第七十三話 おいでませ、ワイレレ島
狐色の髪を撫ぜる風に吹かれながら、ラッティは船縁に頬杖をついていた。
グニドとルルを除く獣人隊商の面々を乗せた飛空船は、快調に無名諸島の上空を走っている。飛空船とは言っても〝高速艇〟と呼ばれるそれは大人が四、五人乗り込むのが精一杯の小舟で、船上は吹き晒しだ。
船室もなければ帆柱もない。有事の際には脱出艇の役割を担うこともあるというから、見た目はほとんど海船でよく見る救命艇だ。仮に海に浮かべたら櫂がなければどこにもいけない。けれどそんな小さな船を、アビエス連合国第一空艇団提督のヴェン・リベルタスは、毛深い右腕一本で自由自在に操縦していた。
「あッ……あのッ……あのッ、リベルタス提督ッ!? 確かに〝善は急げ〟と言いますけどね、さすがにこれはちょっと飛ばしすぎじゃあありませんかね!?」
と、彼が操る艇の上で、先程から悲鳴を上げているのはヴォルクの頭にしがみついたヨヘンだ。だから物入れに入っていろと言ったのに「空の上から見た無名諸島をスケッチするんだ!」なんて言って聞かないから、好きにさせていたら案の定彼の命は風前の灯火だった。
「いやいや、スダトルダ君。仮にもコイツァ高速艇だぜ? いざというときに高速艇が高速艇たる所以を発揮できなくてどーするよ。まあ俺としてはあと一翼速(時速五十キロ)くらい速く飛ぶのが理想的なんだがな、この人数が乗ってたんじゃあ二翼速(時速百キロ)ちょいが限界だわな」
「チクショウ、グニドだ! あいつを無理矢理にでも積み込んでれば、いかな提督と言えど強制的に安全航行せざるを得なかったのに! あのヤロー、肝心なときにへたばりやがって!」
「ヴェンさん。アタシらは別に大丈夫なんで、もうちょい飛ばしてもらっても構いませんよ」
「おっ、そうか? じゃあ船体がバラバラになる寸前まで飛ばしてみるか」
「ワーッ、ワーッ、ゴメンナサイ!! 前言取り消しますから殺さないでぇ!!」
謝るくらいなら最初から考えてものを言えと常々忠告しているのに、まったくこのネズ公はいつまで経っても懲りやしない。ラッティは呆れのため息をつきながら改めて頬杖をつき直し、舳先に立って舵輪を掴むヴェンの背中をぼんやり眺めた。
こうした小型の飛空船は、大抵あの舵輪の真ん中に核石が嵌め込まれていて、操縦者の意思ひとつで速度が変わる。
舵輪はあくまで操縦をイメージしやすいようについているだけの飾りであり、本来は操縦者が念じるだけで上下左右、どの方向にでも艇は動くそうだ。
無論、艇から振り落とされるのを防ぐための安全帯もちゃんとある。ラッティたちは座席の下から伸びる革製の帯の先端の金具を、同じく腰に巻いた革帯にしっかりと括りつけていた。たださすがに鼠人族サイズの安全帯は用意されていなかったから、ヨヘンだけがあんなありさまになっているだけだ。
最後尾に座るポリーもあまりの速度に恐れをなして震えてはいるものの、実を言えばラッティは、本当にもう少し飛ばしてもらっても構わないと思っていた。
(……足りないんだよなあ)
と、頭上の耳を引き千切らんばかりの勢いで叩きつけてくる風圧と真っ向から向き合いながら、ラッティは内心舌打ちする。
この風が自分の髪や皮膚ごと、要らない記憶や感情を全部引き剥がして持っていってくれたらと思うのに、現実はなかなか願ったとおりにはなってくれない。
「ラッティ」
柄にもなくそんな後ろ向きな物思いに耽っていたら、不意にヴォルクに名前を呼ばれた。
「カヌヌに会えたら、なんて説明するの? ……キーリャのこと」
轟音とも呼べる風の音の狭間に、今一番聞きたくなかった名前が舞う。
けれどヴォルクの疑問はもっともだった。
空艇団が無名諸島に不時着した瞬間から、それは誰もが抱えていた不安だ。
「俺たちはラッティの判断に従う。でも、ラッティの口からは言いづらいなら……代わりに俺が伝えてもいい」
「……うん」
「もう丸一年会ってないからね……カヌヌとも。元気にしてるといいけど」
「うん……ついでに嫁さんでももらってくれてたら気が楽なんだけどなあ」
