第七十二話 やつらはだれだ
砂浜に広げられた地図の海に、九つの小さな島が浮かんでいた。
島の上下には巨大な陸地。上にあるのが先日までグニドたちのいた北西大陸で、下にあるのがアビエス連合国のある南西大陸だ。
ラッティたちが『無名諸島』と呼ぶ島の群はそんなふたつの大陸の、どちらかと言えばやや北西大陸寄りの位置に浮かんでいた。南北の大陸の間には真横に一本、赤くて太い線が引かれていて、ちょうどその線にかかるかかからないかの位置だ。
線の色からして、恐らくはこれが〝赤道〟というやつなのだろう。
地図を覗き込んだラッティが指さしたのは九つの島のうち、赤道から最も遠い位置にある小島だった。
「ここがラナキラ族のいるワイレレ島。無名諸島にいる十一の部族の中で今一番強い発言力を持ってるのがこのラナキラ族でね。代替わりしてなければ、族長はオルオルっていう血の気の多い爺サマだ。島の部族の中でも特に余所者嫌いで有名だけど、アタシらのことはまあ、一応認めてくれてる。昔、ラナキラ族の度胸試しに挑んで生還したからね」
「度胸試し?」
「ああ。島にある高さ十二枝(六十メートル)の滝から飛び降りるっていうラナキラ族の通過儀礼サ。本当は成人を迎えた男児が一人前の戦士として認められるための儀式なんだけど、余所者も志願すれば挑戦させてもらえる。滝壺から無事に生きて戻れればラナキラ族の一員だ」
「じゅ……十二枝の高さの滝から、ですと……!? ラッティどのがそれに挑戦されたのですか……!?」
「うん、まあ、軽く死にかけたけど、当時はどうしてもやんなきゃいけない理由があってサ。アタシが飛べば隊商の全員を同胞として認めてやるって言われたし」
「うぅ……あのときのことは思い出すだけで心臓が縮みそうだワ……ラッティったらまったく危機感がないままひょいひょい崖を登っていくし、かと思えば飛び込んだあと全然滝壺から上がってこないし……ワタシたち、今度こそ本当にもうダメかと思ったのヨ」
「チューッ、そいつはオイラも見たかったなァーッ! そんな面白そうなこと、なんでオイラが仲間になるまで待っててくれなかったんだよ!? 絶対冒険記の見せ場になったのに!」
「じゃあ次はヨヘンが飛べばいいんじゃないかな」
「ハハン! そいつはお断りするぜ、全力でな!」
まったく偉くも何ともないことを偉そうに胸を張って言うヨヘンを、ヴォルクが珍しく侮蔑の眼差しで見下ろしていた。普段はヨヘンが何を言おうとまともに相手にしないのに、珍しい反応だ。
聞けば〝滝〟というのは川が崖から流れ落ちる地形のことらしく、ラッティは島の部族に認められるため、命懸けでそこから飛び降りたということらしかった。
それを娯楽か何かみたいに言われたら、当時ラッティの無事を祈って見守るしかできなかったヴォルクやポリーが怒るのも無理はないというものだろう。
ヨヘンは一度、獣化したヴォルクに喰われるべきだと思う。
「まあ、とにかく、アタシらは今からそのラナキラ族のところへ行って、オルオルから島に滞在する許可をもらってこなきゃいけない。でもオルオルにはハノーク語がまったく通じないから、まずはあの人の孫に会う必要がある。今も息災にしてるなら、あいつもラナキラ族の集落で暮らしてると思うけど……」
「ってことは、もしかして族長の孫ってのがお前らの昔の仲間なのか?」
「ああ、名前はカヌヌっていうんだけど。爺サマがとんでもない過激派なのに、カヌヌはアタシらと出会う前から島の外の世界に興味を持ってた変わり者でサ。時々島に来る余所者に声をかけては、自力でハノーク語を習得したすごいやつなんですよ。そいつに頼めばオルオルに会うのは難しくないはず。この大人数が島に留まるのを許してもらえるかどうかは分かんないですけどね」
