第六十七話 ずっといっしょ
窓の外に、チラチラと粉のようなものが舞い始めていた。
アレは〝雪〟というらしい。砂漠ではついぞ見たことのない、雨が凍って極小の氷になったものだ。
グニドはこの雪という現象に出会うまで、氷というのは透明で硬くて鋭いものだとばかり思っていた。砂漠で氷を見る機会と言ったら、人間たちが戦場で氷の神術を使うときだけで。やつらはいつだって鋭く尖った氷を武器にして、グニドら竜人の急所を狙ってきた。だから、硬くて鋭くて危険なものだと思っていたのだ。
でも、雨が凍ってできた〝雪〟という名の氷は存外悪くなかった。触れると冷たいがやわらかく、掌に乗せただけでじわっと溶けてしまう。
しかも水溜まりになる代わりに、地表に積もる。雪が積もると大地は一面真っ白になり、生まれて初めて雪景色というものを目にしたルルは歓声を挙げてはしゃいでいた。先月降った雪は既に溶けてしまったけれど、また積もればルルもきっと喜ぶはずだ。グニドは空気を入れ替えるために開けていた窓に戸板を嵌め直しながら、小雪舞う曇天を見上げてそう思った。
『ルル。まだ寒いか?』
窓を閉めたことで真っ暗になった部屋に、カンテラの灯明かりが揺れている。枕元の小さな棚に置かれたそのカンテラの明かりの中で、ルルが小さく頷いた。
ずいぶん高い熱があるはずなのに、目覚めたルルは寒くてたまらないという。ならばとグニドは、人間たちが〝火櫃〟と呼んでいる臼のような形の熾火入れを、ズズズッと押してルルの寝台の傍へと寄せた。
『これで少しはマシになるだろう』
『うん……』
『喉は渇いてないか?』
『ん……だいじょ……ぶ……』
橙色の灯明かりのせいで余計に赤らんで見える顔を苦しげに歪めながら、ときにルルが咳き込んだ。それを見たグニドは慌てて、横を向いたルルの背中を摩ってやる。心配のあまりおろおろしながら、こんなことなら気を遣って出ていったラッティたちを引き留めるべきだった、とグニドは悔いた。呼びに行くという手もあるものの、今のルルをひとりきりにはしておけない。
『ご……ごめんね……ごめんね、グニド……』
『なんでお前が謝るんだ?』
『だって、ルル……グニドにまた〝メイワク〟かけてる……』
『迷惑なんかじゃない。謝らなきゃいけないのは、おれの方だ』
熱で潤んだ瞳を見つめ、グニドはルルの小さな背中を撫でた手で、今度は彼女の鬣を梳いてやった。谷にいた頃は立っていても地面を掠めるほど長かったルルの鬣が、今はこんなにも短い。でも、ポリーが砂漠で切ってくれた直後に比べたら、ずいぶん伸びたような気もした。
『悪かったな。おれがお前を不安にさせるようなことを言ったせいで、お前をあんな怖い目に遭わせた。お前のことは、おれが守ってやらなきゃいけなかったのに……ちゃんと守ってやれなくて、すまなかった』
『でも……グニドは、きてくれたよ』
『ん?』
『ルルのこと……助けに、きてくれた。ルルね……こわかったけど、うれしかった。グニドは、もう……ルルのこと、いらないのかなって……思ってたから』
『お前がいらないなんて、そんなわけないだろう。そうじゃない。そうじゃないんだ。おれはただ……』
グニドは感情に任せて言葉を続けそうになり、炭が跳ねる音で我に返った。見れば火櫃の中で真っ赤に熱された木炭が、小さく爆ぜて砕けている。おかげでいくばくかの冷静さを取り戻した。グニドは何度か頭を振ると、思い直して口を開く。
『いや……順を追って話そう。ルル、お前は昨日、おれとヒーゼルの話を聞いたんだったな。おれがお前を列侯国に置いていくと、そう話しているのを聞いて動揺した。だから一人で聖堂を飛び出した……そうだろう?』
