第六十八話 無限の彼方へ
草原にずらりと並んだ飛空船の回転翼が、一斉に回り始めた。
初めはゆっくりとした回転だったのが次第に速度を増し、ヒュンヒュンと空を切る翼がやがて突風を巻き起す。
大地を覆う草木が風に煽られ、舞い上がった枯れ草が雪のごとく踊り出した。されど見上げた空は眩しいほどの晴天だ。昨日まで分厚い雪雲に隠れていた太陽が、まるで出番を待ち侘びていたかのように、全身全霊で世界を照らしている。
「うはーっ、いーい天気だなあ! まるで天がこの大冒険家ヨヘン・スダトルダさまの帰郷を祝福してるみたいだぜぇ! チュチュチュ!」
と、朝から頭の上で上機嫌に騒いでいるのはヨヘンだった。彼は久しぶりに故郷へ帰れるのが嬉しくてたまらないのか、昨夜からずっとこうしてはしゃいでいる。だからと言って人の鬣をやたらと引っ張ったり、意味もなく左右に振り回したりするのはやめてほしいのだが。
「いや、まあ、世界最小の冒険家が果たして〝大冒険家〟と呼べるかどうかは置いといて……確かに絶好の旅立ち日和ではあるね。陽射しも真冬とは思えないほどあったかいし、おかげで飛空船の上でも凍えずに済みそうだ」
と、そんなヨヘンの戯言を笑いながら一蹴したのはラッティだ。彼女が右手で庇を作りながら眺める先には、回転翼の稼働に合わせて宙に浮き始めた飛空船の姿がある。
ルルが目を覚ましてから八日目の朝。グニドら獣人隊商の面々は、いよいよルエダ・デラ・ラソ列侯国を発つべくサン・カリニョの〝船溜まり〟に集まっていた。四頭の馬に曳かせた隊商の荷馬車は、既に一番大きな飛空船──白猫のエクターたちはあれを〝旗艦〟と呼ぶらしい──に乗せてある。
一同はこれからあの船に乗って、南の海を越えた先にあるアビエス連合国を目指すのだった。ヴェンが指揮する三十隻あまりの飛空船は、連合国の最北にあるマグナーモ宗主国というところからやってきたらしい。マグナーモ宗主国は二十八の国々からなる連合国を束ねる立場にある国だ。連合国の長であるユニウスもかの国にいる。ついでに言えばヨヘンの生まれ故郷もまた、マグナーモ宗主国の白都アルビオンというところらしかった。グニドたちの当面の目的地が、そこだ。
《兇王の胤》の襲撃で重傷を負い、容態が危ぶまれていたルルも今ではすっかり元気になっていた。無事に誤解が解けたのが良かったのか、あの日の話し合い以来ルルの体調はみるみる快復し、無邪気にはしゃぎ回れるまでになっている。
実際、今もグニドの背後では、ルルが友人であるエリクやウォルド、ユシィと共にじゃれ合って笑っていた。船溜まりの外には見送りにやってきてくれたカルロスやロクサーナ、トビアス、マルティナの姿もあって、首を巡らせた拍子に目の合ったカルロスが、ふっと微かな笑みを零す。
「行くのだな、グニドナトス」
最後の確認のようなカルロスの言葉に、グニドは黙って頷いた。彼が旧主領で行われた調印式から戻ったのはつい二日前のことだ。
旧主夫人ミラベル・アルコイリスの仲立ちによって、トゥルエノ義勇軍と侯王軍の講和は無事に成立した。かくして列侯国の内乱は手打ちとなり、カルロスたちも数日のうちにサン・カリニョを去るという。
彼らは再び『トゥルエノ騎士団』の名を取り戻し、東から攻めてきているシャムシール砂王国を阻むための戦いに出る。次から次へ、休む間もなく戦いに駆り出されるカルロスをこの国に残していくことが、グニドはやはり忍びなかった。
けれどグニドが彼のためにできることはもう何もないのだ。むしろ竜人の自分が傍にいると、今後侯王軍と合流するカルロスの立場を余計に苦しくしてしまう。だからここでお別れだ。グニドは初めてできた人間の兄弟と改めて向かい合った。別れは惜しいが、これからカルロスはカルロスの、グニドはグニドの道を行く。
「短い間だったが、世話になったな。トゥルエノ義勇軍を代表し、改めて礼を言わせてもらう。君たちの献身には本当に助けられた。我々のために何度も力を尽くしてくれたこと、決して忘れんぞ」
「いえ、こちらこそ、半獣のアタシらを温かく迎えてもらえて嬉しかったですよ。報酬も弾んでもらっちゃいましたし……色々ありましたけど、カルロスさんたちと一緒に戦えて良かったって、アタシら全員そう思ってます」
「ありがとう。君たちのその温情にどれほど支えられたか分からない。今後の旅路にもどうか幸多からんことを……君たちの道行きに一人でも多くの理解者と賛同者が現れてくれることを、私も列侯国の地から願っているよ」
そう言ってカルロスが茜色の瞳を向けた先には、エリクたちと戯れるルルの姿がある。人喰い獣人であるグニドと、それでも共に行くと言ったルルの選択を、彼は手放しに祝福してくれた。お前と彼女なら大丈夫だ。ルルを見つめるカルロスの眼差しがそう言ってくれている。彼のあと押しが、グニドには何よりも心強かった。カルロスの言うことならば、グニドも無条件で正しいと信じられるから。
「……ちなみに、ロクサーナさんとトビアスさんは結局どうすることにしたんですか?」
