第六十九話 天空にて
サン・カリニョを飛び立った翌朝、甲板に出てみると、眼下の景色が一変していた。ところどころ雪で斑を作りつつも、果てしなく続くかに思われていた大地は既にない。
代わりにグニドたちの視界を埋め尽くすのは、青。見渡す限りの青。
海だ。ルエダ・デラ・ラソ列侯国の南、人間たちが〝西中央海〟と呼ぶ海が、そこにある。
「ふわあー!」
その遥かなる海原を越え、南の彼方にあるというアビエス連合国を目指す船。それもただの船ではなく、くるくる回るヘンテコな翼をつけた〝空飛ぶ船〟の上から、ルルが歓声と共に身を乗り出していた。
何しろルルは本物の海を見るのが初めてだ。グニドの故郷である死の谷からここまで、砂の海──広大なる灼熱の大地、ラムルバハル砂漠──や草の海──ルエダ・デラ・ラソ列侯国に広がる悠大な草原──は目にしてきたが、深く青い水の海とは、まったくもって縁がなかった。
「すごい! すごい、すごい、すごい! あれ、ぜんぶ水!? あれが〝海〟!?」
「ふふ、そうヨ、ルルちゃん。世界で一番大きな水溜まり──あれをワタシたちは〝海〟って呼んでるの。海は普通の水溜まりよりもずっと深くて、波があって、色んな生き物が住んでいて、あととってもしょっぱくて……」
「しょっぱい!? 海、しょっぱいの!?」
「ええ。ルルちゃんも料理の味つけに使うお塩は知ってるでしょ? 海の水にはあのお塩がいっぱい溶けてるの。ワタシたちが普段使っているお塩は、海の水の中から取り出したものなのヨ」
「えぇ……!? 水の中にお塩があるの……!? でも、海、なんでお塩がいっぱいあるの?」
「フッフッフッ……ルルよ、その謎に迫ろうと思ったら、オイラたちは神話の時代──世界の創世期まで時を遡らねばならんのだッ……! おまえさんには世界の真実に触れる勇気があるかッ……!?」
「んー……ヨヘン、なに言ってるのかわかんない」
「いいだろう、ならば話してやるッ! そもそも海というのはだな、エマニュエルに大地ができる前、天界で暮らしていた神々の血が滴って生まれたものなのだ! 神の血が青いってのは有名な話だが、海が真っ青なのもそのせいで……」
「やがて海の上に大地が生まれて生き物が暮らすようになったとき、最初に困ったのが〝水がない〟ことだったの。最初の人間たちは喉が渇いて海の水を飲んでみたけれど、とっても神聖で強い力を持つ神々の血は、人の体には毒だった。そこで水の神であるマイムさまが《天空の水瓶》と呼ばれる水瓶を使って、十六日間海に水を注がれたのヨ。そうすることで神々の血を薄めようと考えたのネ」
「しかしッ! それを面白く思わなかったのが原初の魔物、すなわち《魔王》だッ! 人間が渇き苦しむ姿をもっと見ていたいと考えた《魔王》は、ある日水瓶の水にこっそり毒を混ぜた! おかげで海は巨大な毒沼と化してしまったわけだが、《魔王》の悪だくみに気がついた神々は、大量の塩を撒くことで毒を浄化したッ……! 現代でもちょっとしたお清めや厄払いのとき、塩を撒くのはそういう伝説があるためだッ!」
「じゃあ、海がしょっぱいのは、神さまがたくさん塩を入れたから?」
「そういうことになるわネ。塩は本来天界にしか存在しないものだったんだけど、神さまがそうして海に撒いて下さったから、地上でも手に入るようになったのヨ。貴重な天界の産物だからって、とっても高価なのが玉に瑕だけれどネ……」
などという仲間の話し声がグニドたちの頭上、高速で回転する翼の風切り音の狭間に聞こえてくる。この飛空船と呼ばれる船は、地上のあらゆる障害をものともせずに進めるのが利点だが、一方で回転翼の立てる音が非常にうるさいのが厄介だ。
カルロスたちとの別れから一夜明け──アビエス連合国への帰還を目指す連合国第一空艇団の旗艦に乗り込んだグニドたちは、ようやく空の旅に慣れ始めたところだった。空艇団はまるで群をなして飛ぶ渡り鳥のように整然と船列を組み、一路南へと飛んでいる。
海面との距離はおよそ一〇〇枝(五〇〇メートル)ほど。おかげで甲板と呼ばれる船の最上層は風が強かったが、幸いにも天候には恵まれていた。回転翼の真下、翼を支える柱に掲げられた白い帆が目一杯膨らんでいるところを見ると、船は今、追い風を受けて順調に進んでいるのだろう。