『うん……そう。だって、グニドが……ルルは、エリクのうちの子になるって、言ってたから……』
『それは誤解だ。確かにおれはあのとき、そういう可能性もあるって話をしてたが……何もお前のことがいらなくなったから、ヒーゼルの家に預けていくと言ったわけじゃない。そうすることがお前のためになるならそうすべきだと話してたんだ』
『ルルのため……?』
『ああ。改めて言わずとも、もう分かってると思うが……ルル。お前は人間だ』
グニドがそう告げた途端、ルルの淡黄色の瞳が微かに、されど確かに揺れ動いた。かと思えば彼女はぎゅっと唇を結んで、何かをこらえるように眉を寄せる。
『うん……知ってる。ルルは、竜人じゃない……グニドとおなじじゃないの』
『そうだ。お前は本来、おれたちの暮らしていた死の谷じゃなく、人間の巣で人間たちと一緒に育つはずだった。だが精霊のいたずらで、お前はおれたちに育てられることになった。どうしてそうなったか分かるか?』
『わかんない』
『ルル。お前はな、元々は人間たちの集落で暮らしていたんだ。だが金儲けをたくらむ悪いやつらが、お前の胸の神刻に目をつけてお前を攫った。やつらはお前を金持ちに売り飛ばして、ひと儲けしようとしてた。その途中でラムルバハル砂漠を通ったんだ……ちょうど腹を空かせてうろうろしてた、おれとスエンの前をな』
『そうなの?』
『ああ。お前はまだ赤ん坊だったから、何も覚えてないだろうがな。おれとスエンはそうとは知らずに、うまそうな馬を連れて目の前を通り過ぎようとしてた連中を襲った。するとやつらが乗ってた馬車の中に、まだ豆粒みたいだったお前がいた。いや、豆粒は言いすぎだが……とにかくお前はそれくらい小さかった。だからおれたちはお前を巣へ連れて帰ることにしたんだ。こんなに小さきゃ……食ったところで腹の足しにもならないからとな』
『……え?』
グニドの言葉の意味を理解し損ねたのか、ルルはただでさえ大きな瞳を満月みたいにまんまるにした。そんな彼女の反応を見て、グニドはぎゅうと心臓を掴まれるような思いがしたが、もう逃げるものかと腹を決め、言う。
『ルル。お前、おれがいつも肉ばかり食うのは知ってるだろ』
『うん』
『駱駝の肉、馬の肉、豚の肉……今まで色んな肉を食った。だがおれたち竜人の一番の好物は、人間の肉だ』
『ナムの……肉?』
『ああ。おれとスエンが砂漠で人間を襲ったのは、食うためだ。豆粒だったお前を連れて帰ったのも、食うためだ』
『うそ』
『うそじゃない。本当だ』
『でも、グニドはルルのこと、食べなかったもん!』
『ああ……お前は特別チビだったからな。少し育てて、大きくしてから食おうと思ったんだよ。分かるだろ。だからお前は〝チビ助〟だ』
ルルの瞳がみるみる涙を湛えていくのを、グニドは見た。彼女に真実を告げるのは、雷で身を焼かれるよりも、氷の槍で腹を貫かれるよりも痛かった。
されどグニドは、逃げずにじっとルルの答えを待つ。ルルはいつしかしゃくり上げながら、高熱で乾いた唇を震わせて、言った。
『でも……でも、グニドはルルを……守ってくれたよ。谷を出るときも、魔物に食べられそうになったときも……ルルを守ってくれたよ』
『ああ。そうだな』
『それも……いつかルルを食べるため?』
『いいや、違う。おれはお前を食いたくなくなった。だからお前を連れて谷を出たんだ。お前がイドウォルに……他の竜人に食われずに済むように』
『どうして?』
『さあ……どうしてだろうな。おれにもよく分からないんだ。だがいつからか、おれはお前を失うことが恐ろしくなった。これからもずっとお前と一緒にいたいと思うようになった。だから人間を食うのをやめた。正直言うと、今も時々……そこら辺を歩いてる人間がうまそうに見えて、噛みつきたくなることがあるんだけどな』