「うむ。わーたちはもうしばしの間、列侯国に留まるつもりでおじゃる。というのも冬が明けぬことには、北へ帰ろうにも帰れぬからの」
「ええ……光神真教会の本部がある群立諸国連合はこの時期雪に閉ざされていて、とても旅などできたものではありませんから。とは言え春先には列侯国を出て、一度国元へ帰るつもりです。皆さんも連合へ立ち寄ることがありましたら、いつでも我が教会を訪ねてきて下さい。そのときは諸手を挙げて歓迎しますよ」
ヴォルクの問いに微笑みながらそう答え、トビアスはすっかり青くなった鬣を風にそよがせた。当初は別人のように見えて仕方なかった青鬣も碧眼も、いつの間にやらすっかり馴染んで違和感がなくなっている。
これならいずれ再会しても、グニドがトビアスを他の人間と見間違えることはないだろう。寒いところは苦手だが、いつか大陸の遥か北にあるという彼の故郷にも行ってみたいと思う。グニドには想像もつかない世界が、エマニュエルにはまだまだ無限に広がっているのだろうから。
「とは言え、いよいよ獣人隊商やアビエス連合国の皆さんともお別れかと思うと、何だか物寂しいですね……ウォン隊長とマナさんも旅立ってしまわれましたし」
「出会いがあれば別れがある。それもまた旅の醍醐味というものでおじゃる。なれど忘れてはならぬのは、縁結びの神の計らいで一度結ばれた縁というのは、未来永劫滅びぬということ。今日ここに集いし我らの縁は、たとえ命尽きようとも来世まで固く結ばれておる。ゆえに嘆くことなぞ何もにゃー。お互い生きておれば、いずこかでまた見えることもあろうもん」
そんときを楽しみにしているぞえ──と最後にそう付け足して、ロクサーナはえへんと胸を張った。まあ、神子である彼女と血飲み子になったトビアスは不老の存在だ。彼らとならば、いずれどこかでばったり再会しそうな気がする。
同じように、マナやウォンともまた会える日がやってくるだろうか。グニドは昨日、義勇軍の皆に別れを告げて旅立った二人との記憶に思いを馳せた。マナのこともウォンのことも、結局詳しくは分からずじまいだったが、彼らが頼もしい味方であったことはまぎれもない事実だ。特に魔女の力を持つマナには、あらゆる場面で助けられた。
今、こうして獣人隊商の仲間と共に過ごせているのも彼女のおかげだ。雲のようにふわふわと掴みどころのない人間だったが、決して悪いやつではなかった。
ただ気になることがあるとすれば、今もマナの体を蝕んでいるであろう呪いの存在だろうか。昨日の別れ際、『これからどうするつもりなんだ?』と尋ねたら、マナはふわりと笑って『どうもしないわ』と竜語で答えた。
『私は今までどおり、死に場所を求めてさすらうだけ。《兇王の胤》との一件があったから、しばらくはキムと一緒にいるつもりだけど、やつらの追跡を振り切ったらまた気楽な一人旅に戻るつもり。《兇王の胤》が私を殺してくれるなら話は早いんだけど、キムまで巻き込むわけにはいかないからねー。あの人たちがほんとに欲しいのは、私じゃなくてキムの首だろうし』
『そうなのか?』
『そうよ。だってもう何十年もずーっとキムを殺そうとしてるのに、全然成功しないんだもの。だから向こうもどんどん躍起になってる。キムはそれを嫌がって早く列侯国を離れたいって言ってたんだけど、私が無理言って今日まで引き止めちゃったから、その責任くらいは取らないとね』
『そうだったのか……ん、いや、だが待てよ? おれは人間の年齢を見分けるのはまだ苦手なんだが、〝何十年もずっと〟って……おれの勘違いじゃなきゃ、ウォンはカルロスと同じかちょっと下くらいの歳じゃ──』
『まー、そんなわけでぇー! 私のことは心配ご無用。これが今生の別れになるかもしれないけど、いつか私が無事に死んだって知らせが届いたら、喜んで祝福してちょーだい? 私もなるべくカッコよく死ねるように頑張るから』
『マナ』
『ハイハイ、そう怖い顔しないの。どうせ人間いつかは死ぬんだから。私はその瞬間を自分で選びたいと思ってる、それだけのことよ。永遠に解けない呪いに食い殺されて無駄死にするよりは、そっちの方がよっぽどいい死に方だって思わない?』
『本当にそうやって諦めるしかないのか? お前がまだ知らないだけで、どこかに呪いを解く方法があるかもしれないのに』
『グニド。気持ちは嬉しいけど、あなたは私の心配なんかより自分たちの先行きを心配しなさい。守ってあげるんでしょ、ルルちゃんのこと』
『おれは──』
『私は自分の運命を受け入れて諦めた。でも、だからこそあなたたちにはそうなってほしくないの。ルルちゃんを私みたいにしたくなかったら、運命に抗いなさい、グニドナトス。いつか夜空の星になっても、あなたたちの幸せを祈ってるわ』
そう言って満たされたように笑ったマナの姿を見たら、グニドはもう何も言えなかった。ただ胸をぎゅうと掴まれたような気分になって、どうか彼女の道行きにも救いと幸運があらんことを、と祈ったのを覚えている。