「じゃ、ダメだったときはヴェンが滝から飛び降りるってことで。飛ぶのが大好きなあなたにはうってつけでしょ?」
「悪いが俺ァ上に向かって飛ぶしか能がなくてな。どっちかってえと、既に落ちるとこまで落ちてるお前の方が適任だと思うぜ、マドレーン」
「あらぁ、どういう意味かしら?」
かと思えば傍らでは、旗艦から戻ってきたヴェンとマドレーンが笑いながらどす黒い殺気を戦わせている。彼らの会話を聞いていると、大蛇と大蠍が威嚇し合っている禍々しい画が脳裏に浮かぶのは何故なのだろう。
とりあえず、未だ遠いアビエス連合国の仲間とどうやって連絡を取り合ったのかは知らないが、ヴェン曰く大破した九番艦の核石──これは飛空船の心臓みたいなものらしい──はもう元には戻らないらしかった。
そこでヴェンたちは連合国にいる仲間に知らせをやって、『ラルス』のための新しい核石を持ってきてもらうことにしたそうだ。
とは言えあんな大きな船を空に浮かせていることからも分かるとおり、核石というのは大変貴重なものでそう簡単に準備できるものではない。
連合国から島へ駆けつけるだけなら三日で済むが、諸々の手配に必要な日数も含めると、早くても到着まで七日ほどかかるとのことだった。
だが先のラッティの話にあったとおり、現在グニドたちがいる島々には先住民と呼ばれる人間がいる。ここは謂わば彼らの縄張りで、グニドたちはその縄張りに勝手に踏み入った侵入者だ。
死の谷で暮らす竜人も同じように部族ごとの縄張りを持っていて、たとえ同胞と言えども許可なく他部族の縄張りを侵した者には罰が下る決まりだった。
今回、グニドたちはやむにやまれぬ事情があって島へ漂流してきたわけだが、どんな理由であれ無断で縄張りに踏み込まれた先住民はいい顔をしないだろう。
だからラッティたちは島に暮らす部族の中で最も力のあるラナキラ族の長と会うと言っている。話を聞く限り、ラナキラ族の族長というのは谷で言う大長老のような役割を持つ人物のようだ。
九つの島に住む複数の部族を束ねる偉大な長。オルオルという名前はちょっと変わっているが、グニドはぜひとも一度会ってみたいと思った。
何しろ無名諸島で暮らす人間たちの暮らしはどこか竜人と似通っている。同じ人間の住処なのに不思議なことだが、カルロスたちのいたルエダ・デラ・ラソ列侯国とはまったく違う文化がここには根づいているようだ。
そう考えるだけでグニドは何だか無性にワクワクしてくる。砂漠を出て列侯国に入ったばかりの頃は、自分の存在が人間たちに受け入れられるのかと不安でしょうがなかったのに、今は不安よりも未知の世界に対する興味の方が勝っていた。
それもこれも、すべては列侯国で〝人間にも色々なやつがいる〟と学べたおかげだ。いつかカルロスが言っていたように、世界は無限の可能性で溢れている。
ならばこの島々にはどんな人間たちがいて、何を食べ、どういう服を着て生きているのだろう? 地図に浮かぶ九つの島を眺めれば眺めるほど、グニドの頭の中はそんな好奇心でいっぱいになった。まだ先住民たちに受け入れてもらえると決まったわけでもないのに、何やら童心に返った気分だ。
「ちなみに、ラッティどの。我々が今いる島は、先程上空から確認したところ最東の島だと判明したわけだが、ここはなんという名前の島なのかな?」
「えっと……確かブワヤ島、だったかな。アタシらも初めて来る島だ。普通、南北の大陸を行き来する船は諸島の西側を通るからね。東側はデタラメな海流が多いとかで、海の船乗りはこっち側には来たがらない。だから無名諸島で暮らす部族たちは、東へ行けば行くほど排他的になるとも聞いてる」
「じゃあ、ここに長居するのは得策じゃないんじゃないの? もしも島の住民に見つかったらひと騒動起きるかも」
