第七十五話 森の主
樹上家屋は緑色に苔生した樹齢数百年の樹々の上に建っている。
カヌヌたちが〝森の主たち〟と呼ぶその樹々は、幹の太さや高さもさることながら、四方に伸びる枝の逞しさも感嘆に値する。
ラナキラ族はそうした枝の上に板を渡し、蔓でしっかりと固定して、さらにそこに家を建てる。釘や縄を一切使わない、木材と葉と蔓だけで建てられた家だ。
家屋と家屋の間をつなぐのは非常に原始的な姿の吊り橋。
でも樹上すべてに板や吊り橋が渡されているわけではなく、板がなくとも人が歩けるほど太い枝の上には、今も素足で行き交う島民たちの姿があった。
樹上への移動手段は一際太い枝から垂れ落ちた縄梯子のみ。梯子は村のあちこちに設置されているものの、短いものでも高さは二枝(十メートル)ほどもある。
とは言え住民たちの生活がすべて樹上で完結しているわけではない。
森の主たちの麓は低木や藪が綺麗に刈り払われ、見晴らしのよい空間に家畜が放し飼いされていた。無名諸島で最も一般的な家畜は〝ドードー〟と呼ばれる奇妙な見た目の飛べない鳥だ。羽毛は全体的に黒っぽく、ずんぐりしていて短足。
羽も明らかに退化していて、ちょっと間の抜けた飾りみたいに小さい。が、嘴はかなり大きく、顔の部分だけ皮膚が露出しているのも特徴だ。ぎょろりとした目は愛嬌があると言えば聞こえはいいが、あまりかわいいとは思えなかった。
今もあちこちで忙しそうに地面をつついているのは、樹上の民が投げ捨てた野菜の切れ端や果物の種などを餌にしているためだろう。同じように時折降ってくる調理済みの動物の骨には、彼らの守番である〝イーリオ〟──背中に黒い縞模様がある、狼と狐の中間みたいな痩せ型の犬──が先を争うように食らいついていた。
「へえ……樹の上での生活とは乙だねえ。ウチの大陸に住んでる梟人族も樹に住んでるが、アレは樹の中を刳り抜いて丸ごと家にしちまってるからな。こういうタイプの集落は初めて見るぜ」
「そうデスカ? マカ・ラウは、無名諸島にはタクサンありマス。島の森にはキケンなヘビやケモノ、イッパイいるネ。でも、どんなケモノもバグト・アリの上マデは登って来ラレナイ。だからボクたちみんな樹の上に住むヨ」
「ふーん。けどここまでの話を聞いた限りじゃ、お前らの敵は何も毒蛇や猛獣だけじゃねえんだろ? 樹上集落なんて、敵対部族とやらに火をつけられたら一巻の終わりじゃねえか」
「その心配はありませんよ。仮に敵が攻めてきて集落に火を放とうもんなら、当然森全体を巻き込む大火事になります。そんなことになったらまず人蛇サマが黙っちゃいない。火をつけた部族は彼らの怒りに触れて、一族郎党皆殺しにされるでしょう。だから無名諸島の民はみんな火を恐れてる。ここで火を熾すのは調理のときくらいで、他では滅多に使わないんですよ」
「ハイ、ラッティサンの言うとおりデス。ボクたち、日が出たら起キテ、日が沈んだら寝マス。だから火、あんまり必要ないヨ。ココは大陸の冬みたいに凍えるコトもないからネ」
「そりゃそうだ。なんたって四季とは無縁の常夏の島だからな、チュチュチュ」
などと余裕ぶりつつも、ラナキラ村に入った瞬間からヨヘンはヴォルクの頭にがっしりとしがみついていた。何しろヨヘンは以前村を訪れたとき、ドードーに生き餌と間違われて丸呑みにされるという壮絶な恐怖体験をしているのだ。
以来ヨヘンは極度のドードー恐怖症を発症し、ここでは絶対に地面に降りなかった。今も彼らの名前の由来である鳴き声──ドードーは出来の悪い山鳩のように低く「ドゥッ、ドゥッ」と鳴く──を聞いているだけで怖気が走るらしく、灰色の毛皮は膨らみっぱなしだ。おまけにドードーたちが見慣れない来客に物珍しげな視線を投げかけてくるだけで「見るんじゃねーッ!」と前歯を剥いて威嚇している。