「ウォン。マナノコト、頼ンダ」
他にも何か自分にできることはないか。考えた末、グニドはウォンに彼女を託した。そんなグニドの行動を、ウォンがどのように解釈したのかは知れない。彼はいつものように眉一つ動かさず、しばし無言でグニドを見据えたのち、
「言われなくとも」
と、ただひと言そう答えた。ウォンの言葉は相変わらず短くて無愛想でまったく何を考えているのか読めなかったが、たぶん、あれは信頼していい返事だと思う。
「ですが、カルロス様。別れの前に、彼らに何か渡すものがあるとおっしゃっていませんでしたか? 飛空船はもう間もなく出発のようですけれど……」
「おお、そうだったな。グニドナトス、実はお前に餞別を用意してあるのだ。ここまで運んでくるよう、ヒーゼルとアントニオに命じたのだが……」
「センベツ?」
と、直前まで子供たちの様子を見ていたマルティナが何か思い出したように口を開き、気づいたカルロスも兵舎区の方へ視線を巡らせた。他方、グニドは初めて耳にする〝センベツ〟なる単語に首を傾げ、何のことだろうと考える。ところが言葉の意味を尋ねるより早く「あっ!」と誰かが声を上げた。見ればルルと遊んでいたはずのエリクが子供たちの輪を飛び出し、明後日の方角へ大きく手を振っている。
「おかあさん、おとうさんだよ! おとうさーん!」
彼が手を振る方角は、先刻カルロスが一瞥を向けた方向と同じだった。その先には確かに、遮るもののない草原を馬に乗って馳せてくる人影がある。あの鮮烈な赤色の鬣は見まがいようもない。ヒーゼルだ。
「やっと来たか。遅いぞ、ヒーゼル。どこで油を売っていたのだ──」
と、徐々に接近してくるヒーゼルへ向けて、カルロスがそう声をかけた直後だった。逞しい戦馬を駆って一直線に駆けてきたヒーゼルは、まったく手綱を絞ることなくエリク、マルティナ、そしてカルロスの眼前を通りすぎ、一陣の風となる。
そうしてグニドたちの目の前をも通過するかに見えたところで、彼はやにわに鞍から飛び下り、馬だけがひとりで先へ走っていった。あまりのことに皆が目を見張る中、無事に着地したヒーゼルは血相を変えて立ち上がり、いきなりガッとグニドの衣服を掴んでくる。
「おいグニド、探したぞ! 頼む、助けてくれ!」
「ジ、ジャ……!? ナニカアッタカ……!?」
「魔女だよ、魔女! お前、何日か前に森でマドレーンに助けられたろ!? だったらお前もあいつに何か要求されたよな!? どうやって振り切った!?」
「マドレーン? 否……オレ、別ニ、ナニモ言ワレテナイ」
「はあ!? だってあの女、森でのことは俺とお前に一つずつ貸しだって言ってただろ!? なのにお前は何も要求されてないってのか!? なんで!?」
「ちょ、ちょっとヒーゼル、落ち着いてちょうだい! いきなり飛んできてどうしたって言うの? カルロス様に頼まれていた餞別は……!?」
「餞別!? いや、今はそれどころじゃないんだマルティナ、聞いてくれ! さっきからマドレーンのやつが〝名前を寄越せ〟ってしつこく言い寄ってきて、何のことだかサッパリな上に俺の貞操が……!」
「──あらぁ、〝しつこく〟だなんて心外ねえ。私はあなたの命を救ってあげた恩人じゃない。だったら相応の対価を求めるのは当然ってものでしょう? ねえ、ボウヤ?」
刹那、今度はマルティナの肩を掴んで激しく抗議していたヒーゼルの耳元に、背後から甘い吐息が吐きかけられた。次の瞬間、驚いたときのヨヘンみたいにぶばっと赤鬣を逆立てたヒーゼルが真っ青な顔で振り返る。
そこには一体いつの間に現れたのか、アビエス連合国の『狂魔女』ことマドレーンの姿があった。彼女の登場はまさに忽然とという表現がぴったりなほど唐突で、どこからどうやって現れたのかグニドにも分からない。
気づいたときには彼女はヒーゼルの真後ろにいて、紅を塗っているらしい真っ赤な唇をにっこりと弓形にしていた。途端にヒーゼルは「ひぃっ!」と情けない声を上げるや、目にも留まらぬ速さでグニドを肉の盾にする。
「ま、ま、ま、マドレーン……!? お、お前、どうやってここに……!? 俺はわざわざ馬で逃げてきたってのに……!」
「うふふ、バカねえ。あんなの逃げたうちに入らないわよ。本当に魔女から逃れたかったら、魂ごと消えてなくならないと。で、結局対価はどちらで払ってもらえるのかしら? 名前? それともそっち?」
マドレーンは依然にこにこしながらそう尋ねると、何の憚りもなくヒーゼルの下半身を指さした。竜人のグニドは彼女のこの仕草の意味がまるで理解できなかったのだが、トビアスなどは瞬時にマドレーンの意図を解したらしく、たちまち真っ赤になって鬣を爆発させている。
「な、なな、なななななっ……!? ま、マドレーンさん、いきなり現れて何をおっしゃっているんですか!? 子供たちの前ですよ!? というか他でもないヒーゼルさんの奥様の前ですよ!? 噂に聞く口寄せの民というのは、貞操と恥じらいの文化をお持ちでないのですかッ!?」
