第七十話 愛の国の魔もの
アビエス連合国までの空の旅は、多少寒すぎることを除けば極めて安全で平和なものになると思っていた。
だって空飛ぶ船を襲撃してくる敵なんて、この世のどこにいるというのか。考えてみてパッと思いつくものと言えば竜くらいだが、誇り高き竜族は、そもそも下界の事情に干渉することは滅多にないと聞いている。
いかなる生物も寄りつかぬ孤高の山の頂から、地上世界を睥睨するもの。竜族とはそういうものだとグニドは習ったし、だからこそ空の旅は安全で快適なものになると手放しに信じていた。
が、よくよく考えたら、魔物の中にだって空を飛ぶやつらはいる。
実際、グニドたちが先日まで身を置いていたサン・カリニョが魔物の襲撃を受けた際、多種多様な異形のものが寄り集まった大群の中には翼を持っているものも多くいた。何故それを失念していたのか自分でも疑問だが、とにかく今、グニドらの乗る船はそうした羽つきどもの急襲を受けている。
「グニド、一匹そっちへ行った!」
と、旗艦の前方──ヴェンたちがよく〝舳先〟と呼んでいる場所の近く──で戦うヴォルクの呼び声が聞こえ、グニドは心得たと答える代わりに低く唸った。
すると頭上をバッと黒い影が通りすぎ、空中で身を翻して、甲板の一段低いところにいるグニドを見下ろしてくる。
ひと言で形容するなら、それは翼の生えた目玉だった。
そいつは人間の眼に似た白目の真ん中で、真っ赤な瞳孔をかっぴらいている。目玉と言っても大きさはルルの身長ほどもあり、眼球のすぐ下に牙の生えた大きな口が裂けているという、なんとも奇っ怪な見た目の魔物だ。
さらに頭からは二本の角、背中には蝙蝠に似た翼が生えていて、空飛ぶ目玉はグニドを見るなり「ギャギャギャッ」とやかましく鳴いた。もしかするとこいつは、グニドが背中で守っているのがルルたちの逃げ込んだ船内への入り口だと見抜いたのかもしれない。
「ギシャアアアッ!」
直後、空飛ぶ目玉は黄色い唾液を撒き散らしながら牙を剥いて急降下してきた。対するグニドは扉の前から一歩も動かず、両足を踏ん張って、長い首で天を仰ぐ。
そこから降ってきた巨大な目玉を、大竜刀で一刀両断した。グニドの頭部にかぶりつこうとしていた目玉に分厚い刃がめり込み、押し潰すように切り裂き、真っ二つにする。右と左に分かれ、ドシャッと甲板に落ちた目玉は、絶命してからもしばし不気味に痙攣していた。裂けた断面からは異臭を放つ真っ黒な血が溢れ出し、あたりに漂う腐った肉よりもひどいにおいに、グニドは思わず顔を顰める。
「おい野郎ども、弾幕薄いぞ! もっと撃て、撃ちまくれ!」
一方、グニドの向かいに見える艦橋では、依然柵に足を乗せたままのヴェンが楽しげに騒いでいた。彼の手の中には船の乗組員たちが〝伝声管〟と呼ぶ円錐状の筒が握られていて、ヴェンは先程からそれに向かって叫んでいる。
どうやらあの筒は船の中にいる部下たちに声を届けるためのものらしく、ヴェンが何か指示を与えると即座に船が応えて動いた。今もまたズドンという轟音と共に船が揺れ、船体の側面から巨大な火の玉が飛んでいく。
グニドは始め、あれを神術の類だと思ったのだが、どうやらそうではないらしかった。たったいまグニドがいる最上甲板の下には〝砲列甲板〟と呼ばれる場所があって、ヴェンが握っているものよりもっとずっと大きな石の筒が並んでいる。
目下、グニドの視線の先で次々と魔物を撃ち落としている火の玉は、その石の筒から発射されているものだ。ヴェンはあの石筒を〝希術砲〟と呼んでいた。
希術砲とは他ならぬアビエス連合国の誇る技術で、神術の素養がない人間であっても神術と同等の力が使える優れものらしい。ルエダ・デラ・ラソ列侯国で侯王軍の心胆を寒からしめ、結果として内乱を終結に導いたのも希術砲の力だと聞いた。
「ハハハッ、いいねえ! 血沸き肉躍るたあまさにこのこと! 俺ァこういうのを待ってたんだよ!」
と、ヴェンはさらに上機嫌に、伝声管とは別に握ったもうひとつの筒を天に掲げる。すると細い筒の先端からも火の玉が飛び出し、今まさにヴェンへ襲いかかろうとしていた魔物の胸部を貫いた。
鉄と木材を接ぎ合わせて造られた妙な筒──〝希術銃〟の中で豆粒大に圧縮された炎は、魔物の体内へ入り込むや炸裂し、一気に肉を燃え上がらせる。