このままだとドードーもヨヘンもうるさくて敵わないので、ラッティたちはするすると梯子を登り樹の上へと移動した。巨大樹の枝葉に覆われた樹上世界は薄暗いが、足もとに散らばる木漏れ日がいつ見ても美しい。何より無名諸島の陽射しは強すぎるので、ラッティとしてはこれくらいがちょうどよかった。
いくら細かいことにはこだわらない主義のラッティと言えど、害虫や毒蛇がうようよいる森で腰蓑一枚の姿になろうとは思えないし。
「うお……登ってみると意外と高いな。柵も手摺もねえし、足を踏みはずしでもしたら結構洒落にならねえんじゃねえか?」
「そ、そうですよネ……だからワタシたちも以前、オルオルさまに柵をつけたらどうかと勧めてみたんですけど、ラナキラ族には誤って樹から落ちるような者はいないから必要ないと断言されてしまって……」
「……さっきから話を聞くにつけ、ほとほと度し難いジイさんだな、オルオルってのは。その謎の自信は一体どっから来るんだか。〝猿も木から落ちる〟って大陸の諺を教えてやりたいね」
と、ポリーの話を聞いたヴェンが後ろで呆れているのが聞こえる。先頭を歩くカヌヌはなるべく板の敷いてあるところを歩いてくれてはいるが、そこもあまり横幅があるわけではないから、一行はどうしても縦列を組まざるを得なかった。
道の縁から下を覗くと確かに目が回りそうになる高さで、こんなところを軽快に走ったり、両手に荷物を抱えながら歩いたりできるラナキラ族の平衡感覚は並大抵のものではない。もとが臆病なポリーなどは肩を竦めて、そろり、そろりと震えながら慎重に歩いていた。だがラッティがいま最も気がかりなのは樹から落ちるか落ちないかよりも前を歩くカヌヌの様子だ。村に到着した途端、カヌヌはすっかりいつもの調子に戻ったが、直前に聞いた彼の言葉が気にかかる。
──ツギはボクの番デス。
(……あれってどういう意味?)
そう尋ねたいのに、すっかりタイミングを逃してしまってきっかけが掴めなかった。森を抜ける間際、あんなに暗い顔をしていたカヌヌが集落へ着くなりニコニコし出したのも、きっと村の者たちを不安にさせないためだ。
だったらなおさらこんなところで村の行く末に関わる話などできない。
カヌヌはヨヘンとも互角のお調子者だが、族長の孫という重責を常に背負っていて、ここでは特に皆の精神の支柱として振る舞わなければならないのだった。
「で、ほいほいついてきたのはいいが、俺たちは今どこに向かってんだ?」
「もちろんボクの家デスヨ。オルオルもパヌガも今、ソコに居マス」
「……余所者は村に着たらまず族長と霊術師に挨拶しないと。特に今回俺たちは新参者を連れてるし」
「アッ! そう言エバ、ヒトツ皆サンに言い忘れてたコトありマス。実はラナキラ村のお客サン、ラッティサンたちだけではありマセン」
「え? アタシらだけじゃないってどういうこと?」
「ンンー、話せば長いのデスけどネ……爺さまが倒れてスグのコト、村の狩人が森でヒトリのオトコ捕まえて来マシタ。ラッティサンたちと同じ大陸のヒトネ。無断で森に入ったから、村のみんなトテモ怒ったヨ。でも数日後、村がヴォソグ族の襲撃受けたトキ、カレ、ボクらを助ケテくれタ。ボクら、カレを何日もグルグル巻キにしてたのにヤサシイネ。だからボク、パヌガのオユルシもらってカレに〝トゥマタロン〟受けてもらいマシタ」
「ト、トマ……トマトロン?」
「〝度胸試し〟。さっきアタシらが話した滝からの飛び込みのことですよ。村の一員として認められるためにはアレをやってのけるしかないからね」
「そうデス。そしてカレ、無事に滝から生きて帰りマシタ。デスので今は、ボクのイエのお客サンデス。ラッティサンたちもナカヨクして下さいネ!」
「いや、まあ、半獣と仲良くできるかは相手次第だけど……」