半分は冗談だが、半分は本気でそう言うと、ルルがまた瞳をまんまるにした。それを見たグニドは笑って、ゆるりと尻尾を波打たせる。
『だが、これで分かったろ。お前以外の人間たちは、何もおれの見た目が怖いからあんな風に遠巻きにしてるわけじゃないんだ。人間は竜人を恐れてる。いつ襲われて食われるか、分かったものじゃないからな。おれはもう人間を食うつもりはないが、過去に人間を食ってたことに変わりはない。だから皆に嫌われる……おれ一人が人間を襲うのをやめたところで、どうしようもないことだ』
『でも……カルロスさんや、ヒーゼルは、グニドのこと、いじめないよ』
『ああ、あいつらは変人だからな。あれが普通だと思うのは良くない』
『ヘンジン……』
『むしろ他の人間の反応の方が普通だ。お前だって、たとえばポリーやヨヘンが食われたら悲しいし怒るだろう』
『……うん』
『おれと一緒にいるっていうのは、そういうことだ、ルル。お前は人間なのに、人喰い獣人のおれと一緒にいるせいで人間たちから嫌われる。前に一度、他の子供たちから石を投げられたことがあっただろう? あれもおれのせいだ。子供らは竜人に育てられたお前が、竜人のように人間を食うんじゃないかと思って、怖がったんだよ』
グニドが言葉を選びながらゆっくりと説明する間、ルルは片時もグニドから目を逸らさなかった。そうしながらじっと息を詰めて、何事か考え込んでいる。
果たしてルルが自分の話をどの程度理解しているのか、グニドには分からなかった。いきなりこんな話をされたら、子供だって人並みに困惑するはずだ。
けれどグニドは知っている。ルルは幼くて小さいが、決して愚かではない。
今すぐには理解できずとも、繰り返し説明すればいつかはすべてを呑み込むだろう──そう信じて、言葉を続けた。
『おれが昨日ラッティやヒーゼルと話してたのは、つまりそういうことだ。このままおれと一緒にいることが本当にお前のためになるのか、おれたちは相談して考えた。お前はまだ子供だし、今から人間たちと共に暮らせば、本来あるべき場所へ戻れるかもしれない。〝竜人に育てられた人間〟じゃなく〝ただの人間〟として……みんなから歓迎される場所にな』
『……』
『ヒーゼルは、そのためなら協力してもいいと言ってくれた。お前をあいつの巣で引き取って、エリクと一緒に育ててやるとな。おれは……それも悪くないかもしれないと思った。お前はエリクと仲がいいし、エリクもお前になついてる。なら、おれよりもヒーゼルやマルティナに育てられた方が……お前も本当の意味で幸せになれるんじゃないかってな』
『……』
『なあ、ルル。お前はどうしたい? 今すぐ答えを出すのは無理かもしれない。お前にだって考える時間は必要だろう。だが……』
そこから先の想いを本当に言葉にしていいのかどうか、グニドは束の間逡巡した。自分の言葉は、あるいはルルにとっての〝呪い〟になってしまうかもしれない。この先の彼女の人生を縛り、本当の幸せを奪う呪い。されど伝えねば伝わらぬ想い。双方を秤に乗せて、グニドは最後に、後者に賭けた。
『だが、お前がそれでもいいと言うのなら……これから先も、おれがお前を守ってやる。昨日は守りそびれたが、もう二度とあんな無様な失敗はしない。必ずおれがお前を守って、幸せにしてやる。たとえ人間たちが何と言おうと──お前はおれの子だ、ルルアムス』
脇棚に置かれたカンテラの明かりが、何の啓示かチカリと揺れた。
その光が透明な涙に包まれて、ルルの瞳から溢れ出す。
『もちろんお前が今の話を聞いて、おれと一緒にいたくないと思ったなら無理にとは言わない。だがお前が嫌じゃないのなら、この先もおれと……』