ラッティが前を向いたまま、ついぽつりと本音を漏らすと、ヴォルクもあとは何も言わなかった。島に着く前に答えを出さなければと思うのに、頭が苦い記憶を掘り起こすことを拒んで一向に思考が捗らない。
そうこうするうち、五人を乗せた艇は目的地であるワイレレ島に到着してしまった。ワイレレ島は他の島に比べると規模こそ小さいが、大昔からずっとラナキラ族の支配下にあり、他の部族が寄りついたことはただの一度もないという。
五人はその島の南の浜辺に艇を下ろし、あとは歩いてラナキラ族の集落へ向かうことになった。艇で直接乗り込むには森が深すぎるし、何より空飛ぶ船なんて見たこともない部族たちに敵襲と誤解されかねないからだ。
しかし思わず飛び込みたくなるほど透明度の高い海はずいぶんと静かだった。
美しいホライズンブルーの浅瀬には花畑に似た珊瑚礁が広がり、魚たちが水中の楽園での暮らしを謳歌している。いつもならそこにラナキラ族の漁師たちが小舟を浮かべ、素潜り漁に精を出している頃合いなのに、今日は浜に人影がない。
おかげで高速艇を浜辺に乗り上げたままにしておいても問題はなさそうだが、妙だな、とラッティは思った。
無名諸島の部族たちは暦を持たず、彼らに休日なんて概念はない。おまけに完全な自給自足の生活を続ける彼らにとって、毎日の漁は暮らしに欠かせない大切な仕事のはずなのに、ひとりとして海に出ていないというのはどういうことだろう。
「ラッティ」
「ああ。何とも間の悪いことに、集落で何かあったっぽいね。大したことでなけりゃいいんだけど……」
「おい、なんでそんなことが分かるんだ?」
「漁師が海に出てないからですよ。特に今の季節、無名諸島は雨季で川の魚が獲れにくい。長雨で川が増水して森中水浸しになってるから、魚があちこちに散らばっちまっていつもの漁場が使えないんです。だからこの時期は普段より海での漁が活発になるはずなのに、沖に小舟ひとつ浮いてないなんて」
「ほう。だが俺たちが最初に不時着した、ブワヤ島……だったか? あそこの浜にも漁師なんていやしなかったじゃねえか」
「まあ、そうなんですけど。無名諸島に暮らす部族はそれぞれ微妙に生活様式が違うんで、あの島の部族については何とも……アタシらもブワヤ島に住んでる部族のことはまったく知らないんですよ。もしかしたら農耕を暮らしの中心にしてる部族で、海での漁はそこまで盛んじゃないのかも」
「ふーん。じゃ、ここに住んでるラキ……ラキナラ? とかいう部族はどういう暮らしをしてるんだ?」
「ラキナラじゃなくてラナキラね。ここの部族は根っからの戦闘部族で、生活は狩猟が中心。他の島に比べて平地が少ないのもあって、農耕にはあんまり重きを置いてません。集落全体でも人口は百人ちょっとだから、海と森と川の恵みだけで生活が成り立っちまうんですよ。米とか黄黍とか、どうしても人の手で栽培が必要なものは島同士の交易で賄ってるみたいですしね」
「黄黍?」
「あら、ヴェンさんは黄黍、知りませんか? 無名諸島やテペトル諸島で暮らす人たちが主食にしてる穀物ですヨ。瓜南瓜みたいな太い芯に黄色いツブツブがびっしり生る食べ物なんですけど、炭火で焼いて食べるととってもおいしいんです」
「ま、オイラ的には茹でた黄黍こそが正義だけどな! 特にテペトル諸島産の白くて甘い品種な!」
「ヨヘン……さっきまで死にかけてたのに、元気だね」
などというやりとりをしながら、ラッティたちはいよいよワイレレ島の八割を覆う深い森へ分け入った。浜からラナキラ族の集落までは漁師たちが日頃行き来するための道が通っているものの、正直獣道がちょっとマシになった程度のものだ。
赤道付近の島ということもあり、森の中は大陸の国々の夏場よりも蒸し暑く、相変わらず噎せ返るような草熱れが緑色の世界に充満していた。
まるでぬるま湯の中を歩いているかのような湿気も健在で、ラッティはラムルバハル砂漠の灼けつくような暑さよりもこちらの方が気が滅入る。
頭上は背の高い木々の枝葉で覆われ、注ぐ日光はごくわずか。目につく草木は大陸では馴染みのない姿のものばかりで、幹にもびっしりと蔦が這っていたり苔生していたりするせいで、視界は本当に見渡す限りの緑だった。