「うん……だから可能なら、オルオルとの交渉が済むまで空艇団には上空にいてほしいんだけど。問題は『ラルス』をどうするかで……」
「そういうことなら、見通しが立つまでは『ラルス』を他の艦とつないで空に引っ張り上げとくしかねえな。狂魔女サマ曰く、飛べない艦をぶら下げて飛ぶのは状況的にあんまりよろしくねえらしいが」
「ムウ……? ヨロシクナイ、何故ダ?」
「『ラルス』が墜ちたのは事故じゃなくて人災の可能性が高いからよ。大きな声じゃ言えないけど──さっきのあの魔物の襲撃、偶然じゃないわ。どういうわけだか鴎のお腹の中で魔物を喚ぶ魔術を使ったお馬鹿さんがいる。たぶん魔界と契約してない人間でも使える下級魔術の類でしょうね、艦内に呪紋を描いた痕跡が残ってたから。だけど魔女が旗艦に乗ってることを承知の上でやったなら、犯人はとっても悪い子だわ」
「えっ……!? ま、ま、魔術ですって……!?」
途端にポリーが素っ頓狂な声を上げ、他の面々も一様に目を見張った。
魔物を喚ぶ魔術なんてものがあるとは、グニドは初耳だ。
けれどそう言われてみれば、マドレーンは船団が魔物の襲撃を受けている最中にも何かがおかしいと言っていた。
飛行型の魔物があんな大きな群をなしてやってくるなんて滅多にないことだと。
とすると誰かが魔物を呼び寄せたというマドレーンの見解には確かに信憑性がある。だが仮にそうだとすれば、一体誰が何のために?
自分たちが乗る船を魔物に襲わせて得をするやつなんて、少なくともここにはいないはずだ──いや、待て。
戦闘狂のヴェンならあるいは……と推測したグニドが思わず彼を振り向くと、こちらの思考を見透かしたのか、見つめられた当人が黒い帽子の下で片眉を上げた。
「おい、竜人。まさかとは思うがお前、俺を疑ってんじゃねえだろうな?」
「ム、ムウ……ダガ、オマエ、ズット退屈シテイタ……戦ウコト、望ンデイタ、違ウカ?」
「そりゃあ確かに命のやりとりほど楽しいモンはねえけどよ、わざわざ部下を危険に晒してまでてめえの欲望を叶えるほど酔っ払っちゃいねえよ。どっかの魔女サマじゃねえんだから」
「そうねえ。いくら飲んだくれのろくでなしだって言っても、ヴェンに魔術を使えるようなオツムがあるとは思えないわ。そんなまどろっこしいやり方をするくらいなら、野蛮人らしく腕でも切って血の臭いで魔物を誘き出そうとするでしょうし」
「い、いやいや、けどよ、マドレーン先生……! それってつまり先生みたいな希術師じゃなくて、正真正銘の魔女か魔人がいるかもしれないってことだよな? そいつが空艇団に紛れ込んで魔物を喚んだってことだよな……!?」
「〝マジン〟……?」
灰色の毛皮を緊張でめいっぱい膨らませたヨヘンが両手を振って喚いているが、グニドは彼の言葉の中に聞き慣れない単語を見つけた。
〝魔女〟は分かるが〝マジン〟とは何だろう、と首を傾げていると、両耳をピンと立てたヴォルクが気づいて話してくれる。
「……グニドにはちゃんと説明してなかったかもしれないけど、トゥルエノ義勇軍にいたマナさんとかそこにいるマドレーンさんは、希術を知らない国の人に魔女だと誤解されてるだけで本物の魔女じゃないんだ。正確には〝口寄せの民〟とか〝希術師〟とか呼ばれる存在で、彼女たちが使う力は魔界から授かったものじゃない。本物の魔女っていうのは邪神──つまり魔界の神を崇拝したり、その邪神に仕える魔族と契約したりして、呪いの力を手に入れた人のことをいうんだ。要は人間として生まれながら魔物になった人……ってことだね」
「ムウ……ニンゲンガ、魔物ニナルカ? 魔物、ニンゲンノ敵。ナラバ魔女モ、ニンゲンノ敵、トイウコトカ?」