『──グニドのばか』
『ばっ……?』
『どうしてルルがイヤなんて言うと思うの。ルルのきもちは……最初からひとつだけなのに』
『ルル』
『ルル、何回も言ったよ。ルルはグニドのことが好きって……これからもずっといっしょだよって』
『あ、ああ』
『ルルは……ルルは、グニドの子になりたかった。でもルルは竜人じゃないから、グニドの子にはなれないって思ってた。ルルは、ナムだけど……グニドはルルを、グニドの子にしてくれる?』
『ああ』
『なら……ならルルはグニドといっしょがいい。ずっとずっといっしょがいい』
『おれが人喰い獣人でも?』
『うん』
『他の人間たちから嫌われても?』
『うん』
『エリクやウォルドやユシィと離れ離れになるとしても?』
『それは……ほんとは、イヤだけど。でもルルは、グニドとおわかれする方が、もっとイヤ!』
叫ぶようにそう言って、ルルは泣いた。
ぽろぽろぽろぽろ、星を宿した涙を流した。
グニドはそんなルルを見て、そっと静かに首を伸ばす。そうしてまだ熱いルルの額に自分の額を擦りつけたら、ルルが嬉しそうに「ヤーウィ」と小さく漏らした。互いの額を触れ合わせるのは、竜人にとって一番の愛情表現だ。でも、首が短いルルは代わりに腕を伸ばして、グニドに抱きついてくる。
『グニド。ルル、グニドのこと、好き』
『ああ』
『グニドはルルのこと、好き?』
『ああ』
『じゃあルルたちは〝カゾク〟だね?』
『ああ、そうだな』
『ルル、知ってるの。〝カゾク〟はずっといっしょなの。大好きだから、ずっとずっといっしょにいるの。つらくても、ケンカしても、おかねがなくても』
『……金だって? 誰かがそう言ってたのか?』
『うん。マルティナがおしえてくれたの』
『ははあ、なるほど……』
『マルティナはね。ヒーゼルのことも、エリクのことも大好きなんだって。だからこれからもずっとずっといっしょにいるんだって。なら、ルルもそうする』
『そうか』
『グニド、大好き。大好きだよ……』
愛おしそうに擦りつけられるルルの頬や額の感触を、グニドは硬い鱗の狭間の皮膚でしっかりと感じた。そうして自身もルルを抱き返しながら、ぐるぐると喉を鳴らして答えてやる。互いの体温を分け合ううち、ルルは寒さが治まったのか、やがて安心した様子で眠りに落ちた。それに気づいたグニドはそっとルルの腕を解き、もう一度肩まで毛布の下に収めてやる。
『ルルのきもちは最初からひとつだけ、か……』
寝台脇の椅子に腰かけながら、グニドは先刻聞いたルルの言葉を反芻した。こんなことなら無闇に怯えたりせず、もっと早く話を切り出すんだったと苦笑する。
されど散々すれちがってようやく、グニドとルルは始まりに立てた。あとは彼女と幸せに暮らすための安息の地を見つけるだけだ。
ラッティたちと一緒なら、きっと見つけられるだろう。
世界はやさしくないけれど、どこまでも広く美しく、無限の可能性に溢れているのだから。
×
「──やってくれたね。エシュア様の計画を台無しにしただけじゃなく、ようやく見つけた万霊刻まで取り逃がすなんて。せっかく与えた名誉挽回のチャンスを、まさかこんな形でふいにされるとは思わなかったよ。お前たちは一体何のためにあの厳しい訓練に耐えてきたのだったかな。ん?」
アツェルが首を傾げながらそう尋ねると、〝515番〟はわずかに顔を伏せ、小刻みに震え始めた。見開かれた瞳は揺れ動き、彼の焦りと動揺をありありと表している。面白い。
つい半刻(三十分)前まで使えない傭兵隊の屯所だったその場所で、アツェルは脳が詰まっているのかどうかも疑わしい隊長が座っていた椅子に頬杖をつきながら、まだ若い部下の反応を楽しんだ。まったく笑っている場合じゃないのに、ついつい笑みが込み上げてきてしまうのは、部下が〝恐怖〟という感情を覚えつつある事実が愉快だからだ。