「いやー、しかしさすがのアタシらも、飛空船に乗って海を越えるってのは初めてだね。ヨヘンの妹が設計したっていう新型船に試乗させてもらったことはあるんだけどサ。グニド、アンタは大して驚いてないみたいだけど、竜人もさすがに海は知ってンの?」
「ウム……死ノ谷ノ南、海、アル。海ノ近ク、エディサエス族、住ンデイル。オレ、一度ダケ、エディサエス族、訪ネタ。海、ソノトキニ、見タ」
「へえ。竜人って海で暮らしてるヤツもいるんだ? ソイツは初耳だね。じゃあ竜人も波打ち際で海水浴とかするの?」
「カイスイヨク……? ワカランガ、エディサエス族ハ、海デ狩リ、スル。深イトコロマデ潜ッテ、血デ〝クラース〟、誘キ寄セテ、狩ル」
「〝クラース〟?」
「ムウ……クラース、トテモ、デカイ魚。牙、生エテイテ、鱗ガナイ。灰色デ、ザラザラシタ肌ノ──ブシュッ!」
と、ラッティに鮫の説明をしている途中で、グニドは不意に込み上げてきた衝動に任せ、盛大なくしゃみを炸裂させた。するとその音に驚いたのか、船縁で得意気に己の知識を披露していたヨヘンが「ギャッ!?」と飛び上がる。
途端に強風の煽りを受けて、船縁から転げ落ちそうになったヨヘンをヴォルクが捕まえた。グニドのくしゃみに驚いたのと落下で肝を冷やしたのとで、直前までの熱弁から一転、「ひぃぃ!」と情けない声を上げたヨヘンは灰色の毛皮を針鼠みたいに膨らませている。
「お、おおおおおいッ、グニド! びっくりさせるんじゃねーよ! 近い将来エマニュエルの至宝と呼ばれるであろう大冒険家ヨヘン様が、あと一歩で儚く命を散らすとこだっただろうが!」
「ス、スマン……ダガ、ココ、トテモ寒イ……」
「あー、そういや竜人って寒さに弱いんだっけ。砂漠育ちってのも難儀だねえ。まあ、確かに船上は高度があるぶん風が強いし、地上より気温も低いんだろうけど」
真冬の空の下、グニドは船室から借りてきた毛布を頭からすっぽり被ったまま、首を縮めてぶるぶると震えていた。一応サン・カリニョにいる間にポリーが縫ってくれた防寒着も着込んでいるのだが、それでも寒い。寒いものは寒い。
むしろ他の仲間たちは身を切るような寒さの中、どうして平気な顔をしていられるのか。グニドは見るからにふかふかで温かそうな毛皮にくるまれているポリーやヨヘンが、だんだん恨めしくなってきた。
だって半獣人であるラッティやヴォルクはともかくとして、同じ獣人なのにこの扱いの差は不公平ではないか。世界を形作りし精霊たちは、なにゆえ竜人にも温かい毛皮を授けて下さらなかったのか……いや、鱗の代わりに毛皮を欲する竜人など、エマニュエル広しと言えどグニドの他にはいないのだろうが。
「あらあら、すっかり凍えちゃってかわいそうに。だけどもう少しの辛抱よ。あと数刻もすれば赤道に入るから、次第に気温も上がってくるわ。それに連合国にさえ着いちゃえば、向こうは今、真夏だし。特に大陸の北にあるマグナーモ宗主国は暑いから、今の時期は浜辺でバカンスが楽しめるわよ」
と、そのとき不意に背後から笑いを含んだ声が聞こえて、グニドは被った毛布ごとぐるりと首を巡らせた。そこにはたったいま船内から出てきたと思しいマドレーンがいて、完全防寒装備のグニドを愉快そうに眺めている。
かく言う彼女も今は丈の長い黒の外套に身を包み、波打つ金の長鬣を風の中に遊ばせていた。マドレーンが羽織る外套は首周りに何かの獣の毛皮がくっついており、見るからに温かそうだ。
が、同時にグニドは疑問に思う。彼女も外套を着込むほど寒いのなら、どうしてあんなに堂々と衣服の襟を開いているのだろう。もしや胸囲がありすぎて服の留め具が閉まらないのだろうか? だとしたらグニドがいつも着ているような、頭からすっぽり被る仕様の衣服をまとえばいいのに。
「ああ、おはようございます、マドレーンさん。だけどもうすぐ赤道通過って、思ってたよりずいぶん早いですね。この船、そんなに飛ばしてるんですか?」
「いいえ? 本艦はずっと平常速度で航行中よ。ただ海の船と違って夜の間もずっと飛んでいられるから、一日にざっと三〇〇〇幹(一五〇〇キロ)程度巡航できるの。つまり海の船だと二ヶ月かかる南西大陸までの道のりも、五日くらいで移動できちゃうってわけ」