「うん。一度魔界と契った人は、魔物と同じで人間を襲ったり食べたりするようになるからね……ちなみに〝魔人〟っていうのも魔女と同じ意味。ただ単に男なら〝魔人〟、女なら〝魔女〟って呼び分けてるんだ」
「でもさっきのマドレーンさんの言い方からすると、魔物を喚んだのは何も魔人や魔女とは限らないってことだろ? わざわざ魔界と契らなくても使える魔術があるって噂は、アタシも聞いたことがある」
「ええ。魔力を持たない人間でもきちんと生贄を用意して、正しい術式に則った儀式をすればちょっとした魔術は使えるわ。本来は識神図書館でも禁書指定されてるような書物でしか知ることのできないものだけど」
「そ……そんなものを知ってる人が、空艇団の中に紛れ込んでるってこと……? ど、どうして……何のために?」
「さてね。正体も動機もまったくの不明。だから警戒が必要だ。犯人の目的によっては、船を飛ばした途端にまた魔物をけしかけてくる可能性もある。ラッティ、島長との交渉にはどのくらい時間がかかるんだ?」
「はっきりとは言えないけど……今すぐワイレレ島に飛べば、たぶん明日までには。ただ、アタシらが魔物を呼び寄せると思われるとまずい。魔術を使うやつが近くにいるってことは、オルオルたちには黙ってた方がいいと思う」
「んじゃ、さっさと高速艇を出すか。島長との交渉には俺が行く。マドレーンとエクターは艦隊を守ってろ。獣人隊商、案内を頼むぞ」
「はい」
かくして方針は決まった。役割を与えられた面々が目的を果たすために動き出す。グニドもそれに倣おうとした。ヴェンと共に小舟に乗って、ラナキラ族の住処へ向かうという仲間たちに続くつもりで立ち上がる。が、
──ドテッ。
と、途端ににぶい音がして、座り込んだグニドの尻の下で砂が跳ねた。
「……?」
どうやら立ち上がったつもりが体勢を崩し、尻餅をついたらしい。
ならばもう一度、と両脚に力を込め、長い腕で体を支えようとして、
──ドテッ。
と、今度は前のめりに倒れて、鼻先から砂浜に突っ込んだ。
なつかしい。砂のにおいだ。
「グニド?」
そんなグニドの奇行に気がついたのだろう、すぐ傍でルルが不思議そうにしているのが分かった。が、グニドも自分がどうしてしまったのか分からない。立とうとしても立ち上がれないのだ。
「ああ、無理よ、竜人くん。あなた、私に魂を半分取られたばかりですもの。当分はまともに動けないわ。しばらく安静にしてなさい」
「ジャ……!? 聞イテナイゾ……!?」
「そうねえ、言ってなかったかもしれないわねえ。だけど魂って肉体と精神をつなぐ神経みたいなものだから、千切られたら体が言うことを聞かなくなるのは当然じゃない? むしろこんなに早く目が覚めたのが予想外っていうか」
「マドレーン、お前ってほんと魔女だよな」
「うふふ、ありがとう。褒め言葉として受け取っておくわ」
白い頬に手を当てて楽しそうに笑っているマドレーンとは裏腹に、浜辺に突っ伏したまま起き上がれないグニドはわなわなと失意に打ち震えた。
果たしてこのメスは自分に何の恨みがあるのか、列侯国で初めて出会ってからというものひどい目にしか遭わされていない。
だがこうも体が動かないのでは、ラッティたちと一緒に別の島へ移動するなんて無理だ。頭の半分以上を砂に埋もれさせたまま、グニドは親鳥からはぐれた走り鳥みたいに仲間を見つめた。振り向いたラッティたちから同情の眼差しを感じる。
「グニド……おまえさんの犠牲は無駄にはしないぜ」
「ああ……とりあえずオルオルのところにはアタシらだけで行ってくるから、アンタはそこで休んでな」
「グゥ……オレモ、オルオル、会イタイ……」
「心配しなくても体が回復したら会わせてやるって。……もちろんカヌヌにもね」