幼い頃から感情というものを徹底的に排除され、ただの道具として育てられてきた子供たち。彼らの心は死と隣合わせの訓練や任務を重ねる中でとっくに摩耗し、砕け散ったはずだった。でも。
今、折り重なる死体と血の海の真ん中で立ち尽くし、震えているこの〝515番〟はどうだ。彼は間違いなく己の任務失敗を悔やみ、目の前のアツェルを恐れ、もう間もなく自分が足元に転がる人間だったものの仲間入りを果たすであろうことを予感している。
一体どこで拾ってきたのか、気づけば彼は〝後悔〟や〝恐怖〟という感情を所有し、持て余すようになったわけだ。これを成長と呼ばずして何と呼ぼう。アツェルは思う。いかにエマニュエル広しと言えど、部下の成長を喜ばない上司はおるまい、と。
「だから僕は助言したよね。サン・カリニョを襲うならまず魔女を片づけるべきだと。アビエス連合国が生み出す魔女の凶悪さは、お前たちにも嫌というほど教えたろう? やつらは邪悪な契約によって人ならざる力を操り、常に神慮を阻もうとする。予言の力もその一つだ。このエマニュエルにおいて預言は歓迎されるべきだが、予言は人を狂わせる。アレは神々への畏敬と謙虚さを忘れさせるものだからね」
「……」
「ところがお前たちはまんまと魔女を仕留め損ねて、手酷いしっぺ返しまでお土産にもらってきたわけだ。前回の襲撃でカルロスとロクサーナの首を取れなかった連中もひどいものだったけど、今回はアレの上をいく大失態だね。《兇王の胤》が聞いて呆れるよ」
「……」
「ねえ、〝515番〟。お前たちが何故我が国の忌まわしき歴史である〝マンダウ〟の名で呼ばれているのか、分かるよね?」
「……」
「おや。お前は聖主の子としての矜持だけでなく、口まで取られてしまったのかな?」
「い、いえ──〝マンダウ〟とは、かつて我が国の領土を治めていた兇王の名であると同時に……北東大陸の古き言葉で〝首狩り〟を意味する名前です。我々はその名に従い、神慮を阻む者どもの首を狩り続ける使命がある……たとえ〝兇王のごとき者〟と蔑まれようと、すべては聖主エシュアのために」
「よくできました。そこまで分かってるなら話は早いよ。お前たちの存在意義は色々とあるけれどね、最も重要なのはやはり邪魔者の首を狩ることだ。これは誰にでもできることではないからね。特に殺めるべき対象が邪悪であればあるほど、任務達成には類稀なる勇気と技術が必要となる。上官はどちらもお前たちに与えたはずだ──そうだろう?」
ギシリと椅子を軋ませながら立ち上がり、アツェルは依然笑みを刻んだまま、そっと〝515番〟へ歩み寄った。そうして耳元で囁いてやれば〝515番〟の全身を包む震えはますます激しさを増す。
彼が瞬きも忘れて見つめる先には、首元にピタリと寄せられた血まみれの刃。それはあと半葉(二・五センチ)も接近すれば〝515番〟の皮膚を裂く。そして〝首狩り〟の名に忠実に、触れた者の首を落とす。今、彼の足元に散らばる傭兵たちの死体がみなそうなっているように。
「まあ、お前の言い分も分かっているよ。今回は魔女の傍にあの獅子王がついていたからね。いくらお前たちが僕の自慢の部下だとは言え、アレの首ごと魔女を狩るのはなかなかに骨が折れるだろう。実際〝512番〟と〝513番〟は名誉の戦死を遂げたわけだし……やつは僕たち名前持ちが四十年も狙い続けているのに、未だに首を落とせない相手だ。まだ若いお前たちにはいささか荷が重すぎた。そこで、だ。魔女の手を逃れ、立派に生き延びて帰ってきたお前には特別に、もう一度だけチャンスをあげよう」