「えっ、に、二ヶ月の道のりをたった五日で……!? じ、じゃあワタシたち、あと四日もすればアビエス連合国に到着するってことですか……!?」
「ええ、そうよ? もちろん天候の影響を受けない場合の計算だけど、多少行程が遅れても新年祭までには国へ帰れるでしょう。あなたたち、六聖日を連合国で迎えるのは初めてなのよね? 賑やかで楽しいわよ、連合国の新年祭は」
マドレーンの言う〝新年祭〟というのは、どうやら竜人の風習でいうところの〝年跨ぎの儀〟のことらしかった。人間たちは新しい年の始めの六日間を〝六聖日〟と呼び、どこの国でも盛大な宴を開くらしい。
彼らの使う暦の上では、年明けまであとひと月もないとラッティは言っていた。故郷を離れて久しいグニドは既に竜暦での日付けが分からなくなってしまっているが、毎晩の月の欠け具合を見る限り、谷でもそろそろ新年を迎える頃だろう。
「ムウ……ダガ、コレカラ暖カクナル、何故ダ? 今、冬、違ウカ?」
「昨日まで俺たちがいた北半球では……ね。だけど俺たちがこれから向かう南半球は、北とは季節が逆転するんだ。この北と南を分かつのが〝赤道〟って呼ばれる環帯で、赤道付近は一年を通して気温が高い。あそこは毎日が真夏日みたいな感じ。伝説では《黄金牛の橇》に乗った太陽神シェメッシュが、逃げる夜魔神を追いかけて何度も通った道だからだって言われてるけど……」
「ついでに赤道より南じゃ、北半球と違って南に行くほど寒くなるんだぜ。つまり今までオイラたちがいた大陸とは、方角と気候があべこべだってことだ。ま、寒いのがイヤなら喜べよ、グニド。今の時期、アビエス連合国はどこへ行ったって暑いくらいだぜ。チュチュチュチュ!」
ヴォルクやヨヘンの話が信じられず、グニドは毛布の下で思いきり首を傾げてしまった。世界の北と南で季節がまったく違う……そんなことが本当に有り得るのだろうか?
グニドはこの数ヶ月、初めて経験する冬の寒さに凍えてきた。こんな寒さが砂漠の外ではあと三、四ヶ月も続くのだと聞いて、軽く絶望を覚えていたところだ。
しかし仲間たちは南へ行けば、そこには暑い夏が待っているという。その話が本当ならば確かにグニドは大助かりだが、つい数日前までサン・カリニョの雪景色を眺めていたグニドとしては、まるで想像のつかない世界だった。
「ところであなたたち。私、さっきからヴェンを探してるんだけど、あのヒゲ男を見なかった? 船長室も覗いてみたんだけどもぬけの殻で、どうも船内にはいないみたいなのよ」
「ああ、ヴェンさんだったら……」
と、マドレーンの質問を受けたラッティが、ときに何とも言えない表情で船の尻の方へと目を向けた。甲板の後部は現在グニドたちがいる位置より半枝(二・五メートル)ほど高い造りになっていて、船の乗組員たちはあの場所を〝艦橋〟と呼んでいる。どうやらあそこは提督であるヴェンの特等席らしく、彼は大抵の場合船長室と呼ばれる船内の最も奥の部屋にいるか、艦橋に据えつけられた椅子に座って酒を呷っているかのどちらかだった。
そして今朝は後者だ。ヴェンはグニドらが朝食を終えて甲板へ出てきた頃には既に艦橋の椅子に腰かけ、だらしなく天を仰いで爆睡していた。これだけの強風が吹いているというのに一体どうやって固定しているのか、顔には羽根つきの鍔広帽を半分被せ、豪快に大鼾をかいている。
いや、そもそも彼は何故、寒風吹き荒ぶ甲板でわざわざ惰眠を貪っているのだろうか。眠いのならば部屋に戻って横になればいいものを、あんなところで寝ていたらそのうち凍死するのではなかろうか。
まあ、いつどこで睡眠を取るかという問題については本人の自由としか言えないから、グニドも敢えて触れずにいたのだが……それにしたところで風に乗って鼻を突く強烈な酒の匂いを嗅ぐ限り、ヴェンは今日も朝からしこたま酒を飲み、酔っ払ったあげくああして眠りこけているのだろう。
「ああ……あの飲んだくれ、案の定甲板にいたのね。ひょっとしてひと晩中ああしてるのかしら。まったく本当に懲りないわね」
「こ……こういう言い方は失礼ですけど、ヴェンさんってあれでよく提督の地位に就けましたわネ……た、確かエクターさんが、ユニウスさまと一緒にアビエス連合国の建国に携わったすごい人だとおっしゃってましたけど……」