「そうデスカ? でも、ヴェンサンとはナカヨシデスネ?」
「この人は南のアビエス連合国の出身だから。アンタも何回か連れて行ってやったろ? あの国の人たちは基本的に人種や種族で人を差別しないからね」
「オー、そうデシタ! ボクも連合国行ったトキ、街のヒトにトテモよくしてもらいマシタ。ヴェンサンはレンゴーコクのヒトだったデスネ」
「ま、ひと口に〝博愛の国〟っつっても、まだまだ育った環境だの思想の違いだので対立することはあるけどな。それでも余所の国よか遥かにマシってこたァ事実に違いねえ。で、その先客はどこの国の人間だ? 名前は?」
「──ジェレミー。ジェレミー・ノリスです。出身は北西大陸北部にあったミシュティア尊主国。もっとも故国はとっくの昔にエレツエル神領国に滅ぼされて、今はさすらいの吟遊詩人をやってますけどね。まさかこんなところで僕以外の大陸人に会えるとは驚きです」
ところが刹那、不意に一行の行く手から曇りのないハノーク語が聞こえたかと思えば、ボロロン……とどこか哀愁漂う弦楽器の音色が鳴った。
ラッティたちが驚いて足を止め、見やった先にいたのはひとりの青年だ。
島の民と比べると明らかに肌は白く、酷暑だというのにナイトグリーンの外套を優雅に着こなし、一本のリュートを抱えている。森の主たちの中でも最も高い樹の上にある家──あれは言うまでもなく族長の家だ──の正面、そこに立つ細い柱の麓に腰を下ろし、彼は六本の弦を爪弾いていた。
頭には外套と同じ色の鍔広帽子。絵画に描かれる吟遊詩人がよく記号として被っている、羽根飾りつきのゆったりした帽子だ。あの帽子と外套で耳や尻尾を隠しているわけでないのなら、彼の年齢は二十歳前後と思われた。
仮にラッティやヴォルクと同じ半獣人なら十三、四歳程度の同世代だろうけど。
「オー、ジェレミーサン! ロロの様子、ドウデスカ?」
「うん、実は朗報が……と言ってあげたいところだけど、容態は相変わらずだよ。クム様がずっと診てくれてるものの、やっぱり目を覚まさないみたい」
「そうデスカ……アッ、ラッティサン、ショーカイしマス。カレがサッキ言ってた大陸のお客サンネ! 名前、ジェレミーサンというヨ。ジェレミーサン、このヒトたち、ボクが前に話したムカシのナカマデス!」
カヌヌはほんの一瞬肩を落とす素振りを見せたものの、すぐにパッと笑顔になるや先客を紹介した。
ジェレミーというらしい青年はカヌヌから事前にラッティたちの話を聞いていたのか、さほど驚くでもなく立ち上がると、帽子をひょいとはずしてみせる。
「はじめまして。前にカヌヌ君から聞いた話のとおりなら……ええと、ラッティさんとヴォルクさんとポリーさん、そしてヨヘンさん、ですよね? お会いできて光栄です。何だかひとり多いような気もしますが……」
「ヴェン・リベルタス、見てのとおり人間だ。こいつらとは一時的に行動を共にしてるだけでな。俺は獣人隊商の一員じゃない」
「そうだったんですね。てっきりカヌヌ君のあとに仲間に加わった方なのかと思いました。さっき皆さんのお話する声が聞こえてきたのですが、リベルタスさんは南のアビエス連合国のご出身だとか」
「ああ。耳がいいな」
「ありがとうございます。一応、歌と音楽を生業にしているものですから」
はずした帽子を胸に当て、ジェレミーは人好きのする仕草でにこっと笑った。
途端にラッティは得も言われぬなつかしさに包まれる。何故ならジェレミーの話すハノーク語にはかつてラッティが暮らしていた北西大陸北部の訛りがあったからだ。しかも彼の祖国だというミシュティア尊主国は、ラッティの故郷があったヨルト自治領国と東の境を接していた群立諸国連合の加盟国。
ラッティの村はその国境付近の山間にあったから、自治領国の主産業でもあったトナカイ猟が特に盛んで、ミシュティア人の商人もしょっちゅう出入りしていた。