と、最後にそう付け足したラッティがふいと目を逸らしたのが気になったが、とにかくそういうわけで、グニドはマドレーンたちと一緒にブワヤ島で留守番ということになった。グニドが一緒に行かないと知るとルルも島に残ると言い出し、ラッティたちに代わって看病をしてくれるという。
ほどなく高速艇と呼ばれる小舟に乗った獣人隊商の仲間とヴェンが浜を発ち、沖に浮かんでいた飛空船も次々と空へ昇り始めた。
ただ一隻、土手っ腹に穴の開いた『ラルス』だけは自力で飛び上がれないので、あの穴を塞いでから他の船に縄で括りつけるそうだ。
『グニドー、いたいのいたいのー、とんでけー!』
と、砂の上にうつぶせたまま『ラルス』の応急手当を見守るグニドの横で、ルルが何かのまじないを唱えている。
別に体が動かないだけでどこか痛むわけではないのだが、グニドの肉体から何か抜き取り、放り投げるような仕草を繰り返すルルの表情は真剣だ。
『……ルル。それ、何してるんだ?』
『いたいのとんでけのおまじない!』
『うん……まあ、見れば分かるが。そんなのどこで覚えた?』
『こないだルルがころんだときにね、ポリーがとんでけー! ってしてくれたの。そしたらルルのいたいの、ほんとにとんでったの! だからグニドにもとんでけするんだよっ!』
『そうか……』
飛んでいけと念じるだけで本当に痛みがなくなるなら誰も苦労はしないのだが、ルルは大真面目なようだから諭しはすまい。何より彼女もグニドを想って懸命にやっていることだ。気持ちだけは有り難く受け取ろうと思う。
(しかし、さっき空艇団のやつらが森の木を切ってたのは船を修理するためだったんだな。あれが完了するまで島の住人に見つからなければいいが……)
青くてカッチリした揃いの衣服に身を包んだ空艇団の兵士たちは、みな汗だくになりながら切り倒した木を運んできて、今度はそれを薄い板に加工する作業をしていた。細かいギザギザの刃がついた妙な刃物を木の幹に擦りつけるようにして、慎重に切り分けていくのだ。
そうしてできた板の表面に鑢をかけて均等にならすと、『ラルス』の横腹に開いた穴を塞ぐように打ちつけていく。どんな形であれ、今はとにかくあの穴さえ塞いでしまえばいいから、見てくれはあまり気にしない方針のようだ。
「ふむ。しかし本当に仲がいいのだな、ルルとグニドどのは。我が連合国では人間と獣人が家族になるのはさして珍しいことでもないが、余所の大陸ではほとんど例のないことだと聞いた。貴殿らのような例がもっともっと増えてくれれば良いのだが、実現にはきっと途方もなく長い時間がかかるのだろう」
と、そのときすぐ傍でバサリと大きな羽音がして、エクターを乗せた翼獣が上空から舞い降りてきた。沖の船がほとんど浮上を終えたため、『ラルス』の修復を見守るマドレーンに状況を報告に来たようだ。
「あ、エクター! エクターもとんでけのおまじない、する?」
「いや、私は遠慮しておこう。それはルルが唱えるからこそ意味のあるものだ。私が真似したところで効果は薄いだろう」
「そうなの?」
「そうとも。君は賢い子だからな、ルル。神々が微笑むのはいつだって君のように素直で優しい子だ」
『……! グニド! ルル、かしこいって!』
『そうだな、お前は賢いな』
『ヤーウィ!』
褒められたのがよほど嬉しかったのだろう、ルルは無邪気に喜ぶと、寝そべったままのグニドの首にがばりと抱きついてきた。そうして鼻先をグニドの鬣に突っ込み、高速でぐりぐりしている彼女を余所に、グニドは目だけでエクターを向く。
「エクター。連合国ハ、イイトコロカ?」
「ああ、もちろんいいところだとも。偉大なる博愛の神子ユニウスさまが、己のすべてを擲って築いて下さった素晴らしい国だ。連合国には争いもなければ飢えも貧困もない。誰もが助け合い、許し合い、愛の神の名の下に平和な国を創ろうと日々努力している」