〝515番〟の首もとに刃をあてがったまま、アツェルは笑顔で次なる任務を囁いた。死が満ちる静寂の中に吸い込まれた囁きは、彼の瞳に暗い決意の炎をともし、命令を忠実にこなすだけだった人形に生命を吹き込む。
「畏まりました。次の任務こそは必ずや……」
「うん。ぜひそうしてくれたまえ。お前もこうなりたくなければね」
アツェルはそう告げて刃を収めるや、足元に転がる元傭兵の頭を思い切り蹴飛ばした。爪先に鉄板が仕込まれた長靴で蹴られたそいつの頭は、鞠のように軽々と死体の山を飛び越えていく。
やっぱり軽い。あんな端金で簡単に釣れる人間なんて所詮この程度か。そこかしこに転がる首を集めて秤に乗せても、きっと傭兵隊は天使の体重よりも軽いのだろう。死をもってその無能さの代償を支払ってもらったつもりだったが、これでは全然割りに合わない。アツェルははあ、と物憂いため息をついたあと、「行け」と〝515番〟を促した。
頷いた〝515番〟は黙礼し、邪魔な死体を踏み越えて部屋を出ていく。それを見送るアツェルは外套の裾で剣の血を拭いながら、にっこりと微笑んだ。
〝515番〟は恐らくいい暗殺者になるだろう。《兇王の胤》が育てる工作員たちは心を持たないがゆえに死を厭わない。死に対する恐怖もなければ、生きたいと願う理由すら持たないのだ。むしろ聖主のために死ぬことが一番の名誉。彼らはそう教え込まれて育つ。
されどアツェルの持論はちょっと違う。確かに喜びや悲しみといった感情は贅肉に過ぎないが、恐怖は人を成長させる。特に死に対する恐怖がもたらす力は絶大だ。〝窮鼠猫を噛む〟という言葉もあるように、生命の危機に瀕した人間は軽々と限界という名の壁を越える。いわゆる火事場の馬鹿力というやつで、生存本能の叫びこそが人をより強靭かつ冷酷な存在へ変えるのだ。
生き残るためなら手段は選ばない。〝515番〟にはそういう人間になってほしい。そしていつか、アツェルのいる高みまで登り詰めてくれるといい。エレツエル神領国の未来を担うため──死の恐怖を超越した、その先へ。
「さて。それじゃあ僕も行くとするかな」
アツェルはそうひとりごちると、鞘に収めた剣の代わりに、今度は神術銃を手に取った。ことさら脂ぎった死体へ銃口を向けて、引き金を引く。
ドンッと体の芯を震わすような銃声と共に、神術銃が火を噴いた。圧縮された神力が赤く燃え盛りながら射出され、死体を貫通したのち火柱を上げる。
「ほんと便利だよなあ、これ」
有象無象の〝名無し〟を卒業したとき、初めて携帯を許された神術兵器。利便性も殺傷能力も申し分なく、こんなものがあるならもっと早く下賜してほしかった、とぶうたれたのも今ではいい思い出だ。
アツェルはご機嫌に銃を回しながら、燃え上がる炎を後目に歩き出した。彼の鼻歌を追うように、炎はどんどん燃え広がっていく。
薪は充分すぎるほどくべたことだし、神術銃が生み出す炎は並の神術より強力だ。きっとあと一刻(一時間)もすれば、この屯所も跡形なく崩れ落ちるだろう。
「そう言えば竜人って燃やしたことないけど、どんなにおいがするんだろ。楽しみだなあ」
──人間を斬るのも燃やすのも、正直もう飽きちゃったし。
そう呟きながら建物をあとにするアツェルの背後で、天井が崩れた。
まるで彼の道行きを祝福するかのごとく、屯所は美しくも凄絶な火の粉を撒き散らし、虚無の底へと沈んでいく。
見上げた先では昨日まで雪を降らせていた雲が割れ、陽の光が斜めに注ぎ始めていた。それを認めたアツェルはやはりにっこりと微笑んで、神々に感謝する。
「ああ、良かった。どうやら連合国までの船旅は、最高の思い出になりそうだ」