「あら、じゃあボウヤの代わりにあなたが対価を払って下さる、宣教師さん? あなた修道士なんでしょ? じゃあ当然禁欲の戒律を守ってるんでしょうから、そこのボウヤよりも溜まって──」
「わーっ!! わーっ!! やめて下さいそれ以上聞いたら耳が穢れます死んでしまいます教会に破門されてしまいますぅ!! ていうかロクサーナ、この人一体何なんですか!? 何なんですかッ!?」
「はあ……マドレーン、童貞をからかうのも大概にしんしゃい。ヒーゼルを助けた対価というならば、そやつの名をもらえば事足りようもん。そもじほどの希術師が、希霊を補充せねばならぬほど先の一件で消耗したとでも言うのきゃえ?」
「そういうわけじゃないんだけど、ボウヤがどうしても真名を教えたくないっていうから仕方なく譲歩してあげてるのよ。まさかとは思うけどロクサーナ、あなたが彼に入れ智恵したんじゃないでしょうね?」
「真名? 何を阿呆なことを申しておる。こやつの名はヒーゼル、姓はなし。それこそがこの男の真名であろうもん」
「いいえ。本人もそう言い張ってるんだけど、いくら名前を唱えても魂の尻尾が掴めないから、本当の名前は別にあるみたいよ? ていうか、そう、ロクサーナも知らないのね」
「なんと、〝ヒーゼル〟が真名でない……? ならばヒーゼル、そもじ、まことの名はなんという?」
「だーかーらー、俺は生まれたときからただの〝ヒーゼル〟で、他の名前なんか知らないっての! そもそもうちの郷には苗字の概念がなくてだな! 仮に列侯国の姓名制度に倣うにしても俺、父親の名前知らねーし! 名前どころか顔も生死もどこの誰かも知らねーし! というか〝名前を寄越せ〟って一体どういう意味なんだよ!? 今の俺の名前じゃ何か不満だってのか!?」
なおもしっかりグニドの後ろに隠れながら、ヒーゼルは必死の様子でマドレーンを威嚇していた。絶賛肉の壁扱いを受けているグニドはというと、正直まったく話についていけていないのだが、巻き込まれたくないのでこのまま壁のふりをしていよう、と心に決める。
「あのね、ボウヤ。私たち口寄せの民は相手の真名を知ることで、その名前の持ち主を自分のものにできるのよ。つまり口寄せの民に〝名前を寄越せ〟と言われたら、それは〝私の奴隷になりなさい〟って意味なの。分かる?」
「あー、すいません、説明を求めておいて何ですが分かりたくありません」
「でも、あなたはどうやら自分の真実の名前を知らないみたいね。てっきり魔女たちに名前を渡したらどうなるか知っていて、適当に誤魔化してるのかと思ったけど……ただの偶然か、はたまたあなたの親が博識で聡明だったのか。ま、何にせよ名前をもらえないなら、別のものをもらうしかないわよね」
片頬に手を当てて嘆息しながら、マドレーンは紫幻石によく似た瞳をちらりと動かした。彼女の目線はやはりヒーゼルの下半身に向けられていて、またも青い顔をしたヒーゼルが、サッと自らの股間を隠す素振りをする。
「い、いや、待ってくれ。今の話を聞く限り、確かに名前を渡すよりはマシな提案なのかもしれないが……み、見てのとおり、俺には愛する家族がいるわけで? しかもそこにいる光の神子様から、浮気したら即刻去勢してやると脅されてる立場でしてね? というか俺に対価を求めるなら、当然グニドにもそうすべきだよな? そもそもあの晩、俺が死にかけたのだって半分はグニドのせいだしな?」
「ジャ……!? ヒーゼル、オマエ、オレヲ売ルカ……!?」
「ああ、そっちなら問題ないわ。だって彼の真名は既に私の手の中だもの。ねえ、〈グニドナトス〉──仕方がないから、ちょっと彼を押さえつけていてちょうだい。もう時間もないことだし、手早く済ませちゃいましょ?」
妖しく弧を描いたマドレーンの唇が、初めてグニドの名前を呼んだ。次の瞬間、悪寒にも似た何かがぞわりとグニドの全身を舐め、体の芯が凍りつくような感覚に襲われる──何だ、これは。
生まれて初めて砂漠で大蛇と出会ったときに経験した、生物としての本能的な恐怖。それがグニドの全身を絡め取った刹那、にわかに右腕が空を切った。
何も意図していないのに体が動き、勝手にヒーゼルの首根っこを捕まえたのだ。グニドは己の行動に仰天した。異変に気づき、いや、待て、やめろと慌てて自分に命令するも、ヒーゼルを掴んだ右腕はまったく言うことを聞かない。
「お、おい、グニド!? いきなり何を──うわーっ!?」
ヒーゼルの悲鳴が響き渡る中、グニドは力づくで彼を背後から引きずり出し、マドレーンの前へ跪かせた。とっさに身をよじって逃げ出そうとした彼の腕を押さえ、後ろへ拈り上げながら、よせ、と頭の中で叫ぶ。されどグニドの両手は決してヒーゼルを放さず、むしろ暴れる彼を力任せに押さえつけた。これにはさしものヒーゼルも「いでででで!」と叫び声を上げ、痛みのあまり全身を硬直させている。
「ちょ、グニド、待て、悪かった、さっきの発言は撤回する、だって俺たち仲間だもんな、な!? だからもうちょっと手加減して……」