おまけに島のあちこちからは聞き慣れない鳥や虫、蛙の鳴き声が響いている。
時折頭の上を島猿の群れが横断していくのが見えたり、信じられない色の蛙が道端の石の上にいたりで、初めて島に来るというヴェンはかなり物珍しそうだった。
だが森に入って半刻(三十分)もすると、さすがの彼も珍しい草花や動物たちに見入っている場合ではないと気がついたようだ。何しろこの島、蚊がすごい。数が多すぎて追い払うこともできず刺され放題だ。部落に着けば蚊除けの香を都合してもらえることもあるが、所詮は気休めだと思った方がいい。無名諸島において蚊と蜂は、前世からの強い絆で結ばれた隣人みたいなものだから。
「おい、ここ蚊が多すぎるぞ! どこまで行ってもまとわりついてきやがる……! こいつら何とかならねえのか!?」
「無理ですよ、マウ蚊は無名諸島の名物みたいなもんですし。それよか足もとに気をつけて下さい。蚊や蜂に気を取られてると毒蛇を踏んづけて噛まれたり、気づかないうちに蛭に吸いつかれてたりしますから」
「げえっ……さ……さすがすぎるぜ、未開の地……」
「へへっ、けど無名諸島には、連合国の識神図書館に収蔵されてる世界中の図鑑を集めても名前が分からない動植物がまだ数百種類もいるって言われてるんですぜ! カヌヌの話じゃ毒蛇だけで三十種類くらいいるって話だし」
「いや、んな話されたところでテンション上がるどころかドン引きなんだが……しかし疑問なのはだな、お前らの話を聞く限りじゃ、このあたりの島にはひとつひとつちゃんと名前がついてて、全然〝無名〟なんかじゃねえってこった。なのになんでここは〝無名諸島〟なんて呼ばれてんだろうな」
「ああ……それは初めて世界地図を作ったハノーク大帝国の冒険家が、島に住む部族と意思疎通できなかったせいだって言われてますね。お互いの喋る言葉が分からない上に、当時ハノーク人は侵略者として毛嫌いされてたから、相互理解を深めようにも槍を振り回して門前払いされたって話で。だからその冒険家は腹いせにここを名無しの島々にしたって聞いてますよ」
「ほお……意外にしょうもねえ理由で驚いた。とは言え連合国人の祖先が治めてたシャマイム天帝国はともかく、こんな小せえ島の集まりに過ぎない地域を大帝国が征服しきれなかったってのもまた興味深いな。圧倒的な軍事力で世界の四分の三を支配した大国が、なんでまた未開の原始人ごときに手こずったんだか」
「さあ……大帝国が始世期後期には天帝国侵略を諦めたからだとか、そもそも無名諸島に軍事的産業的価値が見出だせなかったからだとか、理由については諸説あるみたいだけど。島の人は昔から口を揃えて人蛇サマのおかげだって言いますね」
「人蛇サマ?」
「ええ。無名諸島に古くから伝わる言い伝えですよ。森の奥には半人半蛇の人蛇サマが住んでいて、彼らは恵みと災いを交互にもたらす。古代、島が大帝国の侵略から守られたのも人蛇サマのご加護のおかげ。だけど彼らの暮らす聖域には何人たりとも足を踏み入れてはならず、人蛇サマの怒りに触れることはすなわち滅びを意味する……ってね」
「半人半蛇……ってことは、人蛇サマってのはもしや亜人か?」
「たぶんそうなんじゃないかな。島の人は海と森の神だと信じて崇めてるみたいだけど、上半身が人で下半身が獣と言ったらアタシらはまず亜人を思い浮かべる。北のカザフ大平原で暮らしてる人馬族とか、テペトル諸島近海の海底に王国を持ってるっていう人魚族みたいなね」
「へえ。未だ謎に包まれし亜人の一族ってか。せっかく来たんなら会ってみてえもんだな、その未知の亜人とやらに」
「ヴェ、ヴェンさん、今のラッティの話聞いてました? 人蛇さまの暮らす森には誰も入れないんですヨ? 入ったら最後、生きては戻れないって島の人たちもみんな怯えててとても危険なんです。だから間違っても人蛇さまの森へ入ろうだなんて──キャウッ!?」
ところがそのときだった。森の中の細い道を渡る縦列の真ん中で、突然ポリーの悲鳴が上がった。何事かと振り向けば、後ろを歩くヴェンに気を取られていたのだろう、ポリーが何かに躓いてぬかるみの上に倒れ込んでいる。
