかかったが、素早く尻尾で砂浜を打ち、その反動でもってどうにか体勢を維持した。
対するクワトはグニドがよろけた拍子に勝負をかけようとしたのだろう、こちらが瞬時に体勢を立て直すと、虚を衝かれたように仰け反り後ろへ倒れそうになる。
「ググッ……グルオォオオォオッ!」
されどクワトもすんでのところで持ちこたえた。自身を鼓舞するような雄叫びを上げ、両足と尻尾の三点でグニドの体重を支える。
刹那、グニドには勝機が見えた。
クワトが全力でこちらを押し戻そうとする力を感じた瞬間、ふっと上半身を脱力させる。おかげでクワトの力は行き場を失った。グニドを押し返そうとするあまり、勢い余った彼はこちらに向かってつんのめってくる。グニドはそれに抗わなかった。クワトの巨体が平衡を失って突っ込んできたのに乗じ、掴んだ腰鎧ごと彼を持ち上げるようにして肩に背負う。一刹那ののち、グニドはたくみに腰を拈り、クワトの背中を砂浜に叩きつけた。竜人流背負い投げだ。
「グルォッ……!?」
盛大な水飛沫ならぬ砂飛沫が上がり、勝負の行方を見守っていた鰐人たちが唖然と息を飲むのが分かった。
グニドもまた肩で息をしながら、彼らが目を見張って凝視する先を顧みる。
『勝負あったな、クワト』
白い砂浜に両腕を広げて倒れたクワトは、空を見上げたまま茫然自失しているようだった。ずらりと牙の並んだ口は半開きでぴくりとも動かない。
それどころか瞬きすらもしないので、まさか打ちどころが悪かったのかとグニドは慌てた。どうせ足もとあるのはやわらかい砂地だから大丈夫だろうと、彼を叩きつけるとき、グニドは己の両腕に全身全霊の力を込めてしまったのだ。
『お、おいクワト、大丈夫か!?』
自分はあくまで勝負に応じただけで、危害を加えるつもりはなかった。その意思を表明するためにもグニドは急いでクワトに駆け寄り、彼の顔を覗き込んだ。
直後、半開きのクワトの口から「グ……」と低いうめきが漏れる。
よかった。意識はあるようだ。グニドがそう胸を撫で下ろした直後、浜辺に響き渡ったのは大地が揺らぐほど豪快な放笑だった。
「グハハハハハハッ! ウォング・ハグス・グニドナトス! キタ・ナヌファ・サヌヘャン・ニナングカ・タヌ!」
砂の上で仰向けに寝転んだまま、クワトはさも愉快そうに笑ってそう叫んだ。
それを聞いたグニドは首を傾げ、ぱちくりと瞳を瞬かせながら言う。
『……なんて言ったんだ?』
しかしそんなグニドの問いに答えが返るはずもなく。
ブワヤ島の浜辺にはしばしの間、クワトの笑い声だけが谺していた。