「……ソウカ」
「無論我々が人である以上、些細な行き違いや意見の対立はあるがね。しかしだからと言って相手を蔑んだり、嘲ったり、憎んだりするのがいかに愚かなことか、ユニウスさまは根気強く我々に教えて下さっている。あのお方はどんな人種も、どんな種族も、国境や血の垣根を越えて必ず分かり合えると信じておられるのだ。だから我らも信じられる。いつかすべての人類が手を取り合い、共に歩める日が訪れるはずだと」
「ムウ……ユニウスハ、誰モ差別シナイカ? オレガ、人喰イ獣人デモ?」
「ああ、するはずがないとも。貴殿ら竜人が人間を襲うのは、獅子が生きるために弱き獣を狩るのと同じことだろう? 我々猫人もまた、食べるために野ネズミや魚を獲る。だのにネズミが人に代わったからと言って、貴殿らを責めることはできない。何故なら命に軽重はないからだ。人もネズミも神々に許されて生まれてきた以上、平等に尊く、平等に美しい。神もこの世に生まれてはいけないものを送り出すほど愚かではないし、暇でもないからね」
やはり砂がつくのが気になるのか、エクターはヴェンのものとはまた違った形の鍔広帽を頭から外して、目につく砂粒を几帳面に払い落とした。
彼の口ぶりからして、連合国の長であるユニウスというやつは非の打ちどころのない人格者で、誰からも敬愛される存在であるらしい。
だがグニドはまだ見ぬ列侯国の地を踏むのが楽しみな反面、少しだけ不安なのだ。何しろ自分は列侯国で、神に乗り移られたカルロスの末路を目撃した。
そしてユニウスもまた神子であるということは、カルロスのように肉体を神に奪われるときが来るかもしれないということだ。そうなったら連合国は、エクターの言うような平和な国ではいられなくなるのではないだろうか。
何しろ人間たちの信じる神というやつは信用ならない。
やつらは竜人が古くから信仰してきた精霊とは違う。強大な力でもって人類に干渉し、世界を都合のいいように創り変えようとする連中だ。
聞くところによるとユニウスが宿しているのは争いを嫌い、万人を優しく包み込む慈愛の神だというが……果たして信じてもいいのだろうか。
グニドはフーッと鼻からため息をつき、鼻先に付着した白い砂を吹き飛ばした。
「ソウカ……オレ、連合国、着イタラ、ユニウスニモ、会ッテミタイ。ユニウス、ドンナヤツカ、トテモ興味アル」
「それはいい。連合国には猫人を始め様々な獣人が暮らしているが、さしものユニウスさまも竜人と対面されたことはないだろうからね。しかも異国の地からの客人ともなれば、きっと喜んでお会い下さるだろう。貴殿らのことは我々からユニウスさまに紹介させてもらうよ」
「本当カ?」
「ああ。多忙な方だが、ユニウスさまは下々の者とお会いになることを拒まれない。むしろ自ら進んで民と交わりたがるお方だ。私の父は二十年前、ユニウスさまと共に連合国の建国に携わった名誉の騎士なのだが──」
と、得意げに胸を反らしながら話していたエクターが、そのとき不意に口を噤んだ。かと思えば彼は金色の瞳を見開いて一点を凝視している。
エクターが見つめているのは目の前のグニドやルルではなく、もっと遠いどこかだった。異変に気づいたグニドが頭をもたげ、長い首を巡らせて振り向いた先には森がある。瞬間、エクターが一体何に驚いているのか、グニドもすぐに理解した。
何故なら先程空艇団の兵士たちが切り倒した木のあたりに、何かいる。
そいつは後ろ脚で立ってはいるが、恐らく人間ではない。というのも全身が石炭でできているみたいにゴツゴツしていて真っ黒なのだ。さらに言えば頭部が平たく、鼻らしきものが前方に突き出していて、股の後ろには尻尾も見える。しかし手には槍のようなものを持っているところを見ると──もしや獣人か?