が、それを見たヴォルクがとっさに手を差し伸べるよりも早く、いきなりラッティたちの天地がひっくり返った。足もとからビンッと音を立てて飛び出した物体が一行を地から引き剥がし、唐突に襲い来る浮遊感に目が回る。
悲鳴を上げる暇もなく、気づけばラッティたちは地上二枝(十メートル)ほどの高さで宙吊りになっていた。
しかも道を歩いていた五人とも、全員がひとつの網の中に捕らえられてぎゅうぎゅうになっている──罠だ。ひどく古典的で典型的な、侵入者撃退用の。
「ヒ・ホペナ・ケーラ!」
かと思えばどこからともなく独特の雄叫びが上がり、生い茂った草木の向こうから次々と人影が飛び出してきた。いずれの人影もほとんど裸に近い格好に石刃を括りつけた槍を持ち、大きく開けた口を掌で叩いてラッティたちを威嚇している。
小麦色を通り越して褐色に近い肌には、赤と白の顔料で描かれた三角模様。
間違いない。ラナキラ族の戦士たちだった。島の部族たちは顔や腕にそれぞれ決まった紋様を描くことで、どこの一族の者であるかを明確にしているのだ。
「お、おい、どうなってんだこりゃあ!?」
「あー、うん。見てのとおり捕まりましたね、ものの見事に」
「何でだよ!? 俺らはただお利口に道の真ん中を歩いてただけだろ!?」
「そうだけど、彼らにとっては無断で島に入った時点で立派な侵入者ですからね。だから浜で漁師と接触しときたかったんだけどなー」
「んなこと言ってる場合なのか!? あいつら弓を構えてやがるぞ!?」
「んー、やっぱり集落で何かあったのか、いつも以上に気が立ってますね。このままだと問答無用で殺されるし、ダメもとでやってみるか──同胞よ、同胞よ、我々は味方だ、敵ではない!」
無名諸島で暮らす部族のみが使う古の言葉、クプタ語。ラッティはそのほんの一部をかつて仲間だったカヌヌに教わり、操ることができた。と言っても喋れるのはたったいま発した命乞いの言葉と、ハノーク語で言うところの「ありがとう」「おいしいです」「ごめんなさい」「さようなら」の四語くらいだ。
丸一年島へ立ち寄るのを避けていたせいで発音も怪しいし、果たしてこちらの意図が伝わるだろうか。少々不安に思って網の間から見下ろしたら、有り難いことに戦士たちが動揺の素振りを見せた。
「同胞よ、同胞よ、友の顔を忘れたか?」
だからラッティもここぞとばかりに覚えている限りの命乞いの言葉をたたみかける。無名諸島で暮らす部族たちは女に弱い。いや、弱いというか、ここでは女は貴重な財産だから、たとえ侵入者であっても女はすぐに殺さないことが多い。
加えて敵だと思って捕らえた女が「味方だ」と連呼すれば、当然彼らは戸惑うはずだ。これで大人しく木から下ろしてくれればよし、ダメなら最後は武力行使、ならぬ化かし行使で──
「カリ! マイ・ペペヒア・ラーコウ!」
ところがラッティが腹の真ん中に化かしの力を溜めた刹那、聞き覚えのある声が森中に響き渡った。
成人男性の声にしてはやや高く、いかにも青年らしい若々しさを湛えた声。
一年ぶり。けれど忘れもしなかった。
四年間共に旅した仲間の顔。声。こちらを見上げてくる眼差しのまっすぐさ。
「よお、カヌヌ。久しぶり」
やがてラッティがポリーの毛皮に押し潰されながら手を振れば、彼は相変わらず異様に白い目と歯を輝かせて嬉しそうに破顔した。
「ラッティサン、お久しぶりデス! ボクらの新しい吊床、寝心地ドウデスカ?」
「うん、見てのとおり狭くて苦しい。たぶんこれ失敗作だから下ろしてくれる?」
「オー、ソレは残念デス。次はもうチョット大きくて立派な吊床、作りマス!」
まったく人の気も知らないで、一年ぶりに会うかつての仲間は流暢にハノーク語を操り、冗談を言うや無邪気に笑った。全然笑えない冗談だったけど、別れたときと何ら変わらない彼の天真爛漫さに、ラッティも口の端が持ち上がる。
果たしてそれは苦笑か自嘲か、自分でも判断がつかなかった。
ラナキラ族のカヌヌ。
彼こそがラッティたちの大切な友にして、亡きキーリャに想いを寄せていたワイレレ島の若者だ。