「チ、チガウ、オレ、ナニモシテナイ! 体ガ勝手ニ……!」
「〝魂の尻尾を掴まれる〟って、つまりそういうことよ、竜人くん。だから私は今日まであなたの名前を呼ばずにいてあげたの。本当はこの赤髪くんも同じようにしてあげたかったんだけど──ねえ?」
言いながら歩み寄ってきたマドレーンが、依然妖しい笑みを湛えたまま不意に右手を持ち上げた。すると突然、何かキラキラしたものが彼女の手の中に発生し、ひと振りの短刀の形を取る。何もなかったはずの宙からマドレーンが掴み取ったのは、氷でできた刃だった。信じられない光景に皆が目を疑う中、彼女は笑顔でヒーゼルの鬣を掴むや、もう一方の手に握った氷刃を躊躇なく振り上げる。
「えっ……!? あ、あの、待って下さ──」
トビアスとマルティナが同時に上げた制止の声を、マドレーンはみなまで聞かなかった。振り下ろされた氷刃がそれに食い込み、ブツリとにぶい音を立てる。
マドレーンが切れ味抜群の短刀で切り取ったのは、ヒーゼルの赤い鬣だった。
いきなり刃物など取り出して何をしでかすのかと思いきや、ヒーゼルが首の後ろで短く結っていた鬣を、紐ごと綺麗に切り落としたのだ。
おかげで拘束を解かれたヒーゼルの鬣がばらりと広がり、彼は呆気に取られた様子でマドレーンを見上げた。彼女は握った鬣の束を一瞥したのち満足げに微笑むと、「もういいわよ、〈グニドナトス〉」と声を上げる。
途端にグニドの全身から力が抜けた。体はグニド自身の意思に従って動くようになり、両手もヒーゼルの腕を離れる。しかし事態がまるで呑み込めない一同は、なおも息を飲んで硬直したままだった。そんなグニドたちに見せつけるかのように、マドレーンは切り取ったヒーゼルの鬣をヒラヒラと小さく揺らす。
「はい、これで等価交換成立よ。と言いつつだいぶおまけしてあげたけど、ま、赤色の髪なんて滅多にお目にかかれるものじゃないから、珍しいものを手に入れたと思って目をつぶってあげるわ。せいぜい感謝しなさいよ、赤髪くん」
「え……い、いや、むしろ髪なんかでいいならいくらでも差し上げますが……名前もダメ、ナニもダメ、で、なんで髪?」
「あら、知らないの? 人間の魂ってね、体の部位によって宿る濃さが違うのよ。一番はもちろん心臓だけど、次は髪。この髪で人形でも作っておけば、私は連合国にいながらいつでもあなたを呪い殺せるってわけ」
「呪い殺す……!?」
「うふふ。今回の一件で懲りたなら、次からは魔女に借りなんて作らないことね、ボウヤ。家族が大切ならなおさらよ。あなた、何だか神様に嫌われてるみたいだし、もっと命を大事になさい。いずれ生まれる娘さんのためにもね」
こともなげにそう告げたのち、マドレーンは握ったままの氷刃にふっと息を吹きかけた。すると氷の短刀は瞬時に光の粒となり、パッと弾けて消えてしまう。
まるで夢か幻でも見ているような光景だった。これが本物の魔女というものか、と、グニドは身震いしながらそう思う。同じ魔女でも、マドレーンに比べればマナはずいぶん良心的な方だったのだ。彼女はグニドたちを助けることにいちいち対価を求めたりしなかったし、魔女の力を使うのはいつだって誰かのためだった。
しかしマドレーンはそうではない。本人の性格もあるのだろうが、彼女は自分のためにも他人のためにも躊躇なく魔法を使う。
そして後者のために使われた魔法には代償を求めるのだ。マナが去っても、同じ魔女であるマドレーンがいればしばらくは安心だろう……とどこかでそう思っていたグニドは、早速その希望的観測を改めなければならなかった。
「──おおーい、カルロス様ー! 頼まれてたもの、お持ちしましたー!」
ところが戦慄するグニドの心中を余所に、今度はひどく間延びした声がどこからともなく聞こえてくる。見れば先程ヒーゼルが全力疾走してきた方角から、見覚えのある顔がやってくるではないか。馬に曳かせた小さな荷車を従え、数人の仲間と共に現れたのは義勇兵のアントニオだった。彼は片足が丸太のくせに馬まで器用に乗りこなし、カルロスの前に到着するや颯爽と鞍を下りる。
「おお、アントニオ、待ち侘びたぞ。ずいぶん遅かったではないか」
「へえ、すみません。何せせっかく用意した馬を奪ってヒーゼルさんがどっか行っちまうもんですから、別の馬を連れてくるのに手間取りまして。カルロス様、あの人を副官にしておくの、いい加減考え直した方がいいですよ?」
「ああ、そうだな。この機に検討事項の一つとして頭に入れておこう。しかし今はヒーゼルの処遇を決めるよりも、獣人隊商を見送るのが先だ。例のものは?」
「ええ、こちらに。ったく、無駄にデカい上にとんでもない重さなんで、積み込むのに苦労しましたよ」
ぶすぶすと悪態を垂れながらアントニオは仲間を顧み、手を振って何がしかの指示を送った。すると荷車の傍にいた兵の一人が、荷台を覆っていた大きな布をバサリと外す。彼らが数人がかりで荷台から下ろしてきたのは、なんと鋼鉄の鎧だった。しかもただの鎧ではない。風に乗って運ばれてきたのは、懐かしい砂と岩のにおい──あれはまぎれもなく、死の谷の鉄で打たれた竜人の鎧だ。