一瞬にして炎に包まれた魔物は断末魔の叫びと共に、もがき苦しみながら甲板へ落ちた。が、あれでは木でできた飛空船に火が移ってしまう。
「ちょっと、ヴェン! 珍しくやる気になってるのは結構だけど、少しは船のことも考えて戦いなさい! あんたは一旦戦闘となると見境がなさすぎるのよ!」
ところが魔物の死骸を燃料に燃え盛っていた炎は、ほどなく水の風によって消し止められた。魔女であるマドレーンが魔法によって水を操り、風のごとくうねらせて消火に当たったのだ。
おかげで床はいくらか焦げたものの、大火事にはならずに済んだ。まったくあの男はマドレーンの言うとおり、いざ戦いとなると別人のようになる……というかもはや本当に別人なんじゃないのかと思いながら、グニドは高笑いしているヴェンへ呆れの視線を投げかけた。
「まあそう堅えこと言うなや、マドレーン。列侯国じゃ戦らしい戦ができなかったんだから、たまにゃはしゃいだって罰は当たらねえだろ?」
「〝はしゃぐ〟って、いい歳した男が何言ってるんだか……あんたってほんとどうしようもない死にたがりよね」
「ふん。仮にそうだとして、そいつァ死神が俺から逃げてくのが悪ィのさ。逃げる女は追いかけたくなるのが男ってもんだろ?」
「死の神が女神だなんて説、聞いたことないけど?」
「ヴェンどの、マドレーンどの! これしきの敵、あなた方にとって脅威でないのは重々承知しておりますが、もう少し真面目に戦って下され! でないと騎士たちの士気に関わります!」
「あらエクター、失礼ね。私をこんなのと同列に扱わないでくれる?」
「そうだぞ、エクター。マドレーンと違って、俺ァ至って大真面目だ!」
翼獣を駆ったエクターの悲痛な訴えを聞き流し、ヴェンは希術銃を撃ちまくりながら愉快そうに笑って言った。それを見たエクターは狭い額に手を当てて、がっくりとうなだれている。グニドは心底からエクターに同情した。
(しかしあのヴェンとかいう男、直前まで酔っ払って寝腐ってたのが嘘みたいだな。あそこまで好戦的だと、いっそ砂王国人といい勝負だ)
少なくとも今のヴェンは見たこともないくらい活き活きとしていて、顔の色艶もいい。普段のだらけきった彼からは想像もできない姿だ。
しかし博愛の国を守る空の戦士が無類の戦闘好きというのは如何なものなのだろう。これから向かうアビエス連合国は至って平和で厭戦的な国だと聞いていたグニドは、眼下の海を越えるのが次第に不安になってきた。
「おいグニド、大丈夫!? そっちの状況は!?」
と、そのとき扉一枚隔てた背後からラッティの声がする。彼女とルル、ポリー、ヨヘンは船内の安全な場所へ退避したはずだが、いつまでも砲音が止まないので、心配になって様子を確かめに来たようだ。
「大丈夫ダ、ラッティ。魔物ノ数、トテモ多イ。ダガ戦イハ、オレタチが優勢ダ」
事実、船団の行く手から飛来する魔物は倒しても倒しても湧いてくるが、味方から被害が出ている気配はない。グニドやヴォルクも魔物が船に乗り込んできた際の白兵戦要員として駆り出されているものの、無数の飛空船から放たれる砲火を掻い潜り、無傷で旗艦まで辿り着ける魔物はごくわずかだ。
だから正直、グニドは燻る闘志を持て余している。ヴェンほどではないにしろ、目の前で戦闘が行われていれば血が滾るのが戦士の性だ。しかしここは空の上──空飛ぶ敵と戦う術を持たないグニドは出番がない。それはヴェン率いる空艇団の強さの証明なのかもしれないが、彼らが扱う数々の兵器の前では竜人すらも無力だと言われているような気がして、グニドはどうも落ち着かなかった。
「……だけど妙ね」
「ジャ?」
「魔物が群を作って徘徊するのはいつものことだけど、今回はやけに数が多い。しかも飛行型の魔物だけが集まって、ここまで大きな群をなすなんて──」
と、マドレーンが珍しく真面目な顔をしてそんなことを呟いた、直後だった。
突如希術砲のものとも希術銃のものとも違う爆音が轟き、船がズシンと小さく揺れる。希術砲が斉射されたときの衝撃ほど大きくはないものの、目には見えざる巨大な手にぐっと頭を押さえられたような揺れ方だ。