「そうなのよねえ。中身はあんななのに、経歴だけは無駄に立派なのが困りものなのよねえ、あの男。ああ見えて昔は結構ハンサムで、まだ可愛げもあったんだけど……なのにどうしてあそこまで落ちぶれちゃったのかしらねえ」
はあ、と悩ましげなため息をつきながら、マドレーンは頬に手を当てて艦橋のヴェンを仰ぎ見た。そう言えば彼女は見た目こそ若いが、年齢は二百歳を軽く超えているという話だから、若かりし日のヴェンのこともよく知っているのだろう。
されどグニドは刹那、ヴェンを見つめたマドレーンの横顔に、まるで在りし日を懐かしむような、悲しむような……そんな一抹の陰翳がサッとよぎったのを見たような気がした。
おや、と思ったときには吹きつける風でマドレーンの鬣が舞い、横顔を隠してしまったから確かなことは分からない。しかし彼女が垣間見せた表情は、ひとりになるといつもどこか遠くを眺めていたカルロスのそれに酷似していた……ように思う。
「いやあ、けどリベルタス提督は、空艇団入りしてから空戦じゃ負けなしで有名だからな。妹の話じゃ、どんな最新鋭の船も与えればすぐに乗りこなすっていうし。飛空士としてはマジで天才なんだぜ。全然そうは見えないのが逆にすげーけどな」
「……ひょっとしてアルンダって、ヴェンさんと親しいの?」
「うーん、親しいかどうかは知らないが、職業上話す機会は多いって言ってたぞ。ただいつ会っても〝もっと速くて高く飛べる船を寄越せ〟って、毎回同じ要求をされるとも言ってたな。生身の体じゃ飛べる高さにも限界があるってのに、新しい船を渡すとろくに高度順応もしないまま信じられない高さまで上がってくんだとさ。そんな真似を繰り返してもまだ生きてるってんだから、やっぱあの人はすげーんだよ、うん」
と、ヴォルクの問いに答えたヨヘンは一人納得した様子で頷いているが、グニドは少し難しくて、話の内容を理解するのに苦労した。しかし今のヨヘンの話を要約するならば、ヴェンはどんな人間よりも速く、高く飛ぶことを望んでいるようだ。
彼が何故そこまで空に執着するのかグニドは知らない。されどヨヘンの話では、生き物が飛べる空の高さというのには限界があるという。
神々の手で創られたとされる空の生き物〝竜〟すらも、雲より先の空へは行けない。何故ならそれより先は神々の住まう天の領域。ゆえに近づきすぎれば翼をもがれ、不遜にも神々の棲み処を侵そうとした罰として地上へ叩き落とされてしまうとか。けれどその話が事実なら、ヴェンはまるで──
「──マドレーンどの!」
瞬間、思考を引き裂く鋭い叫び声が聞こえて、グニドははっと我に返った。何事かと振り向けば、船の進行方向から真っ黒な獣影が近づいてくる。
向かい風に抗い、滑るような速さでグニドたちの眼前へ降り立ったのは、猫人たちが操る空飛ぶ獣・翼獣だった。
次いで彼の背中から飛び降りたのは白猫のエクター。彼の小さな体が宙を舞い、華麗に甲板へ着地すると、尻尾の先に結わえつけられた小さな鈴がリンッと鳴る。
「あらエクター、おはよう。どうしたの、そんなに慌てて?」
「大変です! 航路の安全確認へ向かっていた我が隊の斥候から緊急の報告が……! それによれば、艦隊の行く手に魔物の群が現れました! 先頭の巡空艦、間もなく会敵します!」
「ま、魔物ですって……!?」
エクターの切迫した叫びを聞いて、たちまちポリーが震え上がった。これにはマドレーンもわずか目を見張り、ついで小さく舌打ちする。
「嫌ね、朝から面倒事なんて──ヴェン、朗報よ! 退屈してるあんたのために、魔界のお友達が会いに来てくれたって!」
不愉快そうに眉を寄せたまま、マドレーンが艦橋を仰いで声を張り上げた。すると次の瞬間、艦橋の縁に立てられた柵の上に、ガッと片足を乗せた人影がある。
顔面から頭上へ移動させた帽子を押さえ、丈の長い外套を風に攫われながらニヤリと笑った影の主は、言うまでもなくヴェン・リベルタス。
直前まで高鼾をかいて熟睡していたはずの彼は船の進行方向をまっすぐ見据え、獲物を見つけた竜人のごとく双眸を爛々とさせている。
「待ってたぜ、我が友よ……! 全艦、砲門開け! お友達を殲滅するぞ!」