「おおっ!? あの鎧って、前にグニドが身につけてた……!」
と、ヨヘンもその正体に気がついたのか、グニドの頭上から身を乗り出してピョンピョン跳ねた。当のグニドは驚きのあまり声も出なかったが、一体どこでこれを、と目だけで尋ねると、カルロスが静かに微笑する。
「グニドナトス。お前が愛用していた鎧は、本砦が燃えたときに失われたと言っていたな。ゆえに先の調印式の折り、侯王に講和の条件だと言って別のものを持ってこさせた。目下国境で砂王国軍と争っている侯王軍ならば、戦利品として竜人の鎧を鹵獲しているだろうと思ったのでな」
「カ、カルロス……」
「お前は鎧がなくとも充分強いが、隊商の用心棒であるからには、身を守るものがあった方が安心だろう。しかし生憎人間の中には、竜人の鎧を打ったことのある鍛冶師がいない。ゆえにお前の仲間の亡骸から拝借したものですまないが……それでも構わなければ、持っていけ。これが私からお前に贈れる唯一の餞だ」
ああ、とグニドはそこでようやく理解した。先程から皆が口にしていた〝センベツ〟とは、竜語でいうところの〝贈り物〟のことか。
まさか再びこの鎧を身につけられるとは夢にも思っていなかったグニドは、感激のあまりわなわなと震えながらそっと谷の鉄に触れた。鼻を近づけて嗅いでみると、やはり懐かしい故郷のにおいがする。
「カルロス……スマナイ。スマナイ。礼ヲ言ウ。竜人ニトッテ、鎧、トテモ大事。オレ、ズット、アタラシイ鎧、欲シカッタ。アリガトウ」
「いや、礼を言わねばならんのは私の方だ。今、私がこうしてここにいられるのは、他でもないお前のおかげだと思っている。その恩に少しでも報いることができたなら、私としてもこれ以上嬉しいことはない。達者でな、グニドナトス。いつかこの世界のどこかに、お前たちにとっての安息の地が必ず見つかると信じている」
そう言って笑ったカルロスの瞳に映る自分を見た途端、グニドは胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。自分が人間の世界で初めて出会った兄弟が彼で良かったと、改めてそう思う。だからグニドは首を垂れて、かつて敬愛してやまなかった長老にそうしたように、カルロスにも敬意を表した。深々と頭を下げ、額を晒したグニドの意図を察したのか、カルロスも手を伸ばしてくる。
そうしてグニドの額に触れたカルロスの手は、温かかった。
その手の温もりが、かつて同じようにグニドを慈しんでくれた長老のそれと重なったのは、決して錯覚ではなかったはずだ。
──どんなに遠く離れても、我々の魂はつながっている。
いつかそう言ってくれたカルロスの言葉が耳に甦った。
そうであればいい、とグニドも思う。そして同時に願わずにはいられない。
世界を司る英霊たちが、いつの日かカルロスをあらゆる軛から解き放ち、真の自由を与えて下さるように、と。
「んじゃ、そろそろ行くとしようか」
グニドとカルロスの別れを見守っていたラッティが、頃合いを計ったように声を上げた。船溜まりに集まっていた飛空船のほとんどは、既に飛び立って上空で待機している。グニドたちが乗り込む予定の旗艦の上では、ヴェンが船縁に寄りかかり、酒を呷っているのが見えた。隣にエクターも座っているところを見ると、彼らはもうずいぶん長い間、ああしてグニドたちを待っていてくれたのだろう。
「それじゃあ、カルロスさん」
「ああ。ここにいる皆で、君たちの旅の無事を祈っている。どうかよい空の旅を」
「はい。本当にお世話になりました。皆さんもお元気で」
「また列侯国に立ち寄ることがあれば、いつでも顔を見せに来いよな。そんときはサン・カリニョじゃなくて、騎士団の古巣に案内してやるからさ!」
「ま、次に会う頃には、ヒーゼルさんは騎士団を追放されてるかもしれませんけどねえ」
「あるいはマドレーンに呪い殺されておるか」
「いやいや、まさか……ヒーゼルさんのことですから、呪い殺されたって次の日にはけろっとされてますよ、きっと」
「なあ、マルティナ。お前だけは俺の味方だよな?」
「もちろんよ、ヒーゼル。たとえ次の子が生めなくなったって、あなたが私の大切な夫だということに変わりはないわ」
「なんで俺が去勢される前提で話すんだ!?」
「フン。そもじの信用なぞ所詮その程度ということでおじゃる」
「実際、初めてマドレーンさんとお会いしたときもうっかり誘惑されかけてましたからね……」
「やっぱり副官の人事、考え直した方がいいですよ、カルロス様」
「そうだな。セル・デル・シエロに戻ったら、騎士団の編制を今一度見直すとしよう」
「カルロス殿! 俺、あんたに見放されたら年甲斐もなく泣きますからね!?」
地団駄を踏んだヒーゼルが恥も外聞もなくそう騒げば、皆からどっと哄笑が上がった。グニドもつられて笑いながら、視界いっぱいにきらめく皆の笑顔を瞼の裏に焼きつける。