だが同時に苦い記憶も脳裏をよぎる。純潔の狐人だった父はラッティが物心つく前から村人たちに迫害され、ずっと村はずれの暗い森に住んでいた。
母は一切混じり気のないヨルト人だったものの、狐人の妻となった時点で故郷の人々から見放され、同郷者としての恩恵は何ひとつ受けられなかった。
そして極めつけがエレツエル神領国による侵略だ。彼らの行きすぎた帝国主義によってラッティの故郷は焦土と化し、父も母も殺された。
久しぶりに聞く北方訛りのハノーク語は、そんな当時の記憶をまざまざとラッティの脳裏に呼び覚ます。おかげでラッティは珍しく後込みした。
今、目の前にいる青年を同郷者として信用してもよいのかどうか。
そう思いながらじっとジェレミーを見つめたら、向こうもこちらの意図に気がついたのかふっと微苦笑を浮かべた。かと思えばいかにも北方人らしい淡い金髪に帽子を乗せて、人懐っこく小首を傾げてみせる。
「警戒なさらなくても大丈夫ですよ。吟遊詩人なんて肩書きを名乗ってはいますが、結局のところ僕もしがない雲民に過ぎません。余所者だ、穢れを運ぶ者だと迫害される側の気持ちは、これまでの旅で少なからず理解しているつもりです。ですので獣人や半獣人を差別するつもりはありません」
「ウンミン……デスカ?」
「……〝雲民〟っていうのは帰る家や故郷を失くして、各地を点々としながら暮らす人のこと。雲みたいにあてどなく流れて暮らしてるからそう呼ばれるんだ。他の呼び方も色々あるけど、差別語に当たるものが多いから」
「オー、そうだったデスカ……ボク、ギンユーシジン、トテモ華ヤカなヒトと思ってマシタ。ジェレミーサンも歌、スゴク上手ヨ。ラッティサンたちにもアトで聞かせてあげたいデス」
「そりゃ楽しみだけど、まずはクムさんとラウレアさんに挨拶しないとな」
と、カヌヌに答えたラッティが体を傾けて見やった先には、床に臥したオルオルとふたりの人影が見えた。何しろ樹上家屋には壁がない。あるのは床と柱と屋根だけだ。ゆえに中の様子は覗き放題。密林の葉を集めて敷いただけの寝床に横たわったオルオルの傍らには、鳴り物がついた杖を手にあぐらをかいている老爺がいた。
顔中しわくちゃで、やや垂れ下がった瞼の下の眼光鋭い彼こそがラナキラ族の霊術師であるクムだ。そして隣に腰を下ろし、憔悴しきった顔をしている中年女はカヌヌの母ラウレア。村の女はみな避難したという話だったが、どうやらラウレアだけは倒れた父親のために残ったらしい。他にふたりいるはずのカヌヌの姉は既に村を出たあとなのか、どこにも姿が見えなかった。
「お久しぶりです、クムさん、ラウレアさん」
ラッティたちはそう言って草葺き屋根の軒を潜り、クムとラウレアの前に腰を下ろす。ふたりにハノーク語は通じないが、ラッティたちのことは覚えていてくれたようだ。カヌヌがこちらの言葉を通訳するまでもなく、丸い目をさらに丸くしたラウレアがクプタ語で何か話しかけてくる。カヌヌの通訳によると、ラッティたちの再訪に驚きつつも歓迎の意を示してくれているようだった。
「──というわけで、族長がこんなときに申し訳ないんだけど、アタシらが島に留まることを数日だけ許してほしいんです。その代わりアタシらに手伝えることがあれば何でも手伝います。他にいる大勢の仲間は、近海に滞在させるだけで島には上げません。迎えが来たら長居はせずに、すぐに島を離れます。もちろんラナキラ族とヴォソグ族の問題に首を突っ込むつもりもありません」
再会の挨拶がひととおり済んだのち、ラッティらは自分たちがここへ来た理由を最初から説明し、クムに無名諸島滞在の許しを乞うた。
族長であるオルオルが倒れ、さらに次の族長として担がれるはずの婿殿も戻らないとなれば、目下村で最も権力を持っているのは霊術師であるクム老人だ。