何だと首を巡らせれば、旗艦の前方を飛行する中型船が船底付近から火を噴いている。希術砲が火の玉を撃ち出すときにほとばしらせる火の粉とは違う。あれは明らかに何かが燃えている。その証拠に中型船はゆっくりと傾き始め、ひと目で異変が起きていると知れた。旗艦を守るように飛んでいた猫人たちがそれを見て騒ぎ出し、うち数騎がエクターの指示ですぐさま状況確認へ向かう。
「提督! 九番艦『ラルス』が魔物の攻撃を受け動力部を損傷! 衝撃で核石に異常発生! 艦長判断で脱出艇による乗組員の退避を開始しましたが、艦の出力が低下し、間もなく航行不能に陥るとのこと……! このままでは、堕ちます!」
やがて燃え盛る船から戻った猫人が、翼獣の上から鬼気迫る形相で叫んだ。グニドには分からない言葉ばかり並んで、詳しい状況は分からないが、とにかくあの船は堕ちるらしい。なんてことだ。グニドはぞっとして燃え盛る中型船──名前は『ラルス』というらしい──を顧みた。船底から火を噴く『ラルス』はちょっと目を離した隙にますます傾き、今にも横倒しになろうとしている。
あれでは乗組員たちが船から零れ落ちるのも時間の問題だ。そうして空中へ放り出されたが最後、彼らは一〇〇枝(五〇〇メートル)の高さから海へ飛び込み……もとい海面に叩きつけられて粉々になる運命が待っている。
「ヴェン、高速艇を回して! 私が行って『ラルス』を立て直してくるわ! エクター、あなたは白猫隊を総動員してクルーの脱出の援護を!」
「承知した! アイル、ノースはマドレーンどのの護衛につけ! 騎士の誓いにかけて、魔のものどもには指一本触れさすな!」
「畏まりました!」
ところが刹那、動転したグニドのすぐ傍でマドレーンがとんでもないことを言い出した。もう半ば倒れかかっている船をひとりで立て直す、だって?
いや、彼女が持つ魔女の力を駆使すれば、もしかするとそんなことすらも可能なのかもしれない。けれど『ラルス』は旗艦よりひと回りほど小さいとは言え、マドレーンと比べればあまりに大きい。
あんなにも巨大なものを、たったひとりの魔女の力でどうにかできるものなのか? グニドは炎上する『ラルス』とマドレーンとを見比べて、彼女を止めるべきか否か悩んだ。この軍団の長たるヴェンは毛深い腕を組んだまま何も言わないし、そうこうする間にもマドレーンは旗艦に横づけされた小さな船──人間が四、五人乗れるかどうかの──にひらりと飛び乗ってしまう。
「マ、マドレーン!」
「なぁに、竜人?」
「オ、オマエ、一人デ行クカ? オレ、何カ手伝ウカ?」
ヴェンとはまた違った意味で掴みどころのない女だが、マドレーンには一応ルルを助けられた恩がある。恩人をひとりで危険の只中へ飛び込ませるわけにはいかない。ゆえにグニドが船縁に立ってそう尋ねれば、途端にマドレーンの紅い唇が三日月を描いた。
「いい心がけね、竜人。じゃあ、あなたの力も少しだけ借りようかしら?」
「ウ、ウム。オレニデキルコト、アレバ──」
「そうねえ。なら、あなたの魂の半分をちょうだい、〈グニドナトス〉」
瞬間、紫幻石の瞳を弓形にしたマドレーンがグニドの知らない言語を唱えた。かと思えばグニドの体は石化したように指一本動かせなくなり、思考さえも凍りつく。
──何が起きた?
そんな疑問を抱くことさえできなかった。
硬直した全身からすうっと大切な何かが抜き取られ、直後、グニドの視界は暗転した。
×
そこはとても不思議な場所だった。
見渡す限りの暗闇で、地面がない。
地面がないのに、地に足がついている感覚がある。でも、やっぱり何もない。何故何もないことが分かるのかというと、グニドの足の下を河が流れているからだ。
ゆったりと、滔々と。ある場所では交わりながら、ある場所ではすれちがいながら、ゆるやかに絡まる糸のごとく入り乱れたそれはただの河じゃない。
光の河だ。
まるで天から落ちてきた星が寄り集まって、ゆっくりと流れているような。
『やあ』
『来た』
『来たね』
『グニドナトス』
『待っていた』
『待っていたよ』
『ようこそ』
『〝世界の深淵〟へ』
その河の中から、声がする。
首を伸ばして星々の間を覗いてみるも、誰が話しているのかは分からない。
いや──あるいはこの河を構成する星たちが喋っているのだろうか?