船溜まりに留まっていた残りの船が一隻、また一隻と回転翼を回し始めた。エクターも船縁から下りて、猫人の仲間と共に翼獣を操り飛び立っていく。
出発のときだ。グニドは子供たちの方を振り返り、『ルル』と我が子の名を呼んだ。ルルもそれですべてを理解したのだろう。以前『エリクにもらった!』とはしゃいでいた竹蜻蛉を胸に押し抱くや、唇を結んでエリクたちを振り返る。
「ルル……行っちゃうのね」
さっきまでのはしゃぎ声が嘘のように、二本に編んだ鬣を握ったユシィがぽつりと言った。ルルは頷くと足元へ視線を落とし、急に黙りこくってしまう。
「あのね。わたしね……サン・カリニョに来てはじめてできた友だちが、ルルでよかった。ほんとうよ」
「ぼくも」
と、声を震わせたユシィに続いてエリクが言う。四人の子供たちの中で一番小さな彼が口を開くと、ルルははっとしたように顔を上げ、さらに唇を引き結んだ。
「ぼくも、ルルとともだちになれてよかった。こわいこともたくさんあったけど、ルルといっぱいいっしょにあそべて、ぼく、たのしかったよ」
「エリク、」
「ほんとうは、おわかれするのはイヤだけど……でも、ぼく、ルルのことわすれない。ぜったいわすれないから。だからルルもぼくたちのこと、わすれないで」
やくそくだよ。エリクがヒーゼルそっくりの笑顔でそう言えば、たちまちルルの瞳から涙が溢れた。彼女はぽろぽろぽろぽろ、大粒の涙を流しながら、されど頬を拭いもせずに、言う。
「ルルも……ルルもね、ほんとはエリクたちとずっといっしょがよかった。でもね、ルルはグニドの子だから……だから、グニドといっしょにいくって決めたの。ごめんね。ごめんね……」
「あやまらなくていいよ。だって、ぼくがルルでもきっとそうするもの」
「ほんとう?」
「うん。ルルはグニドのこと、だいすきなんでしょ?」
「うん……」
「ぼくも、おとうさんとおかあさんがだいすきだから。だからルルのきもち、わかるよ」
言いながらエリクは小さな手を精一杯伸ばし、ルルの代わりにルルの涙をせっせと拭った。そんな二人の姿を見守りながら、ヒーゼルとマルティナが肩を寄せ合い、何も言わずに微笑んでいる。
「……じゃあ、おわかれしても、エリクはルルの友だちでいてくれる?」
「うん」
「ずっとずっと友だちでいてくれる?」
「うん」
「ルルたち、また会えるかな……」
「ルルは、ぼくたちとまた会いたい?」
「……会いたい!」
「なら、会えるよ。まいにち〝会いたい〟っておいのりすれば、神さまがきっとかなえてくれる」
「でも、もし会えなかったら?」
「うーん……そしたら、ぼくがルルをさがしにいく! だからルルもぼくをさがして。そうすればいつか会えるでしょ?」
「そうかな?」
「そうだよ」
「じゃあルル、それまでエリクからもらったククル、大切にする。ぜったいになくさないから」
「へいきだよ。なくしたって、つぎに会うときはぼくがつくってあげるから! おとうさんみたいにじょうずにつくれるように、いっぱいれんしゅうしておくね」
エリクは自信たっぷりにそう言って、えへへと笑った。ルルもその言葉に安心したのか、ようやく笑みを浮かべると、「うん……!」と頷いて目尻を拭う。
「ユシィ。ユシィとウォルドも、ずっとずっとルルの友だち。ルルがもし列侯国にかえってきたら、またいっしょにあそんでくれる?」
「もちろん! わたしも次に会うときまで、もっともっとあやとりの練習しておくから。ルルが知らないあやとり、いっぱいいーっぱい覚えておくよ!」
「じゃあ、ルルも……! ルルもユシィの知らないあやとり、たくさん覚える!」
「えへへっ、そしたらふたりでまた見せ合いっこしようね! ほら、おにいちゃんもルルになにか言ってあげたら?」
「……」
「もう、おにいちゃん!」
怒った様子のユシィがキッと眉を吊り上げて見やった先には、先程からひと言も口をきいていないウォルドがいた。彼は何やらムスッとした顔でそっぽを向いたまま、ルルの方を見ようともしない。
「ウォルド?」
「……」
「ねえ、ウォルド……おこってる?」
「……怒ってねーよ」
「ほんとうに?」
「……」
「……やっぱり、おこってる?」
「だから別に怒ってねーって! いいからお前、さっさと行けよ! グニドたちが待ってるだろ!」
「おにいちゃん! そういう言い方ってないでしょ!?」
「じゃあどう言えっていうんだよ!? おれが言いたかったことは全部おまえらが言っちまったし!」
「だったらすなおにそう言えばいいじゃない! 〝おれもルルのこと忘れないぞ!〟って!」
「言えるか、そんなはずかしいこと!」
「なんではずかしいの!? エリクはちゃんと言ったよ!?」
「エリクはまだガキだから分かってねーんだよ! だ、だいたい、わざわざ言わなくたって分かるだろ、それくらい……!」