彼は杖を床についたまま難しい顔でしばし唸ると、カヌヌに向かってクプタ語で何事か話しかけた。カヌヌもそれに二、三言何か答えると、やがてクムに向かって深く頷き、ラッティたちを振り返る。
「やっぱりクムサマも、ムラの皆で一度相談しないとダメ言ってマス。でも今、ラッティサンが言った条件全部マモレルなら、皆が滞在ユルシテくれるように、クムサマ、チカラになってくれるそうデス」
「おおっ、ほんとかクムじいさん!?」
「エイア・ナエ・オ・ケカヒ・ポノオエ・ホオ・ヒキ。ポノ・マーコウ・エロア・イーア・ケ・カナカ」
「デスガ他にもうヒトツジョーケンありマス。ソレはヴェンサンがズットムラに居ルコトデス」
「俺が?」
「オ・カーウ・オコ・ラーコウ・アリイ? イナー・ポノオエ・ノホ・マアネイ」
「そうデスネ……ヴェンサンは、ラッティサンたちとイッショに島に来タヒトたちの長デス。だから、他のヒトたちがカッテなコトできないように、ムラの皆でヴェンサン見張る必要ありマス」
「ははあ、要するに部下どもがヤンチャしねえよう人質になれってことか。そいつはさっきお前らが言ってたトゥマラ……いや、トマロ……トマトなんとかってやつでチャラになんねえのか?」
「度胸試しね。確かにアレでヴェンさんの信用が買えるならそっちの方がよさそうだけど」
「ンン……ボクもそう思いマス。でも当分はトゥマタロン、ムツカシイネ。だからクムサマはヴェンさんがムラに居ルよう言ってマス」
「難しいってなんで? ジェレミーさんもトゥマタロンを受けたんだろ?」
「そうデスガ、トゥマタロンするにもトクベツな儀式必要デス。でもクムサマ、明日から〝パグパライン〟しないとダメネ。トゥマタロンのギシキ、クムサマいないとできないヨ」
「パグパライン?」
「ハイ。パヌガがマヌのチカラ借りるトキ、ヒトリで森に入るコトデス。クムサマ、コレからトテモ大事なギシキありマス。だからパグパライン、休めないヨ」
「そりゃまた何とも間の悪い……まあ、そういうことなら仕方ねえな。こんな蚊と毒蛇まみれの森で過ごすなんざ本当なら絶対ェお断りだが、カワイイ部下たちのためだ。酒さえもらえるなら特別によしとしてやるよ」
「ヴェ、ヴェンさん、ちゃっかりしてますネ……」
「その代わり酒がなかったら発狂すると伝えろ。つーか無名諸島にも酒くらいあるよな?」
「ええ、まあ……ありますけど、お口に合うかどうかは……」
「俺は酒精が入ってりゃ選り好みはしねえ。唯一贅沢を言うなら酒精度が高けりゃ高いほどいい。それだけだ」
「はは、だったらここの酒はお気に召しますよ、たぶん……」
「お。そんなに強えのか、無名諸島の酒は?」
「そりゃもう強いというかなんというか……アタシも大概酒飲みだけど、無名諸島の酒だけはいつ来ても飲めないですね」
「ほほう、そりゃ楽しみだ。そういうことなら檻の中だろうが藪の中だろうが喜んで人質になるぜ」
と、あぐらをかいたヴェンが俄然乗り気になるさまを見て、ラッティは視線を泳がせた。無名諸島の酒事情を知るヴォルクたちからは無言の抗議を感じるが、嘘はついていないのだから問題あるまい。何せ世の中には知らない方が幸せなこともある。クプタ語族が飲む酒は集落の女たちが咀嚼した芋を吐き出して作る噛み酒か、その酒から作った蒸留酒に毒蛇を漬け込んだ蛇酒の二種類だけだ。
前者はともかく後者だけは酒好きのラッティも受けつけなかった。
何故なら過去に蛇酒を作る過程を一から十まで見学してしまったからだ。
あのグロテスクな酒桶の中の光景は未だにラッティの脳裏に焼きついている。
おかげで蛇酒をいただこうとすると、当時の記憶が鮮明にフラッシュバックして拒否反応が出るありさまだった。
「──分かりマシタ。クムサマもソレでよいと言ってマス。交渉成立デス」