「サハ、サヌヘャン?」
グニドたちと目が合ったことを悟ったのだろう、そいつは森と砂浜の境界に佇んで奇妙な声を発した。やたらと低くていがらっぽい、オスの竜人によく似た声だ。
おかげでグニドは目を見張った。まさかあそこにいるのは同胞か?
いやいや、そんなわけがない。確かに声はそっくりだが、やつは首がないし鬣もない。代わりに頭から尻尾にかけて、短いトゲみたいなものが並んでいる。
しかし、もしやあれは……やつの全身を覆っている真っ黒なあれはひょっとして鱗だろうか? ずんぐりした体型や尻尾の形も竜人に似ていると言えなくもない。一体全体何者なのか。グニドは息を詰めてなおもそいつを凝視した。するとやつは平たい頭をちょっと傾け、ずらりと牙の並んだ口でなおもしゃがれた声を上げる。
「アハ・サヌヘャン・ウォング・リヨ?」
刹那、グニドは理解した。最初は変わった鳴き声だと思ったが違う。あれは言語だ。グニドたちの知らない言葉で、やつは何か喋っている。たぶん、というか確実に、自分たちに向かって語りかけているに違いない。が、やつが操る言語はグニドが知る竜語でも、人語でも、ましてや古き人間たちの言葉でもない。
──一体何を言っている?
「グルォオォオオォォオッ!!」
ところが次の瞬間、突然やつが天を仰ぎ、何の前触れもなく吼えた。
グニドたちのいる波打ち際から森まではそこそこ距離があるというのに、頭蓋が揺さぶられるようなとんでもない声だ。すぐ傍で浜辺に座り込んだルルがびくりと跳び上がりながら耳を塞ぎ、エクターも真白い毛皮をぶわりと逆立てた。
『ラルス』の修繕に没頭していた空艇団の兵士たちやマドレーンもその声でようやく見慣れぬ獣人の存在に気づいたらしく、面食らった顔で振り向いている。
だが事態はそれだけでは収まらなかった。
『ぐ、グニド……!』
怯えたルルが青い顔でグニドにひしと抱きついてくる。
エクターが口笛でとっさに呼び寄せた翼獣も、爪の生えた四足を突っ張り、頭を低くして威嚇の唸りを上げていた。
何故なら森の奥から続々と、やつと同じ黒い獣人が湧き出してくる。
間違いない。さっきのやつの咆吼は、仲間を呼び寄せるためのものだったのだ。
「サハ・スィング?」
「ウォング・スィング・ニェラング!」
手に手に槍を携え、胸と股の間だけを覆う鎧のようなものを身に着けた謎の獣人たちが、わらわらと浜辺に集まってきた。
かと思えば揃ってこちらに牙を剥き、あのおぞましい吼え声を上げ始める。
どこからどう見ても威嚇されていた。なんということだ。
無名諸島最東端の島、ブワヤ島。
どうやらここは、彼らの縄張りであるらしい。