心なしか上気した顔でそう怒鳴り、ウォルドはまたも明後日の方を向いてしまった。グニドも何となく察してはいたが、彼は四人の中でも特別不器用なようだ。端から見れば子供らしく微笑ましい光景ではあるものの、ユシィなどはそうしたウォルドの態度が理解し難いようだった。しかし彼女がさらに何か言い募ろうとしたところで、不意にウォルドへ歩み寄ったルルが、正面から彼を覗き込んで言う。
「あのね、ウォルド。ルルね、ユシィから聞いたの」
「き、聞いたって何を」
「ウォルドはね、ルルのことが好きなんだよって。おうちにいるときはいつもルルの話をしてるんだよって」
「は……はああああああ……っ!?」
今にも体ごとひっくり返らんばかりの勢いで、ウォルドが素っ頓狂な声を上げた。ほんのわずか上気しているように見えた彼の顔はその瞬間、耳まで一気に赤くなり、まるで大酒を飲んだあとのラッティみたいだな、とグニドは思う。
でも確か、グニドは前もどこかで似たような感想を抱いたことがあった。あれはいつのことだったか……と思い出そうとする間にも、ウォルドは大きく口を開く。
が、いかにも何か言いたげな彼の口はぱくぱくと開いたり閉じたりを繰り返すばかりで、一向に言葉を発さない。一体何の儀式だろうとグニドが首を傾げれば、同じくルルも首を傾げ、至極不思議そうな顔で言った。
「ウォルド。顔、真っ赤っか」
「そっ……そっ、そっ、それはお前がいきなり変なこと言うからだろーが!!」
「ヘンなこと? ……ルル、ヘンなこと言った?」
「言ったよ!! つーか自覚ねーのかよ!!」
「んー? ルル、ナムのことば、まちがえたかな? ウォルドは、ルルのことが、好き──」
「ああああああああっ、やめろ!! 繰り返すな!! お前はおれを殺す気か!?」
「なんでー!? ルル、そんなことしないよ! だってルルもウォルドのこと好きだもん!」
「なんっ……」
「ルルは、グニドといっしょにいくって決めたけど。でも、エリクも、ユシィも、ウォルドも、グニドとおんなじくらい好き! だから、また会おうねっ」
ルルがそう言って満面の笑みを湛えれば、たちまちウォルドが固まった。そうしてしばしの沈黙ののち、ため息と共にがっくりとうなだれた彼を見て、ユシィが何故か大笑いしている。……今の会話にそこまで笑える要素があっただろうか?
「……いや、一瞬でも期待したおれがバカだった。そうだよな。お前ははじめて会ったときからそういうやつだったよ」
「うん?」
「もう、何でもいいけどさ。おれからお前に言いたいことがあるとすれば一つだけ……お前、よその国へ行ったら、そうやってすぐ人に〝好き〟とか〝会いたい〟とか言うのやめろよな」
「なんで?」
「なんでも!」
依然ほのかに赤らんだ顔のまま、ウォルドは怒鳴って再びそっぽを向いてしまった。そんなウォルドの様子を見たルルは眉をひそめ、「やっぱりおこってる……」とか何とかぼやいているが、何となくあれは怒っているのとは違う気がする。強いて言うなら……呆れている、とか?
「ふふふ……まあまあ、何とも微笑ましいわネ」
「だなあ。ルルんとこにだけ、ひと足早く春が来てたんだな」
「春……? ダガ、今、冬ダ」
「アハハッ、アンタにも今に分かるようになるサ、グニド。ま、分かる頃には〝貴様ごときに娘をやれるか!〟ってなってるかもだけど」
「……ありえる。でも、グニドにそれを言われて引き下がらない人間がいるかな」
「人間とは限んないンじゃない? もしかしたら半獣かも」
「あるいは獣人とか?」
「ふふふふ。可能性は無限大、ネ」
仲間が一体何の話をしているのか、グニドにはサッパリ分からなかった。そう言えば以前、エクターも青い春がどうのと言っていた気がするが、春に青いも赤いもあるのだろうか。そもそも今は、やっぱり冬だ。
上空から吹き下ろしてくる北風の向こうに、いくつもの飛空船が浮かんでいた。アビエス連合国へ向けて出発せんとするその船に、グニドたちもいよいよ乗り込んでいく。酔っ払ったヴェンの号令で、ついに旗艦の翼も回り始めた。ふわりと宙に浮き上がり、大地を離れていく船の上から、手を振るカルロスたちの姿が見える。
「じゃーなー、お前ら! また会おうなー!」
「ヒーゼルさんたちもご武運を! ありがとうございました……!」
波立つ枯れ草色の草原で、エリクやユシィが何度も何度も飛び跳ねていた。彼らもしきりに何か叫んでいるようだが、翼の回る音に遮られてよく聞こえない。
だからグニドはルルを抱き上げ、彼らにもよく見える位置まで持ち上げてやった。きっと向こうにも聞こえていないだろうに、ルルもあれこれ叫びながら懸命に手を振っている。
まぶしいほど晴れた冬空の下、空飛ぶ大船団がいよいよ南へ向けて飛び始めた。
アビエス連合国第一空艇団の進発を声高に叫びながら、翼獣を駆った猫人たちが大空を飛び回る。
どこまでも続く大地の上で、カルロスたちはいつまでもグニドらを見送ってくれた。そんな彼らの姿がどんどん、どんどん遠くなり、やがては地平の彼方へ消える。それを見てついに泣き出したルルを、グニドはそっと抱き寄せた。
カルロスたちと共に過ごした七ヶ月が終わり、今、新たなる旅が始まろうとしている。