「あ、ああ、そりゃよかった。じゃあ、村の人たちを集めた寄り合いはすぐにでも開いてもらえるんだね?」
「ハイ。サッキも言ったデスが、クムサマ、明日からパグパラインしないといけマセン。だから今日には皆に話シテ、ラッティサンたちの滞在許可もらいマス」
「そうしてもらえると助かるよ。他の仲間もたぶん待ちくたびれてるからサ」
「そうデスネ。皆サン、早く安心させたいデスネ。すぐにムラのみな集メマス」
カヌヌはさも〝任せておけ〟と言うように頼もしく胸を叩くと、一度軒先へ出て柱に括りつけられている金属製の鐘をガラガラと鳴らした。
あれは有事の際に族長が村の者たちを召集する合図だ。家も家具も日用品も、何もかもが森の恵みからできているラナキラ村では鐘の音はかなり異質に響く。
そのためか村の者たちが駆けつけるのは早かった。集まったのが男ばかりなのは、ラウレアを除いて女子供はみな避難しているためだろう。
カヌヌは早速集まってきた村の仲間に何事か指示を出している。
島の言葉なので何を言っているのかは分からないが、恐らくはあちこちの持ち場に散らばっている集落の顔役たちを呼んでくるよう手配を進めているのだろう。
「それにしてもオルオルさま、なんてお痛わしい姿に……こんなに痩せて、一年前のお元気な姿が嘘みたいだワ。せめてなんのご病気か分かればいいのに……」
ところがそうしてカヌヌが席をはずしている間、オルオルの傍らに座ったポリーが瞳に涙を浮かべて口もとを押さえた。緑の葉の上に横たわったオルオルは本当に痩せ衰えていて、ラッティの記憶の中の彼とは別人のようになっている。
長年強い陽射しを受けて暮らすためか、老いると必要以上にしわくちゃになるのはこの島の民の特徴だが、今のオルオルはその分を差し引いても完全に萎びて見えた。腕や足は枯れ枝のように痩せ細り、黒い肌が余計に彼を死体のごとく見せている。既に老齢に差し掛かっているとは思えぬほど逞しかった胸板も、今はしぼんで力なく上下を繰り返すのみ。
もともと七割が白髪だった髪や髭は今や真っ白で、元気すぎるほど元気だった一年前の彼と比べるとラッティも胸が苦しかった──偏屈で口うるさい爺さんだったけど、一度腹を決めると潔くて度胸もあって気っ風のいい人だったから。
「たぶん膵炎だと思うよ」
ところが刹那、不意に背後から上がった声にラッティたちは目を丸くする。
驚きと共に振り向いた先にはさっきと同じ柱に背中を預け、リュートを抱いて座り込んだジェレミーがいた。
「膵炎?」
「ええ。胃の近くにある〝膵臓〟という名前の臓器が起こす炎症です。原因までは僕にも分かりませんが、これを発症すると想像を絶する腹痛に襲われて、最後は敗血症や多臓器不全を起こして死に至るとか……」
「は、敗血症や多臓器不全って……あんた、やけに詳しいな。ひょっとして医学の心得があったりするのか!?」
「いや、前に滞在した町でお世話になっていた人が、ある夜突然似たような症状を訴えてね。床をのたうち回るほどの痛みだったみたいで、僕はすっかり泡を食ってしまって……だけどおかげでよく覚えてるんです。腕のいいお医者さんが診てくれたから、その人はどうにか助かったけど」
「ならアンタ、治療法を知らないか? たとえば医者がどんな薬を使ってたとか」
「薬学の知識までは持ち合わせてないから何とも言えないけど、痛み止めの薬は飲ませていたはずです。あとはしばらく絶食が必要だからって、水だけを飲ませていて……でも痛み止めも絶食もクム様は既に試しているし」
「じ、じゃあ他にどうすれば……!?」
「ごめん……そこまでは僕にも分からない。でも症状が進行すると、ほとんどの患者は十五日前後で死亡すると聞きました。カヌヌ君の話によると、族長様が倒れてから今日で十二日目らしいから……」