そう考えた方が納得がいくほど、声は幾重にも重なって聞こえた。
老若男女、様々な囁き声で。
「……誰だ?」
だからグニドは尋ねてみる。ゆるやかに蠢く星の河を覗き込んだまま。
するとくすくすと誰かが笑う。あちらでもこちらでも、子供のように無邪気に。それでいて、何か秘密を隠し合うみたいに。
『さあ』
『だれだろう』
『誰だろうね』
『わたしたちは』
『僕たちであって』
『誰でもない』
『強いて我々を定義するのなら』
『そうだな──』
『〝精霊〟』
『竜人たちがそう呼ぶものに近いかもしれないね』
『しれないね』
『そうかしら?』
『そうだろう』
暗闇の中に響き渡る無数の声は、不思議なことに大勢で交わされる会話のようにも、ひとりごとのようにも聞こえた。〝精霊〟──これが〝精霊〟と呼ばれるものたちなのか。しかし彼らは不可視で不可触の存在なのではなかったか。
されどグニドには、見える。屈んで腕を伸ばせば、掌でだって掬えそうだ。
星の河とグニドの距離はそれほど近い。なのにいざしゃがんで腕を伸ばしてみると、指先は星を掴めなかった。届かない。変だ。確かに届いているはずなのに。
「……ここはどこだ? おれは死んだのか?」
『いいえ、グニドナトス』
『おまえは生きている』
『生きているわ』
『ただ眠っているだけ』
『そう』
『魂のゆりかごで』
『眠っているだけ』
『きみは魔女に取られたろう?』
『魂の半分』
『つまり、今のあなたはたった半分』
『半分だけ!』
『だからここへ来たのだね』
『世界の深淵』
『真理の園へ』
彼、彼女、あるいは彼らが何を言っているのか、グニドにはまったく分からなかった。でも何故だか戸惑わないし、不気味にも思わない。
ここは初めからそういう場所で、在るべきものがただ在るように在るだけ。頭のどこか、あるいは本能のどこかで、そう理解している自分がいるのだと悟った。
だから心はどこまでも静穏で波立たない。今の気分を何かに譬えるのなら、そう……やわらかな午後の陽射しの中でまどろんでいるときのそれに似ている。
『さて、グニドナトス』
『君に啓示を授けよう』
『授けよう』
「啓示?」
『そうとも』
『グニドナトス。おまえは』
『選ばれた』
『神々に』
『選ばれた』
『天の愛し子』
『彼女の守護者』
『されど愛し子の胸には』
『太古の神秘と』
『祈りが眠る』
──天の愛し子。
そう言われて、真っ先に脳裏に浮かんだのはルルの顔だった。
ルルアムス。万霊刻と呼ばれる謎の神刻を持って生まれ、神の声を聞く力を授かった幼き預言者。
けれど〝太古の神秘〟とはどういうことだろう? それはルルが誰にも教わったことのない言葉──古き人間たちの言葉を話せることと関係している?
『そしてグニドナトス。君もまた』
『太古の神秘に糾われし者』
『彼らの手により生まれ落ちた』
『新たな命』
『その末裔』
『〝遺物〟の守護者』
『彼らの願いの』
『ひとつのかたち』
『だから君は』
『抗える』
『抗う力を持っている』
『神々に』
『運命に』
『エマニュエルの理に』
『されどいずれの道を選ぶかは』
『ああ』
『おまえ次第だ』
『グニドナトス』
星々の言葉はやはり要領を得なかった。しかし刹那、どこからともなく風が吹き、グニドの緋色の鬣を撫でるように吹き抜けていく。
──ああ、そうだ。おれはグニドナトス。
守り人のグニドナトス。
おれたちは生まれた。守るために。叶えるために。抗うために。
魂の奥底にある記憶。恐らくは遥かな昔、折り重なるいくつもの前世の向こうから連綿と続く、この河の向こうの記憶。
「なあ。ゆりかごの主たちよ」
だからグニドは星々に向かって、自然とそんな風に呼びかけていた。
「おれはルルを守る。そう決めた。今までもこれからも、おれの命が続く限りずっと」
瞬間、光の河が微笑んだ。誰の顔も見えないのに、そう思った。
星の瞬きが音を帯びる。
きらきらと、儚く美しいものが触れ合うような透明な音。
その音が次第に近づいていた。それは足音であり、時間であり、現実だった。
彼らは言う。
『ならばおいきなさい、グニドナトス』
『ああ』
『我らは君の選択を』
『祝福しよう』
『そしていつか』
『君が往くその道の果てで』
『 また会おう、鱗の民よ 』