「……つまり最悪の場合、あと二、三日でオルオルさんは息を引き取るかもしれないってこと?」
「そういうことになりますね。ここまで重症化すると、どのみち最後は開腹手術が必要になるし……」
「でも島には手術ができる外科医なんていやしない」
「ええ。だから最後の望みは人蛇族が作り出すという秘薬だけ──」
ジェレミーはそう言いながら顔を伏せ、再びリュートを爪弾いた。
異郷の楽器の音色とは言え、それが唯一の慰めになっているのだろう。疲れ切った顔色のラウレアが、弦を弾くジェレミーの指先を空虚な眼差しで見つめている。
──人蛇族の作る秘薬。
その噂はラッティも耳にしたことがあった。何でも彼らは人智が及ばぬほどの優れた薬学の知識を持ち、万病に効く霊薬から魔界の瘴気よりも強い毒薬まで、あらゆる薬を作り出すことができるという。だからクムは次期族長であるカヌヌの父を人蛇の森へやったのだ。彼も色々な治療を試してはいるようだが、恐らくどこかでこれは原始の医術では治せぬ病だと悟っている。しかし一族の名誉を守るためには、島の外から来た医者に泣きつくわけにもいかない。
そうなれば頼れるのはもう人蛇たちの智恵だけだ。
けれど彼らを恃んで送り出した次期族長が戻らないということは──
「アノ、ラッティサン」
他に何か手はないのか。ラッティが右手の親指をぺろっと舐めながら思考を凝らしていると、島民への指示を終えて戻ったカヌヌに名前を呼ばれた。
彼は今ジェレミーが話してみせたことを知っているのだろうか。
祖父の命があといくばくもないことをどこまで理解しているのだろうか──そう思いながら振り向いた先で、カヌヌがのんきにチリチリの頭を掻きながら言う。
「チョット今、ナカマから気になる話聞きマシタ。ラッティサンたち、船がマモノに襲われてみんなで島に流れ着いタ──そう言いマシタネ?」
「そうだけど、それがどうかした?」
「サッキ集まってきたナカマの中に、浜の見回りから戻ったばかりのヒト居タヨ。でもカレ、ハマに大陸のフネなかったと言いマシタ。見ツケタのは知らないコブネだけだと言うネ。だったらラッティサンたちのフネ、どこにありマスカ?」
「ああ、そういや言ってなかったっけ?」
どうやらカヌヌはラッティたち全員がこのワイレレ島に漂着したと誤解していたようだ。ラッティもラッティで、言われてみればそう誤解されても仕方のない言い方をしていたなと反省しながら、苦笑して事情を説明した。
「アタシらが最初に流れ着いたのは別の島でね。とりあえず仲間はそっちで待たせたまま、アタシらだけが代表としてここに来たんだ。アンタたちの許しがもらえたらすぐにワイレレ島に呼び寄せるつもりだけど……」
「オー、そうデシタカ! ゴメンナサイ、ボク、モットちゃんと話聞くべきデシタネ。ではラッティサンたちのナカマ、今はドコに居マスカ?」
「ここより東のブワヤ島。全員あそこに置いてきたよ。森には絶対に入るなって言ってきたから、たぶん大丈夫だとは思うけど──」
とラッティが答えた瞬間だった。突然カヌヌの表情からサッと色が消え、クムやラウレアまで驚いたようにこちらを振り返る。カヌヌはともかく彼らにはハノーク語が分からないはずなのにあの反応は変だ。
一体何に驚いているのかとラッティが瞬きしているうちに、カヌヌとクムが顔を見合わせた。ふたりは互いに言葉を発さなかったが、目と目が合っただけでクムは苦り切った顔をして、カヌヌも顔面を押さえている。
「お……おいカヌヌ、どうかした?」
「ラッティサン……皆サンが最初に着いた島がブワヤ島、本当ネ?」
「あ、ああ……昔、アンタが地図を見て教えてくれたとおりならね」
「オー……ソレはトテモマズイコトになりマシタ……」
「と、とてもまずいこと?」
「ハイ……ナゼならアノ島──鰐人族のナワバリデス」